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「根尾谷の薄墨桜」を観て「郡上八幡の墨染桜」も観て、観桜ツアーは順調です。
総じて4月5日でも遅すぎた感がしました。”高い所なら、間に合ったかも知れない”期待が高まります。荘川桜は屹度『三分咲き』ではないか?話しながら、御母衣湖の畔に着きました。車窓には未だ雪が残っています。
荘川桜の大木も二本です。根尾谷桜は親子の二本の大木なら、荘川桜の大木は夫婦の桜なのかも知れません。期待の荘川桜でしたが、未だ堅い蕾でした。
冷たい雨が蕾の先に滴になって光っています。「楽しみにして来たのに早過ぎたね!」呟けば「又次に機会を作って来なさいな!」答えてくれたような気がします。
此れが御母衣湖畔の荘川桜です、写真出典岐阜県観光サイトhttps://sp.jorudan.co.jp/hanami/spot_223.html
御母衣ダムの堰堤下には「御母衣ダム記念館」が在りますが。展示の過半は荘川桜の移植事業です。こんな姿勢が続いていたならば、原発事故も起こらなかったでしょうに・・・。写真出典岐阜県観光サイトhttp://damnet.or.jp/cgi-bin/binranA/All.cgi?db4=1095
麓は桜は散ってしまったのに、荘川桜は未だ一輪も咲いていません。高度に依って大違いです。
郡上八幡から荘川桜を観に行くには高速道路で荘川IC迄走ればICを出て10分で着きます。郡上八幡は満開でしたので、荘川桜への期待も膨らみました。
荘川桜は未だ蕾でした。幹から出た徒長枝の先に蕾が膨らんでました。
御母衣ダムの下流に御母衣ダム記念館が建っています。内容は日本で初めてのロック式ダム開発の記念館と思えば、電源開発が湖底に沈んだ御母衣村への鎮魂のモニュメントのようです。「此処には過って2千人もの人が幸せな日々を過ごしていた。彼等は浄土真宗の篤い信者で、真宗の教えを広めたのは、親鸞の高弟の「嘉念坊善俊/後鳥羽上皇の息子」であった事等を展示しています。荘川桜は「嘉念坊善俊」が村に開い照蓮寺と光輪寺に在った樹齢400年の江戸彼岸桜でした。
此れが御母衣湖の湖畔に移植された荘川桜、手前が光輪寺に咲いていた桜で。向こうが照蓮寺に咲いていた樹齢400年の江戸彼岸桜です。
光輪寺にあった江戸彼岸桜
此方は少し下の段に移植された照蓮寺にあった江戸彼岸桜。荘川桜と云えばこのツインの桜を指します。
電源開発は江戸彼岸桜を移植して、嘉念坊善俊の像を建立したのでした。
野昭和35年、電源開発株式会社による「御母衣(みぼろ)ダム」建設により、荘川村(現荘川町)中野地区が水没することに伴い、同地区光輪寺と照蓮寺の境内にあった老桜も同じ運命になる筈でした。しかし、電源開発(株)初代総裁高碕達之助氏は、この桜を水没から何とか救いたいと考えました。移植など不可能だという声の中、高碕氏の想いを受け止めた多くの専門家や職人たちの力で世紀の 移植事業を成功させ、桜の木を視る位置に嘉念坊善俊の銅像が建てたのでした。
此れは荘川桜を愛で、命を繋いだの歌碑電源開発総裁高碕達之助氏の歌碑
”ふるさとは 水底となり 移し来し この老い桜 咲けとこしえに”
歌碑の脇には進歩の名のもとに、電源開発総裁高碕達之助氏の言葉が刻まれていました。
『古き姿は次第に失われてゆく。だが、人の力で救えるものは、なんとかして残してゆきたい。古きものは 古きがゆえに尊いのである』 此れは見御母衣湖を背に荘川桜に向かって手を合わせる嘉念坊善俊の立像です。
良い話はそれで終わりません。荘川桜を観て感動した国鉄バスの車掌さんが荘川桜の実生の苗を栽培して、荘川街道に植えたのでした。荘川桜の子孫が富山に通じる街道を飾っているのです。 この話は昔NHKが特番で放映していました。私は無名のバスの運転手や、先人の篤志のお蔭で文化的な日々を送って人生をエンジョイ出来ているのです。昔は経団連ン会長を始め経済界のリーダーは電力会社の指導者が勤めていました。松永 安左エ門(茶人としても有名雅号は耳翁)にしても、高碕達之助にしても、志が高く、文化人でした。嘘つき東電社長清水氏も同じ慶応義塾卒業生であった事は悲しい事実です。
荘川の中流域に在る水記念公園に咲く桜。荘川街道は桜の街道でした。
荘川桜こそ蕾でしたが街道を走って水記念公園の荘川桜を観て、満足しました。バスの車掌も電源開発総裁高碕達之助氏も等しく尊敬するモノです。
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