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私は長銀の銀行員時代の専門分野は不動産ゼネコンでした。本店の融資営業部は業種別になっていました、不動産ゼネコンは営業第五部で、同部の次長(課長」として働いていました。偶々長銀直系の不動産会社もありましたので、直系不動産会社の仕入れから販売まで監理する事が命じられていました。70年代は多摩田園都市開発が盛んな時期でしたので、多摩丘陵の宅地用地の仕入れ案件が多数寄せられ、その都度実査に赴きました。実査に際しての常套文句が「此処の遺跡調査は如何なっているの?」でした。何しろ多摩丘陵は遺跡が多いのでした。当時の宅地用地の仕入れに際しては「市街化調整区域なら遺跡」「工場跡地なら、地中に有害重金属等が埋もれていないか地質調査」「郊外地なら活断層の有無の調査」が必須でした。
近時私は寝ても覚めても縄文土器ですので、銀行員時代を想い出して町田市博物館と隣接する遺跡公園に出かけました。前々から一度ゆっくり見学したいと思っていたのでしたが博物館の工事や展示の入れ替えで、ようやく8月3日(土)に行けました。当日は多摩川花火大会が催されていたようで、小田急線は浴衣姿のお嬢さんが目立ちました。小田急沿線は「江の島花火大会8/21日」や「相模川花火大会8/25日」等多いのですが、人気は多摩川のようです。。屹度お嬢さんたちは花火を観て下北沢や登戸のこ洒落たレストイランで遊びたいのでしょう。私はお嬢さんの襟首に眼を遣りながら「火遊びは気を付けなさいよ」呟いてしまいます。爺さんの心配性です。
町田駅西口から鶴川行のバスに乗って10分ほどで「町田市博物館前」に着きました。バス停から博物館までは400m弥生町団地の坂道を登り切った丘陵の頂点に遺跡公園と博物館が在りました。遺跡公園から西を観れば藤の台団地東を観れば玉川学園の森です。あの森についても大林組経由で宅地開発計画が持ち込まれた事がありました。藤の台団地の北には鶴川団地でその北には百合ヶ丘、百合丘でも丘陵一つ開発する計画が持ち込まれました。
何れもキナ臭い案件でしたが用地の取得を見送った公式理由は「遺跡」でした。誰が観ても多摩丘陵は縄文人の棲家の様に見えました。若しも開発途上で「遺跡跡」が発見されたら開発は塩漬けでしたから、「遺跡の懸念」は宅地用地購入停止の十分な理由でした。
午前10時強い日差しを浴びながら高砂百合の咲き出した弥生団地のメイン通りを登って遺跡公園に着きました。
博物館前のバス停を降りて西側弥生団地の坂道を登り切った丘の上に「遺跡公園」と町田市博物館が在ります。手前の白いユリは「高砂百合」でこの花が咲けば旧盆です。
これが遺跡公園内の復元竪穴住居です。
竪穴住居のの内部。
遺跡公園には2棟の竪穴住居が復元されていました。室内に入れば中央に囲炉裏の跡が掘られています。。土と藁や萱の醗酵する匂いがします。意外に涼しいのに驚きました。解説には竪穴住居の復元には栗の樹の柱を4本用意した事、栗の樹は二股のモノを選んで二股に横木(梁)を挟んで構造材にした事等案内されていました。先日書いた空也上人の鹿杖です。(山の民をマタギと呼んだ根拠です)
天井からハンモック状に吊り下げられた簀子が在りました。この簀子は食物を乾燥させる場所なのか寝所なのか解りません。でも此処なら蚊に食われる事も少ないし、夏涼しいので眠るには最高だったでしょう。
町田市博物館に入るなり、最高の縄文土器に遇いました。先ずは写真を観て下さい。
此れが町田市博物館の目玉蟹型鍋です。素材の粘土は関東ロームと呼ばれる火山灰土です。
屹度町田市博物館の自慢の一品なのでしょう。博物館に入って直ぐ、正面のショーケースに発掘時の写真と共に展示されていました。説明では縄文中期になっていますから昨日書いた火炎土器と同じ時期になります。関東ロームの赤い粘土を素材に薄手に造形されています。宮本常一氏の説明では薄手の土器は窯で焼いたのではなくて、日干ししたうえで藁や萱で包んだうえで蒸し焼きすると高熱で焼いたのと同じ効果が在るのだそうです。
近年考古学の進歩は著しくその原因の一つが稲のDNAに関するゲノム解析であったり、炭素やガラス質の解析による土器の作成時期の化学分析ですが、日中共同研究など国際協力体制も挙げられます。
特に日本の稲のルーツを研究における日中共同調査の成果は目覚ましく、今では日本の稲のルーツは長江下流域の野生種である事は自明の事になりました。
具体的には浙江省河姆渡遺跡 の日中共同調査がこれに当ります。どちらかと云えば日本の考古学者が中国の地道な遺跡調査の成果を戴いて、”我国稲のルーツも水田耕作の技術(具体的には直播きせずに田植えをする)も河姆渡遺跡等浙江省から伝わったモノだとしています。浙江省と云えば何といっても「上海蟹」です。こうして町田市の遺跡で発掘された「縄文土器」を観ていると『この器で上海蟹を茹でたら美味しかろう』と思ったりします。
此れが浙江省の名産「上海蟹/藻屑蟹」です。
此れが我国稲作のルーツと云われる揚子江河口部に在った「河姆渡/かぼと遺跡」から出土した7千年前の土器です。 右下の土器は糯米を蒸した「こしき」であったと思います。
祖先は屹度この蟹の格好をした鍋もそんな技術を駆使して焼き上げたモノでしょう。正面から見ると蟹の日二つの眼と口が可愛いです。爪や足は邪魔ですから在りません。唯取っ手は左右についています。我家の土鍋と機能的には同じですが、圧倒的なのはデザインの妙です。この蟹は屹度「渡り蟹」か「藻屑蟹でしょう。渡り蟹なら縄文海進によって多摩丘陵でも食べられたでしょうし。藻屑蟹なら今も境川やっ鶴見川で採取出来るでしょう。
縄文家族が「今日は蟹が獲れたぞ!」言いながら、この土鍋で縄文蟹鍬をしている光景が目に浮かびます。態々蟹を意匠したのは今後とも蟹が収穫できるように祈ったのでしょう。国立博物館の縄文展でも縄文後期には猪の土偶が目立ちました。どれも収穫呪術です。私達が山芋を掘った後、その蔓を挿し木して帰るのに似ています。次回も収穫の幸運に巡り合えるよう願う呪術です。
町田博物館の資料を閲覧していると町田では「ストンサークル(環状列石)も発掘されたそうです。秋になったらストンサークルを観に出かける事にしましょう。博物館では土器の破片や石器を手にする事も出来ました。
先日国立博物館の縄文展では我国でこうした蟹の土鍋を作っていた頃エジプトやペルシャで作られていた土器が展示されていました。日本の土器は赤土(鉄分の多い火山灰)の土壌(泥)が素材でした。他方エジプトやペルシャの土器は砂漠の砂を大河が運んできて置いていった沖積地の粘土でしたからガラス質(石英)が多いのでした。そんな風土の違いは米と麦の違いと同じく土器の違いにも現われています。
勿論私はワインを醸造した甕よりも蟹鍬の土鍋の方が美しいと確信しています。
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