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街中に「凌霄花/のうぜんかずら」が目立つ季節になりました。この花が咲き出すと「施餓鬼会」が真近に迫ったと思います。というのは私の生家にも一株凌霄花があるのです。今年も咲きました。
此れは私の生家の盛徳寺の庭に今年も咲いた凌霄花です。因みに背後にある大きな壺は野壺と云われる「肥溜め」用の信楽焼きです。黄泉の母も本堂の前に肥溜め壺を置くなんて…苦笑いしているでしょう。
私が未だ10歳の頃、母が鎌倉の友人に戴いた云いながら一株の凌霄花を本堂と庫裏の間の中庭に植えました。デモ、棚は作れず、裏山から採って来た竹を5本程組んで絡ませました。凌霄花の生育は目覚ましく竹から隣の木斛の樹にも絡みました。木斛は見る見る痩せ衰えてしまいました。でも、盆や施餓鬼の参詣客は見事に咲いた、凌霄花を誉めてくれました。鮮やかな凌霄花は青空を背に見上げると綺麗です。私はぼんやり凌霄花を見上げていると母は注意しました。「凌霄花には毒があるから気を付けなさい!花の滴が眼に入ると失明しますよ!」私は子供心にそんなに恐ろしい花を好んで庭に植える母の心を疑いました。施餓鬼会に連れられて来た子供は凌霄花の落花を拾って遊んでいました。私は子供に注意しました「綺麗な花を触った手で眼を擦ってはいけないよ!綺麗だからこそ毒があるんだよ!隣の木斛の樹は枯れそうでしょう。この花の毒に負けているんだよ・・・・。」
ワイフが女子会を鎌倉駅前の三代川で開くと云います。お仲間は私達の結婚式にも来て下さった方々です。私は徒歩圏に妙本寺があって、凌霄花が見事だから行くように…奨めて置きました。
此れは2017年4月の住職(玄晶師)の教えです。この栞を用意された直後に亡くなられました。
帰って来たワイフは報告します。『凌霄花は未だ蕾でした。それより「住職の栞」止めたみたい、「山務員の一言」が代わって置かれていたわ・・』云いながら1枚のプリントを渡しました。想い起せば昨年の4月私は海棠の花を観に妙本寺に上ると総門に「山門不幸」の案内が建っていました。
妙本寺は「聖蹟寺院」で本山並の格式があるのです。聖蹟寺院の住職は世襲出来る訳ではなく、鎌倉中の日蓮宗寺院の住職の中で見識の高い人がなれるのでしょう。結果的には長老から長老に引き継がれ度々「山門不幸」に見舞われてしまいます。偶々文のたつお坊さんが参詣客に随筆を書き仏心を喚起されていたのが、後任の住職は嫌がったので誰かがお寺の雑事を取り仕切る「山務員」として書き始めたようです。
二天門左の凌霄花この葛は桜の大樹の根元に植えられていたのですが、桜を殺して鮮やかに咲き続けています。今では枯れた桜の大樹も腐ってしまいました。
二天門左側の広目天像この像の背後に桜を枯らした凌霄花が咲いています。
二天門右側の持石天像この像の背後凌霄花が咲いていてそのまた背後に一幡の墓が在ります。
凌霄花の向こうに見えるのは二天門の梁を隠す木鼻と呼ばれる象の彫刻です。
二天門を潜ろうとするとその左右に凌霄花が咲いています。左の凌霄花は桜の大樹の根元に植えられていた苗です。今では桜の樹は枯れて腐ってしまいました。右側の凌霄花と同じくしっかりした棚を作ってあげないとならないようです。
一方右側の凌霄花は一幡さんの墓の前に在ります。「一幡」とは鎌倉幕府第2代征夷大将軍、源頼家の嫡男。母は比企能員の娘若狭局です。本来なら将軍になるべき育ちでしたが、北条一族の姦策にあい、母の比企一族共に建仁3年9月2日(1203年10月8日)此処で亡くなったのでした。一幡にとっては父方叔母の北条政子は毒のある存在だったのでしょう。
凌霄花に見惚れていると鎌倉の三姉妹風の女性が二天門を潜って来ました。三人とも藍染の浴衣を着ています。一人は昔ながらの「麻模様」で一人は「江戸小紋風」です。静かな境内が急に賑やかになりました。休日カメラマンの一人が挨拶に行きます「写させて下さい・・・」話が通ったようです。皆許可されたように写しはじめました。雷同し易いのが私の特長です。シャッター音の大きいのが気が引けましたが望遠で写させて貰いました。そう7月9日(月)は鎌倉大町の氏神様(八雲神社の夏の例大祭なのです。八雲神社を詣でる前に妙本寺の凌霄花を観に登って来たようです。
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2018年07月10日
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向いが江向家じゅうたくで手前右が佐々木家住宅です。佐々木家住宅の前庭と縁側と座敷を使って七夕の笹飾りを実演します。朝10時に真竹を伐って庭先で飾り付けをします。
佐々木家住宅の座敷と縁側を使って笹飾りで使う短冊等を用意します。短冊等の飾り付けは11時半からでした。
笹飾りのお手本は「江戸名所図会/歌川広重」の七夕です。図中に「千両箱」「鯛」「算盤」「大福帳」等庶民の願い事が笹に吊るされています。屹度品川沖の光景でしょうか?
7月7日(土曜日)には友人のH君が慶応大学日吉キャンバスの日文研セミナーで午後2時半からレポートする事になっていました。私は朝食を終えると,真っ直ぐ向ヶ丘遊園にある、日本民家園に向かいました。7月7日午前11時から佐々木家住宅で七夕飾りを実施する事になっていたのです。佐々木家住宅は縁側が大きく庭も広いので様々な催しが実施されます。今年の正月には「獅子舞」や「南京玉すだれ」の実演が実施されました。折々の節目には内裏で「節会行事(宮中)」が実施されてきましたが、江戸時代には幕府が「節句行事(民間江戸幕府を推奨しました。5節句を決め、節句には体を休めて節句料理を食べるように推奨したのでした。侍も節句は休日にしたので農民や町民も休日にして季節の変わり目を遣り過したのでした。川崎民家園は民家と云ったハードを展示するだけでなく、祭りや節句行事を実演してくれるのです。5節句と云えば「人日の節句」1月7日/七草粥を食す」「上巳(じょうし)の節句/3月3日/菱餅を食す」「端午の節句/5月5日/柏餅やチマキを食す」「七夕の節句/7月7日/ソーメンを食す」と「重陽(ちょうよう)の節句/菊酒を飲む」です。民家園では何れの節句行事も実演しています。私はその都度民家園に出かけます。 私は母や祖母の生活を観ていて気付きました、不断に良く働いていましたから、適当な間隔で身体を休めるのが「節句」であろうと。江戸幕府もせめて奇数月のゾロ目の日は体を厭って休む様に命じたのでしょう。そんな5節句の中でも重労働だった「田植えを終えた七夕の節句には休息日にするように命じたのでしょう。七夕の節句の後に最も暑い季節がやってきます。
朝9時生田緑地の管理棟に入る、民家園のオープンは9時半で七夕飾りを始めるのは11時半だと云います。9時半民家園の開園を待って佐々木家住宅に着くと大勢のボランティアが真竹を伐り出し笹飾りの準備をしていました。
7月8日平塚駅に貼られた七夕のポスター。
主通りの紅谷ロードは大変な混雑でした。6日7日の天気がイマイチでしたので、8日に大挙人出になったようでした。
7月8日には「平塚の七夕」を観に出かけました。昔は笹飾りは皆和紙で出来ていました。唱歌で歌われるように和紙の飾り物が風に揺られて”サラ・サラ”鳴っていました。今は吹き流しも短冊も和紙ではなくプラスチックで使う道具も筆に墨ではなくマジックインキです。サラサラは昔の音で今はガサガサで風流は微塵も感じません。それでも150万人の人出だそうです。
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