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昨日に引き続いて「夕顔」の話をします。
私は毎年朝顔を育てていますが、今年は一袋夕顔の種を買いました。(実は朝顔の改良種)
8粒ほどの種は総て発根・発芽して育ちました。
ウロ抜くのも可愛そうなので、家の西側フェンス、門の脇、植木鉢…、あちこちに植えました。
お蔭で、家中が夕顔の花に囲まれています。
朝顔はもうお終いで、茶色の種に変わっていますが、夕顔は今が盛りです。
案内によれば、晩秋まで咲き続けるそうです。
我が家のフェンスに咲いた夕顔
昨日も日中は33度、朝晩は25度に満たなかったです。
今日の天気予報も同じで、彼岸までは「夏日」が続くと予測されています。
でも、朝晩は過ごし易くなりました。
今も我が家の庭先では四方八方から虫の音がすざいていますし、
空には薄く月が出ています。
学生の頃東京国立博物館で、「夕顔棚納涼図」を見て少なからず衝撃を受けました。
この時初めて久隅守景(くすみもりかげ)を知りました。
「夕顔棚納涼図」 作/久隅守景 農家の庭先に夕顔棚があって、その下で夕涼みを楽しんでいる一家 の図です。親子三人には涼風が吹いてきます、月も出て来ました。目線の先には畑があって作物が順 調に育っている事でしょう。秋の虫の音が響いてきます。サトーハチロー風に”小さい秋見つけて”いま す。(東京国立博物館のライブラリーから)
家族三人は夕顔棚の下に茣蓙を敷いています。
農夫は頭を剃っていますが…、昔は武士だったのでしょうか?
丁髷のように頭の後ろに黒髪が残っています。
裸でなく単衣を着ているのも・・・、
インテリ風の顔をしているのも・・・・、昔は武士であった事を暗示しているのでしょうか?
一方、妻と思われる女性は、腰巻一枚で上半身は豊かな体、白い肌を露わにしています。
腰巻を紅くしなかったのは・・・・、全体の調和を重んじたのでしょう。
夏でしたら…、蚊に食われて痒くて痒くてこんな露わな格好で庭先には出られません。
一粒種の男の子も視線の庭先に向けています。
家族全員で虫の音を楽しんでいるようです。
同上アップ
久隅守景(生没年不明)は寛永年間から元禄時代にかけて活躍した絵師で、
前半生は狩野探幽の弟子として活躍します。
探幽の姪「国」という娘を妻にしたことですから、期待は大きかったと想像されます。
国との間に生まれた倅「彦十郎」娘「雪」ともに絵師になったが、彦十郎は所業非行、雪は駆け落ちします。 加えて守景も狩野派の技量を批判します。
この結果守景は狩野派を追放されてしまいます。
江戸を追われた久隅守景は、金沢から京都に移り、流浪の絵師として生涯を過ごすことになる。
「夕顔棚納涼図」も、流浪中の金沢で描いたものと言われています。
親子三人が揃って夕涼みする光景は幸福で何の心配も無く絵師として活躍した守景の追憶の景色だったのかも知れません。
絵から見る限り棚に絡んだ蔓は夕顔には見えません。
夕顔なら夕顔の花が描かれる筈ですが、花は一輪も無く、ブラリ・ブラリと実が垂れ下がっています。
私にはこのぶら下がりが瓢箪のように見えます。
夕顔よりも細長いし、気持ち真ん中辺りがくびれている様に見えるのです。
瓢箪
夕顔の実はこんな大きさで恰好をしています。
一般にこの図は木下長嘯子の短歌に依って描かれていると言われています。
その為に短歌に従って「夕顔納涼図」とネーミングされています。
夕顔の咲ける軒端の下涼み
男はててれ女はふたの物 「ててれ」とは粗末な単衣もの、「ふたの物」とは腰巻のことです。 夕顔の咲いている軒端の下で家族が夕涼みをしているよ・・・、
男はステテコ姿で、女性は腰巻一枚で・・・・、何もわだかまりの無い至楽の光景であるなあ・・・!
そんな意味でしょう。
守景は師の狩野探幽と異なり訥々とした墨絵が特徴で、
耕作図等の農民の生活を描いた風俗画が多く残されています。
探幽以降狩野派はその画風を絶対視する中で形骸化し見るものが無くなってしまいます。
守景の絵は農民風俗を描きながら、雅で高貴な趣きを残しています。
国宝の評価を受ける所以です。
我が家の鉢植えの夕顔
木下長嘯子とは歌人としての名で本名は「木下勝俊」です。
豊臣秀吉の正室「寧子(ねね)北政所」の弟木下家定の嫡男です。
北政所の甥となる武人です。
兵庫県龍野の城主を経て若狭小浜の城主になります。
関ヶ原の合戦では東軍に組しますが、開戦直前に守りを解いて敵前逃亡します。(一説では京都の天皇を守ろうとしたと言われています)
徳川家康が天下を取ると封を奪われて、京都東山で隠棲し歌人として一生を過ごしました。
先の「夕顔の歌」のように風景描写を得意とし、芭蕉などにも強い影響を残したと言われています。
朝顔は秋の季語です。今が最も盛んに咲いています。
久隅守景と木下長嘯子は似た境涯にあったと言えましょう。
また、風景を描くに際し点景として農民の姿を描いた事など、共通する歌論(画論)を持っていたと思われます。
守景が瓢箪棚の下で夕涼みする農家の家族を描きました。
それを見た人が「素晴らしい!」と評しました。
「まるで、長嘯子の夕顔の歌のようだ!」
その結果、瓢箪が夕顔に見えてしまい「夕顔納涼図」と呼ばれるようになったのでしょう。
私は守景の苦笑いが聞こえてくるような気がします。
「夕顔なら白い花を描くよ、わざわざ干瓢の実を描くことは・・・しないよ。
瓢箪を夕顔に見られては私の技が劣るのかな?
でも、長嘯子の歌に通じるというのは我が意の通りだよ。
江戸時代になって平安な一時が訪れて…、初めて美しい風景と、風景に溶け込んで生活する尊さが解った。
それを画面に描いたまでだよ・・・。」
この時代京都では桂離宮が営まれ、伝統の雅な中にも新しい感覚の文化が咲きました。
一方では琳派が活躍し、もう一方でミレーのような久隅守景が生きていました。
気高く生き抜こうとした姿は夕顔に似ています。
まあ、私も守景とは程遠いながらも、夕顔を楽しみながら・・・、
残された人生を味わいながら送ることに致しましょう。
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この絵が描かれた時代、女性は、トップレスで居ても、なにも恥らうことがなかったのですね〜。
2018/12/31(月) 午後 0:43 [ zid*832* ]