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ズット考えている事があります「自分のお墓を如何しようか?」という事です。
父が生前「お前の墓は此処だ!山の中に」指差した場所がありました。その場所も含めて私の生家(寺院)の裏山は墓苑に開発されて分譲されてしまいました。ソロソロ自分の墓を用意しておかなくてはなりません。兄達は夫々自宅の近くに現代的な墓地を手当てしました。わたしも、夫婦の常世を手当てしなければなりません。
江戸時代、寺の中に墓地を手当てした人は成功者か豪農だけでした。庶民は山や畑の脇に穴を掘って埋めました。豪農は街中にある寺に立派な墓標を建てて、寺の墓に子孫や関係者が墓参(参り墓)して、遺体は山の中や畑の脇に埋めました。良く東北を旅していると、立派な一本桜が在って、その根元にお地蔵さんが立っている光景を目にします。それが「埋め墓」です。これを柳田国男は「両墓制」と名付けました。
赤城山の西水上街道上発地にある地蔵桜。埋め墓であったと思われます。
遺体や遺骨の処理だけであれば簡単です。法律に従って、公的な焼き場で灰にして貰い、然るべき処に埋めて貰うか、散骨して貰えば済みます。葬式の方法も遺骨の処理も、憲法で「信教の自由」が認められていますから、遺言にでもしておけば、「好きな葬儀をして貰い好きな墓に埋められる」のです。海や川や空中に散骨しても良いのです。
問題は死を覚悟して「生きた証をこの世に残したいと思う」未練心です。人類は数万年昔から、肉体と霊とは別だと信じて来ました。近代医学でさえ従来「死後硬直」を死の判断根拠にしていたモノを「息が止った」「心臓の鼓動が止った」「脳の活動が止った」様々な「死の判定」基準があります。数万年の間日本人は「死の判定」は長い「殯」(もがり)を経て、何も起こらなければ「死」を判断してきました。「殯」の間に死者が現世に蘇る事があると信じていたのでした。
今上天皇は昭和天皇の「殯」が済む迄長い時間を要した事から、日本経済社会の活動が停滞した事を懸念されて「生前退位」をお口にされたのでした。生前退位が認められその翌日には皇太子の「天皇即位」が決まりました。死の判断に「殯」は不必要になったのでした。
今上天皇は昭和天皇の「殯」によって国が委縮してしまった事に心を傷められて「生前退位」をお口にされたのでした。私も訳が分からずも、歴史の変換点である事を意識してこのご記帳の列に加わりました。
死を覚悟して、「自分はこの世に出て何も残せなかった」と思う程情けない事はありません。墓ふが「子供や孫が私を想い起して線香でも奉げてくれる標識」と思えば意義が在るのかもしれません。でも、私の墓を用意するくらいなら孫の成長のお祝いをあげた方がズット喜ばれるし、子孫の記憶の中に生き残れそうです。
大体お墓に拘るのは日本民俗の特長です。インド人や海洋民族は骨を川や海に流してお墓には何の執着もしません。
天皇や名門家の子孫ならその権威を世に示す為に巨大な陵墓や立派な墓標を必要にするでしょう。子孫の権威づけの為にもお墓は立派でなくてはならないのです。自分のお墓は如何しようか?思いながら東慶寺の墓地に行くと小林秀雄や岩波重雄等確たる「生きた証」を残した人の墓が並んでいます。
鎌倉東慶寺に眠っていられる小林秀雄氏の墓、この墓石は白洲正子氏の随筆で記載されています。女史が京都住まいの時小林氏から「鎌倉時代の五輪塔が欲しいので探しておいてほしい」依頼を受けて、女史が京都の骨董店を巡って探し当てたのだそうです。その時は何の細工も無かったのですが、前面に阿弥陀如来が暘刻されています。屹度小林氏が鎌倉の石屋に持ち込んで細工したのでしょう。小林秀雄の命日は彼岸桜の咲き始める頃(3月1日)です。以前次に書きました。https://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/46094266.html?__ysp=5bCP5p6X56eA6ZuE44Gu5ZG95pel
大松博文氏の墓には灯明の位置にバレーボールが置かれています。バレーボールが無くても大松博文監督の名は知れ渡っています。墓地に名刺入れが設えて在るのは、遺族が墓参者に気配りをしているからでしょうか?
1月26日先輩のI氏から本が贈られて来ました。同先輩は有名百貨店美術部に実績を残された人です。社会の耳目を集めたのは「運慶作の大日如来」の海外流出を未然に防いだ時でした。著書には「運慶作大日如来」を始め、I氏が手掛けた名作の攻防記録や思い入れが記されていました。昨年末には矢張り先輩T氏から「ドイツに渡った日本文化」の著書を戴きました。T氏が既に「山家集の校本と研究』(1993/三笠間書院)を上梓されていましたから。今回の著書は、ライフワークの追録の様な著書です。人生も第三コーナーも廻って、自身の一生を振り返ろうとする時「安倍首相から国難」と評されるような一生は悔いばかりが残ります。
左が先輩にI氏の著「10の傑作」遺右は先輩のT氏の著書。生きた証を立派に残されました。
先輩I氏が手掛けた傑作の内左が運慶の大日如来、右がゴッホの「愛する二人」上記著書からスキャン。
先輩二人が「何を為したか」著書を上梓して、贈られると、「自分は何を残せたのだろうか?」想い起してしまいます。私は長銀の破綻の判断になった「長銀の債務超過判断になった銀行検査が2年も前の検査結果の見直しであった事実に憤り「銀行検査は国民の知る権利を根拠に国民の財産保護を目的に捨て実施するモノであるから、検査を終えたら可及的速やかに公表しなくてはならない」告発した積りでした。処が上梓した本はマスコミから「暴露本」扱いされてしまい、多くの友人や後輩を失う原因になってしまいました。
私が金融行政の恣意性に憤慨して(金融検査は国民の知る権利に基づくものだから、検査後一定期間経たならば公表すべき」と主張し、上梓したのですが世間では単なる暴露本として扱われ、自身の友人や後輩に迷惑をかけただけでした。
先輩に較べて「自分は何も社会文化に貢献できなかった半生」を空しく悲しく想います。こんな自分ですが死に係る名著が二冊あります。
此れは薬師寺の神像です、モデルは死者の書の主人公「大津皇子」であると思います。
第一は折口信夫著「死者の書」です。脳梗塞で病院のベッドに伏せて居た時背中が痛くて仕方なくて。「この痛みや不快感は何処かで記憶している」思ったのでした。それが「死者の書」で「大津皇子」の魂が、約70年を経て塚穴の中で蘇る場面でした。折口氏の筆はオドロオドロしく描写し続けるのです。背中に冷水が浸みて来る、体中にゲジゲジが這い回る。藤原南家の郎女の声掛け(魂醒し/たまさまし」で大津皇子は蘇ります。
此れは山の辺から見た「二上山」です右が雄峰左が「雌峰」です。大津皇子の姉「大来皇女」はこの山を視て次の様に歌っています。
「うつそみの人なる我や明日よりは 二上山を弟と我が見む」 ですから、藤原京の時代でも二上山は「二人の神の山」と思われていたと思うのです。
もう一冊は「奥の細道」です。奥の細道序文は和文で最も美しく内容も日本人の崇高な精神性を表わしています。元禄2年(1689年3月27日)芭蕉は深川を出立し千住宿に向けて旅立ちます。その出で立ち姿は「常世」への旅姿であり「古人も多く旅に死せるあり」と覚悟を示しています。芭蕉の云う古人とは「能因」であり「西行」であります。道祖神の招きにあいとるモノ、とりあえず」と書いている道祖神とは笠島の道祖神であり藤原実方が探した歌枕の松であると確信するのです実方は笠島の松を探し当てた悦びに道祖神への礼を失し、笠島で客死してしまっています。「弔う」とは「訪/ともらう」事ですから、芭蕉は尊敬する西行や実方の霊を弔う為に死も覚悟しての旅立ちだったと思うのです。
芭蕉の生きた証は現代から見れば「奥の細道」をはじめとした紀行文学であります。芭蕉自身も蕉風俳句に確信を持ち、生きた証を残せる確信を持って命を懸けた旅立ちだったのでしょう。
奥の細道旅立ちの図(蕪村画)左の見送られているのが芭蕉と曽良二人とも死出での旅姿です。蕉風俳句の完成と、敬愛する先人(実方や西行)を弔う為には命を懸けても充分な旅だったのでしょう。
「死」を自覚する事は「生きる事」を志す事です。それは私が門前の小僧で何も解らず覚えたお経(修証義)の冒頭のフレーズです「生を明め死を明むるは仏家一大事の因縁なり、ただ生死即ち涅槃と心得て、 生死として厭うべきもなく、涅槃として欣うべきもなし。 この時はじめて生死 を離るる分あり」
私は大病を患って病院で半生を振り返って初めて生死は人生の裏表である事に気付きました。友人は「君と旅すると墓ばかり巡って死ばかりイメージしているようだ」言います。でも、そのお蔭で「死者の書」や「奥の細道」が名作である事に気付く様になれました。
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