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私は70年代、阜羽島駅は何度も通過しました。大阪支店に転勤し、東京に往復し、岐阜羽島駅を観る度に、此処は円空の誕生地、「仏像拝観して廻りたいものだ、」思いましたが、交通費は銀行負担で、拝観して廻るのは気後れしていました。「何時か日文研の友人と気持ちよく拝観しよう!」想い留まって来ました。今回漸くその機会が出来て、円空仏を拝観しつつ、桜街道を高岡まで旅をする事が出来ました。出発は当初予定より2週間早めて、4月5日早朝でした。9時前に岐阜羽島駅に降り、駅レンタカーに乗って、先ず「羽島歴史民俗資料館」に向かいました。新幹線岐阜羽島駅の周囲は市街地化され賑わっていますが、旧市街地の「竹鼻地区は昭和30年代初頭の伊勢湾台風時代から変っていないようです。ブリキ屋根の民家は錆びて昭和の空気が流れています。歴史民俗資料館は映画館の再活用した建物のようです。古い映画の上映をしているようです。この日は「原節子主演」の日独合作映画「新しき土」を上映していました。
羽島の旧市街地竹鼻に在る歴史民俗資料館は映画館の再利用の様でした。
映画資料館では定期的に昭和の映画を上映しているようでした。
竹鼻地区の表通りにjは円空仏が置かれています。誰が彫っているのかな?
円空の研究については昭和46年創設された「円空学会」が良い仕事をしてきました。こうした民俗学の仕事は可能な限り善意良識な仲間が共同してフィールドワークし、研究成果でもって研鑽を重ねる事が有効です。また円空独特の鑿技法を承継する事も意味深いと思います。こうして羽島地域の街路や公共施設に円空仏が置かれているという事は、沢山の人が円空を模倣して円空の鑿を研鑽している事の現れでしょう。
これは1994年小田急美術館で開催された円空展のアルバム、円空学会の研究成果が活かされていました。私の学生時代には知られていなかった農家の仏壇の像や、円空以前の「弾誓」等の研究もありました。
私達は歴史民俗資料館でパンフレット等を揃えて、先ず円空生誕地と云われる「中観音堂」に向かいました。
円空研究では従来、「臨終地/関市のみ弥勒寺」は問題ないとして生誕地が不明でした。円空学会の業績は「円空の誕生地が羽島の中観音堂」であろうと云う事を示しました。「何故羽島なのか?」と云う根拠として祖師野薬師堂の木札」にある「美濃国竹ヶ鼻」と書かれていたこと、及びその間の推論として、竹鼻の貧農の娘が長良川中流域の美並にある「星宮神社」の巫女さんとして送り出されたモノの星宮神社で妊娠してしまい、故郷の実家に戻された、そして出産したのが円空でした。
しかし円空の母は大洪水で亡くなってしまいます。そこで、父親のいた美並の星宮神社(粥川寺)に預けられました。青年円空は美並の祠で「弾性上人作の仏像・神像をを視ます。その後円空は修験僧として白山から伊吹山に更に大峰山に行脚し、蝦夷松前にわたります。
円空学会の一生を整理してみました。
梅原猛氏による「円空の和歌」の研究成果(朝日新聞)筆者の学生時代の切り抜きです。円空は仏像に「作仏年月日目的」等を記していましたし。和歌も残しているので研究成果が上がっています。
中観音堂の前庭には多くの円空摸刻像が並んでいます。中央の護法神像は2mもの巨像です。
中観音堂「有宝寺」本堂は二階建ての二階に在るのは此処が洪水多発地帯だからでしょう。右の建物は2階が円空資料館の展示スペース(此処は写真撮影可)その1階はアトリエになっていて、円空像を彫ろうとする人が研鑽を積んでいます。
本堂では住職が詳しく質問に答えてくれました。何か監獄に入れられているようで気の毒に思いました。正面厨子に本尊の十一面観音が居られます。
摸刻像の展示室
梅原猛氏の色紙と解説風景
円空資料館の前庭駐車場の脇には摸刻像が林立しています。
道路向かいには円空が産湯を使った井戸が今も使える状態でした。
これが中観音堂の本尊11面観音です。魚籃観音を想わせる衣文が付いた2m余りの立像である事から1871年(40歳の円空が母の33回忌法要の為に帰郷して彫り上げたと云われます。11面観音は白山の本地仏であります。
今回のツアーでは、少年円空が預けられ得度(僧になる儀式)した。星宮神社の神宮寺の粥川寺と遷化した「弥勒寺」を巡る予定です。どの寺も長良川の本流と支流の岸辺に在ります。
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