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楽しみな「圓朝祭り)

私は江戸文化が好きでありながら、判らないことがあります。
落語家、講談師の違いは解りますが、噺家となると・・・、どう違うのでしょうか?
落語家も講談師も含めて、お喋り、お話を職業とした人が噺家なのでしょうか?
 
8月11日は初代「三遊亭圓朝」の命日で、法要(圓朝忌)が行われてきました。
圓朝さん(本名/出淵次郎吉)は1839年(天保10年)に生まれて、明治にかけて活躍した、
別格の旨さを評された落語家でした。
でも、お笑い(滑稽話)よりも、人情噺や怪談噺が得意でしたから・・・・・・、
落語家と言われていますが、講談師に近かったのではないでしょうか?
特に「牡丹灯篭」「真景累ヶ淵」「怪談乳房榎」など怪談噺(何れも新作)を得意にしました。
ですから・・・・・、落語家というより噺家と云うのが適当なような気がします。
 
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         圓朝さんが眠る下谷の全生庵。正面本堂の1階が座禅場で此処で落語会が催されます。
 
噺家の新作ですから・・・・・・、当然のように「口語体(現文一致体)」で書かれました。
圓朝さんの新作噺が二葉亭四迷に影響を与え、「浮雲」を口語体で発表させましたし、
我が国近代文学に多大な影響を与えた人でした。
 
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  初代三遊亭圓朝さんの墓。法要は8月11日に行われるのでしょう。昨年の卒塔婆が立っていました。
  施主は日本落語協会とその関係者でありました。
  戒名は「三遊亭圓朝無舌居士」と刻まれていました。
  「無舌」とは噺家としては二人と無い・・、といった意味で  しょう。
 
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      線香たて(蓮の台の形をしています)、水差し(四方仏が刻まれています)
      共に、趣味の良さを伺わせていました。
 
江戸時代には様々な話芸があったものの…、現在は落語の一人勝ちです。
講談などの話芸が今も盛んなら・・・・、圓朝さんを落語家とは呼ばなかった事でしょう。
 
 
平成14年(2002)、(社)落語協会は落語協会は圓朝忌を企画替えして「圓朝祭り」にしました。
実施日も8月の第一日曜日(今年は8月5日)に変更しました。
(社)落語協会のファン感謝祭であり、江戸の下町「下谷」の町興しイベントです。
 
私と家内は朝8時半に圓朝さんのお墓まりを終え、圓朝祭りに出かけました。
会場は圓朝さんのお墓から見下ろせる、「下谷防災広場・ 初音の森」に用意されていました。
 
開場の1時間前なのに…、すでに200m程の長蛇の列です。
お客さんのお目当ては「福扇」なのです。
「福を招く扇子」を先着順に販売します。
福扇には福引きも付いていて、当りが期待できるのです。
 
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     手前は演芸台、向こうは福扇を求めようと並んだ人たち。正面の森の下に圓朝さんのお墓があります。
     森の向こうに屋根が全生庵の本堂です。
 
「落語協会」は総力を上げているようで、前座ばかりでは無く、TVで見知った顔も揃っているようです。
「凄いですね!こんなに芸達者を集めたら・・・、何処の落語会場も…、閉店ではありませんか?」
訊けば、
「此処に集まっているのはくだらない芸人ばかりですから…支障はありませんよ」
「本当かな?」
圓朝さんの菩提寺「全生庵」では11時、13時に坐禅道場で落語を演じる予定です。
この日ばかりは落語を聞きたい人は池の端から下谷まで足を延ばすのでしょう。
 
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       20近いテントで様々なグッズの販売や焼き鳥等の模擬店がありました。
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                                        似顔絵のサービスもあります。
 
落語家さんは口達者であり、芸達者です。
似顔絵もあれば団扇やストラップなど様々なグッズを販売しています。
落語ファンからすれば、直に交流できる楽しい一日なのでしょう。
女性の落語家も随分多くいます。
女性は落語が好きですから・・・・、女性の落語家が増えてきたのは自然なことなのでしょう。
 
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                                圓朝さんの十八番「四谷怪談」をもじった「四葉」のストラップ
 
 
圓朝忌から「圓朝祭り」に架け替えする時には色々意見もあったでしょうが・・・、
圓朝さんは後進がファンと一緒に交流するお祭りが自分の名前で、自分のお墓の下で催される事に満足している事でしょう。
 
掻き氷をを戴きました。
見上げると掻き氷と同じような、百日紅の花が咲いていました。
 
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                     圓朝祭り会場には百日紅が咲いていました。氷イチゴのようです。
 
 
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今朝(7月23日)から町内のラジオ体操です。
元々子供会(町内会の一組織)が主催していた早朝ラジオ体操に、
父兄も参加しよう・・・、ということで町内会も相乗りさせていただきました。
未だ、涼しい鎮守の木の下でラジオ体操する清々しさは格別です。
 
体を動かすと体の節々、特に肩の骨がゴリゴリ音を立てます。
久々の体操は使わなかった筋肉や骨に憑りついていた錆を剥がすようです。
体を動かしていなかったから・・・・、特に手術後は前屈みでした、その証拠でしょう。
 
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                                     今朝から始まった町内ラジオ体操
 
7月21日(土)は慶応大学日本文化研究会の同期Aさん(旧名B嬢)の書を観に、
上野の東京都美術館に出かけました。
 
今から46年前大学で私達は知り合いました。
個々人は興味がある分野、例えば仏像、古建築、伝統演劇・・・・、などなどを選択し、同好の仲間と研究したり見学したりしていました。
でも、全体では共通するテーマを決めて1年間研究を進め、三田祭で発表していました。
私が1年の時は「日本社会の構造(縦社会の人間関係)」、2年の時は「無常文化の系譜」がテーマでした。
沢山の見学者が集まりました。
良く誉められました。
 
研究の内容が誉められたのか?
それよりも発表の書体を評価されました。
毛筆で、黒いパネルに白いポスターカラーで書かれていました。
「今時、こんなに立派な字を書く学生が慶応にはいるのか!」
観る人の驚きだったようでした。
 
実は、日本文化研究会には書道を究めよう・・・、そんな学生が沢山いたのでした。
Aさんもそんな才能溢れるお嬢様でした。
屹度、良い指導者に恵まれていたのでしょう。
 
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                                         毎日書道展の展示場風景
 
東京都美術館は赤煉瓦作りは変わらなくても、新しくなって、洗練された建物になっていました。
10時だというのに、もう長蛇の列です。
でも、行列は「フェルメール展」に集まった人々で、
Aさんの作品が展示されている「毎日書道展」は鑑賞に程良い混雑状況でした。
 
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                              開場早々、45分待ちの案内がなされた「フェルメール展」
 
「毎日書道展」は日本最大規模の書道公募展です。
今年で第64回になりますから・・・、Aさんと同じ齢になります。
戦後間もなく新聞社が始めた文化事業だったのでしょう。
Aさんは昨年日本書道美術院展で「毎日新聞社賞」を受賞したそうです。
 
毎日書道展では受賞者の展示は国立新美術館、入選者の作品展示は東京都美術館で行うのだそうです。
来年こそ国立新美術館で展示されたい・・・・、Aさんは意気軒昂で・・・・、
書道への情熱は一生ものと見受けられました。
 
漢字、仮名、大字書、前衛もあれば、篆刻もある。
現代書は様々な形と自己表現をしていることに驚きます。
加えて「書」を大事にする人が多いことに驚きます。
ワープロ全盛の時代に、一方では書が沢山の人に支持されている事実を知ります。
そして、Aさんは学生時代からズット筆を離さなかったのでした。
 
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Aさんの作品は上の写真でした。
楷書風の文字に見慣れた私達でしたが、Aさんは仮名文字を好きだったのか…初めて知りました。
 
平安仮名で書かれています。
「何て読むの?」質問を予想し、仮名文字で書いてもくれました。(下の写真)
  朝日さす稲田の果ての白壁に
      一叢もみじ、燃えまさる見ゆ
 
「誰の歌なの?」次の質問を予測して仮名文字には「会津八一」と記されています。
この歌は南京余唱に「奈良に向かう汽車の中で・・・」と頭書きして載っています。
 
原文は会津八一ですから、平仮名だけで表現されています。
万葉の調べを平安仮名で表したのはAさんの感性でしょう。
Aさんは紅葉を意識して、表装の色を決めたそうです。
書をみて、紅の表装を見ると、一見して「和泉式部かな?」思ったりしますが・・・・、
真逆な会津八一です。
 
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会津八一は私達の誰もが敬愛する歌人です。
大和が好きな私達は度々一緒に奈良を訪れ、古寺を巡り、古仏に対峙しました。
和辻哲郎も亀井勝一郎も愛読したけれど、文化に親しむ歓びを教えてくれたのは会津八一の「鹿鳴集」でした。
私は保存用、読書用、二冊の鹿鳴集を持っています。
大半の歌を諳んじていましたし、歌碑を探して、石に刻まれたその書を眺めました。
美しい大和言葉と流れる音楽のような文字に親しみました。
 
Aさんは「朝日」「白壁」「もみじ」のあい為す色彩に感動して、この歌を書道展の題にしたのだそうです。
 
会津八一は夜汽車に乗って、晩秋の大和に向かいました。
関西本線は笠置から木津川に沿って渓谷を走ります。
木津駅を過ぎれば次は平城山駅、そして奈良駅に着きます。
「また、晩秋の奈良に来ることができた!」八一は子供のように心躍っていたことでしょう。
 
山峡に朝日が差し込みます。
河岸段丘に刈り終えた稲穂が天日干しされています。
稲田の上には大和民家の白壁が眩しく光っています。
見れば、白壁の切れる辺りに紅葉が朝日を浴びて、燃えるように輝いています。
八一は美しい、輝かしい大和の風景を描写し、同時に心のトキメキを表現したのでした。
 
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                                     展示場で意見を述べ合う私の仲間。
 
私達の時代は夜11時頃横浜を出発し(急行銀河)薄暗い明け方に京都に着きました。
近鉄に乗り換え、奈良に向かいます。
木津川を超えれば「秋篠駅」に着きます。
大和棟の民家が見えます。
西大寺駅の次が新大宮駅、そして近鉄奈良駅に着きました。
そして、会津八一が書いた看板のかかる「日吉館」に入りました。
 
Aさんが会津八一の歌を題にしたのは・・・・・、
「私は少しも昔と変わっていません・・・」
そんなメッセージを伝えているのでしょう。
でも、Aさんはそんなことは全く意識していないことでしょう。
 
でも、私は多くの才能や興味を失ってしまいました。
あの頃はスケッチブックと水彩絵の具が必携で旅をしたのに…、今はデジカメだけです。
安易にシャッターを押し、ジッと見つめる事をしません。
時折、絵筆を取っても・・・、余りの下手さ加減に自己嫌悪に陥って、筆を投げ出してしまいます。
 
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                    筆者が描いた大和民家。もう大昔の作品です。
 
学生の頃に、せめて気持ちだけでも戻りたいものです。
ラジオ体操をすれば、その時の清々しさを思い出します。
鹿鳴集のページをめくれば・・・・・、あのころの燃え立つ血潮を呼び覚ましてくれます。
 
Aさんの書に「若き血」を思い出し、納戸の中から旧作(上の団扇)を取り出してみました。
 
 
 
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昨日も今朝もラジオは国会を中継しています。
野田首相は「(消費税をあげなくては)この国は持ちません」 力説して頭を垂れます。
一方野党は、民主党の公約は全敗である。"詐欺のような公約で政権を奪取したのだから・・・・、"
もうその先の解散総選挙を迫ります。
私たちは誰もが解っています。消費税を10%にしてもこの国は持ちません、せめて25%にしなくては・・・。
先ず国会の定数を削減して歳出削減をしなくては・・・、
でも、歳出削減のシナリオを作って、実施する気配は全く見えません。
 
私は、1657年「明暦の大火」を思い出します。
 
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                                         明暦の大火(wikipediaから転載)
 
江戸本郷にある本妙寺では施餓鬼会で振袖も焼いていました。
振袖を火元にして江戸の町の三分の二が焼け落ち、10万人の死者が出ました。
江戸城本丸も焼け落ちてしまいました。
 
江戸町民は日本一の大きさ、5層の天守閣を仰ぎ見て生活していましたし、
お城の彼方に見える富士山を信仰していましたから・・・・・、天守閣の再建を期待し、確信していました。
 
将軍は徳川家綱(3代家光の子)、補佐したのが家光の弟「保科正之」でした。
保科正之は江戸城天守閣の再建を認めません。
江戸城を再建すれば・・・、町人の住まいの再建が難くなるではないか。
江戸の町の再建を優先し、広小路を造り・・・、火災に強い都市に作り変えます。
更に、玉川上水を江戸市中に引き込み、水道の整備を図ります。
保科正之には「武断政治」の象徴が高層の天守閣に見えていたのでしょう。
これからの政治は「文治」を旨とする・・・・、その為には敢えて天守閣を再建しない事を誓ったのでした。
 
以来、江戸城は日本一の大きさを誇り、幕府の中枢であり、本丸はその象徴でありながら・・・、
本丸は4再建されていません。
将軍も、武士(官僚)も本丸の石垣を眺めながら・・・・、期待される政治に邁進すべく自らを諌めた事でしょう。
それが、朱子学の考え方「仁を以て、民を第一に政治をとる」ことだったのでしょう。
「生活が第一」民主党の公約に似ていますが、実行力がまるで違いました。
 
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  葛飾北斎作「富嶽三十六景」の中から江戸日本橋。日本橋の黒い擬宝珠が見えます。日本橋川の向こうは  外堀に繋がります。倉庫街の彼方に江戸城天守閣が見えてその彼方に富士山が仰ぎ見られる江戸っ子の   大好きな景色です。でも、北斎は元禄時代の絵師、実際は江戸城の天守閣はなくこの部分は青い空でした。  江戸っ子は天守閣の無い江戸城を仰ぎ見て、将軍や江戸幕府に信頼を置いたものと思われます。
  今はこのアングルは首都高の橋脚によって視覚が塞がれています。
 
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                                 明暦の大火以後敢えて再建されない江戸城本丸。
 
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  文京区の区庁舎から江戸城方面を見る。わずかに外堀がビルの隙間から覗けました。
  富士山は大山の上に聳えているはずです。
 
保科正之の復興対策が功を奏し、江戸の町は見る見る復興し(元禄復興)、
幕末には200万都市に成長してゆきます。
直後に元禄時代が実現し、江戸の町には明暦大火の傷跡は無いばかりか・・・、
香り高く元禄文化が花咲きます。
江戸の町が「農業・商業・住宅」の循環都市であり、極めて上手にエコが実現されていたのでした。
最近はよく話題になります。
 
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  小石川植物園(三戸徳川家下屋敷)の築地基壇の石垣には江戸城外堀の石が使われています。
  石に大名の字が刻まれています。江戸開府(1603)後、内堀が完成したのは慶長19年(1614)、外堀の完成は  寛永13年(1636年)でした。5層の江戸城天守閣の完成は寛永15年(1638年)でした。
  明暦の大火は1657年ですから、江戸城天守閣は20年しか見られなかった事になります。 
 
 
国会中継を聞いていると「日本には保科正之は再び現れないのか!」
嘆かわしく思います。
国家の再建は税収アップを優先することでは先ず不可能でしょう。
自らが身を切って歳出削減に努め、大事なポイントに、民生に資本を投下し・・・、民の生活が豊かになり、生産が活発になり、人口が増加し、将来に不安や憂いが無くなってこそ・・・・・、天下が緩やかに前に向かって転がり出します。
 
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   日本橋をねる12基のお神輿。江戸山王祭の風景。江戸っ子は京都の祇園祭、大阪の天神祭とともに 日本   三大祭 、と呼んでいます。保科正之は庶民(農民・町民)の復興を第一に、江戸の町の復興を果たしまし    た。現在の「経済復興」は大企業優先が目立ちすぎで、庶民の事は忘れられているようです。
   何故、庶民の選んだ政治家が庶民の為の政治を軽んじてしまうのか? 
   二代将軍秀忠の倅「保科正之」が庶民のための政治をしたのか・・・、まるで訳が解りません。
 
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