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成田駅のトイレです。、男子トイレは空いているのに、女子トイレは長蛇の列でした。私は改札口でワイフを暫し待たされました。この時ばかりは”良くぞ男子に生まれたり”思ったのでした。
「平城京や平安京のトイレは如何道だったのかな?」想います。あの12一重を着て居ては「オマル」の様な道具を使ったのかな?思いますが「オマル」は先ず間違いないでしょう。
こんな興味は業界リーダーの東洋陶器が詳しいので博多時代に同社本社の博物館で観た記憶があります。
下の写真は小用の道具で、清少納言さんもこれを持って部屋の片隅に行って十二単の前をカパッと開いてお股の間に差し込んで小用を足して下女に捨てに行かせたのでしょう。大便の時にはもう一回りおおきな道具を使って用を足して、下女に厠に運んで流させたのでしょう。
」
此方が大便用のオマルです。鳥居のようなものは着物の裾を汚さない様にするもの。此処を握って踏ん張ったのでありません。出典はトイレ博物館[東洋陶器) です。この他にも東洋陶器の博物館には面白いモノが沢山展示されています。黄門様のオマルは檜の葉が敷かれていてその上にウンチをされていました。屹度鰹の生節のようなウンチをされておられたのでしょう。平安京は水が豊富でした。右京区が栄えたのは湧水が豊富だったことと併せて厠に流せる河川が張り巡らされていたからでしょう。平安京は右京区が発展したのは上流に位置していたから左京区はトイレ事情が悪かったのでしょう。堀川通りは朱雀大路なのですが、その名の通り堀が大きかったのは下水を流す必要があったからっでしょう。私達が好んで出かける錦小路は下水の溜まる「ウンコ通り」と邪推しています。
一方気がかりなのはその前の平城京です。京都に較べれば奈良は水利に恵まれていません。排出物を流す川もありません。
平城京の大極殿で働いた官吏は男女合計1万人と聞いています。1万人がトイレに出かけるとすると成田駅のトイレとは違って大騒ぎでしょう。
其処で、「平城京塵図鑑/奈良文化財研究所編」を図書館で借りて読んでみました。「若しかして農家のトイレと同じかも知れない・・思っていたのでしたが。平城宮跡発掘の結果日本人は奈良時代から水洗トイレだったことが判りました。
平城京には大きな河川は流れて居ません。春日野の奥の地獄谷の渓流や秋篠川が在るだけです。その水を溝を掘って大極殿内に引き込み、大極殿のトイレに使い。貴族はその支流を自邸に引き込み、水流の上で用を足したと考えられる遺構が見つかっています。大極殿入り口に在った長屋王の屋敷のゴミ捨て場からは大量のゴミが発掘されて随分新聞報道されたモノでした。
平城宮跡に行くと道路の脇には幅5メートルもある溝が作られています。この大溝の上に跨ぐように建てられた小屋が「厠/かわや」で厠の跡からは真っ黒なウンコが固まって確認されるのです。黒い塊がウンコである証拠は塊の中に寄生虫(カルシウムの殻で囲われた卵なので残っている。加えて籌木(ちゅうぎ/箸のようなモノ用を足した後に糞掻きした)も出土しているのです。大極殿のトイレは特大で長さが20メートルもあったのでした。阿倍仲麻呂も長屋王もこの大型トイレに並んで小便をしたかと思うと楽しくなります。
これは籌木(ちゅうぎ)と呼ばれる糞掻きヘラです。実際に使ったら痛そうです。出土した当初jは真っ黒だったのでしょうが綺麗に洗われてしまっています。
さらに、藤原宮の官庁街からは、幅5メートルの大溝の上をまたぐように建てられた川屋(厠(かわや))の跡も見つかっています。建物は、長さ20メートル、個室の間口を1メートルとすると、20人が一挙に用を足せる共同トイレだった可能性があります。しかし、こうした痕跡からなぜトイレと判断できるのは、次の事情だからです。
排泄(はいせつ)されたウンチは、時間がたつと分解され、土に帰ります。この土を洗って調べると、消化されなかった魚の小骨などの食べカスが含まれるのです。周辺の土とくらべて寄生虫の卵の数が異常に多いと、トイレの有力な証拠となります。
当時は、トイレットペーパーはなく、木切れ(籌木(ちゅう木)でお尻をぬぐいました。ちゅう木がたくさん出土すれば、トイレの可能性はますます高くなります。ただし、上図がトイレでなく、「肥だめ」や、糞尿(ふんにょう)を棄(す)てた場所と考える説もあります。。
これは地獄草子の排便図です。場所は鴨川に近い河原町筋でしょう。旅人は高下駄を履いて大便をしています。餓鬼は便を食べて腹を満たそう小便を飲んで野喉の渇きをいやそうとしています。中央の少年は糞掻きべらを地面に刺して踏ん張っています。古代は貴族の屋敷や宮中では前段の様な水洗式トイレでも市井では道路が便所のようなものだったのでしょう。
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