仮想旅へ

毎日の通勤路を憧れの街道歩きに転換してみたら? あなたを「LOHAS」な世界に誘ってくれます。

全体表示

[ リスト ]

月曜日に恒例の”河豚を食べる会”がありました。
もう5年も前、塩田平(上田市郊外)を旅したときの事でした。
名産の「松茸」を横目に旅をしました。
帰って来るなり”松茸を食べたかった・・・”叫びが上がり、乃木坂で「松茸を食べる会」が催されました。
そして、昨年12月にも臼杵を旅したのですが、名産の河豚は口に出来ませんでした。
そこで、再び「河豚の会」を催したのでした。
 
「河豚の会」の始まりは午後6時から・・・・、久々の上京です。
何処に行こうか? 悩んだ挙句に”品川宿に長八を見に行こう”ということになりました。
・・・・、というのは私も家内も学生時代故浅子勝二郎先生の講義「伊豆の長八」を受けたのでした。
勿論伊豆の松崎には重要文化財「岩科学校」をはじめ沢山の作品が残されています。
東京でも、泉岳寺や成田山新勝寺等に残されていますが、
残念なことに大半が関東大震災で倒壊し、瓦礫に化してしまいました。
残された作品が品川の宿場町にあるのでした。
浅子教授は良く学生を連れて、実物を見せてくれたのでしたが・・・・、
「長八は近いのだから自分で見て来い・・・・、」
そんな雰囲気でした。
そこで、40年以上経ちましたが・・・「自分で見に行く」事にしました。
 
イメージ 1
      北品川の船宿、その向こうは品川の高層ビル群。現代と江戸情緒が一緒に見える景色です。
 
品川宿は北品川から鈴ヶ森まで一方通行です。
歩き易く、見どころ、食べどころが随所にありますから・・・・、楽しく歩けます。
電柱も大半が地中に埋められました。
南品川が地中化されていませんから・・・・、電線が如何に風景を損ねているか良く解ります。
私達は張り巡らされた電線があるもんだ・・・、思っていますから余り気になりませんが、
欧米の観光客は気になっている事でしょう。
 
品川駅前の高層ビル群が見えます。
運河には船宿が肩を寄せ合っています。
現代と江戸が同時に眺められるのも品川の特長でしょう。
天麩羅を食べたいところですが・・・・、未だ胃袋は半病人です。
 
イメージ 2
                        善福寺の門、背のマンション群は北品川駅前にあります。
イメージ 5
       善福寺の本堂。寺院建築には珍しい土蔵造りです。
       土蔵の周囲は入江長八の作品で飾られいます。
 
善福寺は黒門横町の奥にありました。
日陰には半月前に積もった雪が未だ残っています。
もう、使っていない倉庫が朽ちながらも残っています。
そんな路地の突き当りに善福寺がありますが・・・・、
広い境内は駐車場になっていて・・・、人影もありません。
お寺の北側が京急の北品川駅ですから・・・・・、駐車する人も多いのでしょう。
西向きに本堂が建っていました。
 
長八は伊豆松崎町で文化12年(1815)に左官の家に生まれます。
天保4年(1833)20歳の時江戸に上がり谷文晁の高弟喜多野清から絵を学びます。
彫刻も学びます。
絵画や彫刻技法を学んで、漆喰細工に応用しました。
建物の外観を装飾する目的で漆喰の壁に鏝(こて)を駆使して装飾し、絵の具で彩色しました。
28歳の時には日本橋茅場町に在った薬師堂の柱に「昇り竜」「下り竜」を造形します。
これが江戸中で話題になります。
 
イメージ 6
 
イメージ 7
   向拝に飾られた鏝絵の龍。これは鏝絵というより「鏝造形」です。
   木鼻なども「鏝造形」で出来ています。
イメージ 8
    一目見た時は「へき眼の龍」かと思いましたが、他の作品を確認するとただ傷んで目が剥落したも    のと判断しました。彩色がしていないのか剥げているのか判断に迷います。
    それにしても細かくこれで鏝絵かと驚きます。
 
 
安政の大地震で江戸の町は被害を受け、火災が発生します。
善福寺も本堂が倒壊してしまいます。
本堂を建築するに際し・・・・、火災対策としてお寺には珍しく土蔵建築にすることになりました。
シンプルな方形の建物にし、外壁は漆喰で固めました。
垂木も蟇股も木鼻等の装飾も、普通ならば木彫で飾るところも・・・・、
総て類焼しないように漆喰で造りました。
そして、最後は長八得意の鏝絵で飾りました。
竣工は安政7年(1863)でした。
 
現在の善福寺本堂は痛ましい程の荒れ様です。
龍も片目が落ちてしまって「へき眼」です。
柳生重兵衛のような龍になってしまいました。
垂木の漆喰も剥落してしまい、芯の木が剥きだしています。
現在は漆喰職人も居なくなってしまったでしょうし・・・・、
多額の負担が嵩んで修復も困難なのでしょう。
松崎町のように自治体で懸命に保存しようとする熱意も無い事でしょう。
当初は屋根は塩葺き瓦だったのでしょうが・・・、今は味気ないトタンが載せられています。
 
イメージ 9
                                                  寄木神社の社殿
イメージ 10
                                        寄木神社社殿の龍は木彫です。
 
 
私達は南に下って・・・・、寄木神社に行きました。
神社の北側は材木屋さんです。
小さな神社ですが・・・・、社殿は小さいながらも立派です。
社殿の扉は鍵がかかっています。
蔀戸に顔を押し当てて中を覘きます。
奥に土蔵があります。
神鏡が見えます。
土蔵の中に神棚が設えられてあるのです。
 
イメージ 11
    寄木神社の神殿は土蔵の中に納まっています。
    土蔵は観音扉で、内扉には天岩戸の伝説が描かれています。入江長八の鏝絵です。
 
 
土蔵の扉は観音開きです。
この扉の両側に長八が居ます。
 
左側の扉には、上部に天照大神が、その下には天鈿女命(あめのうずめのみこと)が描かれています。
そう、土蔵は天岩戸(あまのいわと)を模しているのです。
須佐之男尊(すさのおのみこと)の荒々しさに怒った 「天照大神」は「天磐戸」に隠れてしまいました。
困った神々は磐戸の前で滑稽な踊りを舞い始めます。
スターは天鈿女命です。
胸を肌蹴て豊満な乳房を揺すって・・・・ダンスに興じます。
外の賑やかさが気になって 「天照大神」は扉を少し開けて、外の気配を伺います。
すると、 「天手力男命(あまのたじからおのみこと)がグイッとが磐戸を開いてしまいますく・・・。
誰もが知っている古事記のお話です。
右側の扉の大男は天手力男命のようにも見えます。
案内には猿田彦と書かれていました。
天照大神の子孫が地上に降りる際に、猿田彦は道案内を致します。
 
イメージ 12
                                   左扉の天鈿女命図、背後は天照大神です。
イメージ 3
    右側は道案内をした猿田彦である・・・・説明されていました。
 
 
私は「もっとま近に拝見したい・・・」と社務所を訪れました。
社務所ではお稽古の最中でした。
管理人は門前にお住まいです・・・、ということで管理人宅に行ったのでしたが・・・、お留守でした。
”桜が咲いたらまた来なさい” 
天照大神のご指示なのでしょう。
 
入江長八は明治22年(1889)に故郷伊豆松崎で亡くなります。
そのお墓は故郷の淨感寺と浅草正定寺にあります。
 
浅草にもあるというのは・・・・、沢山の弟子を育てて・・・・・、慕われていたからでしょう。
私の住み神奈川県下でも、浦賀には数多くの鏝絵が残されています。
叶神社や東福寺の鏝絵はこのブログでも書きました。
三浦の善吉とか石川善吉の作品です。
(長岡のサフラン酒の土蔵の鏝絵もかきました。)
江戸職人の技や文化を大事にしたいものです。
 
イメージ 4
                  品川宿の図(広重)で惣菜を商う人がいて・・・・、庶民的な下町です。
 
 
ブログランキングに参加しています。
応援クリックお願いします。
 
 
 
 
 

この記事に

閉じる コメント(1)

顔アイコン

土蔵の中に社殿を納めるとは考えたものですね。土蔵の扉が岩戸を模すあたり、日本人の感性ですね。品川の長八を訪ねてみたくなりました。松崎町は一度訪ねたことがあります。こういう職人の手仕事をもっと日本は大切に支援する必要があります。

2013/2/8(金) 午前 6:46 [ koba**** ] 返信する

コメント投稿

顔アイコン

顔アイコン・表示画像の選択

名前パスワードブログ
絵文字
×
  • オリジナル
  • SoftBank1
  • SoftBank2
  • SoftBank3
  • SoftBank4
  • docomo1
  • docomo2
  • au1
  • au2
  • au3
  • au4
投稿

.


みんなの更新記事