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西日本豪雨は大きな爪痕を残して去りました。想い起せば一昨年は東広島市の郊外住宅地に土砂崩れを起し、昨年は筑後川流域に大水害を引き起こしました何れも梅雨前線が停滞して台風が刺激して長時間に渡る雨が引き起こした水害でした。昔の水害は台風によって引き起こされた水害でしたが、最近は梅雨明け近くに起る水害が頻発します。「昔はこんな水害は無かった!」「何処かに原因が在るのではないか?」思います。「最近は棚田がメンテナンスされていないのです。」
7月10日の新聞西日本豪雨の被害が甚大であった事を報じています。
ソモソモ、稲作は越後平野や庄内平野の様な沖積平野で始まったモノではなく、明日香や伏見の様な丘陵地と平野の境目の扇状地に始まったモノです。奈良でいえば、箸墓遺跡のある山野辺辺りで稲作が始まり、唐古遺跡((弥生遺跡)のある盆地中央部に稲作は発展して行ったたと思うのです。「吉野ヶ里遺跡」も「姥捨て遺跡」も扇状地で、遺跡からは棚田も発掘されています。飛鳥の南淵請安の墓の前に立って棚田を観ると、帰化人だった南淵請安が村民を導いて棚田を開墾した姿を思い浮べます。棚田は先ず扇状地の等高線に沿って自然石を積み上げ(野面積と云います)方形の田圃を作り、稲を植えたのでしょう。小さな方形の田圃が魚の鱗の様に重なった姿が土砂崩れも防ぐし、一番堅固だったのです。縄文末期の田圃は何れも扇状地に在って棚田でした。実は扇状地のお米は一番美味しいののです。佐久平の五郎兵衛新田のお米が美味しいのは蓼科山の扇状地に在るからです。能登の白米千枚田も地滑り地が海に落ち込んだ傾斜地です。ジャポニカ米と云う日本のお米は酸性土壌よりも、火山灰土(アルカリ)が適して居るのです。
此れは姥捨ての棚田です、此処には明科遺跡が在って縄文の棚田を確認する事が出来ます。
此方は飛鳥の棚田です。石舞台古墳から多武峰に至る道は日本の原点美しい棚田の道を辿る道です。帰化人で大化の改新をリードした南淵請安は棚田開墾の指導者だったと思います。
安部内閣は災害が起こるたびに「国土強靱化政策」を主張し、日本の沿岸や堤防をコンクリートで固めようとします。歓迎するのはゼネコンだけで、多くの人は皮膚感覚で間違いを感じています。そう言う筆者もその一人で、二宮尊徳の「酒匂川堤防」や信玄の「信玄堤」を想い出します。どちらも鉄筋コンクリートの無かった時代です。川原石を竹や麻縄で囲って堤防に築きました。私は博多勤務時代「筑後川」も「杵築」も治水を石を積んで行ったのでその名が残った…、と確信しました。
というのは築後川の水源の朝倉の山間地には美しい棚田が広がっているのです。筑後川の上流は棚田で中流の田主丸は沖積平野ですから水を引くために「三連水車」を建築しました。「棚田」に「水車」、先人の治水にかけた情熱や知恵に満ちているのです。『コンクリートで川の岸辺を固めてしまえ』と云った発想は在りませんでした。そんな乱暴な発想は若しも龍神と云う名の神が居たら激怒されるでしょう。何しろ龍神のお使いが蛇ですから、蛇が棲息できない環境(コンクリート護岸)は駄目で、蛇が生息できる石積みが神の好なのです。吉野(水分神社)や室生(龍神)や宇治(三室戸寺)の水源は何処も水源の神が祀られて何れもで蛇が神使です。蛇は稲作の神使なのです。蛇も山椒魚も鯰も棲息する棚田こそ生物多様性の揺り籠であります。コンクリートで固めてしまえば生物多様性は損なわれてしまいます。
7月10日の読売新聞の広島県山間部の土石流写真。丘陵の谷間に植林されていた針葉樹が水を含んだ土を持ち応えず土石流となって谷戸を流れ落ちて扇状地の村落を急襲したのが解ります。植林と棚田のメンテをシッカリ行わないとこうした惨劇がが繰り返されます。
自然災害が起こるたびに繰り返されます。「想定外の降水量だった!」そして日本中をコンクリートで固めてしまう様な予算を通します。コンクリートは災害を一層甚大にするだけで、災害の未然防止になりません。私達の祖先は地震対策として「柔構造」の建築物を開発しました。薬師寺の三重塔は地震の揺れを吸収するように設計されています。石積みの「野面積」も同じ柔構造です。石と石の隙間を意識して用意し、隙間に小石を鋏みます。その結果隙間から水が浸み出すし、一気に崩壊するような事を未然に防止します。コンクリート擁壁は往々にして一気に崩壊するので被害は甚大になります。御母衣ダムの巨大な壁面は棚田の技術です。
此れは富山城の石垣です。大小様々な石を積み上げていますが石と石の隙間を作って小石を鋏んでいます。この結果水抜きも出来、地震などで一気に崩壊する事を防ぎます。棚田で培った野面積の技法を城郭建築に活かしたのが近江坂本の穴太衆でした。
昭和の国政の大間違いは「農村や農民を軽視した事でした。日本の伝統思想(本流)は農本思想です。農業や農民を国政の重心に置く考えです。西郷隆盛も上杉鷹山も水戸光圀も皆重農主義者でした。水戸の偕楽園を観る為の池では無くて「灌漑池」でありました。お殿様の池が遊びの場では無くて灌漑池でした。ところが日本の近代は農本主義を捨てて重商主義に走る事でスタートしました。安部内閣は重商主義者です。工業を農業に優先させ、工場立地の為には田圃を埋め立てさせ、地方の若者を工場労働者に導きました。結果農村は荒廃し都市は繁栄しました。「度重なる豪雨災害は自然の神の警告のように感じるのです。”国土をこれ以上荒廃させることは許さない”神の怒りが大洪水になっていると感じるのです。日本の国はソロソロ、重商主義の行き過ぎを改め「国家の礎は農業に在り」「日本の食も文化も稲作を基礎にしている」見直す時期に来ている様に思うのです。日本の国が農業を軽視する限り中国野菜や外国産穀物に依存せざるを得ず、安心して美味しい食事が出来ないからです。前にも書きましたが、中国の重金属で汚染され、農薬詰めの土壌で育った野菜は食べたくないのです。美しくも豊穣な農地で育った青物野菜をサラダで食べたいのです。今中国人が北海道の農地を買い漁っているのは、中国沿海部の農村で栽培された野菜を中国人は食べないからです。北海道産の野菜なら価格に依らずに中国のハイソは購入するので、『農業公司/北海道』を設立しようとしているのです。
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