ダイアローグ『できるのか』

現実に読み手を作りながら書いていますが、こんど会ったら感想を。

できるのか

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Angelina
deadrock でいまあなたが書いたのは下書きで、いま私が Angelina で書いたとしてもこれも下書きです。練習で、書いて後推敲し、それから deadrock と Angelina は先へ先へと書いていく。こちらこそ宜しくお願いします。

私がいまここで書くとしたら、deadrock の書いたものの Angelina の補足になります。私がなぜブログ『 歩行と眼差し 』を知ったのか。deadrock にその出典を質問した deadrock の書いた創作の背景の中にあった引用文。それから私が deadrock の初めての創作をどう読んだか。Angelina から見えたものを書くのです。

いま deadrock が私 Angelina とネット上で知り合って現実に会うまでの期間を書いています。そこでこれから『 木の物語 』や『 ウラフボン 』に deadrock はふれていくでしょう。deadrock が半年間のことが書い後に、Angelina から見たものが補足される。deadrock の次回に続いてそれを書きます。

実は驚いているのです。それで Angelina で書くのが少し難しくなっています。この驚きにも応えながら書いていくのも練習であるとわかります。そしていま書いているこれも練習だからこうして書けるのですし、この下書きが必要なのがわかりながら、Angelina を先延ばしにしてしまうのをお許し下さい。

喩えですが、演劇部に入ったばかりの中学生がプロの役者と練習の舞台に上がり、プロが発声し身体を動かした瞬間に中学生は何もできなくなってしまう。いまの私はそうです。このことは本文に入れるわけのないことですが。それに他にもいくつものことが、あなたの下書き第一番目の記事を読んでいてめまぐるしく浮かびました。たとえば『 檸檬&コメントのコラボ 』を作った側を想像しました。それが今は私にぜんぶ読めるから、それを想像できるのです。実感ではありませんが、自然にできたものではないのだとわかります。これも私たちのめざす会話に出すことではなのですが。あなたのブログの中で見る光景にまず私は圧倒されました。

私たちがブログに出す会話の読み手の中で、氷山の水上にあらわれたのではないその実体の大きさ、その水面下の氷の中に私はいること、私が私のブログのIDと暗証をあなたに知らせ、あなたが非公開の私の記事を読んだのと、私がいまあなたのブログ全体を内側から見るのとはぜんぜん違うこと。それを想像する人はいないので「 Angelina さんはどんな気持ちですか? 」なんて、だれもコメントできかないでしょう。こうしていま感じているものを書くことが、この下書きだけです。それから、人は誰にも読まれないものを書くことも正しいことなのだと、いま書くことになってみて思ったりします。言わないこと、言葉を出さないことも、正しいことであるのだとも思います。しかしその上で私は貴方との会話を deadrock と Angelina の会話として人の中に出してみることにした。このことはそれをしながら、まだこれから先にも考えていくことになるでしょう。

それから、これだったのかとあらためてわかったことがあります。deadrockというのはいない、文だということ。それを書いたのが deadrock だ。というのも的を得ていなくて、いくらだって deadrock を作れるということ。書くこと、あなたがそれをしたことが deadrock としてあらわれるというのか、あなたが書くことであらわれたものなわけです。書くということは、こうだったのだという驚きがあります。

落ち着いていてユーモアのある、経験と智慧と優しさのある中年の男性がこれを書いたことはあっても、その人は書かれた文のどこにもいない。deadrock の書いた下書きの第一番目は、私には楽しく読めて笑えるところもあり、それは私だからですが、心というもののあるのを思い出したように読むのです。そしてここに書いてあることには一つの嘘も虚構もなく、みな事実であることに驚きます。どうしてこんなふうに書けるのか。これまでの文にはない、このブログ『 歩行と眼差し 』にあるどの文とも違う文で、あなたは書かれています。そんなふうにはいかない私は、自分が小さなものに感じられます。それでも私たちの会話は『 木の物語 』のことをめぐってものですから、これはこの私のことであり、Angelina が書くのだということを握っています。

deadrock の続きを読みながら書くべき補足を作っていきます。Angelina で書く下書きは、次回からになります。書いたものが読まれること。それは大変なことだと思います。





( つづく )


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deadrock
はじめに、Angelina さんは、ぼくが生を受けた四半世紀後に生まれた女性、だということ、とその Angelina さんとぼくは会話をここに書いていくこと、それを言う。これはよくわからないかもしれなくても読んでいるうちにわかる。ぼくたちが知り合ったのはネット上で、今年5月、初めて会ったのは先月11月26日、その日にこの会話を作ることをぼくの方から言い出した。そこまでのことから、まずぼくははじめる。すでに、やってみています。

ぼくがこのブログを開設したのは今年、2007年2月8日。初めての記事投稿は3月11日。その間一月。ぼくはブログがどんなものなのかを見た。パソコンは仕事で使わない日はないが、ブログをマジメに見ることはなかった。ブログが何百万あるのか知らないが、その千分の一にもならないない観察。創作のあるブログは片っ端から見た。ブックレビューのあるブログも見た。以来、これはどんなブログを作っている人のコメントなのかとコメントの主のブログを見る以外、人のブログは見ない。

ブログに創作を載せることにした。そのつもりでブログを作ったのだから、自分の書いたものを「 小説 」や「 物語 」だと言ってしまう一人にぼくはなった。ブログがあろうとなかろうと書くことをときどきしていた自分から、書いたものを発表する自分に、どこのだれに向かって発表しているのか、これが発表であるのかどうか、その不確かさや不十分な気持ちなら今もあるが、しかし発表したのだとしてしまう自分に、ぼくはなった。Angelina さんがはじめて見たぼくは、そのぼくでブログで文を書いている deadrock。文、だった。

このブログのスタイル。今書いているものだけが読めるこのシンプルなあり方。これは初めからこうすることにした。書き終えてしばらくしたら投稿したものは非公開にする。次のものを書いて投稿する。前に書いたものにコメントをもらえば、読み返すことになる。読み返せば書き直したくなる。だからこのスタイルがぼくは良かった。これでこれまで四つの創作を発表した。初めの一作をのぞくと、後の三つは Angelina さんとネット上で交際があったからできた。今度は現実に Angelina さんと交際があるから書けるものだ。

現在のシンプルでスマートと少し違って、はじめた頃のこのブログには書架が三つあった。一つはいまと変わらず創作。もう一つは創作の「 背景 」。それから「 日誌 」。日誌は私生活のことは書かなかった。書いても固有名詞を使わなかった。どこのだれかがわかってしまうからだ。初めての創作の後、日誌は創作を書かないときにだけたまに書くことになり、いまはもう書かないので書架ごと消した。創作の背景を書いたのは、創作の舞台の世界が気になったからで、本からの引用を使い、創作とはまったく関係のない創作の背景に実在した人たちの言ったことを書いた。Angelina さんが初めてコメントをくれたのはこの記事にだった。その後創作の背景はいつも現在になったので、これも書架ごとなくした。

ブログに投稿をはじめたとき、それが読まれるか読まれないかはどうでもよいという気持ちだった。どうなるのかわからなかったからだ。友人や知人にブログをはじめたとは話さなかった。なにかの勢いでブログのあることを話しても、友人知人はたまに会うので、ブログのことなどどうでもよかった。友人知人は読みはしない。ぼくのブログは忘れている。日頃会っている仕事関連の人に、ブログを書きながら考えたことを口に出すことはある。話している相手にブログのことを言ったことはない。言う気持ちにはならない。知人の中で例外は一人いて、ぼくの真似をしてブログを作った。海外経験が豊富で書くことはあるだろうと思うが、自分のブログに記事を書かないでこのブログをよく見に来る。これは何か変な感じだ。高校の途中からの知人(ぼくは転校生だった)だから友人といっていい彼に対し、少し複雑でよくわからない気持ちになる。

ブログの管理者が有名人である場合をのぞけば、ブログのほとんどが現実の関係( これはあの人のブログだと「 あの人 」の名を知っているのも関係 )を持たず、誰に読まれるのか読み手の前提がなく、誰のものを読んでいるのか書き手を知っている前提もなく、誰でもが読むことが可能なものを書き、誰が書いたのかわからない記事を読む。見えない・知らない相手が前提で、書かれたものからだけ相手を判断しながら( 書かれたものが相手で )、という、それは日本のほとんどのブログで、海外のブログは実名を使ったものがほとんどだときいた。本当のことは知らない。見えない・知らない相手を前提にした「 自分 」や「 相手 」は、匿名でブログに書いて匿名の相手の書いたものを読むことにいる。その自分と相手との関係は関係だろうかと Angelina さんと自分達のことは棚に上げて意見を交換した。その不確かさで書いているのが嫌になり、それでも書くのに意味があるみたいな実感、がなくなった時、それはブログをやめる時だ。

ぼくの例外的な知り合いは、何かを読もうとこのブログに来る。会って話すぼくが口にしないこと、彼はぼくの友人や知り合いを多少知っているが、その人たちといるときのぼくが言わないこと、ブログのハンドルネーム deadrock になったぼくが何を書くかを読もうとする。そうならそれが何だか狂っているようで複雑な気持ちになるのはそこだ。ブログがあるからそれは起こる。その彼はブログがあろうとなかろうと書くことをする人とは思えない。それをしない。そこがぼくとの違いで、良いわるいではなく、ぼくのことは彼にはわからないかもしれない。彼が来たのが彼のハンドルネームがあらわれてぼくにわかると嫌な気持ちだ。ぼくがいて、ぼくがたしかに何かを書く、だけではなく、書くということがあるから deadrock がいること。ぼくが何かをかつて読んだから書くことをする( それは読んだものの感想を書くことではなくて、それ以前の書かれたものを読んだ経験のことで )、それが彼にはわからないのだろうか。人に話しはしないが書くことでは語ることがあるからぼくは書くというのは間違いだ。書いたものはそれのようでいてそれではない。彼はそのことをとらえて、しかしカン違いしているのかもしれない。書いたものは話したこととは違うが、話しもしないことをぼくが書き語るのではない。彼にきかれればいくらでも話す。ただ書くから出て来るものはあるのだ。「 ごめんなさい 」と、彼のことを書いたのだから、その知人に向けて書く。例外的な知人に、この記事のまま公開するのなら言う。この記事も彼は読むのだから、「 またこんど会って話そう 」と書くだろう。

Angelina さんは、その例外的な知人とは逆で、逆だがやはり難しい、おかしな狂ったものがぼくたちの間にはある。すでにそれは越えてしまっているが。Angelina さんは、deadrock の方、ブログのシステムで書いて書いたものを外に出しているぼくに接してきた。書くということがあるから deadrock がいるということなら、わかりすぎている。現実のぼくのことならまるで知らなかった。ぼくも Angelina さんを全く知らなかった。それが現実にぼくたちは会って顔を見て声をきいて話した。そこには何段階かの狂いがあるのではないか。ぼくは狂ったところがあったようにいまは少しだけ感じている。Angelina さんもそう感じているかもしれない。しかしそれは会う以前から少しは二人ともおかしかったということかもしれない。ぼくが思うぼくたちが狂った経緯を書かなくてはならない。そして Angelina さんとこの会話、『 「 木の物語 」を書くことはできるのか 』をするのは、その狂っているのかもしれないことをぼくらはもう生きてみているが、生きてみて、狂っているのではなく、だからおかしな変な感じのしない、それともおかしくて変な感じはあっても、それがあってそのまままであたりまえな、現実の関係を作ることだろうと思う。なにかわかり難いことを書いているだろうか。詳しく書くからこれから誰にもわかる。

このブログに書いたものにコメントが送られてきたのは、3月にはじめた一つ目の創作のときからだった。何回目かの投稿の後初めてコメントをもらったときの嬉しかったことなら憶えている。それがどんなものでも( あのトイレの落書きコメントはコメントではないからダメ )それはいつも嬉しい。Angelina さんが初めてコメントをくれたのは5月16日、そのコメントは少しだけ違っていた。ぼくの書いたものを読んでの感想が少し。それからぼくが記事に使った引用の出典をきいた。そんな人はいなかった。ぼくはリコメントで教えた。次に6月2日、その引用の出典の本を読んだ上でコメントでぼくに質問した。そんな人もいなかった。短いコメント欄で応えられる質問ではなかったので、短いアウトラインしか書けないけれどとしてリコメントした。ぼくたちはぼくの創作を越えた会話に向かう入り口にいた。他にもコメントをくれたことから、メールを交換することはどうかという人は何人かいたが、それをするには何かが欠けていた。たとえばぼくが次に書くものに協力するといのなら付き合いは生まれたのかもしれない。しかし Angelina さんのそのときからネット上でぼくと付き合っていこうというその方法、提案してきた付き合いのやり方が違っていた。メルアドを教えてきてこちらのも教えるというの、ではなかった。怖ろしい人がいるとぼくは感じた。その感じは頭の中のものではなく身体に来た。それが初めての経験だったからで、そしてそこで得たものがぼくを満足させたからだったろう。それをつい最近というか、今、Angelina さんの方が味わっている。満足のことはわからないが。

Angelina さんは、ぼくのブログを見てぼくとおなじポータルサイトにブログを作ったという。6月の終わり、その作ったブログをコメントで教えてくれた。さっそくぼくは Angelina さんのブログに行ってみた( ぼくは初めてコメントをもらったとき、そこに行ってみたことがあったのを思い出した )。ところがそのブログに記事は一つもなかった。まだ記事は書いていないで、ただブログを作ったということだけなのだろうか。するとぼくがその確認をしたのがわかったかのように Angelina さんは自分の作ったブログのIDと暗証コードを非公開のコメントで知らせていた。どういうことか、もちろんどうすればブログを見れるのかはわかるが、こんなことをしてきた人はその後にもまだいない。Angelina さんだけだ。ぼくもしたことがなかった。ブログをしている人で、こんなことをしようと考える人はまずいないだろう。

という、ここまでで、deadrockの下書き第一回目を、終わります。ぼくはこれを何度も書き直すでしょう。とにかく前へ進む。Angelina さんの書いたものを読んで、こちらも書き直し、その上でまた Angelina さんの書いたものの先も書いていきます。この一月でラフを二人で書いてしまうこと。それがあれば、他の人に読まれながら、さいごま書けると思います。ぼくたちには「 『 木の物語 』について 」と、『 ウラフボン、ウラフボン、ウラフボン 』があります。そして会って話すこともできます。素手で始めるわけではありません。頑張りましょう!



( つづく )


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      ダイアローグ 『 できるのか 』

                                       伊志井 伸


はじめに

deadrock と Angelina の会話形式の共作『 できるのか 』の第一回がブログ『 歩行と眼差し 』(管理者 deadrock )にあらわれたのは2007年12月21日だった。途中三ヶ月余りの休止( 二人のブロガーから送られた長文の「 解読 」が13回掲載 )があって連載は続き、2009年8月22日第56回「 砂浜を歩いていく朝の夢 」で「 了 」が打たれた。この最終回に送られてきたコメントに二人はそれぞれ「 あとがき 」を書いて応え、その一週間後に『 できるのか 』がブログから消え、ブログ『 歩行と眼差し 』も名を変えた。読み手には衝撃だっただろう。名を変えたブログには記事は一つもなく( 『 nobody 』というブログ名があり )、そのブログ自体( 『 歩行と眼差し 』の記事は全て非公開で『 nobody 』の中にあった )が消滅しないために、ときどき非公開の記事を投稿することが私に始まった。記事を投稿しないと一年余りでブログが消滅するのがポータルサイトの規約なのだ。五年前から三年前ウェブ上にあったその『 できるのか 』の下書きをブログの中の記事を整理し取り出そうという私は、そのブログの読み手で、deadrock と Angelina と『 できるのか 』連載中に出会い( このことは作中に取り上げられた )、終了間際からブログ『 歩行と眼差し 』( 後に『 nonody 』 )をすべて( IDと暗証コードを知らされていたので非公開の記事までもを )読める立場になっていた。

『 できるのか 』連載時、コメントはほぼ毎回の記事に寄せられた。コメント欄は本文下にあり原稿用紙一枚足らずの書き込みができる。これが一つのコメントで数個使われる場合もあったが、コメント数は deadrock がブログで書いた他の創作に比べれば少なかった。これは『 できるのか 』が用意周到な deadrock と Angelina の告白に見えたことと、ブログ『 歩行と眼差し 』に載った前作『 檸檬&コメントのコラボ 』と前々作『 鳥の表現 』のためだったと当時の実感から思い出せる。前作の『 檸檬&コメントのコラボ 』は一人称の地の文( ホテルマンの一日が描かれた )と梶井基次郎の短編『 檸檬 』、そしてコメントで組み立てられた創作( コメント欄に他人が記したコメントが創作本文中に使われた )で、それはブログだから可能な、しかし「 ブログで楽しいコミニュケーション 」というポータルサイトの励奨からは遠い、自らブログを作り他のブログの読み手である者にとってのスリリングな創作の提供だった。そのために一部の読み手・ブロガーがブログ『 歩行と眼差し 』を訪れ、記事投稿の度に読み手とコメントは増えた。この『 檸檬&コメントのコラボ 』がいかなるものだったのかは、作中に取り込まれた次のコメントの一部がよく語るところだ。

《 まず我々の中の几帳面な読み手は、「 檸檬&コメントのコラボ 」なる作品が、書き直され消され書き加えられながら書き続けられていることを知っている。その中に読み手からのコメント(テキスト)が取り込まれていることならだれもが知っている。それは作品自体、それを今ここで読むこと自体が、ブログの機能によって隠され禁じられていることに気づくということだ。「 作品は作者のものだ 」という近代の思考は「 作者の死 」と「 読者の誕生 」の概念の流通によって消えはしたものの、既出記事が自由に公開から非公開その逆、また修正削除と操作されてしまうことで、読者は作品を読む自由を奪われてしまう。それは「 作者の死 」ならぬ「 読者の死 」であるとでもいえようか。コメント欄に書かれた第三者のコメントは簡単に収奪されてしまい、それが不意に作品に取り込まれ、取り込まれぬものが隠されたまま残っているのか、あるいは消されてしまったのかすらもわからない。こうしたテクストの生殺与奪は「 作者の死 」の世における「 作者の抵抗 」ではなく、「 読者の誕生=復権 」を揺るがすために「 読者を作者化 」する、つまり「 作者 」と「 読者 」の二項対立も消してしまう試みであり、ひいてはそれを許す「 ブログという環境 」の告発なのだといえるだろう。私はこの私のコメントが作品の一部として、だから私が「 作者 」となるよう deadrock 流の仕掛けに引き込まれるのであって、こうしてここに書き付けるこのコメント(テクスト)を通じて「 この私 」は解体されてしまうのではないかと怖れる。解体されることが「 テクストの快楽 」の積極的体験になり得るのか。苦痛か。快楽か。書きつつある私はそれを知りえず、苦痛と快楽の二項対立さえ宙に吊る装置を操る deadrock の「たくらみ」の前で潔く敗北宣言すべきかと立ち往生する。こうしてブログを告発し、相対化しようとする試みこそ「 ブログに書く者 」の「 作家性 」であると認識し実践しようという「 真摯な試み 」は、当然のように「 失礼 」とも「 ひどい 」とも「 暴挙 」とも「 エチケットを欠く 」とも「 違反告発した 」ともコメントされるが、それをさらに「 利し 」て哄笑している、かのような運動と見える。「 テクスト=ブログ=装置 」の原則に従って他者のコメント・テクストを作品に内包化しようという試みはあたかも「 善悪の彼岸 」に達し、ブログが個人=単数の安定した表象の記録の場であることを辞め、複数の声が響く「 作品 」が今ここで生成されてゆく場として機能し、記事/コメント、コメント/リコメントの境界をも消失させてゆく。しかもそれらすべての運動達が「 今ここで生成しつつある 」現場に我々は立ち会うことができるわけであるから、この「 場 」に身をさらす体験はもはや一つの「 事件 」であるといわねばならない。故に滅法「 面白い 」と、私はコメントを書いてしまう。》

ブログ『 歩行と眼差し 』は祝祭的な場となっていたのだ。私の場合はその前作『 鳥の表現 』で、このブログの特異に引かれた。この『 鳥の表現 』にはまだブログに書かれている物語という安定があった。真の他人のコメントが取り込まれることは起こらず、それは物語の中で行われ、だから次作はすでにここに暗示されていた。深夜のネットカフェでブログを開設した僕が記事の投稿を繰り返す中にコメントが入る( 私が忘れられない最初のコメントの書き出しは「 検閲と焚書は人々の中で惹起する 」だった )、リコメント/コメントが繰り返され、地の文とコメントとリコメントの混交未分に読み手は毎回の投稿記事で出会い、さいごはネットカフェから出た僕の見た東京の夜明けの空に無数の渡り鳥が飛来している異様な光景が描かれ、「その朝以後僕はカラスと雀しか見なくなった」と物語の記述で終わった。それはウェブで書くこと読むことを描こうとしていると私には読めて、私のブログを書く手はしばらくの間止まった。

その前々作と前作があった後に、『 できるのか 』の掲載は始まった。考え抜かれた構成と見えたことや往復書簡風の形式、そして前二作から、ブログ『 歩行と眼差し 』の読み手はコメント一つを『 できるのか 』に記すことが力技になった。それがコメントの数を少なくした。それからそれでもコメントは『 できるのか 』に寄せられたが、それらのコメントの持つ夢の力によって、ありきたりの言葉しか浮かばない読み手はコメントを控えたのだ。しかし次のコメントは、リコメントが本文中にあって記されたリ・リコメントで、コメントが読めるものとしてあった一例だが、ここに記された「 成長・ビルデュングス 」は一年半の期間の創作の内と外に、二人の書き手と読み手とにたしかにあったのだ。

《『 できるのか 』は、素晴らしい古典的作品になるのではないでしょうか。私のコメントに答えるように、この共作を始めた理由として、deadrock さんは「 なぜ Angelina さんとの会話を投稿していくのか。そこにある熱情のようなものはどこから来るのか。」それを「 誘惑 」であること、この誘惑を「 誘惑するとは道を逸らすということです。いま歩いていて見えている道ではなく、こんな別の道もあるということを、しかしそれは邪悪な道へと堕落させるいうことではありません、その道ではなくここにも道があるということを、ありとある手練手管を使って明かすことです。つまり誘惑するとは、道を見せること開示することなのです 」と定義します。そして「 たしかに、ぼくは Angelina さんに誘惑されたのであるし、ぼくもまた Angelina さんを誘惑した」と続け、それは「 ロマンスではない 」という記述の後に、「『 若さ 』にはその誘惑があるのです。」と書きます。この誘惑が相互に成立し機能すれば、この『 できるのか 』は、二人で書かれ二人それぞれを主人公としたビルデュングス・ロマンの性格を帯びるでしょう。楽しみにしています。さいごまで頑張ってください。》

作品として読む愉しさと期待、コメントを交換する喜びを伴って『 できるのか 』は読み手を飽きさせずに続き、私もまた deadrock と Angelina が交互に書き続ける構成とあるシーンについてコメントしたことがあり、その自分のコメントへのまた他の読み手のコメントへの deadrock と Angelina の文中にあらわれる反射に息を呑んだ一人だった。

しかしすでにに書いたとおり、私はブログ『歩行と眼差し』( でありブログ『 nobody 』 )の中を全て読める立場になった。そこでわかったのは、モニター・ディスプレイに目を向け読んだコメント一切に応じながら書かれた『 できるのか 』の向こう側に、二人で織り上げられた『 できるのか 』があることだった。たとえば二人のブロガーの解読を載せていた休止は、deadrock と Angelina の体勢建て直しの期間であること、それは私が予想したとおりだった。しかし私は楽屋話しをしたいのではない。それからまた、発表された『 できるのか 』にあったコメント/リコメント/本文のある臨場はもう再現できるものではない。毎回の緊迫したおもしろさは、deadrock・Angelina にとってはブログに書くのだから避けられず生み出されたもので、二人にはそれを作る中で得るものはあった。そうではあっても、まただからこそ、発表された『 できるのか 』の思い出に踵を接して、途中挿入された他の二人のブロガーの手による解読や送られてきたコメントがあったがための二人の返答にある真意を取り入れ、私は『 できるのか 』( 原題「『 木の物語 』を書き上げることはできるのか 」)の下書きの再構成に挑むことにした。名を口にすることもなくなった私たちの自明の通信手段で自分たちにとって重要な何かについて書こうとした者がいたことをブログの外に出すことにした。



( つづく )


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