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年寄りの興味は次から次に広がって行きます。
最初は春めいてきた事。夕焼けが綺麗だったので奈良の二上山に心が飛んで、大津の皇子に移りました。
そして大津の皇子の歌から「采女」に「采女」から「女官」に女官から「平仮名」に移って行きました。
采女の袖吹き返す明日香風都を遠みいたずらに吹く
「平仮名」から次は清少納言や和泉式部に移るのは先輩のYさんでしょう。私の好みは「蜻蛉日記」です。
【藤原道綱の母とは】
道綱母は、蜻蛉日記の作者として有名ですが作者名はお気の毒に余り知られていません。道綱母とて道綱は道長や頼通の引き立て役で、記憶に残らない人物でした。道綱母は36歌仙の一人ですから、文学史上も大変な人物です。公式系図「尊卑分脈/系図解説書」の中では小野小町、衣通姫と共に本朝三美人に数えられています。
【蜻蛉日記は愛の暴露記事】
蜻蛉日記に依れば、その美しさに目をつけた藤原兼家が執拗に通い詰めて無理矢理妻にされています。ところが天性の兼家は浮気性で、次々に別の女性に心移りして行きます。婚姻後も半ば捨てられたも同然の扱いでした。道綱を産んだ後も状況は好転せず、兼家は藤原時子の意の儘にされてしまいます。時子は藤原道隆、道兼、道長を産んだのでしたから。道綱母は”主人は厭きもせず、つまらない女に次々に手を出して”呆れていた風です。時子は既に諦めてその地位に坐っていたのでしょうが道綱母は口惜しくて我慢できません。時子は藤原本家の母堂として揺るぎの無い地位を確保して行きます。三男の道長は娘の彰子を一条天皇の中宮に嫁がせますので、時子は天皇の祖母になります。道綱母の時子へのライバル心は線香花火の様に空しく散るだけでした。
でも単なる女の嫉妬で終わらないで蜻蛉日記を最高の日記文学に評価させているのは、嫉妬心による愛の暴露記事が一歩先に抜けて、まるで蜻蛉が穢いヤゴから赤蜻蛉に脱皮した様な名作にしているのです。今日でいえば夫婦間の軋轢の暴露日記ですが、高僧や聖の諦観にも似た道綱母の境涯が素晴らしいのです。「采女」に始まった私の好奇心は道綱の母に辿り着いてしばし膠着しました。
そこで今日は道綱の母を紹介させていただきます。
道綱が産まれた時 道綱母の父「藤原 倫寧(トモヤス) 」は、陸奥守として京を離れておりました。、道綱母は産まれたばかりの子供を抱いての母子家庭で寂しい生活を送っていました。でも頼りの夫兼家は来なくなってしまいます。
これは源氏物語絵巻の柏木の場面左上で新生児を抱いているのが光源氏です。
この時代妻は実家に戻って出産しました。源氏の館では正妻の「紫の上」は六条の御息所の死霊にとり憑かれ臥している間に女三の宮は柏木と 密通して子供を産みます。源氏は。自分の子供では無い薫を息子としてを抱いています。源氏の手前が女三の宮と仕える女房です。この後紫の上は源氏の腕の中で落命してしまいます。平安時代は「嫁取り婚」から「婿取り婚」に変化します。飛鳥時代は母系社会で子供を産む女性が家の中核でしたが。平安時代になると荘園制が発展して力のある男性が家の中核に変わります。女性は出産を両親の屋敷に戻って行います。男性は出産に立ち会い、1週間は休暇を取りました(理由はジェンダーではなくて出産に立ち会っているので穢れているとみなされたからです)。道綱母も源氏の様な夫を期待したのでしょうが、兼家は他の若い女の家に通うばかりで今風に云えば「最低な駄目な夫」でした。
女三の宮の産んだ子(薫)の父が柏木とも知らずに抱く光源氏古代の嫁取り婚から中世の婿取り婚に変化する社会でしたから源氏の様に出産にも立ち会い、権力もあって男前で優しい男性が小期待されました。道綱母は夫の兼家に失望して離婚を覚悟します。絵の出典(源氏物語絵巻集英社日本の四方を複写)
子供を産むとトンと遣って来ない兼家に道綱母は怒ります。10月の末頃、3日も兼家が道綱母の家に顔を見せなかったのでした。道綱母は兼家の文箱の中にこれから他所の女に渡すであろう和歌を見つけます。その後遣って来た兼家に”あの歌は何よ!”詰問します。すると兼家は”これから重要な用があるので参内する”、言い残して帰ってしまいます。道綱母は侍従に道兼の後をつけさせます。道兼は町中の陰勘解由小路かげゆこうじ)のどこかにお泊りになりました」と報告を受けます。その翌実兼家が遣って来ます。その時の和歌が百人一首に取られています。
歎なげきつつ とりぬる夜の あくるまに いかにひさしき ものとかはしる
一人寝る夜 が明けるまでの間がどんなにか長いものであるかをあなたはご存じでしょうか。そんな意味でしょう。晩秋に忘れ去られたように咲いている残菊を自分自身になぞらせて、「チクリ」兼家に文句を言ったのでした。道綱の母が凄いのは『老いの自覚』です。正妻の時子と自分を比較して女の子を産んでいないことを自覚すると養女を迎えます。行動力も在る女性でした。
道綱母は日中に兼家の恰幅の良い姿を観ます。そして .自らの老いて来た姿を確認します。そして離婚を覚悟します。古代の離婚は裁判所も無いのですから、夫が通って来なければ離婚です。時に道綱母は38歳でした。古代の離婚は「床去り」と云いました。「もう一緒に寝ません」そんな意味でしょう。此処からの道綱母の和歌も日記も凄みを増します。.ある夜道綱母は夢を観ます。夢の一つが蛇でした。
蜻蛉日記には「我が腹の内なる蛇ありきて肝を喰う。これを治癒するには顔を水で洗おう」と云う日記でした。昨日嫌な夢を観たわ私の腹の中に蛇がいて私の内臓を喰っているのよ。気持ち悪いので冷たい水で顔を洗ったわ」フロイド心理学的にいえば蛇は男性器で夢は性的不満足なのでしょう。38歳の時道綱母は自邸を売って父の中川の屋敷に移ります。39歳の時藤原遠度(とうのり).に求婚されます。そこで兼家に相談しましたが、
「従兄弟の遠度がしつっこいのは貴方が誰にでも優しくするからでしょう」とつれないのでした。道綱母は怒って次の和歌を兼家に送ります。
今更に如何なる駒かなつくべきすさめぬ草とのがれにし身を
今更誰が私等に寄りつくでしょうか?馬でさえ見向きもしない枯草の様な私ですから・・・・」そんな意味でしょう。
この歌は古今集の「森の下草」を下敷きにしています。
「大荒木の森の下草老いぬれば駒もすさめず刈る人も無し」
「森の下草」とは女性の陰毛を暗喩しています。
平安末期になると40歳に近い女性は夫が健在でも尼そぎをして床去りしました。
尼そぎ戸は髪を切る事です。切ると云っても丸坊主になるのではなくてショートカットする事です。一昨年の平清盛では尼そぎした女性が涙を誘いました。
尼そぎをした女性この場面は美福門院得子(びふくもんいんなるこ/松雪泰子)です。得子は九尾の狐の玉藻のモデルとも言われました。
道綱母は屹度40歳を過ぎても大変に美しかったと確信します。若かった時は本朝3美人に数えられ老いを自覚してからも時に乳母として母として娘の出産や結婚には頼りになる存在だった事でしょう。
古語辞典では盛りを過ぎる事を「さだ過ぎ」と云い女性だけに云います。清少納言も「さだ過ぎ」には悩んだようです。
これは源氏物語絵巻の宿木の場面です。平安時代の結婚は次のような既成事実を重ねた挙句の事実婚でした。①男性が好みの女性に文(和歌)を送るそして夜に女性のの館に入る、②翌朝女性の家を辞したらお礼の文(和歌)を送る。これを後朝/きりぎぬと呼びました。この妻問を3日重ねると結婚したものと見做されました。宿木のこの場面は3日通った事実の後に男性が女性の両親に顔を合わせて、被露宴を開くのでした。この絵は右の男性が匂宮です。女性は夕霧の娘の六の君です。衝立の後ろに居るのは六の君の母です。女性の母は娘の性愛の監督役でした。このような被露宴の事を露顕(ところあらわし)と云いました。二人が結婚した事実を公表するそんな意味だったのでしょう。
結婚がこのように簡単でしたので離婚も簡単です。男性が通って来なければ事実として離婚です。
離婚した場合女性は長い髪を落します(尼そぎ坊主になる事では無くてショートカットします。)尼そぎは女性の離婚宣言であり社会に対しては「私はフリーなの」発表するようなものです。
道綱の母と藤原兼家の家系図兼家にはなんと8人もの妻がいましたが。時子が正妻で兼家よりも30歳も年上で、道綱母は兼家より7歳若かったのでしたが。何故か次々に嫁を獲ります。嫁と云っても側室とか妾では無くて大輔は同じ屋敷に館を宛がわれていたし。藤原国彰娘も館に住んでいたようです。道綱母だけが実家に戻って別居していたのでしょう。中世になると奥様を館の名前で呼ぶようになります。「北の方」と云えば母屋の北の建物の意味から正妻の意味に変わって行きます。
これまでは蜻蛉日記を根拠に道綱母の暴露日記を辿って来ました。
そのままでは兼家が最悪です。兼家サイドで確認してみます。
兼家は右大臣藤原 師輔(ふじわら の もろすけ藤原北家)の三男として産まれます。(929年)949年には中納言になり藤原北家の一員として順調に権力の中枢を登って行きます。
兼家は天暦8年(954)、美人の評判高かった道綱母(19歳)を娶ります兼家は26歳でした。この時、兼家には時姫という正妻がありました、時姫の父は摂津の守藤原中正でしたから道綱母とたいして変わりありません。時姫は31歳も年長でしたし、美人である事和歌に秀でていること等では道綱母は正妻に劣る心配は無かった事でしょう。
綱母は平安時代に最も重要な和歌に秀でていたのに対し。兼家は勅撰集に一首も選ばれていない凡庸な人物だったでしょうから。事ある度に道綱母が代作したでしょうし。偶々秀作が出来ても奥さんの代作だと誰しもが想ったでしょう。教養や才能のレベルが違っていたと思われます。屹度兼家は美人の道綱母をゲットする事に熱心でゲットした途端にコンプレックスに陥ったのでしょう。慶応大学にもそんなカップルが幾つもありました。かく云う私もそんな一人かも知れませんが・・・。
これは源氏物語絵巻の東屋の場面です。不義の子薫は、亡き源氏の面影を宿す浮舟に関心を持って宇治の館に日参します。でも浮舟は自分が受領の娘と云った身分の低さから薫の求愛に引けています。其処で浮船実家に隠れます。母の中将の君模糊の縁談には消極的で娘を屋敷の奥に隠します。
絵の奥に居る緑の上衣を着ているのが浮船です。手前で髪を梳いて貰っているのが中将の君です。面白いのは浮舟が絵本(女絵」と呼ぶを観て居る事です。御簾の陰の女房は何やら物語を読んでいます。
ましたが、道綱を出産したので。既に道綱母は時姫に遠慮もいらない立場になった筈でした。兼家は従兄弟の道長にドンドン差をつけられてしまいます。道長は娘(彰子)を一条天皇の中宮に押し込み、更に彰子の身辺にキラ星のように才能はあっても、美貌は程々の女房を送り込みます。
兼家は道長のライバルにもなりえない単なる色好みだったようです。
これは寝殿造りのジオラマ(京博)です。出典はウキペディア1. 寝殿(しんでん)、2. 北対(きたのたい)、3. 細殿(ほそどの)、4. 東対(ひがしのたい)、5. 東北対(ひがしきたのたい)、6. 侍所(さむらいどころ)、7. 渡殿(わたどの)、8. 中門廊(ちゅうもんろう)、9. 釣殿(つりどの)です。1の寝殿は主人の住居で2は正妻の住居で寝殿の北に在ったので正妻の事を北の方と呼ぶようになりました。この屋敷では4に東対と5東北対があるので、正妻の他に2人の女(妻)がいた事になります。兼家の場合は老いても時子をズット本妻にして、新妻の道綱母も次々に迎えた女(妻)も正妻の座を渡しませんでした。道綱母だけは屋敷内に入れなかったのは道綱母の正妻時子へのライバル心が強いので。女同士のバトルが勃発するのを避けたのでしょう。蜻蛉日記には兼家が再三屋敷の工事をしているので「私を迎えてくれそうだ」期待したのでしたが空振りに終わってしまいます。道綱母の心の傷は痛い程判る気がします。
古代母系社会の嫁取り婚から中世の婿取り婚への過渡期がこの時代です。女性の立場から日記に記したのが蜻蛉日記なら。道長は「御堂関白日記」を残しました。藤原道長は権勢をほしいままにしたのでしたが、正妻・倫子(りんし)と美貌の女・明子(めいし)。を妻にして腐心します。王朝絵巻は愛の交錯です。源氏物語が幾つも垣間見られます。此れも女性が平仮名を作ったからです。そして源氏物語絵巻の様な絵を「女絵」と呼びました。その意味する処は女性が絵筆をとって描いた絵本の様な絵の意味です。女絵がある以上男絵もあります。男絵は墨で輪郭線を描いた漢詩の添え絵のようなモノでした。女絵は鎌倉時代の絵巻物や大和絵に伝わり江戸時代には琳派に継承されます。私の好きな安田靫彦も女絵の伝承者です。
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