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豪徳寺は、私の生家の盛徳寺にとって御恩のあるお寺ですし。一度はお詣りしたいと思っていたのでしたが、ツイツイそびれてしまい。12月15日私の仲人を務めて戴いた千代実相院住職佐々木一雄の墓参の後に登りました。
御恩と云うのは私の祖父母の結婚の仲人を豪徳寺の住職であった大島師が努めて下さったのでした。祖父母は結婚して直ぐに大島住職の御尽力で「盛徳寺」に晋山(住職になる事)出来ました。そんな訳ですから盛徳寺は豪徳寺に脚を向けて寝られないのでした。豪徳寺とか「井伊家」の話になると正座して聞き耳を立てたモノです。
世田谷線で山下駅で降りれば小田急線豪徳寺駅の傍です。山下駅から世田谷線の線路に沿って豪徳寺商店街を抜ければ豪徳寺の参道に出ます。豪徳寺商店街には「女城主直虎」のポスターが貼られていますし、豪徳寺も大河ドラマで脚光を浴びているようです。参拝客が目立ちました。今春は彦根の「清凉寺」に登りましたから、井伊家の墓所には春秋に登った事になります。夏に東近江の「永源寺」に行っておけば井伊家墓所三箇所を一年で巡った事になります。横浜を開港したのは「井伊直弼」ですし、井伊は好印象なのです。
豪徳寺は流石に井伊家の江戸菩提寺参道の松並木からして格式が高いモノです。
豪徳寺商店街を抜けると世田谷線の線路に出ます。暫く線路沿いに歩いて行けば豪徳寺の松並木の参道に出ます。
豪徳寺の三重塔
有名な豪徳寺の招き猫)、彦根藩2代の井伊直孝が鷹狩の帰路招き猫に遭遇し、従って、落雷の災難をまぬかれた事から、同所に寺を創建した。寺の名は直孝の戒名「久昌院殿豪徳天英居士」により「豪徳寺」とした。
豪徳寺の見所は何といっても歴代藩主とその家族のお墓です。墓所入口に説明版がありますので、「井伊直孝」や「井伊直亮」と云った有名人の墓所を確認してからを観て廻ります。総じて笠婆塔が目立ちます。でも、少しずつ違います。石質も違えば、墓所の囲いも違います。勿論、石質も囲いも一番立派なのは、創建した井伊直孝の墓です。武士の墓は室町時代までは五輪塔か「宝篋印塔」でした。五輪塔は日本人の独創でしたが、宝篋印塔は印陀羅尼の経文を納めた塔がルーツで中国伝来です。宝篋印塔の墓は。公家や学者に多いのに対し江戸時代の武士は好んで笠婆塔を墓標(ストーバ)にしました。笠は屹度陣笠を模したモノでしょう。私達が井伊直孝の墓を観ていると沢山の人が寄って来ました。歴史愛好家のグループのようですが解説員がいます。ボランタリーでしょうか?中々の名調子で正妻と側室の機微に触れたりして聴衆を飽きさせません。
右上の二つ目が二代井伊直孝の墓(北向き)中段左端が井伊直弼の墓(西向き)
此れが彦根井伊家二代井伊直孝の墓です。井伊家の家紋(橘紋)の付いた笠塔婆塔に台座も立派な蓮台で、周囲には囲いもあって、最高の格式です。
此方は井伊直弼の墓です。拓本の跡が汚れて居て気の毒です。直弼は横浜市民としてはモット評価して良い様に思うのですが。
中高齢者のグループが次々に井伊家墓所を訪問します。皆先ず「直虎」や次の「井伊直政」の墓を探しす様です。大河ドラマを観ているのでしょう。そのドラマも17日に最終回を迎え「虎松」は家康から「直政」の名を賜りました。井伊家の再興が認められ、女城主「直虎」の関係者は皆揃って「直政」に仕える事になりハッピーエンドです。副題も「石を伝えるモノ」となっていました。直虎の「遺志」を「碁石」に擬えて、直政は直虎が握っていた碁石を握りしめました。直正の子が彦根井伊藩二代の「井伊直孝」です。豪徳寺は井伊直孝が創建した寺ですから、直孝が三河井伊之谷」から直政や直虎の墓を改葬しない限り、直虎の墓は豪徳寺にはありません。皆物足りなそうな表情です。
江戸っ子には幕末維新に戦火を免れた恩人が居ます。一人が「勝海舟」でもう一人が「井伊直弼」でした。NHKでは1963年「花の生涯」を大河ドラマにして、我国植民地化の危機を未然に防いだ井伊直弼を顕彰しました。
NHKの大河ドラマが史実を離れてファンタジー化する事に年々危惧を強めながらも。この一年間楽しませて戴きました。もう柴崎コウさんの額の皴を見なくて済みます。
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