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湘南ウォーキング

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大船駅東口の駅前にファーストキッチンがあります。お隣がマックですから、何れ撤退するだろうと思って観ていました。処がフィーストキッチンは善戦してマックが撤退してしまいました。マックの撤退した跡は一時浅尾慶一郎氏が選挙事務所にしていましたが前回も落選してしまい、空き家の儘です。マック以来同ビルには貧乏神が居座っているようです。
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これは大船駅前東口にあるファーストキッチンです。この店は鎌倉女子大の生徒さんが多く、ギャルが多く居るので何時も華やいでいます。手前にマックが入居していたビルがありました。大船駅前の激戦地でファーストキッチンは善戦しています。JRの駅中には神戸屋キッチンやモリバコーヒーやアフタヌーンティー等がきしめいているのです。ファーストキッチンの前身はダイエー系の「ドム・ドム」でしたがダイエーの破綻で米系の「ウェンディ―」の資本を受けています。でも味付けは「ドム・ドム」時代の儘日本人好みです。
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ファーストキッチン大船店の店頭ポスター
2月3日、私は片瀬の龍口寺の節分会に向かいました。湘南モノレール江ノ島駅から江の島道を歩いてランチのお店を探しながら歩いて行くと何処も彼処も「シラス丼」を商っていました。千円前後が相場のようです。シラス丼よりもシラスの天麩羅を食べたいと思っていたのですが見当たりません。蕎麦屋が意外に無いのです。探し探し歩いている中に到頭江の島橋に着いてしまいました。橋の片瀬側の付け根にファーストキッチンがあります。昔から在るお店です。橋の向こう側にはマックがあります。片瀬でもファーストキッチンはマックと真っ向対立して来たのです。マックは業界一位ファーストキッチンは4位です。何れファーストキッチンは撤退するのだろう思っていたのでしたが、どうも混んでいて人気があるようです。少し歩き疲れたし私達はファ-ストキッチンに入りました。
店内は混雑しています。サーファーを描いた油絵が湘南の雰囲気を満載させています。私はポスターの「石焼パン+シチュー」にしました。何のことは無い箱根宮の下の人気店「渡辺ベーカリー」のパンシチューと同じです。半球状の石焼パンの頭を刳り貫いて出来た穴にシチューを流し込んで戴くのです。シチューには「ビーフ」「クリーム」「海老」の3つがありましたが私は「海老シチュー」を選びました。
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ファーストキッチン片瀬店のポスター。私が食べたのは右端のシチューパンです。
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手前が私の食べた海老シチューパンです。海老ハンバーガーはワイフのオーダーです。
私の向いの席には片瀬山辺りの住人でしょう。お婆さんが、孫家族と食事中です。
私達の友人も片瀬山にお住いです。都心のマンションを売却して潮風が吹き、魚の美味い片瀬に転居したのです。”如何しているかな?”気になります。
食事も終えたので江の島を眺めながら片瀬を散歩しました。方瀬川の橋を渡れば、小田急江ノ島線の終点「江ノ島駅」です。竜宮城を想わせる駅舎デザインです。昔この駅前広場にたむろしていた「暴走族」が社会問題になっていました。取材していた記者が暴走族の集団リンチを受けた事件が発生しました。
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江の島橋の東側に江ノ電「江ノ島駅」がって片瀬川の西側に小田急「江の島駅」があります。60年代駅前広場が暴走族の溜まり場でした。
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此れはハワイ系のハンバーガーショップ「クアイナ」です。私が入院する前まではマックのお店で女学生で一杯でした。
目の前を歩いていた坊屋がトンビに襲われて、手にしていたフライドポテトを落してしまいました。トンビは一斉に集まってポテトを貪り食っています。私は集団リンチ事件を想い出しました。
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江の島橋で坊屋の持っていたフライドポテトを奪って食べるトンビ向こうから渡って来たお嬢さんもびっくりしてスマホを構えました。観光案内所の向いがファーストキッチンです。
江の島橋の西袂にはマックがありました。処が何時しかマックは無くなりハワイ系のハンバーガー店に変ってしまっています。
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これは「クアイナ」のメニューです。ハワイ系と云えども日本人の胃袋にには高カロリーであるしボリュームも過大です。ファーストキッチンの敵ではないでしょう。それに価格設定も女学生のお小遣いを越えています。
大船駅東口と同じく「ファーストキッチン」は「マック」と橋の東西でガチンコ勝負して、勝利したのでしょう。片瀬も暴走族には魅力の無い、三世代家族好みの街に代わって来たのでしょう。マックは賞味期限問題やチキン問題などで逆風が吹いたので撤退を余儀なくされたのかもしれませんが、何よりもマックのハンバーガーは健康上の疑問を呈せられた事が痛手でした。親子三世代が安心して食べられるといった視点ではファーストキッチンが勝っています。
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東浜から見た江の島江の島神社の楼門が見えます。こうして見ると江の島タワーのデザインの不細工が気になります。 江の島は龍の出現した聖地なのですから、楼門の意匠とマッチした中国風の塔にしてほしかったと思います。
ソロソロ午後1時龍口寺の水垢離行の始る時刻です。私達は遠回りして南から龍口寺山門を目指して歩き始めました。
南から入ると龍口寺は美しく観られるのです。



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龍口寺大書院の威容

『2月3日の節分会は、何処に行こうか?』迷った挙句久々に片瀬の龍口寺に向かいました。午後1時から水行があって、豆撒きは午後3時に始まります。1時間余り時間を持て余したので、山門前の上州屋に行き、「法難牡丹餅」を求め、境内のベンチに腰かけてお茶にしました。「厄除け牡丹餅」を戴き、豆撒きのお豆を拾って食べれば、今年の厄除けはもう万全です。
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日蓮宗の聖跡寺院龍口寺で営まれる節分会の水行
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これは瀧の口の法難の故事を伝える牡丹餅です。故事は「胡麻牡丹餅」ですが、この日上州屋は小豆牡丹餅だけを商っていました。手抜きをしていると道路向かいの「江ノ電最中」さんに水を開けられてしまいます。
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此れは龍口寺の境内、石段を登った処に「恵方巻」を商っていました。
私の目の前では地元の料理屋さんが出店して、「恵方巻」を販売しています。
恵方巻の出店の背後には、お城の様な書院が見えます。
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龍口寺書院の玄関。三重の破風はお城の様な威圧感があります。
私はこの建物が好きで以前住職に訊いた事があります。答えは昭和初年に信州上田の養蚕で成功した富豪が寄付した建物だそうです。今日はお寺の世話人も多く居られます。そこで年長者に訊いてみました。
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これは水戸藩の藩校「弘道館」です。龍口寺大書院は藩校又は藩邸を想わせる風格です。
「この大書院の威容には何時も感心しています。以前住職に上田の養蚕実業家の寄付に依るモノだ」聞きましたが。お城のような建物です。細部の意匠は花頭窓等寺院建築の意匠が観られますが躯体自体は城郭建築の様に見えますが、何かハッキリした事は解っているのですか?」
「松代藩の藩邸であったものが、昭和の初め上田の実業家を経て、龍口寺に書院として移築されたのです。何れ改修等を行えば判明するのですが・・・」
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大書院の玄関を入ると長い廊下を経てコンクリート作りの新書院に繋がります。
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長押も鴨居も長さも1間(1.8、m)×4×4=16間(30m弱)になります継ぎ目の無い豪華な建物です。木製の建具も、古い硝子も今では貴重です。
江戸から明治にかけて各藩の藩邸はは自然消滅したのでしょうが、信州の人はモノを大切にします。松代藩の中屋敷は現在佐久に残されているそうです。http://www.sanken-intl.co.jp/arcive_sanada/contents/column/edoyashiki/edoyashiki.html
ですから、此処龍口寺の松代藩の藩邸が龍口寺の大書院として活用されていても不思議ではありません。
いずれにしても解体修理してみれば判明する事ですし。耐震工事をする必要もありそうに見えます。龍口寺大書院の歴史が判明するのが楽しみです。



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2018/1/19(金) 午前 8:26 脳梗塞闘病記(文化への憧憬) 練習用
伊勢の「赤福」と云えば日本を代表する餅菓子です。デザインも優れています。お餅の表面を覆っている漉し餡は波打っています。屹度、五十鈴川の川の流れを表しているのでしょう。福田平八郎氏の日本画を視るような意匠です。

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此れが伊勢名物の赤福です。画像出典「旅ナビhttps://gurutabi.gnavi.co.jp/i/i_3333/
2007年秋には赤福はピンチを招きました。事件は『店頭売れ残り品を包装し直して再出荷する「まき直し」や、消費期限を先延ばしする「先付け」などの食品衛生法違反の偽装』が発覚したのでした。お伊勢様の御膝元の老舗和菓子店のこの不祥事は世間の非難を浴びました。でも今ではそんな事件も忘れ去られて「赤福」は危機を脱したようです。その前には船場の吉兆でも同様の不祥事がありましたし、最近ではマックでもありました。懲りない食品業界です。
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これは片瀬龍口寺の「龍ノ口法難」を記念した餅撒き風景です。本堂の前に吊るされたゴンドラの上から胡麻牡丹餅を投げます。子供の方が断然有利で大人は殆ど拾えません。仕方なく大人は門前の和菓子屋に向かいます。
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此れは竜の口の龍口寺門前にある扇屋さんです。昔は牡丹餅屋さんでしたが昨今は「江ノ電最中」で通っています。
私の生活圏では「赤福」に似た餅菓子があります。その一つが片瀬の龍口寺門前の牡丹餅です。日蓮上人の「龍ノ口法難」に際して、信者が上人に牡丹餅を奉げた故事による牡丹餅ですが。龍口寺の牡丹餅は漉し餡ではなくて黒ゴマをまぶしています。餅拾いは子供が有利で私は健康な時でも拾えませんでした。でもそこは片瀬の商人で門前では「扇屋」が「牡丹餅」を商っています。扇屋さんは昨今は「江ノ電最中」が売れ筋です。江ノ電に乗って極楽寺に行けば御霊神社の門前に「力餅」屋があります。此方は赤福に似た漉し餡です。
此れは坂の下御霊神社の角にある「力餅屋」です。右突き当りが御霊神社で左に行くと極楽寺坂を経て極楽寺に行けます。
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此方が坂の下の「力餅」です。美味しいのですが美しさに欠けます。
扇屋の牡丹餅も坂の下の「力餅」もデザインがイマイチです。でも一つデザインが優れた「漉し餡餅」があります。それは相模一の宮「寒川神社の門前にある「八方餅」です。八方と云うと「八方塞がり」を想って如何なネーミングかと思えば「八方無碍」で「どの方向でも視界良好・上手く行く」のだそうです。お餅の周囲に花弁か火炎の様に渦が巻いているのです。
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1月6日夕刻に寒川神社を詣でました。
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太鼓橋を渡れば寒川神社二の鳥居です。今年は思い切って杖なしで渡りました
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楼門前に手水があります。ズット青森のネブタが楼門を飾っています。ネブタを観るのも寒川神社初詣の楽しみです。
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行は中央の参道を歩くので、楽なのですが帰りは脇道の屋台の間を縫って帰るので難儀です。
「八方餅」を作った人は寒川神社二の鳥居門前のお蕎麦屋さんで、お餅は寒川神社境内を始め駅などで販売されています。
後発ですから先発のお餅を充分に研究したのでしょう。赤福は勿論、龍の口の牡丹餅も、坂の下の力餅も研究し、最も美味しく。見た目も美しいお餅にしたのでしょう。
福の神である「年神様」が悦ばれるお餅は当然に善男善女に喜ばれる筈です。
其処で思い付いたのは栄螺(さざえ)の姿でしょう。燃え盛る炎は穢れや災厄を焼き尽くします。如来の螺髪の姿であり、獅子の毛先です。。竹のヘラをどのように使えばあの姿が出来るのか解りませんが、蕎麦屋の親爺の快心の出来栄えだったことでしょう。
私は。昨年買いそびれたので、参拝前に1箱(1080円12個)を求めました。
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これが「寒川神社」の新名物「八方餅」です。餡が渦巻いています。獅子舞のマントの模様のようです
今月は「田の神様」に惹かれました。柿の木坂の「東光寺」に始まり、クリスマスには池袋水天宮の田の神様を観に行きます。私の生活圏には”大和の「常泉寺」にも良い田の神様が居られる、”思い出して地下鉄、小田急と乗り継いで「高座渋谷駅」に降り立ちました。駅から大山に向いて10分も歩けば曹洞宗寺院の常泉寺です。引地川の河岸段丘にある寺で、地勢的にも泉が湧き出るお寺なのでしょう。この寺には河童と羅漢の石像が沢山あります。此処に河童伝説があったわけでも無さそうなので、屹度ご住職の趣味で河童が祀られているのでしょう。河童と羅漢が遊んでいる場面が多いのは、住職が羅漢で、自然や村人が河童なのかも知れません。
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此方が大和市の常泉寺です。関東花の寺百選に指定されている寺です。今は冬桜、三俣の花芽が膨らんでいました。
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此方は常泉寺の「田の神様」です。九州に多い田の神様ですが、関東は「お茶碗とお杓文字」を持ったスタイルです。
常泉寺さんで何故「河童)を祀っているのか解りません。近くの引地川は中小河川ですから、河童が住みそうな「淀み」はありません。洪水で災害を受けた筑後川の田主丸は河童で有名です。河童は九州では「河太郎」と呼ばれ愛されています。2年前和歌山県橋本の「刈萱堂」で河童のミイラを拝見しましたが吉野川が紀ノ川に名を変える辺りでした。ミイラは「獺/かわうそ」のように見えました。今年の春は伏見の黄桜酒造の「河童博物館」を見学しました。何処でも河童は「大河」と「水清い」イメージがあります。河童の口は「家鴨」か「小天狗」のようですし。甲羅は亀固有のモノです。悪戯が好きな事素早い動きは「猿」のイメージの妖怪です。妖怪と云っても性格が良いし、何処にでも居そうな餓鬼のようなので、愛される妖怪と云えましょう。私は下戸ですから黄桜さんとは余り仲良く無くて「河童巻き」の方が好きです。本来水神になるべきモノが神になり損ねて、子供の儘でいる「大天狗」になれなかった「烏天狗」のような妖怪です。ソモソモ「妖怪」とは神になれなかったモノか神だったモノが落ちぶれたモノのような気がします。その意味では「河童」は日本人に愛された妖怪のトップでしょう。
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此れは伏見の黄桜の「河童博物館です。黄桜酒造の庭にも近くの月桂冠大倉酒蔵の庭にも名泉があって軟水が湧き出しています。美味しい水に清むのが河童なのでしょう。水神の熟れの果て「妖怪」が河童なのかもしれません。
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此れは清水昆さんの描いた黄桜の河童家族。設定は嵐山でしょう。
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常泉寺の境内は花木が多く、樹下には「羅漢」と「河童」の交流する像が所狭しと置かれています。私は羅漢は住職で河童は村民と思っています。ヒガンバナの名所でもあります。
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河童はお相撲が好きです。
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河童は酒好きでもあります。
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河童は勝負好きでもあります。これに加えて「女好き」なら長屋に住んでいる親爺と同じです。河童の傍の「舞孔雀」の札はそのの樹木紫陽花の仲間の品種名です
河童は相撲が好きで酒が好きなので
河童は『酒好き・賭け事好き・相撲好き』です。最近の三面記事と同じです。だから自戒の意味も込めて河童の人気は衰えないのでしょう。昨日は湘南鎌倉総合病院に「胃癌」の定期検診(エコー)に行ってきました。ワイフが「目の検診もしておきなささい」口五月蠅いので、何時もより検診の時間が罹ってしまいました。送迎バスが中々出ません。暫く待っていると「頭が禿げ上がったお爺さんが乗車してきました。満員の乗客に向けて「遅れて来た事」を詫びられました。
更に誰も聞いていないのに独り言を続けられました。
『私は2020年に満百歳です。いまからオリンピックの柔道を楽しみにしています!』送迎バスが大船駅に到着すると。
お爺さんはこう言って下車されました。
『最後に乗って最初に降ろして貰ってすいません。皆さまお達者で!』
私は河童の様な爺さんの元気な秘訣を知った想いがしました。
お喋り好きな事、そして柔道が好きな事です。
あの調子なら「テレビの前に陣取ってお相撲を観戦して喋り通しなのでしょう。
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窓際の白髪薄毛のお爺さんがマイペースで憎めません。まるで河童の様なお爺さんでした。2020年には百歳だそうで、屹度充分長生きするでしょう。
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送迎バスが到着する大船駅東口には観音様が仰ぎ見られます。


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寝室の壁には一枚カレンダーを貼ってあります。一枚カレンダーは先々の予定を練るには最適ですから。1枚カレンダーの製作は時宗青年会です。時宗の若手お坊さんの組織なのでしょう。
絵は国宝の「一遍上人絵巻」です。毎年同じ絵巻の様々な場面を使っていますので、上人の遊行の生涯を観る想いがします。
私は毎年初詣の折に新年のカレンダーを戴いて帰ります。カレンダーには時宗の年間行事も記されています。11月27日には○が書かれていて欄外に「一つ火」と案内されています。
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遊行寺の掲示板に貼られた「一つ火」のポスター。ポスターには「静寂の中火打ち石で明りが灯され、一遍上人の法灯が繋がる」の趣意が書かれています。私は「狐火」みたいな炎だなあ!直感しました。
私は「遊行の盆」には毎年参加(見物)しているのですが、「一つ火」には一度も参加した事はありませんでした。同日はワイフはお出かけ、私一人で「一つ火」を観に行く事にしました。午後3時遊行寺に入ると、本堂横にも寺務所にも「一つ火」のポスターが貼ってあります。真っ暗闇に「ボッ」と火が灯った写真です。
去年も大銀杏の黄葉を観に遊行寺に登って銀杏の実を拾って帰りました。遊行寺は大銀杏も素晴らしいし、菩提樹や白木蓮等銘木、古木が多く楽しみも多いのです。
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本堂前の大銀杏は落雷にも負けずに年々歳々春には若緑晩秋には黄葉して楽しませてくれます。
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重文の中雀門越しに観た大銀杏、寺務所前には春には牡丹秋には花茄子、初冬には写真の様に箒草が草紅葉になって楽しませてくれます。落葉掃除や庭木の手入れ草花の栽培は時宗青年会の仕事のようです。
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一遍上人像の周囲には紅葉が染まって上人を荘厳するようでした。
「一つ火」の始まるのは午後5時です。次々にお坊さんが登って来られます。屹度全国に散っている時宗のお寺のご住職が本山に集まって来ているのでしょう。良いお顔でご挨拶されています。屹度青年僧の頃に遊行寺で修行を積みこの日は久々に顔を揃える「同窓会」の様なモノなのでしょう。
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遠来の御坊様を迎える遊行寺のお坊様清々しくも爽やかな表情で居られました。
午後4時若いお坊さんが本堂に上がられ雨戸をあけて用意を始められました。
私は本堂前扉のガラス戸に顔を押し当てて本堂の中を窺がいました。
既に沢山の御坊様が集まっておいでで本堂外陣にはお檀家の方々が白い法被に絡子(らくす)を首にかけて打ち合わせをしていました。内陣と外陣の間には写真で視た注連縄が張られています。注連縄は横綱の化粧まわしの背中の様に姿で結ばれています。
私はお坊さんに訊いてみました。
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本堂の内陣と外陣の境に12本の灯心を用意し5時からの「一つ火」の開始を待つばかりになっていました。
「外陣と内陣の境に置かれているのは注連縄と考えて良いのですか?」
お坊さんは笑顔で教えてくださいました。
「あれは注連縄と云うよりは一つ火の灯心です。蝋燭の灯心と同じ役割を果たします」
私は自分の考えをぶつけてみます。
「灯心と云われても、私には横綱の化粧まわしの結び目のように見えます。土俵も注連縄で聖域と現世との境界を示すものと思えば。灯心の機能を果たしても注連縄と同じ意味と思った次第ですが・・・」
すると
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これは「一つ火」行事の写真(出典は遊行寺HP。中央の導師が本尊前の灯心に火打ち石で火を灯して。順次12本の灯心に火を移して行きます。参列者は明るくなった堂内で法悦に浸るのです。
「一つ火もお相撲も神聖な行事ですから”境界に注連縄を張る”のは自然な事です。処で今晩は冷えますから気を付けて下さいね!」
私を遊行寺の信徒と思われて、今日の宗教行事に最初から最後まで参加すると思われたのでしょう。
御坊様の期待を裏切るようですが、私は未だリハビリ中、遊行寺前から我が家に向かうバスが出ます。5時半私はバスに乗って帰路に着きました。
11月27日から今日まで3週間の間ズッと時宗に「一つ火」行事が伝わったか?考えて来ました。漸くおぼろげながらその意味も解って来たので今日ブログにアップして自分の考えを整理しておこうと思います。
【火炎土器の呪術】
今年の秋,火炎土器を観ました。観たのは糸魚川の「フォッサマグナ博物館」でした。博物館の隣が「長者ケ原遺跡」なのです。一見して長岡にある国宝の火炎土器と同じで糸魚川まで火炎土器文化圏は広がっていたのか?」思いました。一般に人類が火を使い始めたのは旧石器時代、野火を観て「焼け死んだ兎」でも食べて焼けた肉が美味しい事を知ったのでしょう。縄文時代には土器で煮焚きすれば食物の範囲が広がる事を知りました。人類が「火の利用」を始めてから、ヒトの社会文化的進化は急激に早まりました。人類は火を調理に使い、暖を取り、獣から身を守るのに使い、それにより個体数を増やし て行きました。火を使った調理は、ヒトがタンパク質や炭水化物を摂取するのを容易にしました。 火により寒い夜間にも行動ができるようになり、あるいは寒冷地にも住めるようになり、 ヒトを襲う獣から身を守れるようになった。 人類による単発的な火の使用の開始は、 20万年も前に始まるといった説が有力なようです。有名な北京原人にも火を使った痕跡が確認されているそうです。最初期は、火を起こす ことが 大変あった事から火は人間を集団生活するように促したと思われます。
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これはフォッサマグナ博物館に展示されていた糸魚川の「長者ケ原遺跡」の出土品火炎土器が出色です。
今年は先月末に亀ヶ岡遺跡や三内丸山遺跡にも行きました。どちらも縄文土器で著名ですが、火炎土器では無く縄文の名の謂れ通りで意匠は蛇でした。蛇は気持ち悪いし神秘的です。土器に蛇をデザインしたのは土器の機能(煮焚きや貯蔵)を果たしてくれるよう蛇の呪術に期待したのでしょう。
一方火炎土器はもっと直截的で、火そのものの神秘性に期待した呪術だったのでしょう。縄文時代の食糧は獣や団栗等を狩猟し採取していました。肉を食べるには火を通す事で柔らかくなるし食中毒にもならないで済みます。団栗や栃の実は茹でる事で毒や灰汁が抜けます。貝は茹でる事で死貝と生貝を区別できます。火を通せば消化もし易くなります。火の活用で食物の範囲は拡大しましたし、暗闇も火の灯りで恐怖感を消し去れます。
陸奥の「縄文土器」よりも越後の「火炎土器」の方が類感呪術としてもストレートで解り易いのです。
【火を分ける事の民俗的意味】
縄文人は竪穴住居に住まい中央に火を焚き家族は火の回りに集って食事をし暖を取り灯りとしていたでしょう。火の回りに集えば安全であり食事もとれたのです。近世の囲炉裏も縄文時代に始まったと思われます。縄文時代には囲炉裏の周りに集まっては食物は均等に分けて食べていたのでした(原始共産制)。だから日本民族は火を大事にしてきたのです。火を粗末に扱ったり火遊びする者は厳しく咎められてきたのでした。
火の伝統は宗教の世界では「法脈」として尊重されてきました。高野山の弘法大師を照らお灯明は絶対に一瞬たりとも消しません。
民俗の世界でも大切に扱われてきました。本家からは「分家」が出来る時には本家の火を分家に分けました。一般に「竃の火を分ける」と云いました。私の生家でも「火鉢の灰」でさえ、庭の焚火の残り火や灰では駄目で秋葉様のお札に守られた台所の火や灰を種火(灰)として使っていました。法事でも蝋燭や線香の火はを百円ライターで点けずに本尊前の蝋燭の火を種にして使い回ししていました。種火は本堂の須弥壇上に置いたマッチで点けました。マッチを擦る動作は火打ち石を打つ動作と似ています。
「同じ釜の飯を食う」とは絆を固める場合に良くする事ですが「正確には「同じ火で煮炊きしたモノを食べる」事で民俗的家族的団結を強くする意味です。
【時宗にだけ一つ火が続いた訳】
火を大切にする信仰や習俗は連綿と続いてきたのですが、現代では薄れて来ました。「秋葉様」や「愛宕様」と云えば火の神様ですが今ではすっかり忘れ去られてAKB48の方が馴染みです。
ガスや電気が普及して火の管理が楽になった事も一因でしょう。
でも、火の恩恵は旧石器時代も現代も基本的には変わりません。阪神大震災や糸魚川火災の時だけ「火の怖ろしさ」に気付くだけです。
でも焼け跡を観ると気付きます。人間の欲望の的の建築物も財産も跡形も無く灰になって消えてしまっています。仏教は因果律を大事にします。欲望があるから解脱出来ないと説きます。時宗では一切合切阿弥陀如来に託すこと教えにします。欲望を消滅し切って、阿弥陀に心身を委ねる事に通じるように思うのです。一遍上人は熊野に於いて宗教人としての確信を得ます。
熊野は火祭りで有名な聖地です。時宗が火を重んじるのは宗祖以来の伝統です。
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『一遍上人絵巻』一遍一行、「右から4人目右の3人は超一(奥様)超二(娘)は熊野の「中辺地」で熊野権現の化身であった僧に出会う。左の山から降りてきた一行が熊野権現(出典遊行寺発行一遍上人絵巻。
何時かは一つ火行事の始終を遊行寺の本堂で観たいものです。後ろ髪を引かれる思いでバスに乗り込んで家路に着きました。




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