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1月16日(火)に芸大美術館に出かけました。
目的は「宮廻 正明」副学長の退任記念展覧会です。昨年は宮廻副学長のお仕事を何度も見学しました。8月にはブリューゲルの「バベルの塔」 の展示を見学しました。宮廻副学長が指導された「復元美術」により、「旧約聖書のバベルの塔の神話」の復元を為したモノでした。
11月には「クローン美術」と銘打った「法隆寺釈迦三尊像や敦煌の「莫高窟」の再現展示を見学しました。芸大から「不忍通り」に出れば千代田線の千駄木駅です。同駅から3つ目が北千住です。上野から北千住に向かいました。
江戸日本橋からは5街道が出ていました。五街道の第一宿は何処も賑わっていました。東海道は「品川宿」、甲州街道は「内藤新宿」、中山道は「板橋宿」日光街道は「千住宿」が第1宿でした。千住宿は日光街道と奥州街道の宿でしたし、荒川の港町でもありましたので、一層繁栄したのでした。かねてから千住の街を観たいと思っていたので、上野から千駄木に出て北千住に出ました。
此れは北千住駅西口のぺデストリアンデッキです。地下鉄千代田線の他JR常磐線の駅になっています。便利な街ですし、賑わっています。
千住と云えば「奥の細道」です。芭蕉 は 元禄2年(1689)3月27日( 新5月16日)に、門人曾良を伴い江戸深川から船に乗り日光道中初宿千住 から奥州へ「奥の細道」に旅立ちます。
「奥の細道旅立ち」の図、蕪村画芭蕉は墨染の衣で曽良も頭を丸めていますから、「旅路で死ぬかも知れない」覚悟の旅だったのでしょう。山形美術館国重文
江戸時代は後半になるに従って貨幣経済が浸透します。加えて奥州は再三飢饉に襲われます。農家の娘は借金の質に取られ苦界に身を沈めます。奥州の出発点であった千住の街には自ずと『三悪』が揃ったのでしょう。『三悪』とは「博打」と「芝居」と「遊女」です。『三悪』の街には必ず「閻魔様」が祀られ「遊女の墓」があるモノです。新宿の街にも「大宗寺」があって、巨大な閻魔様が祀られています。歌舞伎町近い「成覚寺」には1860年に建てられた「子供合埋碑」が建っています。遊女は亡くなると成人の戒名は与えられず、子供として葬られたのでした。
板橋宿にも遊女の墓がありますし、藤沢にも有名な「永勝寺」には「飯盛り女の墓」が並んでいます。千住宿の陽のあたる文化財は「芭蕉」遺跡であり、長八の鏝絵でしょう。遊女の墓や閻魔様は日陰の文化財です。近年私はどちらかと云えば日陰を好んでいますので「千住宿の遊女の墓」を参りに「金蔵寺」に向かいました。
先ず「宿場通り」を歩いて街の全体像を把握して案内所で地図を始め資料をゲットしました。すると偶然に「今日は赤門專勝寺の縁日ですよ!」聞きこみました。初めて来た先住が閻魔様の縁日と云う事は私は閻魔様に余程縁があるようです。
露地の突き当りが赤門で閻魔様の專勝寺です。今日は一年に二度の縁日です。
專勝寺は路地の奥にありました。元々狭い路地の両脇に露店が並んでいました。露店を視て歩きます。「延し烏賊屋」が出ていました。鋳物のローラーで焼き烏賊を見る見る薄く延して行きます。屹度八戸の猟師から仕入れているのだろう思いました。
えば本堂前の一番良い場所にケバブ(トルコの焼き肉)が出店していました。「トルコ人は裏社会にも通じて来たのかな?」思ったりしました。トルコ料理に韓国料理、屋台は国際化が進んでいます。
此れは本堂前の一等地に屋台を出していた「ケバブ」です。
赤門の脇に閻魔堂がたっていました。『何れお世話になります、でも今暫く娑婆を夫婦で楽しみたいので、決してお呼びにならないで下さい!」手を合わせてお線香を奉げました。
閻魔様のお詣りを終えて閻魔堂の脇を見上げると「絵馬堂」でみた雪洞が飾られていました。
閻魔堂脇に懸っていた絵馬風な絵が描かれた行灯。
宿場通りから、「遊女の墓」を詣でに北先住駅に戻りました。案内所で貰ったマップでは駅西の繁華街の中に「金蔵寺」がある事に成っています。狭い路地の両側には居酒屋に風俗店が並んでいます。一人で歩くのも憚れる雑踏といかがわしさです。ワイフは犬を散歩させている人に訊きましたが、「知らない」という事です。でも、知らないと言った背中のブロック塀が「金蔵寺」の墓地を囲んで居たのでした。荒川土手に出れば散歩には恰好なのに、盛り場を犬を連れて歩くという事は、相当に屈折した精神の老人のようです。
北千住駅から南に開ける盛り場の路地道の左右はトルコや韓国の居酒屋が並んでいました。
風俗店も進出が目立っていました、現代版「三悪」揃い踏みの盛り場です。
此方が「金蔵寺」の本堂です。
金蔵寺六地蔵の向いに無縁仏塔がたっていて、その基台には遊女や子供の名が刻まれていました。
この中央に阿弥陀如来があってその左右に名号の記された無縁仏塔が遊女の墓です。
此れは無縁仏塔の基壇に刻まれた遊女の名、大黒屋中田屋というのは廓の名で各々遊女の名が刻まれています。信女は成人女性で童女は字の通り未だ子供のうちに亡くなった童の名でしょう。
北千住の表通りは宿場町の顔をしていますし、荒川の江(港)には商人が軒を並べていたのでしょう。でも、裏通りには廓があって、日陰の女性が苦界に身を沈めていたのでしょう。何時の時代にも社会には表裏がありました。ワイフが私に質問します。
「何故盛り場には閻魔様が祀られているの?」私は答えます。
「遊女を買う」行為には何時の時代も「後ろめたさが伴うモノ)其処に閻魔様を祀って置けばお客は安心して廓で遊んで、帰り際に閻魔様に良い訳(懺悔?」して帰る。次の給金が出れば、再び色町に大手を振って戻ってくる訳で、廓もお寺も持ちつ持たれつ」共助の関係にあったわけだ・・・・・。
ワイフは小さな声で呟きます。
「乙女には理解し難い社会ね・・・。」
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