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昭和20年代、どの家でも蚊帳を吊って夏を過ごしました。
蚊帳に入ると、海の底に沈んだようで楽しみでした。
布団に入ると、祖母が幽霊の話をしました。
勿論、祖母の話ですから「飴屋の幽霊」のような説話が多かったのでしたが・・・・。
「今、二人で蚊帳を吊っただろう・・・、4隅の最後に吊った隅は何処かな?其処から幽霊が出るよ・・・」
私は最後に蚊帳を張った隅を見ます。
蚊帳の外には結界を恨めしげに見やる幽霊が・・・・・、
歌川国歳「小兵次」、蚊帳から覗く幽霊.
蚊帳の役割は蚊を防ぐ事です。
でも、その中に入った安心感は「結界」を張られているように思ったのでしょう。
だから、三人で張った蚊帳や、最後の吊った隅に幽霊が出る・・・・、そんな話が出たのでしょう。
人は囲まれていると安心します。
「結界」もその一つでしょう。
放たれると、心配でなりません。
江戸三大幽霊と言えば「番町皿屋敷のお菊」「東海道四谷怪談のお岩」、そして「眞景 累ヶ 淵」の累(かさね)であります。どれも、実話を素材に鶴屋南北が歌舞伎に作り上げたものです。
能の世阿弥の位置に歌舞伎の鶴屋南北があります。
此処では、「累ヶ 淵」を紹介します。
葛飾北斎画、四谷怪談の話題の場面「提灯通し(提灯が燃えて、中からお岩の幽霊が飛び出 す)」を描いた。
【累(かさね)と助の亡霊】
この歌舞伎は4代目鶴屋南北が文政6年(1823)に発表したものでした。 下総国岡田郡羽生村(茨城県水海道市)に「累」という、醜い女が住んでいました。
この女には先祖伝来の田畑がありました。
その田畑に目ががくらんだ与右衛門は入り婿になります。
与右衛門は、ひそかに累を殺そうと決意します。
与右衛門は、累を川の中へ突き落とし、首を絞めて殺します。 そして、累の死体を同村の法蔵寺に運び葬りました。
累の財産を得た与右衛門は、新しい女房を迎えます。 しかし女房は相次いでなくなり、ようやく6人目の女房との間に娘が一人生まれました。
菊と名付けたましたが、娘が13歳になった年に、その母も死んでしまいました。
菊に金五郎という婿をとって与右衛門の老いの助けとしました。 翌年菊が煩い、口から泡をふいて苦しみながら訴えます。
「わたしは菊ではない。そなたの妻の累だ。26年前、よくもわたしを責め殺したな。地獄から訪れて菊の体に入れ替わり、おのれを責め殺すのだ!」
と与右衛門につかみかかって来ました。
必死の思いで与右衛門は、法蔵寺に逃げ込みました。
左「女房・かさね」を<5代>岩井半四郎。右「与右衛門」を5代目松本幸四郎が演じるポスタ ー。(演劇博物館)
怨霊をなだめようとする村人に対し、累の死霊は石仏一体の建立を求めました。 村人がその要求を入れても、死霊は菊から去ろうとしません。
祐天上人(目黒の祐天寺の開山)が、この累の話を聞き、累の霊を成仏させました。 累の死霊も成仏したと人々が安堵していましたが、菊がまた 祐天上人が再び駆けつけて、菊にとりついた死霊に正体に問いました。
すると「助」と名のる子供の霊があらわれました。
61年前、累の父の先代与右衛門が、醜い連れ子の「助」を川の中へ投げ込んで殺したこと、
また翌年生まれた女の子が、累であったことなどが明らかになりました。
天上人が、十念を授けると、 助の霊もついに成仏をとげたという。
目黒祐天寺の本堂横には大絵馬が掛かっています。
「累ヶ 淵」の故事を伝えています。
祐天寺の巨大絵馬 中世の幽霊に比べると、以下が特長であり、時代が進んでいることが分かります。
1、幽霊の原因が財産に目がくらんで、家内を殺した事実にある。
2、幽霊は恨みを果たすため、加害者を何処までも追い詰める。
「累ヶ 淵」の場合は祐天上人の法力によって加害者は殺されないが、
多くの場合殺すまで追い回します。
文化文政時代(19世紀)になりますと、商工経済は発展していました。
町人は貨幣の力を持って、武士を圧倒し、農民も新田開発を成功させていました。
「社会は人間の努力次第で変わるものだ、問題は自分自身の主体的に働きかけ」にある、
考えるようになりました。
支配的な封建思想や、仏教思想を覆す合理的な考え方が生まれます。
社会や秩序を批判する考え方、実践哲学も尊ばれます。
心学の石田梅岩、農本主義ともいえる安藤昌益、報徳思想の二宮尊徳などがその代表でしょう。
何れも、主体的に社会や自然に働きかけて、より豊かな収穫や収益、生活を実現しようとします。
丸山真男は19世紀のこうした考え方を『日本政治思想史研究』に著しました。
19世紀になって、日本人の社会に対して考え方が大変革しました。
「運命的な家で生まれたのだから、この秩序の範囲内で生きる他無い」と考えられてきたものが、
「運命と諦められていた社会関係を自分自身の側から把握し、変革をトライした」と。
我が国近世も西欧と同じく、
「主体性を自覚した人間が社会に働きかけることを意識した」ところから始まります。
近代化の準備は19世紀には用意されていた・・・・、丸山氏の研究成果でした。
上記は社会観の変革でしたが、死生観にも、幽霊にも大変革を起こし、
前述の「累ヶ 淵」の特長のようになりました。
応挙の「お雪」、応挙の幽霊は高名で「落語の道具屋」では軸の幽霊が出て来て、お 酌をしてくれます。こんな美女なら・・・・、
古川柳に次があります。
講釈師、冬は義士、夏はお化けで飯を食い
浄瑠璃に、歌舞伎に、浮世絵に、講談に「幽霊もの」がもてはやされました。
円山応挙の幽霊がもてはやされ、一幅の幽霊の軸で御茶屋が繁盛して、落語にもなりました。
幽霊の絵のあるお寺も人気になりました。
歌舞伎などでは「もっともっと、恐いものを見せたい・・・」工夫を凝らします。
平和な時代、夏には「恐いものが見たい・・・」思いもあったでしょう。
四谷怪談の見せ場「戸板返し」の図、天保2年(1832)
伊右衛門が戸板を引き上げるとお岩の怨霊があらわれる。
家などの束縛から解放されて自由になった人間は、改めて自分自身を見つめざるを得ませんでした。
心の中を見つめると、其処には
「金のためなら人を殺す」「愛が醒めれば家内も殺す自分」がいることを自覚しました。
だから・・・・、「若しかしたら自分自身が累ヶ淵の与右衛門になるかもしれない」思いながら、
怪談を見つめました。
「家」と言う「結界」から解き放たれて「個」となった人は、
「近世と言う名の十字架」を背負ったようなものでした。
戸板を裏返しすると無念の形相の小兵に変わる。 鶴屋南北から高々200年の現代です。
ジャパンホラーは近年ハリウッドでリメイクされ、一層評価を高めています。
文化作品は民族の歴史文化が深いほど、その重なりが多いほど奥行きが出来ます。
今後、様々な作品が発表されることでしょう。
幽霊文化は、日本が世界一強い分野であると思います。
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