|
今年の4月NHKテレビで「謎多き仏像阿修羅像」を放映していました。私が山城旅行を終えて和束町に安積親王墓を詣で、阿修羅像のモデルは聖武天皇の第5皇子安積親王墓であると確信して居た時でした。テレビ番組はエックス線写真や現代の仏像作家の意見を参考に阿修羅像の原型を突き止め、塑像の上に木糞漆を重ね、元の像は一般的な猛々しい阿修羅であったモノが漆を重ねる事によって青年の憂いを帯びた仏像に修復したと判断しました。
NHK総合テレビでの阿修羅の謎を追っていました。日本人の一番好きな修羅像は興福寺宝物館に横一列で展示されていましたが、現在は仮金堂で立体的に展示されています。釈迦の説法を8部衆も十大弟子も揃って聞き入っているジオラマです。中金堂の竣工が2030年ですから後3年でオリンピックでさらに10年頑張ればこの立体説法を観る事が出来ます。
山城和束町にある安積親王古墳和束町には恭仁京跡から10キロほど北の山中です。古墳の右の山は笠置になります。今頃は茶摘みで忙しくしていることでしょう。
そして結論的には阿修羅像を完成修復させたのは光明皇后で産後1年足らずで早逝した基皇子の慰霊の為に”今生きていたらこんなお顔であったろうと”して阿修羅像や10代弟子を作らせたと説明していました。
右がエックス線写真をベースにした阿修羅像(主として塑像)その上に漆を浸みこませた麻を張って更に木糞で凹凸をつけた阿修羅管製造では瞼の下の大きな涙袋が据え付けられ像の主(霊)の悲しみや憂いを表現した。
此方は興福寺八部衆の一人沙褐羅像此方の表情は10代にも見え、光明皇后は八部衆と十大弟子を通して早逝したは基皇子の面影を”若しも生きていたならこんな少年だったろう!”と推測されたと説明していました。
確かにそんな仮説も成り立つでしょうが1歳児の面影を仏像に写すとすれば。戦いの神様阿修羅は不適当の様に思われます。イメージとすれば光明皇后が建立した新薬師寺の「香薬師像」の方に基皇子の面影をイメージします。
光明皇后と聖武天皇の間に出来た子供と云えば阿倍内親王で首皇子が早逝さえしなければ阿倍内親王は現出しません、基皇子の母親は県犬養広刀自で地方豪族です。里中満智子氏の著「女帝の手記」によれば藤原仲麻呂が光明皇后の意を汲んで殺害した事を想わせています。
続日日本紀に依れば安積皇子は都から桜井に向かい折り返して聖武天皇がおられた恭仁京に向かい、恭仁京で亡くなった、死因は脚気であったされています。恭仁は皇親橘諸兄の膝元です。里中満智子氏は其処に仲麻呂が刺客を派遣した事を想像させておいでです。
この美青年が里中満智子氏の描く安積皇子です。
此方は小泉淳作画伯の描いた光明皇后像
阿倍内親王は女性でありながら日本史上最初に皇太子になった人物です。安積皇子を失って聖武天皇には選択肢は無くなりました。天平10年(738年)天平勝宝元年(749年)孝謙天皇が実現します。天平勝宝8年(756年)父の聖武上皇が崩御すると光明皇太后と阿倍仲麻呂が紫微中台から孝謙帝をバックアップします。
光明皇后も藤原仲麻呂も大事な天皇の外戚ののポジションを失いたくなかったん子でしょう。その為には無理を押しても阿倍内親王に天皇になって貰おうとしたのでしょう。阿倍内親王が孝謙天皇として即位すると光明皇太后の指示を受ける紫微中台と太政官の二重の行政組織が出現します二重組織は孝謙帝の力を削ぐことになり藤原仲麻呂とは距離を生じさせ、藤原仲麻呂の乱を引き起こします。
2030年まで長生きして興福寺中金堂が竣工したら立体釈迦説法像の一員として阿修羅像を観る事が出来ます後13年干支をもう一回りしたら拝観で拝観できます。
後かsら後かsら長生きするようなモチベーションがみつかります。
|
過去の投稿日別表示
[ リスト | 詳細 ]
全1ページ
[1]
全1ページ
[1]



