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鎌倉山内の明月院の裏山は半蔵坊から天園に続きます。
天園に降った雨は東に流れ出すと、明月院の方丈裏庭に出ます。
明月院は草茫茫だった裏庭を菖蒲田にする事にしました。
昭和60年代だったと思います。
その頃、明月院は拝観客に喜んでもらおうと、方丈前(西)に枯山水庭園を作りました。
そして、方丈裏(東)に菖蒲田を作りました。
これで、紫陽花に加えて名物がもう一つ、もう一つと加わりました。
明月院の菖蒲園。菖蒲田は三方が山に囲まれています。尾根道は半蔵坊につながります。
菖蒲田の西側には方丈が建っています。
私は毎年この季節になると菖蒲田を見にゆきます。
毎年少しずつ花数が増えていますし、花自体も見事になっているようです。
6月7日はテレビカメラが入っていました。
そして、その傍に庭師が付き添っています。
私は庭師に訊いてみました。
TVクルーに付き添った明月院庭園部の職人さん。 「この見事な菖蒲田は何処の造園会社が手入れしているのですか?」
庭師の説明は以下のとおりでした。
「明月院には”庭園部”と言った組織があって、専門の庭師が年中手入れをしています。
ですから、この菖蒲田もお寺が造園して、お寺がメンテナンスしているのです。」
「今年も蛍が飛び始めました。菖蒲が咲いて、ホトトギスが啼いて、蛍が飛ぶと・・・、それはもう幻想の世界ですよ。でも、残念ですがお見せできません。」
「花菖蒲は江戸系を中心にして、肥後系、伊勢系を混稙しました。紫系が多いんですよ。」
菖蒲田は三方が山に囲まれています。
西だけが開けていますが、そこには方丈があります。
ですから、方丈から眺めると額縁に入ったように見えます。
何処かモネの睡蓮の絵を眺めるような感じがします。
加えて、菖蒲田の意匠が「八橋」なのです。
尾形光琳「八橋図屏風」(メトロポリタン美術館) 光琳40歳代半ばの作品です。
尾形光琳「燕子花図屏風」(根津美術館)光琳50歳半ばの作品です。
八橋図から一段の進展が確認されます。
毎年、菖蒲が咲く季節になると根津美術館に行きたくなります。
尾形光琳の燕子花図屏風が展示されているからです。
今年はNYのメトロポリタン美術館の「八橋図屏風」も展示されました。
BS・TVでは両方の屏風を見比べてくれていました。
光琳が最初に描いたのが八橋図屏風、金箔の上に緑青と群青を厚塗りして描きました。
その10年後、燕子花図屏風を描きました。
同じ八橋(伊勢物語)を意匠したのですが、橋は省略しました。
でも、橋があるべき空間は金地のまま残しました。
そして燕子花は群青の岩絵具で描くのではなく・・・・、
燕子花の花のを形どった「型紙」を用意し、この型紙を置いて絵を描きます。
そして、型紙を外して白地だった部分に群青を置いたのだそうです。
唐紙や着物の柄を染め抜く技法に通じるものがあります。
光琳は燕子花を、八橋を何度も描いています。
一生のテーマだったのでしょう。
それは燕子花の花が好きだった・・・よりも・・・、
伊勢物語の雅な世界が光琳を「八橋」の世界に誘ったのでしょう。
八橋は京都の銘菓にもなりました。
菖蒲園の中には八橋の意匠の雁行形の橋がかかっています。光琳の八橋図の意匠です。
光琳の燕子花の硯箱(国立博物館HP)も八橋の意匠です。
伊勢物語第9段、東下りのその一です。
昔男が居ました。(在原業平)
その男は自分を無用な者と思い込み、都を去って辺鄙な東の国に旅立ちました。
三河の国に「八橋」という所に出ました。
此処は湿地で川が蜘蛛の手足のように八つに別れて流れていました。
川を渡るために八つの橋が架かっていました。
その小川の畔に腰掛けて干し飯(ほしいい)を食べる事にしました。
橋の袂には燕子花が咲いていました。
同行者が「かきつばた」の5文字を織り込んで歌を詠え・・・・、というので・・・。
からごろも きつつなれにし つましあれば はるばるきぬる たびをしぞおもふ
都に唐衣のように馴れ親しんだ妻を残して旅に出たので・・・、 遥遥やってきたこの旅をしみじみと悲しく思うものです。
ハラハラと落涙したので、干飯がふやけてしまいました。
道行は浄瑠璃でも歌舞伎でも”見せ場”です。
主人公は故あって江戸や都を離れます。
旅先の地名や風物に託した流離の哀傷を誘います。
音曲も美しく、 さらに華やかなスペクタクル的に広がってゆきます。
誰もが、伊勢物語を思い起こします。
光琳が八橋を雁行形にしたのは・・・、
人生を、道行を象徴する為に・・・、
行きつ戻りつ・・・、雁形にしたのだと思います。
明月院の菖蒲園は八橋の意匠です。
光琳の八橋図を造園したしたものでしょう。
だから・・・、この庭園には伊勢物語の始まる1200年もの歴史・文化の伝統を受け継いでいます。
だから・・・・、花の情趣も殊更に深いものがあります。
また、本格的に菖蒲田を営むには他社に委託するのではなく・・・、自ら行う・・・、
そんな意識革命も必要なのでしょう。
年々歳々、明月院は美しくなって、花に埋まってゆくようです。
嬉しいことです。
追記:燕子花も菖蒲も同じアヤメ科の植物です。ですからアヤメ三兄弟を総じてアヤメと呼ぶこともあるよう です。アヤメ、燕子花、菖蒲の順に咲きます。またこの順に背丈も高く花も大きくなるようです。
明月院が八橋の意匠を取りながらも燕子花でなく花菖蒲にしたのは、矢張り花が優雅で、様々な種 があるからではないでしょう。
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漠然と眺めていた菖蒲田の意匠が「八橋」(自体知りませんでした)だったなど、本当に素晴らしい記事を読み込ませていただきました。どうもありがとうございました。
菖蒲・ホトトギス・蛍…幻想の世界、見てみたいです…
2012/6/9(土) 午前 9:18 [ mamataro ]
明月院の藍陽花も花菖蒲もしっとりとした風情があり美しいです。
私の住む愛知県知立市にも、燕子花の名勝地があります。伊勢物語の舞台ともなったといわれる三河八橋には、在原業平の墓や墓守が住んだという在原寺があります。ブログを拝見し、とても身近に感じました。
根津美術館の二つの屏風は先日拝見しましたが、何しろ人が多い東京ですので、ゆったり観賞というわけに行きません。我が家にもあんな屏風があったらいいなと思います。
2012/6/9(土) 午前 10:27 [ koba**** ]
私もこの文章を書きながら「知立の八橋」を見ていないので、書き難く思っていました。在原業平の墓は小野小町のように全国各地にあるんですね。奈良の天川村、不退寺、京都大原野の十輪寺、滋賀にもあったと思います。それだけ偉大というか、人の記憶に残った人なのでしょうね。
2012/6/9(土) 午後 1:43 [ yun**ake200* ]
一度、三河八橋に、カキツバタを見にいったことがあります。
たしか、平日に休みを取っていったと思うのですが、
それでも、すごい人出でした。
2012/6/9(土) 午後 9:11