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今日は8月12日、私にとっては大切な日です。
ひとつは、家内の誕生日、ですから、子供達も孫を連れて集まってくれます。
もう一つは、28年前の昭和60年に遡ります。
私は8月の定期異動で、長銀大阪支店の次長(一般会社の課長)を命じられて、着任早々の事件でした。
午後6時過ぎ、羽田をたって大坂に向かっていた日航機は満員の乗客を乗せまま墜落したのでした。
死者は550人に及びました。
死者の大半は大阪住人で、東京に出張した帰路の災難でした。
大坂の企業関係者が多く命を落とされました。
私が勤めていた大阪支店は御堂筋に面していました。
真向いが北御堂でした。
連日のように北御堂で会社葬が営まれ、私は会葬しました。
昼は会葬、夜になると地下の食堂から”六甲おろし”の合唱が聞こえました。
この年、阪神タイガースは快進撃、バックスクリーン三連発があって、優勝したのでした。
仕事が終われば、職員は真っ直ぐ自宅に帰れば良いのに、食道のTVの前でみんなして応援していました。
今日の話題は筆者の生家、横浜戸塚にある盛徳寺の百日紅です。
今年は猛暑のお蔭で(?)数年来見事な花をつけました。
私はそんな職員を後にして、淀屋橋駅から京阪電車に乗って、京都の太秦に向かいました。
父に、”太秦の仏具屋は日本一だ、其処に行って観音様を鋳造って来てくれ” 命じられていたのでした。
私は四度、五度太秦の仏具屋の工場に通いました。
先ず、日展作家の観音像を選びました。
職人がそのモデルをベースに丈六の観音立像を、クレー(土)で捏ね上げました。
そのクレー像を四つにカットしました。
そして、像の表面に蝋を塗って、その外側にまたクレーを重ねました。
その上で熱した銅を流し込みます。
銅は蝋を溶かしてクレーの隙間を流れ込んでゆきました。
銅が冷めて、クレーを取り除けばブロンズの観音像ノブロックが出来ました。
このブロックを積み上げれば、観音像の出来上がりです。
何の事は無い、奈良の大仏さんと鋳造法は変わらないものでした。
私は職人の作業に立ち会いました。
見事なものだ、感服しながら見詰めていました。
盛徳寺の観音像は昭和60年、筆者が京都太秦の仏具屋さんで作ってもらったものです。
何で、父が観音像を私に命じて鋳造させたのか・・・・?
それは、祖母が観音様をあつく信仰していたから・・・・、
祖母が生きているうちに観音像を実現させて、喜ばせたい・・・・、そんな思いでした。
祖母(佐々木ノブ)は世田谷にある実相院の次女として生まれました。
明治42年、豪徳寺の住職松本方丈師の仲人で竹内周三(赤坂豊川稲荷の僧)と結婚しました。
そして、鎌倉郡豊田村にあった無住の「盛徳寺」に、二人で遣ってきたのでした。
結婚も勤務先(新居)も、何もかもが実相院の力で決められたものだったのでしょう。
盛徳寺は前身が「養東院」という尼寺(天台宗)でした。蜂須賀小六は豊臣秀吉の古くからの家来で、
関ヶ原では西軍に組します。江戸幕府では三河から阿波に国替えさせられます。
蜂須賀隆重は身重の奥方共々阿波から江戸に参勤交代の旅にありました。しかし、戸塚の宿で奥方は
産気づいてしまいます。戸塚の本陣に近い養東院で出産することになりました。
しかし、この尼寺で娘を遺して息を引き取ります。
蜂須賀隆重の悲しみは大きなものがあって、奥方の御遺体を寺に葬り寺の名も奥方の戒名をとり
「盛徳寺」に致しました。奥方の霊を慰撫するため禅僧(大旗義徹和尚)を迎え、近隣の田畑を寺に
寄進しました。以来盛徳寺は小さいながらも、阿波の大名寺として格式をもっていました。
盛徳院の悲話を留める盛徳寺門前の子安地蔵尊
戸塚駅こそありましたが、豊田村は300戸ほどの寒村でした。
でも、若いカップルが生活するには十分な寺領があったようでした。
寺は阿波の蜂須賀家の寺であり、鈴木を筆頭に4人の寺守は居ましたが、檀家はとっていませんでした。
豊田村では
「盛徳寺にハイカラなカップルが東京から派遣されてきた。
田舎暮らしが嫌になって帰られないように工夫しようじゃないか!」
様々努力してくれたようです。
その一つが、最初に掲載した百日紅の木でした。
小野省三氏(故人)が
「ハイカラな大黒様(お寺の家計を守る人)が喜んでくれるように・・・・、結婚祝いに百日紅を植えよう!」
本堂の前に形の良い百日紅を植えたのでした。
ノブもこの百日紅が気に入りました。
庭に散った落ち葉を掃いて根元に盛りました。
籾殻灰も根元に巻いて・・・・、病気にならないよう気遣いました。
私の祖母(ノブ)は洋風好みのハイカラさんでした。
ノブの結婚記念樹の百日紅と、ノブの信じた観音像
終戦と同時に盛徳寺は困窮しました。
寺領を失ってしまったから・・・・、収入が無くなってしまったのでした。
お嬢様のノブにとっては・・・・、大変な苦労だったのでしょうが・・・・、
それでも、観音様の信仰もあって、どうにか子供達を育て、住職に派遣して・・・・、
役割を果たしました。
爪の先を詰めて蓄えたへそくりを・・・・・・、父が確認して・・・・、観音像に姿を変える事になったのでした。
観音像は大川観音と名付けました。
ノブの夢に観音像が現われて・・・・・、諭したというのでした。
観音様は柏尾川の流れを指さされて・・・、こう言われたのでした。
「大川の水は流れて、絶える事は無い。お前の人生も瀬もあり逆流もあり・・・・・、激しく移ろいかわっても・・・、
水の流れ自体は絶える事は無い・・・・・。水の流れの様に生きなさい!」
大川観音と百日紅は祖母の一生を象徴するものでした。
盛徳寺の施餓鬼会は10日、昔は檀家も少ない静かな施餓鬼会でしたが、
今では檀家も増えて、門前車の列になっています。
檀家の人は百日紅の歴史、結婚祝いなんて知りません。
でも、”見事な百日紅ね!”
見上げて帰る事でしょう。
どんな木にも歴史があって、植えた人、育てた人の想いが籠っているものです。
そんな、歴史を知れば知るほど花の輝きが増すような気がします。
祖母の霊も百日紅の樹下に漂いながら・・・・、梢を埋めた朱の花を愛でている事でしょう。
勿論私もこの百日紅を深い感謝のまなざしで見上げています。
今年は一際綺麗に咲いてくれました。
今が一番花です。
これから秋の彼岸(9月23日)頃まで咲き続けます。
線香花火の先のような花弁が天空から舞い落ちます。
クルクル回りながら・・・・・、天空から舞って、天水桶の上に浮かびました。
私は近所の子供達と本堂の前に茣蓙を敷いて・・・・、お飯事遊びをしました。
小さなお茶碗にご飯が盛られました。
ご飯は百日紅の・・・・・、赤まんまでした。
屹度、私のお飯事遊びの周りには沢山の餓鬼(霊)が集まっていて、一緒にお飯事遊びをしていたことでしょう。
これも、筆者が編纂した祖母ノブの追悼文(昭和63年) |
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ハイカラさんのノブさんは、素敵な方だったでしょうね。お盆でなくとも、折に触れ、自分に繋がるご先祖様を想うことは大切なことです。大川観音様と百日紅を一度拝みたいものです。
2013/8/12(月) 午後 6:16 [ koba**** ]
yun**ake200* さんはおばあ様が大好きだったんですね・・・

いいですよね
まるで、短編小説を読んでいるような家族愛を感じました
百日紅はお寺さんで良く見かけますが何か謂れがあるんでしょうか?
2013/8/13(火) 午前 10:58
仏典には三大聖樹があります。お釈迦様が産まれたのは無憂樹の下でした。悟りは菩提樹の樹下で、涅槃(死)は沙羅双樹の樹下でした。仏教は自らの中に仏性を認め自身がお釈迦様にならって仏になる教えです。ですから、三大聖樹と共に生活する事が重要です。ところが温帯の日本ではインドの樹は育ちません。無憂樹に似た樹という事で、百日紅をお寺では意識して植えて、大切にしているものと思います。また、盆から彼岸まで花の少ない季節にお寺を飾ってくれるのも、好まれた理由と思います。施餓鬼会の最中、百日紅の花が散る様は、そのまま散華です。
2013/8/17(土) 午前 8:38 [ yun**ake200* ]