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2018年06月

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昨日は奈良町のジャズ親爺の店で「オムライス」を食べた事を書きました。もう一つ奈良の農業が秀逸である事を示す話をさせて戴きます。それはJR奈良駅の1階高架下にある「奈良美味いモノプラザ」での朝食の「卵かけご飯」です。
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此れはJR奈良駅の高架下南北連絡通路に面して出店している「奈良美味いモノプラザ」です。一日中食事が出来ます。
私は奈良に来ると必ず1食は此処で食事します。今回の旅行は素泊まり2500円の「奈良町ゲストハウス」でしたから、朝食はJR奈良駅で卵かけご飯にするのが格好です。奈良のお米と云うと「ひのひかり」か「古代米」です。奈良のお米が美味しいのは「寒暖の差が激しい事」と「良い水」に恵まれていること」が上げられます。日本のお米が美味しい事は香港や福建州のリッチな人が指名買している事でも解ります。中国の米造りの現状を観れば日本の米が数倍高くても日本の米を買いたくなります。何しろ中国の田圃の水路は昭和30年代の汚れた日本の水路のようです。洗剤中のリンが水路に流入し沈殿しているのです。メッキ廃液やICチップの製造過程で使った洗浄液が田圃に流入しているのです。大便を畑に撒いて野菜を作っている事は我慢できます。大便は有機物ですから地中のバクテリアが分解して肥料に戻してくれます。でも重金属やヒ素は残って地中のバクテリアも死滅してしまいます。豊穣の源の「土」は出来ないのです。日本の農家は「土」を自慢して口にします。でも、中国の農民は土舐めたりしません。
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これは「奈良美味いモノプラザ」の壁に懸ったポスターです。「大和情熱野菜」のネーミングには日本の伝統野菜を大事にして燦々と輝く陽を浴びて、肥沃な大地と清い水を活かした美味しい野菜を想わせます。
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同じく「奈良美味いモノプラザ」の壁に懸った奈良の伝統野菜のポスター。
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これも「奈良美味いモノプラザ」のポスターです。筒井の蓮根も奈良の茄子もこれからが美味しい季節です。
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筒井に近い郡山の茄子、茄子は天平時代既に日本に来ていたと云われ「茄子紺」等の色彩に、諺や盂蘭盆の精霊棚に奉げられる日本人の生活に根差した野菜です。奈良の茄子と云えば「丸茄子」ですが、美味いモノプラザでは伝統の瓢箪茄子を案内していました。
2007年に「中国製冷凍ギョーザ事件」が勃発しました。あの事件は偶々天洋食品の工場に悪質な従業員がいて、殺虫(鼠)剤を餃子の具に混入させたことに依っている事で済んでしまいましたが。実は根はもっと深く、中国の農民の激しい怒りの為に起ったのです。中国の貧富の差は激しく、特に上海の近郊の農民の怒りは万博直後沸点に達していたと思われます。事件の舞台はは大洋食品でした。
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此れは浙江省にある日本向け加工食品の輸出工場の浙江省農産品輸出入企業協会の工場団地です。餃子事件の舞台とは無関係です。こうした工場の背後には農業人の悦びを奪われた人たちの怨嗟が渦巻いているのです。写真出典協会のHPhttps://search.yahoo.co.jp/image/search;_ylt=A2RinFEqrjZb6QQAxAwdOfx7;_ylu=X3oDMTBiaGxjcmduBHZ0aWQDanBjMDAy?p=%E8%BE%B2%E6%A5%AD%E9%BE%8D%E9%A0%AD%E4%BC%81%E6%A5%AD&aq=-1&oq=&ei=UTF-8
同社は中国の農業を席捲している「農業龍頭企業」が経営して、日本の三分の一の原価で餃子を製造し日本市場に輸出している企業です。毛沢東による共産革命の主役は「地方の零細農民」でした。農民は革命で夢を観たものの農地の所有は認められず、使用権だけが認められ、それもソ連式大規模農業【コルホーズ】をする為に使用権も政府に結託した「農業龍頭企業」に取り上げられてしまいました。農業の楽しみは植物栽培の悦びに在ります。自分の判断で栽培植物を決め、耕作から収穫まで自己責任で栽培する悦びに在ります。こうした悦びを奪われ自分自身も家族も農民工として工場で働かされるのです。トイレは汚いし手洗いの習慣も在りません、食堂に巣食う鼠対策で殺鼠剤も身近に在ります。農民工が殺鼠剤を餃子の具に混入させるのは容易でした。農民工は上海近郊の農家の出で、「農業龍頭企業」の経営陣に遺恨を有していました。農業龍頭企業の経営者は国の官僚と結託して、日本商社の資本を得て、近代的な餃子工場を作って、営利を独占し、自分達農民の誇りも歓びも奪ってしまったのです。殺鼠剤を混入させる蛮行をしてしまったのでしょう。(この推測は「農民も土も水も悲惨な中国農業/高橋五郎著/朝日新聞】に詳しい)
私は中国の農業や農民が悲惨な状態を見聞きし、一方で奈良や福島の農産品を美味しく安心して食べられる幸福を満喫しています。
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毒入り餃子事件の収束を伝える読売新聞。事件の真相は触れられず、中国食品に対する不信感は以来溶けて居ません。
日本の農産品が安心安全でその味を満喫出来るのは「卵かけ」ご飯です。奈良美味いモノプラザの卵かけご飯」はタマゴのたけむら(五條市の竹村養鶏場)の赤卵「大和の恵卵(やまとのめぐみらん)」を使っているそうです。白飯は奈良のブランド米「ひのひかり」です。香のモノに味噌汁にサラダがついて400円です。
卵かけご飯は日の丸に似ているし、ハレの日の食事に最適です。
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これが「奈良美味いモノプラザの卵かけご飯400円です。私は建設省系公団に出向中農林省の食堂に良く出かけました、当時日本の農政は日本人の「米離れ」が問題で減反政策を推進していました。農林省は足元で国産の米飯を進めていないでいて「本気でない」と思いました。今からでも「農林省の食堂は「卵かけご飯」を始めて欲しいモノです。



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奈良旅行に於いて、「矢田農家」が栽培した。「マクワ瓜」を食べ「奈良美味いモノプラザ」で「卵かけご飯」を食べました。私の体は”いい食事を下”嬉々としています。私は奈良の農作物が何故美味しいのか?ズット考えました。奈良は実はお米も野菜も果物も抜群に美味しいのです野菜と云えば「京野菜」のように言われますが実は奈良野菜の方が美味しいと、私は考えています。矢田村のお百姓が向かいの山も「青垣山」此方の山も「青垣山」と呼んでいました。大和の農作物が美味しい第一の理由は四方が緑なす山に囲まれていることに在るのです。四方の山に降った雨は盆地に流れ込んで来ます。山林の腐葉土を溶かした有機分タップリな水は盆地の土を肥沃度にします。
私は銀行員時代に北京や広州近郊でのゴルフ場開発に係りました。かの地の土は痩せている上に乾燥したアルカリ性土ですので、樹木も芝生も中々活着しません。砂土でもカリフォルニアのパームスプリングス等は地下水さえ汲み上げれば素晴らしい芝生が生えて樹木も生い茂ってくれます。この時から中国の土に疑問を持ち始めました。黄河文明は大河が運んだ肥沃土の上に育まれたのは事実なのでしょうが、歴代王朝は北方牧畜民でしたから、沖積土壌を利用するだけ利用して、土を痩せさせてしまいました。その結果が黄土と呼ばれる黄色い草木も生えない台地です。韓国も我国も冬から春の季節風が吹くと黄砂に見舞われます。目に入れば痛いし迷惑な事です。歴代の中国文明が土の循環を無視し、一方的な収奪を繰り返してきた結果がこの大迷惑です。
【毒入り餃子事件】の根の深さ
2008年に中国製餃子事件が勃発しました。事件は上海万博会場に近い大洋という名の工場で従業員、呂月庭被告(39)が殺鼠剤を餃子の具に混入させた、という事で解決しました。日中両政府も早期に事件を終結させたかったのでした。既に死刑になった呂月庭被告もその家族も真実が解明されないで悲しんでいることでしょう。実は餃子事件は農業の在るべき姿の反面教師で、我国農業の姿を考える上で示唆に富んでいるのです。
私は大学時代日本思想史を勉強し「農は国家なり」と教わりました。この考えは一般に「農本主義/重農主義」と呼ばれ太宰 春台安藤昌益が有名です。西郷隆盛も民俗学者の柳田国男も農本主義者であると思います。
毛沢東によるによる共産革命も根本は農本主義に在ったと思います。マルクス・レーニン主義から距離を置き革命の核に農民を置き、中国の実情に適応させた、農民中心の革命方式を実施しました。「マルクス主義は資本主義の行き詰まりが共産主義に転じる」とされていますが、ロシア帝国も中国も、資本主義は未発達の儘共産主義革命を実施しました。双方自ずと農業を核に置いた農本主義革命にならざるを得ませんでした。毛沢東はソ連に行きコルホーズやソホーズを勉強し、中国での大規模農業を意図しました。共産主義ですから農民の農地の自己保有を認めません。農民に分け与えたのは農地の使用権だけでした、小規模農地の使用権だけを与えられた農民にソルホーズのような大規模農業を実施させるには、大規模組合に使用権を集中させました。大規模組合は農家の自由は認めず、一定の穀物を集中的に耕作させます。上海近郊の農業組合は日米の資本を得て、先進国向けの商品作物を栽培させ、系列下に食品工場を建設しました。農民やその子弟は食品工場の労働者として雇用されます。
毛沢東革命時は自作農として意気健康であった農民は総ての自由を奪われ、老人は云われるままに指定作物を栽培し、その子供達は工場の農民工として働かざるを得ません。自ずと農民の恨み辛みは「農業竜頭企業」や農業組合のトップに向かいます。そんな不満が、殺鼠剤を餃子の具に混入させたのでした。
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「奈良町」は近世になると「伊勢旅行ブーム」で湧きました。日本民族固有の「代参詣」で、家族や村や部落を代表して一人が有名社寺を詣で、その神社の「加持」や御利益の全員分を授かって来ると云った考えです。旅行費用は代参依頼人のカンパで用意されます。江戸からの旅は「富士山」や「相模の大山」そして「伊勢神宮」京大阪からは「伊勢神宮」が一番人気でした。京都を旅立つと、伏見街道を南下して「奈良町」に入ります。興福寺の猿沢池の畔から「奈良町」は続きます。今も「左伊勢道」の道標が帯解から天理にかけて立っています。伊勢街道は石仏街道でもあります。何しろ旅人で賑わう町は新しい文化や信仰の起きる場所ですから、近世庶民信仰の代表である「庚申信仰」も奈良町で勃発しました。天理の南に在る長岳寺は長岳寺様式地蔵石仏が彫られました。長岳寺様式地蔵石仏はシンプルな地蔵菩薩で、先ず立方体の石を伐り出します。立方体の石仏を立てて、地蔵菩薩を浮き彫りするのです。自ずと弁当箱の様な石材は舟形向背になります。最も効率的に地蔵菩薩が彫りあがります。庶民が家族の墓標を必要にし始めた近世には木製の卒塔婆に代わって石の地蔵が墓標になったのでした。風化されない「地蔵石仏」は故人の守護仏としても、需要があったのでした。
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此れは長岳寺の南柳本の地蔵菩薩です。
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長岳寺門前の地蔵石仏群大きな楠の根元に集まっておいでです。長方形の石材を使って地蔵を浮き彫りします。地蔵の墓標が量産されたのでした。
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長岳寺門前の勧請縄、この注連縄は村に災厄が入らない様に結界としたもので楠の巨木の幹を繋ぐように懸けられています。その根元に夥しい数の長岳寺様式地蔵菩薩が祀られています。
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これは奈良町の庚申堂です。夥しい数の「猿ボぼ」と呼ばれる厄除け人形が吊るされています。
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これは奈良町の伊勢街道に面した徳融寺(一般には誕生寺と呼ばれる/中将姫の誕生地なので)門前に祀られた庚申塔。奈良町は石仏が辻辻に立っています。
奈良町の再開発が活発になったのは昭和61年頃でした。当時、奈良の賑いが期待され、JR奈良駅の再開発や近鉄奈良駅周辺の再開発が実施されました。路面を走っていた近鉄電車は線路も駅も地価に移転しました。油坂や奈良町の町屋が再開発の美名によって取り壊され始めた時でした。
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此れは近代化資産に認定されているJR奈良駅です。JRが高架化され、駅舎も高架橋の上に移されたので現在は観光案内所となっています。
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これは油坂の町屋です。昭和60年代初めまでは近鉄電車はこの辺り路面上を走っていましたし駅舎も地上に在りました。

「奈良町再開発」は歴史的な町屋の織り成す景観を守りながら賑わいを取り戻そうとするプランでした。私達はこの頃社会人になったのでした。昨日書いた「日吉館もこの頃に廃業になってしまい現在の土産物店に変ってしまいました。志が高く奈良を愛した人達が奈良町の歴史的景観を守りながら、事業を起こしたのでした。成功の最たる人は「馬酔木の郷」という名の飲食店だったと確信します。

古代元興寺の境内地であった奈良町の起点は猿沢池でしたから、観光客は猿沢池から南の「新薬師寺」や「百毫寺」に向かいます。観光客の喫茶に昼食に町屋を改築して「漬物+ご飯」で1500円程度のランチを提供してくれたのでした。
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「馬酔木の郷」の「奈良漬ランチ」40年前も1500円で漬物食べ放題で主菜は西京漬けのお魚でした。勿論白米は奈良産の「ひのひかり」これに月ヶ瀬産の「ほうじ茶」。美味しくも嬉しい茶屋でした。今も1500円で値段も素材も変わらないようです。
食事喫茶の店の他にも民芸品屋や土産物店が出店しました。それでいて昔ながらの町屋の美観を大事にしました。「近代的な清潔感+快適な空間+リーズナブルな価格設定+日本の故郷奈良愛」を共通コンセプトにした街造りだったと思います。町屋の企画は奈良町の町屋も京都の町屋も同じです。古代に始まり中世も近世も町民い対する課税は道路に面した間口の幅が基準でしたから、町屋は間口が狭く奥行きが長い長方形になりました。結果的に切妻が正面になります。町屋再開発に際しては間口が広い事が有利です。同じ広さなら間口が広い方が自由に設計できます。でも間口が狭く奥行きが長いとなると「鰻の寝床のような設計にならざるを得ません。私は「そんな逆境をプランナーがどうやって克服するのか」私は興味を持って観察します。合理的なプランナーなら鰻の寝床の町屋を何軒も併せて間口を広くして再開発プランを設計するでしょうが、それでは歴史的な景観は壊されてしまいます。「歴史的景観」を尊重しながら、再開発をプランすることが肝要です。
私は「花園湯」という名の銭湯を出て伊勢道を北に向けて歩きました。三日月が追いかけてくれます。期待していた「馬酔木の郷」は午後6時閉店でした。昔ながらの店内を覘いて相変わらず繁盛していることを確認しました。
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此れが奈良町の伊勢街道の家並です。真っ直ぐ北上するともち井戸の商店街を経て猿沢池に突き当たります。新しい格子戸も天然木で出来ていました。

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伊勢道を北上猿沢の池に向かって歩く。三日月と宵の明星が追いかけてくれました。
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奈良漬定食を出していた「馬酔木の郷」は美術館も併営していました。
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奈良漬定食店だった「馬酔木の郷の店内」
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現在も馬酔木の郷では、『奈良漬(食べ放題)+野菜+西京漬け』で1500円で案内していました。
「馬酔木の郷」は既に閉店していたので真っ直ぐ猿沢池に向かいました。新しい店が目立ちます。伊勢道に面したお店だけでは無くて路地の奥に良いお店が在るモノです。狭い路地の奥に「宝船」の電飾板を見つけました。伊勢道に面して「ジャズ」の看板も立っています。
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路地の奥に在った「宝島」という名のジャズ喫茶店
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宝島の電飾看板看板は「レイチャールズ」のようです。
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宝島の食事は一律820円です。「どれでも美味しそうだから残り物でも良いよ!」店主に云うとオムライス+唐揚」が出て来ました。
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店主は50歳代ピアノもあるので生演奏も楽しめるようです。写真には映って居ませんが小学校の椅子が置かれていました。
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此れは宝島のトイレです。トイレに入ってもジャズを聴きたいそんな人向きのお店のようです。


誰にでも「拘りは或るものです」美味しいモノを食べるのが私の拘りです。
私の職場の関係で「大阪三田会」では、ジャズを聴きながら美味いモノを食べました。万年幹事は「メルボ紳士服」の清水 貞行氏で中之島のサントリービヤガーデンでジャズの生演奏を聴きながら食事を楽しみました。問題が在るとすれば「メルボ紳士服を新調しないと参加できない程度でした。三田会は梅田でも博多でも熊本でも活発でした。美味いモノを食べたい私と、上質な時間を過ごしたい三田会の友人たちと中々意見の合うお店は見つけられませんでした。
美味しいモノは「地産地消」が原則です。美味しいモノを探すにはその土地の産品を探して、その土地の人の好みで料理して貰う事です。「地産地消」とは「農」の基本理念です。農の基本は「土」です。微生物が生きている土は美味しい農作物を生み出します。奈良の野菜が美味しいのは昔も今も”奈良の土が良い”からです。奈良漬が美味しいのも奈良の農業が土を大事にしているからです。奈良を旅したら農作物をたらふく食べる事が楽しみです。
処でジャズが好きでレイチャールズお宅の親爺の手作りのオムライスは美味しかったです。第一卵の味が濃かったし、野菜も香りが強かったです。トイレに流れるソウルを聴きながら、様々な人が奈良町に拘りを持って流入していることを知りました。


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昨日は「ゲストハウス奈良町」に宿泊した事をアップしました。昔の「ユースホステル」のような施設でしたから、何時もの様に銭湯に入って汗を流す事にしました。私には一度は行ってみたい銭湯が三条通リに在るのですが。
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此れは当初行く積りでいた奈良町三条通りの銭湯の「敷島湯」です。
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何しろ「敷島湯」は高い煙突が在るのですぐに判ります。向いの山は春日大社の森です。

宿のオーナーが「花園湯」を推薦しました。「良い湯」です熱心に奨めた事に加えて花園の謂れが「元興寺」の花園の在った場所だというので、何かご利益がありそうな気がして云われた儘に花園湯に向かいました。
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花園湯は伊勢街道の奈良漬け茶屋「馬酔木の郷」の近くに在ります。
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花園温泉はビルの1階でした。
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番台の女将さんに鵬程代金20円を払うと黙って20円を返却してくれました。相当私は疲れて見えたようです。タイル張りの湯船は綺麗に掃除が行き届いていました。他のお客さんと世間話に興じて風呂から出ると貰った20円に百円を足して冷たい牛乳を飲み生き返った気持ちになれまあした。
お風呂から出ると後は夕飯です。「馬酔木の郷で」で奈良漬けと鱸の西京漬けで夕飯なんて最高です。私は伊勢街道を「真っ直ぐ北「もち井戸商店街」に向かいました。

旅行の楽しみの一つに旅館が在ります。貧乏老人の私ですから、リッチな旅館やホテルに泊まる訳には行きません。必然的にコスパが重視されます最近は民宿から「町屋」を選択する事が増えました。町屋の良い所は沢山ありますが、重要な順に列挙すると以下の通りです。
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此れは矢田寺参道に在る大和棟の民家です。こんな美しい町屋を観ると泊まってみたくなります。
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此方は奈良駅に近い三条通りに面した町屋です。近世までは商家であったと思います。切妻(側面)が一番美しいのですが正面は平妻側(手前)です。
1、町屋の建物自体に美的価値がある。
2、地域の文化を知る機会が在る。文化とは食文化を始め祭祀文化や説話等多岐に渡ります。
3、町屋のオーナーはじめ同じ旅行者同士の情報交換が出来る。
こんな意味で最近は京都でも町屋にステイしました。昨年春の奈良旅行では笠置の町屋に泊まり、茶畑作りの苦労話を聞きました。昨秋は塩の道を旅して糸魚川の町屋に泊まりました。
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今回宿泊した「ゲストハウス奈良町」奈良町は古代元興寺の境内地で近世は「初瀬から伊勢に続く街道に面していました。「油屋」や「漢方薬屋」や「蚊帳屋」等が軒を連ねています。宿のオーナーの話では油屋を改築して宿泊施設にしたそうです。
今回の旅行に際して何処に泊まろうか?考えた挙句に奈良町に在る「ゲストハウス奈良町http://nara-naramachi.com/」に泊まる事にしました。ワイフは心配して奈良駅前のシティーホテルにするよう言います。ゲストハウス奈良町がドミトリー形式である事が心配なようです。ドミトリー形式は昔のユースホステルの様なモノで、大部屋に見ず知らずの人と一緒に泊まる方式です。一部屋にベットつも在って、「二段ベッドの上になったら大丈夫?」「落っこちたらお陀仏よ!」云わんばかりで、「何ならビジネスホテルに泊まって・・・!」云います。
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此れは奈良博の向かいに在った日吉館です。惜しまれて1999年廃業してしまいました。会津八一が愛し「奈良学」と呼ばれる学者の定宿でした。写真出典は「日吉館/https://search.yahoo.co.jp/image/search?rkf=2&ei=UTF-8&gdr=1&p=%E6%97%A5%E5%90%89%E9%A4%A8+%E5%A5%88%E8%89%AF
私は「学生時代世話になった日吉館の匂いが期待できそうだし、地理的にもゲストハウス奈良町に泊まりたい!」云えばワイフは不承不承認めてくれました。と云うのは日吉館は奈良市登大路町に存在した元祖町屋旅館でした。大正時代の1914年に「田村キヨノ」さんが創業。休業期間をはさんで1995年まで約80年間営業し、その間奈良を訪れる学者や学生、文化人らに愛用されました。また、奈良が好きな人なんて元来貧乏学者や学生が多いモノ、向かいの奈良ホテルに泊まりたくても泊まれるわけありません。日吉館では女将のキヨノさんの命じるままに布団の上げ下ろしや食事の手伝いをしなければなりません。夜は大広間に布団を敷いて雑魚寝です。お客同士は「同好の士」ばかりですから、話は弾みます。「今日は何処に詣でたか?」「明日は何処に行く積りか?」話せば道を教えてくれるばかりか仏像や建築など見所や茶屋も教えてくれました。第一日吉館の看板は会津八一氏の筆でした。看板を潜って泊まる事は「自分の好奇心が正道であり激励されているような気になれました。名物女将のキヨノさんは屹度昔は美人だったのでしょう。若しかして会津八一氏の「好き人」であったりして?妄想したりしたものでした。
郡山から「石切り」更に卒川神社(奈良駅前三条通り、を経てゲストハウス奈良町に向かいました。居所は『奈良市北京終町30』でHPで確認すれば桜井線の京終駅から高円山に向けて歩いて4分で着く事になっています。私はJR奈良駅から歩く事にしました。心配になったので通り過ぎの高校生に訊きました。『京終』と書いて「きょうばて」と読むのは初めて知りました。そう言われてみると1週間前『平城京にも10条通りが在った』と云ったニュースが流れました。従来平城京は南北9街区で最南端が9条通りと思われてきたのです。「平城京の果て」の意味で「京果て」なのか思いました。
実は『京終』の地名の謂れをゲストハウス奈良町のオーナーに訊いたと処、次の様に訂正されました。「平城京の果ての意味ではあるが『京終』は平城京の中で一番南の外れの意味で、平城京の外の意味ではありません!」
ゲストハウス奈良町に到着するのにに1時間近く歩いてしまいました。でも好きな奈良町ですから幾ら歩いても苦痛になりません。「今晩は何処で何を食べようか?」「どの銭湯に行こうか?」キョロキョロ街を見回しながら歩きました。何のことは無い奈良町通りに面して、高円山や奈良教育大学に向かう大通りの交差点の先にゲストハウス奈良町が在りました。市内循環バスのバス停近くで便利な場所です。日吉館に劣らない交通至便な場所です。
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早朝の「ゲストハウス奈良町」自転車は宿の施設です。玄関先の「猿ボボ」は奈良町庚申堂のシンボルです。右側の細道は近世の「伊勢道」で桜井迄続き桜井で北上して長谷から室生を経て伊勢に続きます。)この細道の東に古代の街道『山の辺の道」が在って、西側に国道が平行に走っています。
民泊法が施行されて、元祖民泊は日吉館です。日吉館の面影を残している民泊施設を探すには・・・。ネットで調べた挙句に、辿り着いたのが奈良町にある「ゲストハウス奈良町」でした。
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ゲストハウス奈良町のある交差点は南北の通りが「伊勢道」で東西の通りは「奈良駅から高円山に向か産み地です。山側の交差点に奈良教育大が在ります。
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ゲストハウス奈良町の居間は奈良の観光ガイドの他に沢山のキャラクターの絵が貼られています。これは外国人旅行家に好評のようです。
オーナーは60代の夫婦でした。愛想よく迎えてくれた夫婦に
「日吉館の香りを懐かしんで来ました」
挨拶すると感動した風に答えてくれました。
『私達がこの町屋で民泊を始めた目標は”今日吉館」”す。』
私は大凡ホームページで理解してきましたので、わかっている積りでしたが念の為「2段ベッドの下に」して貰いました。
「シャワーはあり枡がこの辺りは銭湯がお奨めです。一番近いのは『花園湯』です。元興寺の花畑の場所に出来た銭湯なので「花園湯:です。食事はその辻に在る「お好み焼き」がお勧めです。向かいがコンビニですからコンビニで買って居間で食べられても結構です。
向いには学生風の米国人がトースターで(マフィン)を焼いてレタスとチーズとソーセージを挟んで牛乳で夕食しています。
居間のテーブルの上には学生ノートが置かれています「自由に書いて良いようです。棚には既に書き終えたノートが6冊あります。現在のノートが7冊目で最初のノートは2010年でした。読ませて貰うと外国人の書き込みが多いようです。全部英語で書かれているのかと思うとローマ字で日本語で綴られているものもありました。外国人旅行家は日本語にも関心が高いものの仮名や漢字が書けないのでローマ字を駆使しているのでしょう。
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此れが「ゲストノート」と書かれた自由書きノートです。
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自由書きノートは2010年に始まったようです。
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中国人旅行家は奈良に来て、自国の文化に確信を持つのでしょうか?
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居間は2部屋在って、手前は観光雑誌やパンフが閲覧できます。奥の部屋は食事や喫茶が出来ます。
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朝シャン化粧台が2基奥にシャワールームが在ります。
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トイレは2か所ありますが此方は清潔な洋風トイレです。
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最大の問題点は二段ベッドです。寝台車風のベッドが6畳間に2基在って4人が泊まれる仕組みです。和室もあるので、和室に布団を敷けばユッタリ出来そうです。
「ゲストハウス奈良町」は私にとっては嬉しい施設でした。奈良の町屋が朽ちてしまうのは悲しい事です。宿泊施設として改装して活かすことは住民にとっても伝統民家にとっても歓迎すべき事です。宿にリュックを置いて、銭湯を使いに、夕飯を食べに伊勢道を北上しました。三日月が町屋の甍の上に上って私を追いかけてくれました。小さなお寺の庭は駐車場になっています。門前には「中将姫誕生地」の碑が立っています。奈良町は石ころ一つにも歴史と謂れがが在りそうな街です。




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