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東京ウォーキング

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町田市博物館を見学して考えました。この後どの道で家に帰るか?。相談です。実は私達夫婦は新婚当初鶴川に住んでいたのでした。当時の職場には「借り上げ社宅制度」が在って、銀行の共済組合から自宅取得資金を借りると銀行がその家を借り上げる約束になっていました。というのは地方転勤は本人の都合や希望に関係なく発令されます。地方や海外転勤を命じられると新住居も銀行が手配してくれるし空き家になる旧住居は銀行が借り上げして行員に借り上げ社宅として供されるのです。その制度に従って私は鶴川団地に近い戸建住宅に住んで私は大手町にワイフは丸の内に通勤しました。小田急線は超満員過密でしたし想い出が詰まっていた鶴川時代です。
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此れが小田急線鶴川駅の駅ビルです。私の新婚時代はバス待ちでこの駅前で佇んでいても、暗くて物騒だったのでしたが様変わりです。駅前も少し奥も変ってしまって驚きでした。
鶴川駅から借り上げ住宅に行くには、鶴川団地循環バスに乗り、団地中央の一停留所前で降りたのですが、そのまま乗れば白州正子・次郎夫妻の「武相荘」が在る事は承知していました。白州正子さんは既に著名でしたから行って観たいとは思ったのでしたが、そんな余裕は無くて、一度も行った事はありませんでした。そこで、武相荘に向かいました。最近私達夫婦もガラ系を止めてスマートフォンにしたので、ワイフは鶴川駅から武相荘迄の道を検索して意欲満々です。私は町田博物館往復の坂道で草臥れたので、鶴川団地循環バスに乗る事にしました。スマートフォン参加は同時でしたが、ワイフのスキル上達に較べて私は相当に立ち遅れてしまったようです。
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武相荘は幹線道路から西に折れた丘の最深部に在ります。その全面は戸建て住宅街です。鶴川駅からは鶴川団地循環バスか平和台循環バスに乗って平和台入り口で下車コメダ珈琲の道路向かいの丘陵を登った頂上です。
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此れが武相荘の入り口です。右の建物は旧建物の風呂やキッチンだったもので奥が母屋です。母屋は展示室、手前の建物はレストランとして使用されています。レストランはランチコースで1500円珈琲が800円の価格設定でした。
新婚時代は山ばかりと思っていた丘陵一帯が戸建て住宅地に変貌していました。鶴川駅から新宿迄も、大手町も1時間弱で着けますから、鶴川の戸建て住宅は億ションならぬ「億ホーム」なのでしょう。そんな億ホームの奥に武相荘はありました。新婚時代は入館料が700円程度で在ったと記憶していたのですが、今は1050円でした。
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此れが旧母屋で現在は展示に使われています。古い登戸辺りに多く観られた萱葺民家ですが。大改造が為されて縁側の先に木造サッシが嵌められ、室内はキンキンに冷やされていました。手前左の樹は「くろがねモチで、武蔵国の農民の様な無粋でも強靱な雑木です。
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此れは母屋の縁側向かいの庭隅に佇む地蔵石仏です。大和長岳寺の辺りに「良く見かける様式と石材です。このお地蔵さんの足許には「狐の剃刀」が枯れていました。
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母屋の裏は山で周遊できます。でも蚊が多いし、夏は避けた方が良さそうです。
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母屋玄関に飾られた青楓の投入れ。器は伊賀でしょうか?
特別な展示は無く「盛夏の佇まい」と云った展示でした。白州正子さんがご愛好されたであろう単衣や茶器が展示されています。婦人誌やエッセーのグラビアに写っていた正子氏のお着物に観たような記憶がありました。でも、撮影禁止の貼り紙がそこらじゅうに無愛想に貼られています。「無愛想な事」と思って入館案内の栞を読めば白州正子さんのお孫さんが”「武相荘のネーミングは場所が武蔵国と相模国に跨っていた事から、そして無愛想に掛けたものでしょう”書いておられました。でも、正子氏の書斎入り口に展示されていた次郎氏の遺言を観て気付きました。正子氏が武相荘のネーミングにしたのは、現オーナーのお孫産の推測や町田市の解説(武蔵の農夫の朴訥で簡素な良さを主張したモノ)でも無くて。次郎氏の遺言が無愛想であった事からそれを揶揄して「貴方があんな遺言したから。私達のお家は無愛想にしたのよ!」次郎氏は愛車のクラクションを鳴らして抗議したでしょうが、既に遅きに失した事ですし、惚れた男の弱みで苦笑しながら甘受せざるを得ませんでした。
次郎氏はラブレターも遺言状も天下衆目に晒されているのです。
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此れが白州次郎氏の遺言状です。隠し撮りさせて戴きました。御免なさい。
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此れは白州次郎氏の愛車であったアメリカの高級車「ペイジ・グレンブルック」です。ケンブリッジ率でダンディーだった次郎氏はヘンリープールのスーツを着てルイ・ヴィトンのスーツケース下げて颯爽とこの車を降りてGHQを訪れマッカーサーと対峙したのでしょう。
半ズボンに下の足を蚊に食われてしまいました。出口の簀子のうえには「キンカン」が置かれていて「ご自由にお使いください」案内して在りました。私はショップで正子氏の本を一冊も泊めて早々に丘を下りました。バス停の近くにはコメダ珈琲が在りましたので。そこで休憩今夏最初の掻き氷を戴く事にしたのでした。
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出口の簀子の上に置かれたキンカン。
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武相荘のある丘の麓にはコメダ珈琲が在って「掻き氷」を戴きました。このサイズでS(Rより200円安)でコメカミが痛くなって食べきれませんでした。コメダ珈琲で充分休んで。小田急で湘南台経由で帰宅しました。
やっぱり無愛想は良くありません。女も男も齢を重ねたら愛想良くしないと次郎氏の様に衆目にラブレターも遺言状も晒されてしまいます



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大井町線の不思議

九品仏駅のホームで向かいの御屋敷を視ていて不思議に思いました。この辺りは住居専用地域なのでしょう。家は3階建てが上限のようです。私の目の前の御屋敷は3階建て2階、3階は個室毎にエアコンの室外機が付いていますから。貸部屋なのでしょう。そうすると大家さんは1階に住んでいることになります。自宅を改造して1階は自身の住居で2,3階は貸室で合計8軒1軒が1DKとして、1軒の家賃が10万円なら都合80万円年金生活より優雅な生活が可能なようです。そう想って眺めると塀の上から覘く海棠の花も優雅に見えます。
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大井町線九品仏駅のホームの真ん前の御屋敷3階建てで庭先の海棠の花がゆかし気に咲いていました。
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御屋敷への目線を下げるとブロック塀の途中に木戸が付いていました。この木戸は何故付いているのか?考えました。
大井町線は長銀勤務時代に「鉄道財団を組成さして幹事銀行の役を担っていました。当時は田園都市線の一部として扱っていました。現在は田園都市線と云えば渋谷が始発駅で新玉川線を経て中央林間まで繋ぐ路線です。1979年8月から、現行の田園都市線大井町線に分かれて鉄道財団組成されました。大井町線は鈍行だけでしたが大井町発溝口行きの急行も運転されています。九品仏は鈍行しか停車しませんが6両編成の車両を停車させる長さが無い事から、乗車位置に注意しないと九品仏駅で乗降車出来ない事になります。
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東急の最新車両600系が大井町線を走っています。
私は昔の仕事を想い出しながら向かいの御屋敷の塀に付けられた木戸を観察しました。お隣の御屋敷も同様で線路側に木戸が付いています。良く見ると木戸のハンドルは線路側に付いています。御屋敷の内側から線路側に出る為の木戸では無くて、線路側から御屋敷に入る為の木戸です。外から出入りする扉では泥棒除けになりません。深夜にホームから線路伝いに木戸を開けて泥棒が侵入してくるかもしれません。大井町線は九品仏の先は上野毛等々力二子多摩川と高級住宅地を縫って走ります。民家の裏や軒先を掠めて走ります。線路の保線職員の苦心は並大抵の事では無いと想像されます。江ノ電が軒先を掠めて走るのは観光デモでありますが、都心の職場と高級住宅地を結ぶ大井町線では悠長にユックリ走って居られません。2分間隔で電車は走って来ます。「万一の時保線職員はこの木戸の取っ手を回してお屋敷の中に身を隠すのだろう」想像しました。現職時代でしたら直ぐに質問するのですが,今は好奇心の強い爺さんです。確かめる術もありません。



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1月4日向ヶ丘遊園の民家園から狛江の泉龍寺http://www.senryuji.or.jp/に向かいました。泉龍寺は私の母が産まれた寺で、現在私の従兄弟の菅原師が住職を務めています。昨年の父母や祖母の年忌法要も菅原師が導師を務めて下さいました。その御礼もあれば母方のお墓参りもしたいと思ったのです。狛江の駅も小田急線の高架工事の結果見違えるようになりました。泉龍寺も随分変わりました。境内地の東側は市役所に変りました。江戸名所の池は市が整備して史蹟公園になりました。
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江戸名所図会の泉龍寺です。手前が多摩川で境内の弁天池は振り袖火事でも枯れなかった事で貴重な泉だったそうです。でも、昭和17年以来湧水は止ってしまいました。図の出典は泉龍寺HPhttp://www.senryuji.or.jp/original4.html向こうの霞の丘が成城になります。
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狛江駅の北側の竹林の奥が弁天池で多摩川の伏流水による涸れない泉があります。右に歩けば突き当りが泉龍寺です。
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これは泉龍寺境内にある弁天池の説明板です。東大寺を創建した良弁僧正が開いた泉である事、如何なる旱魃でも水量豊かに水が湧いたこと「和泉」の地名の根拠である事弁財天は元禄時代の祠である事。近隣開発で昭和47年以来枯れてしまった事等記されていました。
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池の中島に祠があって、弁財天が祀られています。
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弁財天前から泉龍寺境内を望む。右の観音様の彼方の建物が泉龍寺の庫裏です。
1月4日午後2時泉龍寺の庫裏で従兄弟の菅原師に会いたかったのでしたが、年始回りにお出かけと云う事でお嫁さんに挨拶しました。母方の祖母は母以上に腰が曲がったお婆様でした。庫裏の暗闇から出て来られると子ども心に怖いモノでした。
でも、お百姓は得意だったようで、鳥小屋に行って卵をとって来て、境内の畑で栽培した野菜を料理して生意気な外孫に食べさせてくれました。私は母の生前に再三母を車で送って来ました。母の兄は先の大戦でフィリッピンに出征し、帰国出来なかったのでした。従兄弟が住職になるまで、寺族こそ居たが、兼任住職に頼っていたのでした。従兄弟は無事に東大を卒業し、母は甥が立職して泉龍寺の住職になった時の悦びは大きなモノがありました。そしてフィリッピンに出かけて川原の小石を拾って帰り、ました。(小石を遺骨として祀ったのでした)
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泉龍寺の楼門横の六地蔵尊
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泉龍寺と稲荷池の間の道路から境内を視る。
昨年の法要の後の精進落しの席でも菅原師とは親しく懐かしく話をしたのでしたが、泉龍寺の居間でユックリ話たかったのでしたが・・・・。
私の記憶していた境内畑は墓地に変り、その端は市役所の施設になったようです。従兄弟のは息子を副住職にし、副住職のお嫁さんにお会いできました。お嫁さんは帰り際に私に「お年賀」を下さいました。屹度菅原師が使っている年賀の品でしょう。お寺のお年賀と云えば、タオルか手拭かお線香が普通です。
家に帰ると食卓でワイフが嬉しそうな声を発しました。戴いたお年賀の封筒を開けたのでした。犬のチョコレートに絵馬の様なプリントがされた「貼りカイロ」に「金箔入り梅こぶ茶」が入っていました。どれも遊び心に富んだ入れ物に入っています。
屹度企画会社が製作してお寺に売り込んだモノでしょう。でも昔話をしたいと思って訪れた私の気持ちを見透かしたようなお年賀品でした。
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泉龍寺のお年賀品。右下がカイロその上がチョコレートと梅昆布茶です。ポチ袋に達磨がご愛嬌です。
昨今は、都会でもお寺さんは問題を抱えているようです。第一は無縁墓が増えて、経営的に不安定である事、お墓は法律的に墓地自体の所有権は寺(法人)にあって、墓として使用貸借であると割り切って、裁判所に届け出て使用貸借の打ち切りを宣言すれば、一定期間を経て、墓地の区画整理に入れます。でも、世間の眼は冷たいし、「あの世の事も金次第」と悪口を叩かれます。今後核家族化、老人単身世帯が増える一方でしょうから、無縁墓地は増えるは引き取り手の無い「お骨」が増える事でしょう。。そんな経営的逆境にあって、我が従兄弟は知恵を振り絞って旧知のお檀家を大事にしているようです。先年も「泉龍寺のきのこ」を上梓され、私にも寄贈して下さいました。屹度お檀家にも配布したのでしょう。境内地は鬱蒼とした武蔵野林です。茸が生育するには格好の環境です。墓地にヒョッコリ茸が顔を出すのを視るのも墓参りの楽しみでしょう。
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12月23日(天皇誕生日)はかねて計画通り、池袋に出かけました。第一の目的は「水天宮」門前の「田の神様」を拝す事です。次いで立教大学に回ってチャペルでパイプオルガンを聞いてクリスマスツリーの点灯を観る事です。
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此方が池袋駅東口線路脇公園の北にある水天宮前の「田の神」さんです。昨年も年末に参拝しました。一年無事にご飯を美味しく戴いた感謝です。今回は何時頃誰が奉納したか突き詰めようと神様の背中を確認したのですが何も刻まれていませんでした。田の神様の手前右にはソープランド「千姫」があって、如何にも池袋らしい盛り場です。
「田の神様」に参詣して、ランチはビックカメラ裏にあるベトナム料理店にしようと思ってサンシャイン通りを「サンシャインプリンス」に向けて歩きました。街も昔とは随分とわりました。サンシャインに似た高層ビルが何本も建っているので、再三通りがけの人に「サンシャインはあのビルですね!」確認しました。
私が銀行員時代はこの高層ビル会社は大蔵検査で「債務超過と判定されながら自社事務所を高層ビルの高層階に置いている常識を疑う会社」でした。何度も苦言を呈しに通った事が想い出されます。
サンシャイン近くにある「梟の公園」には素人露天商が何組も出て「キャラクターモノの缶バッジを販売していました。外国人が缶バッジを求めて可愛い少女の店に群がっていました。秋葉原現象が東池袋に移って来たようです。
先週は世田谷のぼろ市に行ったのでしたが。池袋の公園はまるで「秋葉原のお宅文化」の燎原の火のようです。売っている人も買っている人もコスプレ大好き人間です。外国人が目立ちます。私もキャラクターのプリントされた「缶バッジ」を買いたかったのでしたが、売り子の厚化粧に気後れして買えませんでした。バッジを買ったら「帽子」に付けるのです。
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東池袋公園の梟の前で缶バッジを売る少女の店、私も帽子の飾り物に一つ欲しかったのですが。少女が眩しくて買えませんでした。
クリスマスツリーの点灯は午後4時半ですから、逆算すると午前10時過ぎに自宅を出てランチは池袋サンシャインの辺りになります。私達はベトナム料理でなくてもアジアンテーストなら何処でもいいのです。韓国料理店「伊家飯店」に入って「サンゲタン」を食べて、サンシャイン水族館に向いました。
今は午後2時立教大学のクリスマスツリーの点灯までは未だ3時間も時間潰しをしなければなりません。先日サンシャイン水族館が酸欠で大量死の事故を起こしたので気懸りだったのです。時間潰しも兼ねて水族館見物は我ながらグッドアイディアです。
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サンシャイン水族館はサンシャイン60階の隣接した中層の屋上にあります。天井を泳ぐペンギンと隣りの高層ビルがペンギンの下に見える景色は面白いモノがあります。
結論から先に言うとサンシャイン水族館は大混雑で賑わっていましたし、面白かったです。水族館の見せ方も随分変わりました。2学期が終わって最初の休日「天皇誕生日)だったことも在るのでしょう。次回はウィークデーに来てユックリジックリ見学する事にしましょう。
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此れはマングローブの海です。
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イソギンチャクの群生している熱帯の海です。
屋上にはペンギンやペリカンが飼育されていて、彼等を下から視るようになっています。空をペリカンやペンギンが泳いでいてその背景に高層ビルが林立している景色は面白いモノがあります。ペンギンの隣は最近話題の「川獺/かわうそ」が戯れています。見れば「水泳が得意なイタチ」の様なモノです。これが「河童の原型か」しみじみ眺めました。サンシャインプリンスホテルのロビーで休憩して、タクシーで立教大学に向かいました。立教大学の周囲も随分変わりました。池袋には勢いがあって開発がドンドン進んでいるのです。大学正門前にもコンビニが出来ました。私達はコンビニの珈琲サービスを飲みながら、ツリーの点灯を待ちました。東京中には数多くのクリスマスツリーがありますが立教大学のツリーが一番きれいだと確信しています。その理由は第一に樅の木が自生していて三角錐である事です。第二にはツリーの飾りつけを学生自身が行っている事です。商業主義に汚れたツリーなら豪華煌びやかなツリーは数多くあります。でも、純粋なツリーは稀です。
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此れが立教大学のクリスマスツリー二本の樅の木が並んでいてどちらもピラミッド型です。この日は三日月でした。
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此方はチャペルの内部です。昨年もクリスマスの前夜に訪れました。翌日の聖典の練習で演奏されています。その練習を見学するのが私の楽しみです。
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立教大学から池袋駅西口に向かう交差点の歩道に置かれた「ソリ+トナカイ」です。
立教大学から池袋駅西口までは歩いて帰りました。交差点前には「ソリを曳いたトナカイ」が置かれていました。撮影用のデモのようです。日中には良い子とお父さんサンタが写真に収まったようです。街には「ホワイトクリスマス」のサウンドが流れていました。家にはお腹を空かせた愛犬が待っています。今しばらく池袋の賑いを楽しみたかったのですが。迷わず帰宅しました。池袋駅西口から我家まで1時間余りです。随分便利になりました。


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豪徳寺の墓所

豪徳寺は、私の生家の盛徳寺にとって御恩のあるお寺ですし。一度はお詣りしたいと思っていたのでしたが、ツイツイそびれてしまい。12月15日私の仲人を務めて戴いた千代実相院住職佐々木一雄の墓参の後に登りました。
御恩と云うのは私の祖父母の結婚の仲人を豪徳寺の住職であった大島師が努めて下さったのでした。祖父母は結婚して直ぐに大島住職の御尽力で「盛徳寺」に晋山(住職になる事)出来ました。そんな訳ですから盛徳寺は豪徳寺に脚を向けて寝られないのでした。豪徳寺とか「井伊家」の話になると正座して聞き耳を立てたモノです。
世田谷線で山下駅で降りれば小田急線豪徳寺駅の傍です。山下駅から世田谷線の線路に沿って豪徳寺商店街を抜ければ豪徳寺の参道に出ます。豪徳寺商店街には「女城主直虎」のポスターが貼られていますし、豪徳寺も大河ドラマで脚光を浴びているようです。参拝客が目立ちました。今春は彦根の「清凉寺」に登りましたから、井伊家の墓所には春秋に登った事になります。夏に東近江の「永源寺」に行っておけば井伊家墓所三箇所を一年で巡った事になります。横浜を開港したのは「井伊直弼」ですし、井伊は好印象なのです。
豪徳寺は流石に井伊家の江戸菩提寺参道の松並木からして格式が高いモノです。
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豪徳寺商店街を抜けると世田谷線の線路に出ます。暫く線路沿いに歩いて行けば豪徳寺の松並木の参道に出ます。
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豪徳寺の三重塔
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有名な豪徳寺の招き猫)、彦根藩2代の井伊直孝が鷹狩の帰路招き猫に遭遇し、従って、落雷の災難をまぬかれた事から、同所に寺を創建した。寺の名は直孝の戒名「久昌院殿豪徳天英居士」により「豪徳寺」とした。
豪徳寺の見所は何といっても歴代藩主とその家族のお墓です。墓所入口に説明版がありますので、「井伊直孝」や「井伊直亮」と云った有名人の墓所を確認してからを観て廻ります。総じて笠婆塔が目立ちます。でも、少しずつ違います。石質も違えば、墓所の囲いも違います。勿論、石質も囲いも一番立派なのは、創建した井伊直孝の墓です。武士の墓は室町時代までは五輪塔か「宝篋印塔」でした。五輪塔は日本人の独創でしたが、宝篋印塔は印陀羅尼の経文を納めた塔がルーツで中国伝来です。宝篋印塔の墓は。公家や学者に多いのに対し江戸時代の武士は好んで笠婆塔を墓標(ストーバ)にしました。笠は屹度陣笠を模したモノでしょう。私達が井伊直孝の墓を観ていると沢山の人が寄って来ました。歴史愛好家のグループのようですが解説員がいます。ボランタリーでしょうか?中々の名調子で正妻と側室の機微に触れたりして聴衆を飽きさせません。
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右上の二つ目が二代井伊直孝の墓(北向き)中段左端が井伊直弼の墓(西向き)
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此れが彦根井伊家二代井伊直孝の墓です。井伊家の家紋(橘紋)の付いた笠塔婆塔に台座も立派な蓮台で、周囲には囲いもあって、最高の格式です。
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此方は井伊直弼の墓です。拓本の跡が汚れて居て気の毒です。直弼は横浜市民としてはモット評価して良い様に思うのですが。
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井伊家墓所、流石に壮観ですが良く見ると差別がハッキリしています。
中高齢者のグループが次々に井伊家墓所を訪問します。皆先ず「直虎」や次の「井伊直政」の墓を探しす様です。大河ドラマを観ているのでしょう。そのドラマも17日に最終回を迎え「虎松」は家康から「直政」の名を賜りました。井伊家の再興が認められ、女城主「直虎」の関係者は皆揃って「直政」に仕える事になりハッピーエンドです。副題も「石を伝えるモノ」となっていました。直虎の「遺志」を「碁石」に擬えて、直政は直虎が握っていた碁石を握りしめました。直正の子が彦根井伊藩二代の「井伊直孝」です。豪徳寺は井伊直孝が創建した寺ですから、直孝が三河井伊之谷」から直政や直虎の墓を改葬しない限り、直虎の墓は豪徳寺にはありません。皆物足りなそうな表情です。
江戸っ子には幕末維新に戦火を免れた恩人が居ます。一人が「勝海舟」でもう一人が「井伊直弼」でした。NHKでは1963年「花の生涯」を大河ドラマにして、我国植民地化の危機を未然に防いだ井伊直弼を顕彰しました。
NHKの大河ドラマが史実を離れてファンタジー化する事に年々危惧を強めながらも。この一年間楽しませて戴きました。もう柴崎コウさんの額の皴を見なくて済みます。



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