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足助の旅館は次々に閉鎖されてきているようです。一方でペンションも出来ているようです。
私は何処に泊まろうかネットで調べ電話で確認しました。以前在った「三島屋」は既に閉店してしまったとの事でした。
天保年間に建立していた呉服屋を明治になって旅館に改装した三島屋さん、先年閉店されてしまいました。
閉店してしまった三島館の窓はテープで消されてありました。
此れが私の選んだ足助中馬街道に面した「山城屋」右奥が飯田方面、左に行くと坂を下って足助の繁華街に至ります。私の部屋は二階の左側で一番見晴らしの良い部屋でした。玄関の藁のブラシ状のモノは火縄花火の道具で「おしめ様」と呼び注連縄と同じように飾られているモノです。どの家も玄関に吊るされていました。
現在遣っている旅籠時代の面影を残しているのは「玉田屋旅館」と「山城屋旅館」の二軒だけとの事、前者は江戸時代の建物である事は評価されても二階にトイレが無いとの事。夜中にトイレを使うのに1階まで階段を下りるのは苦痛です。そこで二階にトイレが設備されている山城屋旅館に泊まる事にしました。一泊2食8000円です。私の決断の後押しをしたのは山城屋は馬宿だったという事でした。
此れは川崎民家園に移築されている奥州の馬宿「鈴木家住宅/重文」です。写真の右側に人の泊まる部屋があってその枕元に馬が繋がれていたのです。
馬宿とは旅人と馬を一緒に同じ宿の下に泊めるという事です。荷主にすれば荷も馬も盗まれたら大変です。そこで馬主の目の届く先に馬を繋いでおける馬宿が人気だったのです。
午前11時山城屋に入ってリュックを預けました。
坂道の左に在るのが山城屋旅館です。この町は山野草の目立つ街で手前は藤袴です。山城屋の並びの洋装店の女将は藤袴に「浅葱斑/渡の大型蝶)が来るのを楽しみにしていました。
そして、前回食べ損ねた「猪鍋」を食べに井筒亀(いづかめ)に向かいました。
山城屋に入ると銀髪のお婆様が大歓迎してくれました。”よう来なさった、なぜ当宿を選んだのか?”質問されます。訊けばお婆さんは昭和27年にこの旅館に嫁に来たのだそうで、生まれも育ちも稲武(いねぶ)だそうです。前回私は浜松からレンタカーで新城を経て鳳来寺山を廻り足助に向かった時に稲武は通りました団栗の里と云う名で叔母さんたちが集まって道の駅でお喋りしながらお餅や「栗どら焼き」を手作りして販売していました。
道の駅稲武のレストランは農家の叔母さんが五平餅やトン汁でもてなしてくれました。
私はああ、あの美しくも楽しい村から足助の馬宿に嫁に来たのか!感慨深く聴かせてもらいました。山城屋旅館の創業は明治20年で、嫁入りした頃は家族や使用人を含めて13人も同じ屋根の下で寝泊まりしていたのだが今は倅と二人きりになってしまった。
この人が山城屋のお婆ちゃん、85歳、今朝寝起きに脚を痛めてしまった、そうですが、お婆チャンのお蔭で廊下も階段も手摺が付いていたし、お風呂には我家に在る介護椅子があり、私には大変居心地が良かったのでした。
一昨年までは三島屋さんと二軒で競っていたので張合いも在ったが今では自分の所も何時暖簾を閉じようかと気が気でない。こうして奇特なお客さんが来てくれると嬉しくて嬉しくて」云いながらお茶を注いでくれました。と云ってもお茶菓子は何も出ません、経費節減なのでしょう。昭和30年代までは中馬のお客も多かったし、富山や大和の薬の行商が定宿にしてくれていた昭和40年代にはダム建築の人達が使ってくれていたが、今は客が来るのは香嵐渓の紅葉や3月の雛祭りだけで、過半は閑古鳥が啼いている状況だというのです。
「今は息子と二人で細々と宿の火を灯しているが何時まで続けられるか?」息子さんは女嫌いですか?」訊けば、「唯縁が無かっただけの事です・・・・。」
朝の中馬道山城屋二階から見渡す。
翌朝散歩に出ると偶然三島屋さんの女将さんと話が出来ました。
私は山城屋さんに泊まった事お婆ちゃんが足を痛められた事等話しました。すると三島屋さんはこう言われました。
「山城屋さんは足助では評判の美人でしたよ!」
三島屋さんの女将さん玄関入り口には「歴史的建造物であり観光資源である印の馬蹄が貼られています。足助は豊田氏に合併され、東大都市工学部に基本調査をして貰い観光開発の基本プランを作成して貰いました。要約すれば美しい自然資源と歴史的な資源(家並や石仏や街道)を活かした町造りです。
私は今朝起きようとして足を痛めてしまった事もあって弱気に陥ってしまいました。
お婆ちゃんは若い時にはさぞかしお綺麗だったことでしょう。
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2017年10月16日
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