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1月4日向ヶ丘遊園の民家園から狛江の泉龍寺http://www.senryuji.or.jp/に向かいました。泉龍寺は私の母が産まれた寺で、現在私の従兄弟の菅原師が住職を務めています。昨年の父母や祖母の年忌法要も菅原師が導師を務めて下さいました。その御礼もあれば母方のお墓参りもしたいと思ったのです。狛江の駅も小田急線の高架工事の結果見違えるようになりました。泉龍寺も随分変わりました。境内地の東側は市役所に変りました。江戸名所の池は市が整備して史蹟公園になりました。
江戸名所図会の泉龍寺です。手前が多摩川で境内の弁天池は振り袖火事でも枯れなかった事で貴重な泉だったそうです。でも、昭和17年以来湧水は止ってしまいました。図の出典は泉龍寺HPhttp://www.senryuji.or.jp/original4.html向こうの霞の丘が成城になります。
これは泉龍寺境内にある弁天池の説明板です。東大寺を創建した良弁僧正が開いた泉である事、如何なる旱魃でも水量豊かに水が湧いたこと「和泉」の地名の根拠である事弁財天は元禄時代の祠である事。近隣開発で昭和47年以来枯れてしまった事等記されていました。
池の中島に祠があって、弁財天が祀られています。
1月4日午後2時泉龍寺の庫裏で従兄弟の菅原師に会いたかったのでしたが、年始回りにお出かけと云う事でお嫁さんに挨拶しました。母方の祖母は母以上に腰が曲がったお婆様でした。庫裏の暗闇から出て来られると子ども心に怖いモノでした。
でも、お百姓は得意だったようで、鳥小屋に行って卵をとって来て、境内の畑で栽培した野菜を料理して生意気な外孫に食べさせてくれました。私は母の生前に再三母を車で送って来ました。母の兄は先の大戦でフィリッピンに出征し、帰国出来なかったのでした。従兄弟が住職になるまで、寺族こそ居たが、兼任住職に頼っていたのでした。従兄弟は無事に東大を卒業し、母は甥が立職して泉龍寺の住職になった時の悦びは大きなモノがありました。そしてフィリッピンに出かけて川原の小石を拾って帰り、ました。(小石を遺骨として祀ったのでした)
泉龍寺の楼門横の六地蔵尊
昨年の法要の後の精進落しの席でも菅原師とは親しく懐かしく話をしたのでしたが、泉龍寺の居間でユックリ話たかったのでしたが・・・・。
私の記憶していた境内畑は墓地に変り、その端は市役所の施設になったようです。従兄弟のは息子を副住職にし、副住職のお嫁さんにお会いできました。お嫁さんは帰り際に私に「お年賀」を下さいました。屹度菅原師が使っている年賀の品でしょう。お寺のお年賀と云えば、タオルか手拭かお線香が普通です。
家に帰ると食卓でワイフが嬉しそうな声を発しました。戴いたお年賀の封筒を開けたのでした。犬のチョコレートに絵馬の様なプリントがされた「貼りカイロ」に「金箔入り梅こぶ茶」が入っていました。どれも遊び心に富んだ入れ物に入っています。
屹度企画会社が製作してお寺に売り込んだモノでしょう。でも昔話をしたいと思って訪れた私の気持ちを見透かしたようなお年賀品でした。
泉龍寺のお年賀品。右下がカイロその上がチョコレートと梅昆布茶です。ポチ袋に達磨がご愛嬌です。
昨今は、都会でもお寺さんは問題を抱えているようです。第一は無縁墓が増えて、経営的に不安定である事、お墓は法律的に墓地自体の所有権は寺(法人)にあって、墓として使用貸借であると割り切って、裁判所に届け出て使用貸借の打ち切りを宣言すれば、一定期間を経て、墓地の区画整理に入れます。でも、世間の眼は冷たいし、「あの世の事も金次第」と悪口を叩かれます。今後核家族化、老人単身世帯が増える一方でしょうから、無縁墓地は増えるは引き取り手の無い「お骨」が増える事でしょう。。そんな経営的逆境にあって、我が従兄弟は知恵を振り絞って旧知のお檀家を大事にしているようです。先年も「泉龍寺のきのこ」を上梓され、私にも寄贈して下さいました。屹度お檀家にも配布したのでしょう。境内地は鬱蒼とした武蔵野林です。茸が生育するには格好の環境です。墓地にヒョッコリ茸が顔を出すのを視るのも墓参りの楽しみでしょう。
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