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芸大を出て私達は東京博物館に「運慶展」を観に廻りました。
芸大美術館から東博に、美術館の梯子でした。上野公園の西洋博物館角のポスター
私は脳梗塞で倒れて以来偶然ではありますが運慶を随分観て廻りました。
というのは私の敬愛する日文研の先輩I氏が三越に居て運慶の大日如来に係られたのでした。ニューヨークのクリスティーズでのオークションに運慶作と確認されている大日如来がかかると報道されたのは2008年でした。日本中が運慶の流出を心配していました。当時2万㌦(20億)と噂されていましたが、バブル破裂後で総じて自信喪失気味の我国にはそんな大金を投じる企業も篤志家も居まいと思われました。大昭和製紙の名誉会長であった斉藤了英氏が115億円も投じてゴッホの『医師ガシェの肖像』を買った記憶が悩ましく思い返されました。ところが、2015年朗報が流れました。三越が14億円で落札したのでした・・・・・・。
これが2008年3月三越が真如苑の依頼に応じて運慶作の大日如来を落札した報道です。
落札したのは三越でしたが、一般人や企業がクリスティーズでのオークションに参加出来る訳ありません。三越はそのお客様の依頼に応じて落札したのでした。今では依頼主は真如苑であった事は周知です。私達は三越の美術部の要職に居たI氏に日文研セミナーで講師をして貰い、世界の美術市場の動向や仕組みや運慶落札の時の苦心話をして貰いました。
その直後に金沢文庫で大威徳明王(実朝の念持仏・運慶作)が発見され、再びI氏に同行して貰い皆で拝観しました。更に、伊豆韮崎の願成就院にも出かけました。
私はI氏から三河の瀧山寺にも運慶の真作があると聞き2015年晩秋に古刹に上りました。
勿論私の生活圏にある葉山の淨楽寺や横須賀の万願寺にも出かけました。2016年の盆には友人と京都の六波羅蜜寺に運慶の肖像を拝観しました。想い起せば私のリハビリと運慶は深く拘りあっていました。今夏東博にインドの仏像展を見学した折にこの秋に「運慶展」が予定されていることを知っていましたので、出かけたのでした。学生時代拝観して仏像への眼を開いてくれた円成寺の大日如来や最古の玉眼陥入仏である長岳寺の阿弥陀三尊など半世紀の時間をかけて巡って来た運慶仏を一堂に拝観できるのは幸運です。
これがパンフレットに並んだ運慶展の仏像案内です。でも期間中全部展示されている訳ではありません、入れ替えが在るのでチェックが必要です。今日の話題は上段左の真如苑大日如来と左の岡崎瀧山寺の聖観音です。どちらも胎内に故人の歯や髪や五輪塔が収められていました。
展示替えがあるので、拝観したい運慶仏の展示予定を確認してから出かける必要があります。
東博平成館の大空間には円成寺大日如来がかかっていました。この運慶のデビュー像は第1室の最初に展示されていました。
これは円成寺大日如来の台座裏のサインです。仏師は運慶であり運慶は康慶の長子であり大仏師である事と1175年11月24日に造りはじめたこと、給料として絹が支払われたこと、そしてこれは仏像本体の分であること(つまり台座や光背は別料金ということか)が書かれる。ここまでが前半である。 後半には、翌年(1176年)10月19日に納めたこと、そして大仏師康慶・実弟子運慶の名、そして花押(かおう、サインのこと)が記される。勿論我国仏像史上サインが在るのはこれが最初であります。写真出典小学館/日本の美。
展示は第1室が青年運慶の仏像で、正面に「円成寺の大日如来」を展示して「運慶デビュー」と案内していました。第1室には父康慶の仏像(興福寺四天王や法相六祖像等)も展示されていました。第2室が源氏に支援されて関東に下向した運慶、第3室には運慶の子供や弟子達の仏像を展示していました。始まり、確認出来る限りに古い順に展示されていました。円成寺大日如来像の隣にはパネルが貼られ台座裏の運慶のサインを案内していました。台座に裏には「この像が運慶の作であり、運慶は康慶の長子であり大仏師である自分の名と肩書きを誇らしげに書かれ花押も押されています。更には仏像を造像するに際して運慶が興福寺仏所のリーダーとして願経した法華経も展示されていました。円成寺大日如来の台座裏に書かれた書は自己主張の強い自覚的な才気走った書ですが興福寺に納めた願経の書は活字の様に揃った几帳面な小さな書でした。運慶仏は総じて力感溢れる仏像ですから、運慶も豪放磊落な人物と推測されるのですが、運慶は書を観る限り生真面目で組織のリーダーに相応しい官僚的な側面もあったようです。
願経には興福寺仏所や東大寺仏師にとって重要な意味を有しています。平安時代南都の仏師は定朝を筆頭とした京都九条の仏師に圧倒されていたのでしたが。南都が無謀な平氏によって焼かれた事から東大寺興福寺の再建の機会を与えられ、天平風の仏像造像の注文を受けたのでした。青年運慶は天平仏を観て育ったのでしたから、京都仏師には天平仏をルネッサンスする意欲もスキルも無く、後白河法皇も運慶一門を是としたのでした。この時運慶は一門のリーダーとして。東大寺の焼け残った材木をお経の芯木として法華経8巻を納めたのでした。
此れが一般に運慶願経と呼ばれている法華経です。運慶が一門を率いて東大寺・興福寺に仏像を納め慶派一門を率いて行こうとする決意が察せられます。運慶の真面目な顔が窺がえます。
東大寺南大門の吽形像は運慶展の後半に展示されるようです。東大寺・興福寺の再建需要に恵まれて運慶は仏師としてのチャンスを与えられました、東大寺再建のスポンサーであり警護役であった頼朝や頼朝に従った和田義盛や北条時政の知遇となり、活躍の場を関東に広めたのでした。結果、韮山の願成就院や葉山の淨楽寺を始め北関東の寺寺に仏像を納めたのでした。真如苑の大日如来もそんな一体と思われます。
展覧会場は興福寺や東大寺の運慶仏から関東の運慶に移ります第2室)。その冒頭に展示されていたのが真如苑の大日如来でした。真如苑大日如来については胎内に納まられていたお杓文字風の塔婆を説明していました、そして、その隣には岡崎の瀧山寺の聖観音が展示されて、解説には歯と髪の毛が胎内に納められていたと説明してありました。
中世には死後あの世で極楽に行く事よりも生前に現世を極楽にしたいと考えます。そして、仏像も人体に似て造像するようになります。造像の目的が故人の冥福とか故人が天上で子孫を守護する事であれば故人の体の遺品を仏像の胎内に納める事が一般化したのでしょう。
展示は第3室に移ると『運慶の弟子や子供の仏像』に移ります。六波羅密寺の伝運慶像(康勝作?)は胎内には五輪塔を模した木札が収められている。また有名な鬘掛け地蔵も人の毛髪が握られています。
運慶は初めて仏像にサインをした仏師です。現代人の感覚で云えば運慶は自分の肖像も残した筈だ探してみたくなります。
私はその候補に第一に東大寺重源堂の重源像を思いつきます。そして第二に世親像を想います。
此れが重源像です。東大寺の再建に尽力した重源上人の姿は何処にも居そうな叔父さんです。でも強靭な精神力を持った人物であり苦労を重ねた事が窺がわれます。写真は公式絵葉書をスキャン。
此れは世親像です。興福寺北円堂の弥勒菩薩の脇侍の位置に無着像と対で置かれています。無着も世親も法相宗の教学を大成した高僧です。老人の無着よりも壮年の世親の方が運慶の肖像に近いと思います。
鎌倉時代は武士が意志力で幕府を開いたように、百姓が新田を開墾しようと自然に立ち向かった様に、親鸞や道元日蓮が新しい仏教を広めた様に、意志力と理性を以って時代を切り開いたのでした。そんな姿を代表したのが運慶であり、運慶仏は人体を仏の姿と確信していたのでしょう。西欧のルネッサンスが「人間復興」と呼ばれたように、理想の人間の姿が運慶仏に表現されたから、私達の憧れであり続けているのでしょう。
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2017年10月06日
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