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1月10日頃、新聞に「宮廻 正明展」の記事が載っていました。新聞には興味ある記事が載っていました。師の「平山郁夫」画伯から云われたそうです。
”私の歩いた跡には草は何も生えていないよ!”
蕨や茸を採りに草原や山に入っても上手な人の後に従っていては何も採れません。
如何に自分を慕っていても私の歩いた道を進んでいては大成しないよ!」
獅子が子を谷底に蹴落とすような心境で叱咤したのでしょう。
新聞記事では、宮廻 正明氏は平山画伯が素材にしない砂漠を疾走するジープを描いたのだそうです。
此れは宮廻副学長の退官記念個展を報じた読売新聞記事
宮廻 正明氏が師「平山郁夫」画伯の道を意識して外れて描いたと思われる砂漠の轍の絵が吊るされた展示会場で。
宮廻氏が意識して師の平山画伯の画業を離れた絵とはこの絵でしょう。
展覧会は「行間のよみ」と題されていました。絵を観ると「法隆寺の連子窓」のように水に映る影が揺らいでいました。宮廻氏のお弟子が「千住明」氏ですから、千住氏は宮廻師の水の連作の影響を受けたのかもしれません。
私は宮廻 正明氏とは余程縁があるのでしょう。前回クローン美術展の時には学生を連れて宮廻 氏は法隆寺釈迦如来のクローン像の前で解説しておいででした。学生たちはカメラで写していました。そしてこの日は展示会の最終日で、宮廻氏は沢山の人(スポンサーや画廊の経営者?を連れて説明をされていました。
偶然に遭遇出来たので、 宮廻氏の解説を拝聴し、咎められずに写真を写すことが出来ました。
展覧会入口に貼られた宮廻 正明画伯の挨拶要旨は30年間務めた芸大を引退する事、そして「行間のよみ」と題した画業を振り返った感慨を記しておいででした。山頂を極める事は尊いモノの、山頂から下って再度山頂を目指して登ることはモット尊いし気力が必要だ、と指摘しておいででした。再び頂を目指すことで新しい発見をし視界も開けるという事でしょう。
赤い山はシルクロードの火炎山でしょう、師の平山郁夫画伯の絵を観るようでもあります。
芸大美術館は一番西奥の部屋が主たる展示場です。一昨年観た「琵琶湖の観音像」の時も奥の展示室に最も観せたい仏像を展示してありました。
宮廻 正明氏はこの部屋で止って殆ど動かれませんでした。
奥の部屋の真ん中は投網を打つ漁師で網が広がった瞬間を望遠レンズで写したような絵でした。その左右は岡山西大寺の「お札とり」の絵です。右の絵の表題は「螺」とされていました。「螺」は螺旋や螺髪の形です。貝の栄螺(さざえ」も捻子の形です。御香が焚かれていました。「太陽」という名の「香」だそうです。そしてお経が響いていました。クローン展の時も法隆寺の「香」と「お経」が焚かれ響いていました。
四層の屏風に描かれた投網の図。
宮廻 正明氏は投網の図の前で主張されました。”東洋人は「水」と「時空」と「螺」を描かせたたら世界に通用する”仰られておいででした。「螺」は意外ですがバベルの塔も螺旋階段でした。西大寺の修正会の絵が「時空」と「螺」をテーマにされたのでしょう。
西大寺の修正会で宝木を求め虚空に伸びる手。真っ暗な本堂の天井に宝木は隠されているのですが、人々は木の香りを求めて天井に登って宝木(お札)を奪い合うのだそうです。千年以上続いた行事です。正に「時空」を越えた行事です。
手前が「螺」の屏風絵その隣が「投網」の四層の屏風絵宮廻氏が沢山の人を連れて西大寺裸祭りの絵を説明しておいでです。
「下司の勘繰り」というのでしょう。玄関にはお祝いの花が所狭しと飾られていました。「足立美術館」に「山種美術館」そして「西武そごう」関係者、皆宮廻画伯の作品をコレクションしているのでしょう。野田聖子氏に二階幹事長のお花も真ん中に据えられていました。
院展の正統を継いでいる事は間違いない事でしょう。
私の生きた時代には平山郁夫画伯にそのお弟子の宮廻画伯、そしてそのお弟子の「千住画伯」素晴らしい画業を観られました。平山画伯の前には前田青邨がおられます。この間絵の精神は脈々と伝承してきている事は間違いありません。
でも前田青邨師は法隆寺壁画の再生に腐心されました。国宝の壁絵をお手本に描いている間に法隆寺金堂は焼失してしまいました。お手本は無残にも黒炭に変じてしまいました。でも宮廻画伯の時代には三D画像処理の技術が進歩しました。昔の作品は教材として見詰める事にして、クローン美術を再生する事が可能になりました。でも、再生技術が開発された事実は古代の絵師や仏師の技術を習得しないで済むようになりました。習得を怠ればその精神を学ぶ機会も逸する事に成るでしょう。クローン技術が人類の進歩に繋がるか、退歩を促すかは微妙な問題だと思います。この件は第二会場の展示を視ると実感されました。その件は明日(土)に書きます。
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