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「あやめ」と言えば潮来でしょう。
”水郷潮来あやめ祭り”の潮来に出かけました。
今年で61回目だそうですから、戦後間もなくこのお祭りが始まったのでした。
祭りのメイン会場である「前川あやめ園」は約500種、100万株のあやめが色とりどりに咲いていました。
”なんだ、あやめじゃ無くて花菖蒲ばかりじゃないか?”思ってガイドに聞くと、
「菖蒲も燕子花もみんな”あやめ科”の植物です。三兄弟を総称して”あやめ”と言うんです」
教えられました。
よく見れば、あやめも燕子花も混じっています。
でも、大半は花菖蒲です。
だから、あやめ祭りは菖蒲の咲く期間に行われます。
潮来前川あやめ園の花菖蒲
前川は北利根川に流れ込む堀川です。
北利根川には大きな水門橋がかかって、橋の袂には黄門様の「あやめの碑」が立っています。
「潮来出島の まこもの中に あやめ咲くとは しほらしや/光圀」
真菰(マコモ)とは水辺に生育する蒲のような植物で、背丈が高く育ち繁茂します。
その中で、しおらしく花を咲かせるあやめを歌ったものです。
潮来は北前船の寄港地として賑わいました。
北前船は柏崎、酒田など東北の港、松前(蝦夷)の港をめぐって、潮来に寄港しました。
港に止まる度に荷を売り、新しい荷を買い込み・・・・、商いをして回りました。
利根川の河口にある潮来は大きな商い出来ますので・・・・・、沢山の荷揚げ役が必要でした。
荷揚げ役の荒くれ男が「真菰」で、彼らを癒す遊女等が「あやめ」だったのでしょう。
前川あやめ園、中央橋が「あやめ橋」 建物がろ舟乗り場
私と家内は「12橋巡り」の櫓舟(ろぶね)に乗りました。
水郷では隣に行くにも櫓舟に乗って出かけたのでしょう。
若いお嬢さんが、ギッチラ、ギッチラ櫓をこいで、前川の堀川を12の橋をめぐってくれます。
此処が天王河岸跡です、此処が津軽河岸跡です。此処が仙台河岸跡です。
伊達の殿様の荷がこの河岸に集まり、江戸の向けて商いされました・・・。
「向こうに見えてきた橋がで出島橋です。黄門様は出島を作って遊郭にしました。その出島に架かった橋です。」そう、河岸の真ん中に出島遊郭があったのでした。
江戸時代の三大遊郭は「京都の島原」「江戸の吉原」そして「潮来の出島」でした。
そう言われると・・・、大阪市民に怒られそうです。
大阪の「新町遊郭」を忘れちゃ困る・・・、と。
ろ舟の風景。
前川あやめ園から西に10分ほどの位置に古刹長勝寺があります。
黄門様が支援したお寺ですが、創建は源頼朝だそうです。
大棟には三葉葵ではなく源氏の笹竜胆が飾られえています。
立派な唐様の本堂です。
丹塗の山門があります。
山門の修理に際して、遊女の記憶が発見されたのでした。
長勝寺本堂 長勝寺山門、遊女の寄進の記録が残ります。
山門は沢山の組物で出来ています。(組物:屋根の重みを支えるために斗や肘木を組み合わせたもの)
その組物の裏に、一つ一つびっしりと名前が書かれていたのでした。
「おたい」「およね」「おかめ」・・・・、そして「二親成仏」と願文が書かれています。
東北地方で生まれた女の子は育てられません。そこで間引かれるか・・・、売られてしまいました。
売られた女子は、遊郭で預けられて、年頃になれば客を取らされます。
そんあ幸薄い女性たちは・・・・「お父様・お母様、私は恨んでいません、だから成仏してください!」
願いを長勝寺の山門に止めたのでしょう。
西門寺の遊女の墓標(4人)。簡単な4字の戒名の下に俗名が刻まれています。
側面に施主の玉屋の名が刻まれています。
お隣の西門寺(浄土真宗)に遊女の墓があると聞き、寄ってみました。
墓地の略中央に無縁墓があって、墓標には二種類の墓標が立っていました。
この一角は玉屋徳次郎が建立しています。
屹度玉屋は遊郭の名で、徳次郎が亡くなった遊女を祀ったのでしょう。
一つは角い石に数名の女性の戒名が刻まれています。
屹度、一定期間の死者を合祀したのでしょう。
でも、遊郭は30もあったと聞きます。
玉屋はその中で篤信家だったのでしょう。
だから、遊女を祀った。
殆どの遊郭の主人は遊女を道具のように遇していたのでしょう。
だから、亡くなれば200文程度の小銭を添えて、寺の墓地に投げ捨てた。
墓守男が穴を掘って遊女を埋めた。
墓守男は200文を懐にして、遊女を抱きに出かけた。
もう一群は女性と男性の戒名が並んでいます。
女性は遊女とすると、男性は何だったのでしょうか?
見受けした男性かしら?
それとも遊郭の主人?
想像するだけです。
遊郭といえば遊女です。
流石に潮来、一番の遊女は「綾女太夫」だそうです。
でも、綾女太夫の墓は何処にあるのか解りません。
若くてキビキビした女船頭さん、お世話になりました。
島原の花魁(遊女)トップは「吉野太夫」、宮本武蔵にも登場します。
井原西鶴の好色一代男にも登場します。
島原のトップですから・・・・、将軍並みに12代まで数えられて・・・、鷹ヶ峰の「常照寺」に墓が祀られています。
一方、吉原のスター花魁は「高尾太夫」です。
高尾太夫も11代まで数えられます。
こちらも人情本(江戸話・落語)などにエピソードが沢山あります。
江戸庶民の憧れの存在です。(落語「紺屋高尾」で検索してください。墓は春慶院/浅草 西方寺/巣鴨等にあります)
そして、大阪・新町の夕霧太夫にも・・・。
地域や時代の文化を色濃く反映した花魁です。
潮来出島の遊郭は荷役人夫の癒し相手だったのでしょう。
全国各地の宿場町にいた「飯盛女」と同じような・・・、売春業だったのでしょう。
それは、潮来にはお大尽は居なくて、倉庫番の役人や番頭、そして人夫ばかりだったから・・・、
天保水滸伝のような荒くれ者や任侠が集まったのでしょう。
任侠者や東男の荒くれ者の慰みであったも・・・・、
”あやめの花”は綺麗です。
雑草の中で咲いてこそ・・・、あやめの芯の強さや美しさが際立ったのでしょう。
黄門様は全国を漫遊して・・・、蓄えられた見識から潮来に遊郭を築いて、あやめを育てて・・・、
「地域起し」をしたのでしょう。
水戸光圀のアヤメの歌を記したプリント
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2012年06月10日
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