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足助の石造文化

昨日まで足助の「町興し計画」を作成した東大都市工学部の報告書「足助歴史町造り報告」に従って足助の歴史資産や自然資産を報告してきました。今日は足助と云えば「馬頭観音」ですから、石造文化財をブログアップしたいと思います。
足助は岡崎から飯田に向かう塩の道(足助街道)に面しています。岡崎は家康の本拠地でアリ、足助と岡崎の間には徳川家の菩提寺「大樹寺」があり、譜代トップの松平家の本拠「松平庄」もあります。今NHKの「おんな城主 直虎」では。これから舞台になります。松平庄の山一つ東は新城で長篠の戦いの古戦場ですから。因みに足助は本多家の知行地でした。長篠の戦いでのヒーロー逆さ磔になった鳥居強右衛門は足助から新城の奥平家の家臣でした。
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此れは足助街道井田の辻に祀られていた地蔵尊、心なしか塗料が塗られていました。
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これは「お釜稲荷」と云う名で愛されている稲荷神社の祭壇に置かれた直径2mの大釜で領主の本だけが飢饉の際に釜出しに使用したモノだそうです。家康の重臣本多家は善政を敷いたのでしょう。
私はバスの窓から路傍を見詰めて足助街道を登ってゆきました。路傍には石仏が目立ちます。それも着色した地蔵尊が眼に付きます。私が運転して居たら停車して確認して写真を撮るのですが、イチイチバスを降りて居たら到底足助に着く事は出来ません。
岡崎の街で気付くのは矢鱈に石屋が多い事です。屹度家康が築城の為坂本の穴太衆を始め全国の優秀な石工を城下に集めたのでしょう。加えてこの辺りは美しく硬い白御影石を産出します。良い素材があって優秀な石工が居たら、石仏は良いモノが残されるに決まっています。とりわけ江戸時代になると築城需要は無くなります。自ずから庶民や古寺の再建の需要に応じて馬頭観音や地蔵尊や33観音を造仏したものと思われます。足助に入って先ず正暦年間に彫られた巨大な馬頭観音を詣でました。
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巴川の堰堤から落合橋を渡って巨大な椋の樹の脇を登れば三叉路に祠があって巨大な馬頭観音が鎮座しています。この像は儀軌通りの三面八臂です石は白御影で所々腕輪や持物に翡翠色に荘厳されています。石仏に着色するのは安曇野等に特徴的なのですが、「塩の道」は足助街道から飯田を経て塩尻その先の千国街道と続いて日本海の糸魚川迄繋がっているのですから、着色石仏は塩の道が伝えた文化なのかもしれません。足助の馬頭観音は見た目新しいので制作年月や石工の名前が刻まれているかもしれない今回も確認したのですが施主「段戸組」以外に文字は刻まれていませんでした段戸組とは何かなネットで調べてみると足助の先瀬戸や設楽に行く途中に段戸湖や段戸の地名があるので段戸集落の塩を運んだ人達の集まりだったのでしょう。立派な社は柱に昭和5年建立と書かれているので、昭和5年頃は馬の背に塩や紙や綿布や魚を積んで運んでいたのでしょう。
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この社や石仏の台座には昭和5年と刻まれています
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これは足助の抱き地蔵の脇に置かれた地蔵現代的なお化粧を施したのは地元の高校生でしょうか?
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此れは足助の蕎麦屋「塩の道」の店内に飾られていた恵比須(左)大黒(右」石仏に彩色する習慣は足助街道に盛んで安曇野に伝播したのでしょうか。
岡崎から足助は石工の多い街です。加えて昭和モダニズムの時代にも盛んに石仏が彫られ、祠が建てられて来ました。そして今も大切に祀られています。気持ちの良い田舎です。最後に山城屋の女将さんが嫁いで来たどんぐり村の巨大な馬頭観音を載せます。
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此れがどんぐり村に近い巨大な馬頭観音です。向こうに見えるのは市田柿ですから、渋いので未だ烏も食べません。

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