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石仏ファンにとっては憧れの一つが「矢田型地蔵尊」と呼ばれる古代の香りと中世の息吹を宿す地蔵尊です。石仏の美しさは次の三位が揃った時に在ります。①には良い石材です。②には伝統の技です、③には篤く信仰する人が今も面倒を見ている事です。この三位が揃っているのが矢田寺の地蔵尊です。
此れが矢田寺の案内【表紙】です。関西で紫陽花と云えば矢田寺三室戸寺です。
此方が案内の裏側です。特別拝観で地蔵尊や十王象といった中世地蔵信仰の文化財が拝観できました。
向かいの山が矢田丘陵で真っ直ぐ登れば矢田寺です。山麓を西【左】に行けば中山寺で更に西に法隆寺や竜田山が在ります。バス停から矢田寺本堂まで2キロ、更に石仏遍路を廻れば3キロです。
「出迎え地蔵」このように舟形向背の立像で印を結んでいるのが典型的な「矢田型地蔵石仏」です。時代が下ると右手に錫杖左手に宝珠を持ちます。
【矢田寺地蔵尊の石材】
矢田寺のある「矢田山」の石は「生駒石」です。生駒石は斑れい岩系(深成岩)の石材で大理石の何倍もの硬度をもつため、風化に強いのが長所ですが、堅いので加工が大変です。同時に鉄分を多く含むために風化していくと
表面に「さび」が生じ、独特の黒褐色となりませ。一見すると「黒っぽい御影石」の表情です。奈良の御屋敷や法隆寺の敷石等度々確認する事が出来ます。 【伝統技術】
地蔵信仰が始まったのは平安時代の末期でした。源信が往生要集を著し平安時代の阿弥陀信仰から地獄の思想が普及すると人々は地獄で救済してくれる地蔵菩薩に信仰を移します。矢田寺は地蔵信仰の中核でした。「矢田寺縁起絵巻」が信仰の概要を留めています。私達が知っている地蔵尊は錫杖を持った比丘の姿ですが矢田地蔵尊は立ち姿の阿弥陀様を比丘にした姿です。お地蔵様なのに阿弥陀印を結んでいるのです。私の生活圏では箱根石仏群【重要文化財】が在ります。自然の巨石に舟形に掘り下げて地蔵菩薩や観音立像を浮き彫りしています。箱根石仏群の石工は鎌倉極楽寺の建立に際し、石工は大和国の「大蔵安氏」、導師として大和国西大寺の僧侶叡尊の弟子で、鎌倉極楽寺の住職であった「良観(=忍性)」の名が見られるます。大和の石工の技術が矢田寺石仏には顕著なのです。
そんな次第で矢田寺は私の憧れなのです。
此れは元箱根精進池池畔の石仏群です【重文】。地蔵と阿弥陀と観音菩薩が混在して13体あります。西大寺から忍性上人が鎌倉の極楽寺に下った際に大蔵石工に彫らせた事になっています。
これは矢田寺の絵馬です。絵馬は矢田寺縁起絵巻のクライマックスの場面です。「満米聖人」が地獄で生身の地蔵に会い,その姿を彫って矢田寺を開いた由縁と,あやまって母を殺した武者所康成がその死後,日ごろ信仰していた矢田寺の地蔵によって地獄から救い出される霊験譚を内容としています。釜湯から引き上げられているのが「武者所康成」です。
矢田寺の境内や裏山を紫陽花を愛でながら石仏を巡るのは私にとって至福の時間です。「 味噌舐め地蔵」には鎌倉時代後期と案内されていましたが。矢張り大半の地蔵尊は江戸時代の右手に錫杖左手の掌に宝珠を持っています。
此方は本堂西側に居られる[味噌舐め地蔵尊」( 鎌倉時代)。典型的な矢田型地蔵石仏です。
味噌舐め地蔵の両脇には沢山の地蔵尊が並んでいます。味噌舐め地蔵や味噌舐め奪衣婆は群馬県で良くみますが、「お母さん伝来のお味噌が今年も出来ました!」そんな感謝の気持ちが形になったモノでしょう。赤いユダレ懸け同様に現代も信仰がいきている証です。
此方は比較的新しい石仏群、背後の建物は南僧坊で本堂を挟んで北僧坊が対峙しています。
石段がきついのですが、これもリハビリです。奥のお堂は御影堂です。石段が裏山に3キロ広がっていて「四国の遍路」が出来ます。
本堂裏山は四国88寺の遍路道になっています。此方四国「45番岩屋寺」です。
石仏を視て紫陽花を愛でて来た道をバス停に戻ります。「行は良い良い、帰りは怖い」と聞きますから石段を踏み外さない様に慎重に下ります。向かい山脈が見渡せます。「あの山の名は?」想いながら下りました。
この道が大和郡山と矢田寺を結ぶ県道先を右に曲がれば中山寺から慈光院更に西に法輪寺にでられます。
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2018年06月22日
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