仮想旅へ

毎日の通勤路を憧れの街道歩きに転換してみたら? あなたを「LOHAS」な世界に誘ってくれます。

千葉ウォーキング

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索

全2ページ

[1] [2]

[ 次のページ ]

「道の駅」には随分重宝しています。先月は福島県の四倉にある道の駅でランチをとりました。ボリュームのある海鮮どんぶりで満足しましたし。四倉漁港が津波被害から復興している事実を目の当たりに出来ましたし。海水浴場であった砂浜に10メートルにも及ぶ津波堤を建築している愚挙に怒りも覚えました。海が好きな人はたとえ津波で肉親を失っても人間から海を隔離するような行動に賛意を示さないだろうと思いました。四倉でも私達は地域の情報をゲットして、住人の地域愛に感心もしました。
イメージ 1
福島県原発に近い道の駅四倉のレストラン。壁には手作り凧(民芸)が懸っていて。眼でも舌でも福島を楽しめました。
道の駅が出来始めたのは1990年代初頭当時の建設省が全国の高速道路に整備していたSAを一般道路にも整備してドライバーの休憩施設トイレの便に供したモノでした。それが急速に増えて現在では100か所を越えたようです。その機能も当初のドライブの利便施設から地域と観光客との交流施設の色合いを濃くしてきたようです。
昨年の春も東吉野村を旅行した折に道の駅「吉野路大塔」に寄りました。トイレ休憩と云うよりも観光物産センターの顔をしていました。千葉房総半島の鋸南町に「道の駅保田小学校」が出来たことを知りました。昨年の12月にオープンした「全国一新しい道の駅」。道の駅愛好家としてはどんな施設課興味と期待を持って入ったのでした。施設は鋸南町と豊浦町との境にありました。保田は昔からの海水浴場で夏休みには子供達の臨海学校が出来るのでも馴染みがあります。その保田町に保田小学校が在ったのでした。
イメージ 2
これが道の駅(保田/ほた小学校)の全景1階はレストランと地域情報紹介コーナー、トイレプレイゾーンが並んでいました。2階は宿泊施設に温泉風呂でした
2014年に、学校としての役目を終えた保田小学校は創立より126年の幕を閉じたのでした。過疎に悩んだ末の断腸の決断だったのでしょう。
子供が居ないのだから閉校は致し方無いとしても跡施設の活用策が問題だったことでしょう。吉野村でも過疎の小学校の跡を道の駅にしていましたし、学校の道の駅への転換は先行事例が数多くあったでしょう。保田町でも地域住人の知恵と愛着を集中して「おらが町の小学校の高齢化社会への脱皮」にトライしたのでしょう。
。その成果を観る想いがしたのでした。大変に面白いし地域愛が感じられて清々しい想いがしました。
次回は子供と孫と一緒に来たいと思ったのでした。それに私達の仲間には大学で教鞭をとっている人も多いので旅行会ではいつも講座を設けたり俳句や短歌の作品紹介をしています。懇談室の他に教室そして温泉風呂は必須アイテムです。旅行会にもうってつけの施設だと思いました。
イメージ 3
此方が道の駅保田小学校の宿泊施設。東京横浜の小学生用臨海学校を照準にして設備されたように見えました。写真出典は当施設のホームページhttp://hotasho.jp
道の駅の開発に集まった人の共通する事は『保田への地域愛』であり、地域の農民や漁師の活性化と若い人の働く機会の創設と観光客の滞在時間を増やす策(通貨観光客ばかり多くてもお金を落として行かなければ何の益にもなりません)だったと推測されます。
体育館を使った直売所、教室を使った宿泊施設など、小学校の雰囲気を残しつつリノベーションした道の駅は、全国的にもユニークな存在だと思われます。も温浴施設や公共施設(地域の会議室)食堂を含めた都市交流施設となっています。鋸南町は元々菱川春草美術館が在ったり歴史(日本寺)や文化の香り高い土地でした。第一次産業・モノ・歴史(頼朝や日蓮の史実)・文化を集約させた、地域活性化の交流拠点が出来たのでした。
以下面白かった施設を案内いたします。
≪営業時間≫
きょなん楽市  9時〜18時  年中無休
里山食堂    11時〜18時 (ラストオーダー17時30分)
詳しくは保田小学校ホームページhttp://hotasho.jp/をご覧ください。
イメージ 4
施設入口「保田小学校創立百周年記念の石柱」が眼を引きました。
イメージ 5
トイレ前からレストイランを観る「飯」の暖簾は里山食堂です。)3年B組は中華料理でイタリアンも充実していました。
イメージ 6
これは筆者が次回来た時に食べたいと思った穴子丼(900円)です。因みに横浜では穴に住んでいるので穴子ですが千葉では穴子と呼ばずに「秤目/はかりめ」と呼びます。穴子を横から見ると側線に秤のように点々と斑点が並んでいるからです。東京湾の西に上がれば穴子で東に上がれば秤目では魚も自分の名に眼を白黒させて居る事でしょう。
イメージ 7
職員の施設への愛着はトイレの状況で解ります。これはマクドナルドの田さんに教えられた事でした。田さん風に見れば満点と云う事でしょう。日本中のトイレがディズニーランドのようになりました。
イメージ 8
此方は洗面所廊下に出ればベンチがありました。彼女の長い化粧も気になりません。
イメージ 9
これは2階宿泊施設のベランダ通路広い廊下に遊具が置かれていてブーゲンビリアも綺麗でした。
イメージ 10
これは幾つもあるプレイルーム「こどもの広場」の一つ。楽しそうな親子を観ていると私も孫と娘たちと一緒に来たくなりました。
イメージ 11
これが「道の駅保田小学校の」目玉施設の「鋸南楽市」地域の「農産物」「海産物」が並んでいました。施設は旧体育館で、農家や漁師は施設の壁一枚外に駐車して即展示販売できるロケーションでした。

小学校を閉鎖せざるを得なかった事実は悲しかったモものの何時の日にか保田に若い人が転居してきて学校が足りない百年後に「新保田小学校」を再建する…。そんな時代が来てほしいモノです。その頃には地域愛の他に地球愛を上乗せして保田インターナショナルスクール」なんてネーミングされると良いのですが・・・・。

ブログランキングに参加しています。
応援クリックお願いします。



長崎26聖人像を彫刻した船越保武氏は次男の名を桂と三男を直木とられました。余程木に愛着がおありだったのでしょう。桂は木偏に「佳い」と書きます。直木と名付ける時先ず「槇」の名を想われた事でしょう木偏に直と書いて槇だからです。槇はその姿も一番ですし、樹の香りや肌触りも最高です槇の湯風呂は最高で滅多に浸かれません。鎌倉の浄智寺のお庭には高野槇の大木が聳えています孤高な姿は弘法太子を見習えと云っているようです。
一般に観られる槇は犬槇(いぬまき)で庭木や垣根に使われます。犬槇の葉が密生しているのが羅漢槇です。名前からしても羅漢さんのようなの中国的な槇の意味でしょう。箱根湯本の早雲寺の北条早雲の墓地には巨大な犬槇が自生していて今頃は地面が槇の実で覆われていることでしょう。

イメージ 1
鎌倉浄智寺の高野槇以前次に書きましたhttp://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/47227679.html
イメージ 2
これが箱根湯本の早雲寺の犬槇今頃は墓地全体に実を撒き散らします。槇の実は赤い実と青い実がお団子のように付いています。
關東では立派な屋敷には羅漢槇や高野槇をシンボルにして垣根を犬槇で囲うのが一般的です。槇の木は手入れが大変でお屋敷を守るには大変な負担になります。
千葉県は都の後背地ですから植木屋さんは競って槇の木を植えています。
千葉と云っても房総の白子でも槇の木は大切にされています。
白子で用事を済ませて食事する事にしました。
久しぶりに槇の木亭(http://tabelog.com/chiba/A1205/A120504/12004205/」に行く事にしました。
槇の木亭なネーミングの由来になった樹齢800年県の天然記念物の羅漢槇があるのです。勿論周囲は犬槇の垣根が囲っています。丁寧に刈り込んだ槇の垣根は正装の髪型のように改まった感じがして良いものです。
イメージ 3
これが千葉白子町の槇の木亭のシンボル樹齢800年と云われる羅漢槇奥に隠れいているのがオーナーの屋敷です。


羅漢槇は相変わらず良く手入れされています。この秋に刈りこんだのでしょう。強く刈り込まれた枝先には新芽が伸びています。新芽は鶯色で羅漢槇の古い葉は濃い緑色です。緑のコントラストが鮮やかです。
でも手入れが為されていることは槇の木亭の運営が順調な事の証でしょう。
喜ばしい事です。店主は初代槇の木亭のお孫さんで前回もお店に出ていましたしっかり者で女将さん姿も板についています。
羅漢槇の根元には句碑が立っていました。
イメージ 4

羅漢槙 泰然として 是に在り根    (富本憲吉)

富本憲吉と云えば奈良の生駒に窯を持っていた明治の陶器人です。
琳派風の陶器を復興しました。第一次世界大戦後産業革命によって大量生産された製品の味気なさを反省して生活と芸術を一致させようとし運動(モリスがリーダー)が盛んになります折しも我が国は大正デモクラシーでバーナードリーチが来日し柳宗悦等と共に民芸運動をおこします。千葉県我孫子の柳宗悦邸内に窯が 築かれ、そこで河合寛次郎濱田庄司らと共に富本憲吉が揃います。でしたから富本憲吉が白子まで足を延ばした事情は想像できることです。羅漢槇の泰然とした姿は屹度富本憲吉の自負心と通じるものがったのでしょう。柳が指導した民芸運動はモリスの主張したアール・デコ運動の日本版であったようです。フランスでアール・デコと呼ばれた生活雑器は日本人が伝統の民芸を見直す気運になりました。
富本憲吉は人物であった事もあり日本民芸館の第二代の館長になって日本の民芸運動を指導します。
イメージ 5
色絵四弁花更紗模様 六角飾筥 かざりばこ1945年 奈良県立美術館/琳派風の名作です重文出典同美術館のホームページhttp://www.pref.nara.jp/25786.htm


女将さんの話では。東京で事業を成功したおじい様が白子に来てこの羅漢槇を一目見て見入られてしまい槇の木の一帯を買収して屋敷を構えて事業を起こしたのだそうです。
その時の心構えを富士山に託した句が屋敷に立っていました。
イメージ 6
富士は天の盛り塩不退転   とした初代槇の木亭の句碑
ところで肝心のお味ですが。初代はアジア風ハワイ風がお好きだったそうで。アジアンテーストの民家を模して新築し、割烹料理活魚料理は母屋の近くに和風で建てられています。
白子は茂原の生活圏ですが肝心の茂原も最近は閑散としています。レストラン業も楽ではないと思うのですが賑わっているようです。女将の健康が続く限り大丈夫でしょう。

イメージ 10

槇の木亭の内部
イメージ 11
槇の木亭の煮込みハンバーグ定食1200円ボリューム充分ルーが美味しかったです
お庭には季節遅れの赤蜻蛉が木枯しに逆らって泳いでいました。
色々な赤蜻蛉が居て興趣が尽きないものです。
イメージ 7
満天星の枝先に止まった赤蜻蛉満天星は既に蕾を膨らませていました。
イメージ 8
何度も危険な目に遭遇して翅も傷んだ赤蜻蛉これで木枯しに向かって飛ぶのは大変です。
庭もお値段の内、グルっとお庭を鑑賞して改めて羅漢槇の根元を観れば。良い土がお布団の様に敷かれて羅漢槇の根元を覆っています。この分なら1000年も長生きするのは太鼓判でしょう・・・。
イメージ 9

羅漢槇の根元の土はフカフカです。これなら大丈夫です。

応援クリックお願いします。

 



江戸向こうの海苔の味

江戸前の海苔といえば品川沖から大森海岸にかけての浅瀬で採れるたものでした。今も老舗の海苔店は本社を同地に残しています。
私の学生時代は江戸川の東、浦安から幕張の浅瀬が江戸前海苔の養殖場でした。東京デズニーランドの開発はその海苔の養殖場を埋め立てたものでした。埋め立て当時銀行員だった私は「青べか物語/山本周五郎」の舞台を埋め立ててデズニーランドにするのはイメージが湧かない」と真剣に思ったものでした。
イメージ 1
山本周五郎の「青べか物語」は海苔を養殖している貧村を舞台に人々の交流を描きました。筆者の学生時代はこの辺りは貝や海苔の業者が国道沿いに店を連ねていました。
 
大森も浦安も江戸表でしたから江戸前と呼ぶには抵抗がありませんが、今海苔の養殖場は江戸から見れば東京湾の向かいの木更津から富津沖に移っています。「江戸前ではなく「江戸向かい」の海苔です。
流石に江戸前を看板にしている山本山大森屋等の老舗は国産に拘っているのでしょうが。主産地は松島湾や有明海に移っているようです。今では韓国産、中国産の海苔も出回っているようです。マレーシアやタイ、ベトナムを旅行すると海苔の養殖に恰好な浅瀬を見かけます。何れ、東南アジア産の海苔が私達の食卓を賑わすことでしょう。
3.11大地震で千葉県も被災しましたが被害は外房から内房にも及んだのでした。富津の海苔業者も大打撃を被りました。影山さんも船(影丸」を失い、養殖場も流されました。災いに打ち沈んだものの、再起を期します。5千万の借金をして海苔事業の立て直しに取り掛りました。
影丸の親爺さんの説明では海苔の味は格別で、私達は古い海苔をを食べさせられているそうです。 
古海苔は佃煮に戻して再販してるんだそうです。新海苔の味が解れば、お客さんは飛びつく筈だ確信していたんだそうです。
イメージ 2
観光バスを連ねた来客に説明される景山氏奥は鉈を改築した様な海苔工場の装置
イメージ 3
影丸の全景左奥がオーナー影山氏の本宅その納屋だったと思われる建屋が海苔の全自動装置が置かれています。屋敷守のお稲荷様が賑いを見ています。工場右口が売店と試食場です。
イメージ 4
海苔の全自動製造装置。熱風を吹きかけて海苔を乾かして1帖に封じて機械から出て来ます。省力の成果を販促に回さいたことが成功の原因だったのでしょう。
養殖場から採りいれた海苔は全自動の「海苔干し装置に入れます。この機械は日本で最初の機械だったので当時は7千万もしたんだそうです。
全自動化で省力を果たし人員は販促に回すことが可能になりました。
3.11大震災から雄々しく立ち上がった「災い転じて福に変えた」という事でNHケKはじめマスコミが取り上げました。その結果大型バスが相次いで影丸に遣って来ました。
お蔭で漁師さんの庭は大型バスの駐車場に変わりました。
イメージ 5
 アサリの味噌汁と試食に海苔の天麩羅(おつまみに最適スマップの香取君が販売に一役買った商品でした。
 
既にATTの締結は既成の事実のような気がしますが。現在「江戸向かいの海苔」に逆風のようです。韓国産や中国産の海苔が我が国に奔流のごとく流れ込むことでしょう。既に韓国は日本は意図的に海苔に着いては日本は貿易障害を作っているとしてWTO(世界貿易機関)に訴えています。日本がATTに加入して、海苔事業を守ることは至難な事でしょう。江戸前から随分多くの変遷を強いられてきた海苔ですが、将来も波瀾万丈のようです。
お寿司が日本の文化遺産で自慢したいのなら江戸前の海苔も大切にしたいものです。
影丸さんの成功は海苔の素材を活かして無添加で製造し。昔ながらの美味しさを訴求した事に依るのでしょう。日本人の舌は韓国や中国では騙されないものでありたいものです。
 
 
ブログランキングに参加しています。
応援クリックお願いします。
 
九十九里の白子海岸の母都市は茂原市です。茂原の町興しに「ブイヤベース」を競って売り出しています。出がけにネットで調査をしておきました。ご当地グルメ。「白子町の特産品である玉ねぎとトマトを使う」、「九十九里でとれた青魚のつみれをふんだんに入れる」といった「決まり」はあるものの、スープの味は、和風、洋風、中華風など様々で、イタリアン、フランス、インド、中華等多くのお店で競う様にして案内しています。
家内はトマト風味よりも、南仏風がいいとか言って居ます。
イメージ 1
今日の話題は千葉の夷隅郡大多喜町にあるベジタブルガーデンです。その入口、カントリーとハーブが目立ちます。
イメージ 2
ベジタブルガーデンは温室内にあります。様々なハーブが植えられていますが今は花の休み時期のようでした。
でも墓参りが終わると突然に体が「野菜を食いたい」言い出しました。今朝も野菜サラダを充分に取っているんですが、田園を見ていたら、昔風の野菜を食べたくなったようです。そう、最近の野菜はどれもこれも水っぽくて野菜本来の青味や臭みが欠けているんです。私の体が「ミネラル一杯の野菜」を欲しているのです。
そこで、ブイヤベースを案内している一宮海岸のレストラン街を素通りして、大喜多のベジタブルガーデン(http://www.herbisland.co.jp/」に向かいました。此処は昨年の春にも来たことがありました。
イメージ 3
レストランはセルフスタイルです。窓際の席の先はドッグランが設えてあります。
イメージ 4
窓からの眺め向こうの山脈の上に本田家の大多喜城があります。ビニールハウスの手前がドッグランです。
 
その時は野菜のプレート1枚(310円)にハーブパン(150円)で済ませました。シチューやオムレツカレー等一品ものもも案内しているのですが、野菜だけで十二分な量があるのです。
そこで、今回も野菜プレート(370円に値上げしていました)とパンで済ませる事にしました。
息子はカレーを追加していましたが・・・・。
中高年には野菜だけで十分です。
イメージ 5
ベジタブルガーデンはビュッフェスタイルで、1プレート1回限りセルフで取り放題です。
イメージ 6
昔ながらのに野菜の匂いがするサラダ、1プレート370円です。
イメージ 8
ハーブとクルミのパンがあって150円です。
イメージ 7
カレーは古代米が使われていました。単品物は970円です。
我が家に近いイタリアンレストランピエトロも、サラダバーェだけのオーダーを取ってくれたら嬉しいのですが、メイン料理を取らなくてはなりません。いず、中高齢者向けにサラダバーだけをメニューにしたファミレスも現れる事が期待されます。ホテルの食事もバイキングスタイルが多いのですがサラダだけで十分な人も多いにようです。無理してメイン料理を食べなくてもサラダ(漬物)にスープ(味噌汁)で満足な人が多いのではないかと思います。
ベジタブルガーデンの野菜は野菜本来の美味しさ、青臭さを色濃く残していますその上、テーブルの周囲にはハーブが咲いていて気持ちがいいんです。
用意が出来るまで暫く待ちますがステージでアコースティックギターを抱えたぢデュオが歌い出しました。カーペンターみたいなデュオだな、思って聞いていると、期待通りに「イエスタデイ・ワンス・モア」が流れ始めました。
イエスタデイ・ワンス・モアは私の気分にピッタリ、1980年代は私も家内も子育てに仕事に輝いていたと想い起しました。
イメージ 9
和製カーペンターズのデュオを楽しみながらの食事です。
カレンもベジタブルを食べていれ場長生きしただろうに思いながら「青春の輝き」を歌い出すのを待っていました。昨日までカリフォルニアのサンデュゴに居たそうで、動物園のオランウータンに感動した話していました。
サンデュゴのプロジェクトには幾つも支援しました。様々な想い出があります。トップガンもその一つでした。
暫く聞き入っているとブイヤベースが食べたくなりました。
私の体は我儘で野菜が取れたら次は魚介を食べたい…注文を付け始めるんですです
 
窓際の席の真下はドッグランになっていますから。犬連れのお客さんは窓の外を眺めながら食事をしています。私達はハーブやワンちゃんを見ながら、ランチを楽しむ事が出来ます。
間d鼠際の席のドッグランをえん
イメージ 10
土産ショップも充実しています。
 
ブログランキングに参加しています。
応援クリックお願いします。
明治時代の息吹を知りたければ洋館を訪れるのが良い。
洋館には西洋の列強と互角に渡り合おうとする明治人の心意気が如実に表れています。
同時に、日本の伝統建築手法も大事にされています。
ルックスは洋にして、住まうハートは和であって・・・・、和様混交した不思議な空間があります。
150年も前の・・・・、背伸びしている祖先の姿が洋館には眩しく輝いています。
 
イメージ 1
       今日の話題は茂原の「千葉眼科記念病院」建物です。
       建物の右手、裏山は姫春蝉の自生する「ひめはるの山」になります。
イメージ 2
                             千葉眼科病院の前の田圃、もう田起こしが進んでいました。
 
明治維新を迎えて・・・・、人々は競って洋館を建設しました。
数ある洋館でも・・・、コロニアル建築と呼ばれる木造建築が主流になります。
「コロニアル」とは植民地の意味で、欧米人がアジアモンスーンの気候に適した建築を開発したものでした。
外壁を板張りにして、大きな窓を設けて・・・・、広いベランダを設置して、そこでゆっくり椅子に座って読書を楽しむ・・・・・・、そんなライフスタイルの建物でした。
 
横浜の山手にもこうしたコロニアル建築が残され・・・重文に指定されています。
鎌倉にも明治から昭和初年にかけてコロニアル建築が数多くあって、目を惹きます。
横浜や鎌倉にはそんな時代を突っ走った人が多く住んでいたから・・・、自然な事でしょう。
でも、驚くのは弘前や酒田、松本や佐久・・・・・、地方に数多く残っている事です。
日本全国が西洋に憧れていた現れでありましょう。
 
イメージ 3
   鎌倉長谷にある加賀谷家住宅、白い板壁、大きな窓がコロニアル建築の特長で、明治人のハートを鷲掴みしま   した。
 
千葉の茂原にもコロニアル建築が残っている・・・、聞いて出かけました。
在ったのは・・・・、茂原市の郊外田圃の中の街道に面していました。
場所は姫春蝉の自生する「ひめはるのさと」の南側にありました。
 
イメージ 4
     千葉家の豪邸、正面長屋門、棟が一直線で歪みひとつないのが驚きです。庭木も良く手入れされています。
      裏山には姫春蝉が自生しているそうです。
 
明治23年千葉天夢は帝国大学医科を卒業します。
24年には故郷の上永吉村に医院を建設します。
中山栄吉、中山国三郎兄弟に駿河台の井上眼科を見に行かせます。
井上眼科は帝国大学の眼科を創設した井上達也氏の病院でした。
井上眼科病院をモデルにして、延床26坪、白い板壁が印象的な2階建てコロニアル建築が出来ました。
 
イメージ 5
               洋の外観が目立ちますが、蟇股や組み物、玄関の装飾等に和の伝統が使われています。
イメージ 6
        大きな窓、広いベランダ、白い板壁・・・、この三つがコロニアル建築の特長で、明治人が憧れました。
イメージ 7
      千葉眼科記念館の周囲には樹木が生い茂っています。手前の大木は桐の木で、沢山花が咲くようです。
 
千葉家は大変な富豪でもあったのでしょう。
長さが50mもあろうかという程立派な長屋門が屋敷を囲っています。
長屋門の柱には「漢方研究所」の看板がかかっています。
地域の富豪であって・・・、同時に漢方の医師だったのでしょう。
そして、倅を帝国大学医科を卒業させ、眼科医も併設した・・・・。
母屋は大変な建物ですし、土蔵も立派です。
屋敷の裏山の中腹には赤い鳥居のお稲荷様が祀られています。
 
コロニアル建築の屋根は伝統的な灰色の和瓦です。
でも、樋はありません。
建物の周囲には桐をはじめ樹木が茂っているので・・・・、樹木を伐採せずに建てる工夫だったのでしょう。
そこで、樋が無い代わりに、雨水は直接地面に吸い込ませる様にしてあります。
勿論、大きなガラス窓が家の三方から陽射しを室内に取り込んでいます。
ひろいベランダもあります。
薄板で囲った板壁も真っ白で・・・・、まるで白衣の看護婦さんを思わせます。
 
今はこの建物は使用していなく・・・・、ガラス戸にお凸を押し当てて中を覘くと・・・、
沢山の漢方資料等が置かれています。
そして、この西隣には新しい「永吉眼科医院」の白亜の建物があります。
井上達也医師は日本で初めて白内障の手術をした人・・・、と聞きますから、
永吉眼科医院も田舎にあっても・・・、高い技術で患者を集めているのでしょう。
 
茂原市の文化財資料によると、昭和17年に一部手直しされたが、
昭和59年に復元工事が行われ、現在は明治24年の開業当初の状態になっている・・・、案内されています。
感心するのは、建物に全く歪みが無く・・・・、白いペンキも綺麗に塗られれて・・・、剥落ひとつない事です。
大事にされている事が良く解ります。
蟇股等・・・・、寺院建築に特徴的な細工があっちこっちにあって・・・、お洒落と言うか、アクセントと言うか、
魅力になっています。
 
行く途中には蓮田が続き、姫春蝉も啼きだすようです。
桐の大木に花が咲いたら・・・・、綺麗な事でしょう。
桐の花には鳳凰が飛んで来る・・・、と言い伝えられました。
そのころにまた出かける事にしましょう。
 
イメージ 8
                                千葉家の豪壮な母屋、裏山中腹に稲荷の社が見えます。
イメージ 9
                  左が千葉眼科記念病院建物、正面土蔵。
                  土蔵の前には状態の良いクラッシックカーが無造作に置かれていました。
 
 
 
ブログランキングに参加しています。
応援クリックお願いします。
 
 
 

全2ページ

[1] [2]

[ 次のページ ]


.
yun**ake200*
yun**ake200*
男性 / A型
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31

ブログバナー

Yahoo!からのお知らせ

過去の記事一覧

よしもとブログランキング

もっと見る

[PR]お得情報

ふるさと納税サイト≪さとふる≫
実質2000円で好きなお礼品を選べる
毎日人気ランキング更新中!

その他のキャンペーン


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事