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東京ウォーキング

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私の祖母(竹内ノブ)は世田谷弦巻にある「実相院」の次女でした。大変な頑張り屋さんで且つハイカラな女性でした。私は祖母の白寿記念と一周忌に遺稿集を編纂したのでしたが、当時慶応大学経済学部の教授であった佐々木一雄教授に寄稿をお願いした処、御快諾頂き大変優秀な叔母で「今もぼろ市通りにある「桜小学校」の職員室には「佐々木ノブの優等賞證書」が展示してある」紹介してくれました。
祖母に話を聞くと「代官屋敷の娘と何かにつけて競っていたそうで、代官の娘を先生が贔屓して、自分より良い評価を受けると職員室に抗議に行ったそうです。私にもそんなガッツがあったならば人生は随分変わっていたでしょう。
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祖母「竹内ノブの一周忌に編纂した「遺稿集」祖母の和歌の他、親戚の方々から寄稿して戴きました。
佐々木一雄先生のお墓参りも兼ねて「名物のぼろ市」を観に行きました。ぼろ市の後は近くの豪徳寺に寄る計画にしました。豪徳寺の住職梅田師が祖母「ノブ」と当時「赤坂の豊川稲荷」の僧であった竹内周三の仲人であった、耳に蛸が出来るほど聞かされていたからです。因みに私の母竹内一江は豪徳寺から少し南の狛江の泉龍寺の長女でした。そんなわけで、私の親戚は多くが首都圏の曹洞宗の住職です。
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此れはぼろ市の案内マップに実相院の位置を加えたモノです。
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此れは実相院の多宝塔です。多宝塔の西にある赤松は実相院のシンボルツリーです。何せ山号は「鶴松山」というのですから。
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向こうが実相院の本堂です。名物と云えば「高橋是清」の墓くらいでしたが、昨今では近隣が開発し尽くされ、「お城」と愛称される程の緑が目立ちます。お城とは蟄居した吉良家が此処で生活していたからです。三河の吉良家の家臣が「お城」と呼んで慕っていたのでしょう。
私達夫婦は実相院住職で慶応教授で居られた佐々木一雄師の仲人で結婚しました。この時点では私の親族は私も何処かの寺の住職になるモノと思っていたと思われます。
私は出掛けに仏壇に手を合わせました。「お婆ちゃん今日はぼろ市に行って代官餅を買って来るからね!」私は祖母の喜ぶ顔を想像しながら仏前にお餅を供える予定で出かけました。
田園調布駅から世田谷区役所行のバスに乗って桜小学校前で降りれば実相院の裏門の積りでいたのですが其処はぼろ市の飛び地で道路は歩けない混雑でした加えて「代官行列」がスタートする時刻でした。佐々木一雄師の墓参りを終えて、いよいよぼろ市の見物をしました。
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此れは東急線の中吊広告です。ぼろ市は歳末と正月明けに二日づつ開催されるのです。
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此れが「ボロ市通り」です。通理に懸った横断幕に駅や代官屋敷等の案内が出ています。
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此れは世田谷代官屋敷この右(南)側に世田谷博物館があります。
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此れは世田谷博物館の庭に展示された石塔、流石に庚申塔も秀作です。「大山道」の道標は「世田谷通り」が大山神社の参詣道であった事を示しています。
一通り。ぼろ市を観て博物館を観たら腹も空いて来ました。其処で、「代官餅」に向かいました。ところが代官餅は長蛇の列です。係員に訊けば2時間待ちとの事。
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代官餅に並んだ行列。
とても寒風吹きさらす中2時間も腹を空かせて並ぶ事は断念しました。手には苔桃(藪こうじ植え込み)を買って、ランチは次の目的地豪徳寺でとる事にしました。
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此れがぼろ市で求めた「藪こうじ」です。蜂に植え替える事も考えたのですが苔玉ごと母の残した抹茶茶わんに投げ込みました。「仏壇から”楽しみに代官餅を待っていたのに。苔玉なんて食べられないじゃないの!怨嗟の声がしそうです。

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柿の木坂東光寺で「田の神様」を詣でて私達は九品仏に向かいました。九品仏は元々は吉良家の「奥沢城の跡に「浄真寺」を建立したモノです。現在の自由が丘駅は東急線開通当時は「九品仏駅」だったものを、大正時代に現駅名に変えて、お洒落な街のコアになったのだそうです。九品仏の駅名は大井町線に残されています。九品仏の品とは上品とか下品と云う品の事で、人間の生まれを3つ育ちも3つに区分しあの世に置いても「九品 浄土(9の等級に分けられた浄土)や九品蓮台(同様の蓮台)」があると説明しているのです。「個性尊重、平等」を共通認識とする現代にはそぐわないとも思いますが。人間には様々なタイプの人が居るのは事実です。。浄土教 では極楽往生の際に九つの階位を表しており、人の往生には「上品・中品・下品」の3つがあり、 さらにそれぞれの下位に「上生・中生・下生」あり、合計9ランクの往生があると説いています。私は下品下生」ですから、下品下生の阿弥陀様に往生をお願いしなくてはなりません。何度も登っている九品仏ですが、来るたびに楽しみや発見があるモノです。都内でこんなに武蔵野の気分が味わえる処は滅多にありません。九品仏か、池上本門寺か、洗足池か井の頭公園位です。でも、指折り数えると随分沢山あります。寺も神社も来る人を拒みませんから、公園の様なモノです。日本の都市は公園が少ないので、マンションや宅地開発をする時には、公園や緑地割合を義務付けて来ましたが、こうした寺社を公園だと思えば欧米以上に公園や緑地割合が高いので、今後はこうした規制を廃止して、保育所や託児所等の施設設置を義務付けたら良いような気がします。
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東急大井町線九品仏駅から九品仏に向かう。参道の突き当りが九品仏の玄関「般舟場」の扁額の罹った西門。「般舟場」とは「般舟」とは般舟三昧の事で「つねに行道念仏して現前 に諸仏を見奉るを言うそうで、扁額は二世珂憶の高弟珂慶 上人筆と説明してありました。右側の矢板で囲っているのは何かと思えば「目黒区」が施設を新築していました。
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西門を入るとお地蔵様が迎えてくれました。小さな手で銀杏の葉を握っておいででした。
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お地蔵様の東側は閻魔堂で閻魔様が祀られています。「何れお世話になりますが、出来る限りお呼びになるのは遅くして下さい」お願いしましたが。
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閻魔様の左隣には奪衣婆がおいででした。今年は立山で安曇野(観松院)で閻魔様に奪衣婆に挨拶しました。
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此れは九品仏の仁王門です。仁王像は中々の迫力です。
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仁王門の脇 北側)には4基の庚申塔が置かれています。最初から此処に祀られていたわけでは無く、奥沢村か目黒街道沿いに祀られていた石仏を九品仏に遷座したのでしょう。この正面にベンチがあるので何時もこのベンチに腰かけて庚申塔に「最近は正直に生きています」報告しながらお茶を飲みます。
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屹度自由が丘で挙式・宴席するカップルなのでしょう。最近は中国や韓国スタイルで、記念写真を九品仏で撮影していました。化粧直しする様子を見て上品なれども「下生」だな思いました。
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此方は東側におられる「薬師如来です。この薬師さまと相対する位置に九体の阿弥陀如来が祀られています。約如来の瑠璃光浄土表現するように天蓋や欄間彫刻が絢爛と輝いています。
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薬師如来を横から見上げると驚くほど怖い表情です。というのは薬師如来は丈六である上に須弥壇上におられますので、目線が下向きなのです。近くでそれも横から見上げる事は想定していないので写真の様に目が吊りあがって見えてしまうのでしょう。
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此方は本堂と正対する位置に建っている三棟の阿弥陀堂の中で中央の上品のお堂、三体の丈六の阿弥陀様が並んででおいでですが中央が(上生)左が中生で右が下生です。前机に飾られた蓮について増上寺と知恩院から寄贈されていますがどちらも「大本山」とされています。浄土宗には本山が7つも在るので、知恩院だけが「総本山」と自称しています。その為でしょうか?増上寺の札が大きくなっていました。こんなことに気付くのは私が坊主の子倅の性分が抜けていないからでしょう。
中央の上品堂の阿弥陀様はこの春登った時は芸大に遷座されてお留守でしたがこの日は三体とも所定の位置に戻っていました。前机に飾られた花傘は修理後の開眼法要の時に奉げられたものでしょう。この日は中品堂の阿弥陀様が遷座されていました。中品堂の阿弥陀様の修理が終えたら次は下品堂です。私は自身の生まれが下品で育ちも下生だから下品堂の右側「下品下生」の阿弥陀様が私の願いを聞いて下さる思って下品堂に回ると修理前の阿弥陀様を観たいと思ってか、お客様が上品堂より混んでいました。それとも下級老人が多い所為でしょうか?今年の流行語がもうじき発表されるでしょう。「下級老人」嫌な言葉です。下品下生よりも嫌な言葉です。昭和50年代は全国民が「中品中生」と自覚して、それなりに生甲斐を感じていたのですが、昨今は少数の上品上生が出現して。多くの人が中品中生から下品下生に落下しています。
下品堂から出ると先刻遇った新婚カップルが境内を歩いていました。
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下品堂の前を歩いて帰ろうとする新婚カップル。紅葉も精一杯喝采している様に輝いて見えました。
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此方は中品堂の前の萱の巨木と紅葉。緑が濃いから紅葉も綺麗に見えます。
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此れから修理を開始する下品堂では、勧進(寄付)を募っていました。阿弥陀様の光背に付けられる懸仏(化仏)と書いています。に勧進すると名が記されるというのです。立派な阿弥陀様ですが国の文化財指定は受けていないので修理費は九品仏が工面するか東京都の支援受けなければなりません
東京都の文化財指定を受けている。今回の修理で何か発見があれば重文指定を受ける可能性は高いと思います。近年江戸時代の文化財は絵画を中心に評価が高くなっていますが仏像は鎌倉時代までで、その後の評価は悲しい程低いのです。



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自由が丘の日陰

九品仏の参道東側には交番があって、その横に何時も行列が出来ているケーキ屋さんがあります。この日も行には行列が出来ていました九品仏の境内を歩き回って帰り道、私達は珈琲ブレイクをしたくなりました。ケーキ屋さんに入ると「今の時間はケーキバイキングオンリーです」と断れてしまいました。メニューを観ればケーキバイキングは2500円です。ケーキは食べたし、でもバイキングは「下品下生」の私には不適当です。「また来ます!」言って自由が丘で珈琲を戴く事にしました。
ワイフは言います。「自由が丘で珈琲にしようと云う事はモンブランに行こうと思っているのではないの!アソコは昔は、貴方の好きな自由が丘夫人が来ても今はもうみんなお婆さんよ!」
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此れは九品仏参道入口にあるケーキ屋さん(スブニール)の窓
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入ってみると、この時間はケーキバイキングオンリーでした。
自由が丘駅前広場は私の学生時代と変わりません。変ったのはお店の名とこの後廻った駅東です。駅東は奥沢の閑静な住宅地でしたが今は駅西の賑いが伝って来たようです。
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自由が丘駅前に建つ自由の女神像、自由が丘のシンボルです。
自由が丘駅前の自由の女神像彫刻家の澤田政廣氏の作品だそうで台座には「青空」と記されていました。NYの「自由の女神と」違って自由が丘の女神は翼を背負っています。青空に飛び立つのでしょう。
「澤田政広」と云えば熱海の梅園の中に美術館(https://www.ataminews.gr.jp/spot/118/)があります。仏教や神話をテーマにした木彫が多かった記憶があります。モンブランの包装紙をデザインした東郷清青児(二科展のドン)とも意気投合して昭和デモクラシーの時代に「自由が丘」の街づくりに力を合わせたのでしょう。昭和初年には猪熊源一郎が三越の包装紙をデザインし、東郷清児がモンブランのをデザインしました。
西ヨーロッパのとアール・ヌーヴォーが日本にも伝わって「ミュシャ」のような活動を日本のアーティストにも期待したのでしょう。
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自由が丘モンブランの店内の壁絵、東郷青児のミューズの様な女性が誘います。喫茶室も東郷画伯の真作がさりげなく懸けられています。名画を観ながら珈琲+ケーキは至福の時間でしょう。でもデフレの現代至福の時間を過ごせる人は稀です。
ワイフは「自由が丘デパートに行こう!」誘います。自由の女神像から見ればロータリーの向い側、東横線の高架下とモンブラン通りとの間に羊羹の様に細長いビルがあり「自由が丘デパート」の看板が懸けられています。
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此れが自由が丘デパートです。昭和一桁の匂いが残っていて楽しい事請け合いです。角の店は雑貨屋さんで義母も贔屓のお店だったそうです。
ワイフの話では、義母はこのデパートが好きで「煮豆」だとか「食器やお鍋も」このデパートで買ってきたそうです。デパートと云うより「公設市場街」といった感じで「築地場外の商店が自由が丘に残っていて「地下1階地上2階のモルタル作りモール」のような感じです。モールを歩いて想い出しました。
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草履や下駄花緒の専門店
新宿の西口の高架下にも 「思い出横丁」と云う名の飲屋が街がありました。大阪南には「法善寺横丁」があります。同じような昭和の超レトロなモールです。
新宿や大阪のそれは「酒飲み横丁」であるのに対し自由が丘デパートは「生活グッズ」の販売店が並んでいます。義母が贔屓にしていた雑貨屋や履物屋はまだ健在のようでしたが、随分歯抜けになっていました。自由が丘に来る客層も齢を取って、此処まで歩いて来れないのでしょう。でも、スマートフォンや腕時計の電池交換等のお店が目立っているのは時代の波でしょう。
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テナント募集中の空きスペース。LPレコードを置いてあるのは「モールの経営会社の提案でしょうか?」
退転した店の跡には「テナント募集」の看板が貼られています。私なら「この2坪くらいの空間で何を商うか?」考えてみます。西新宿の「飲兵衛横丁の脇には『縁起屋』と云う名の繁盛店がありました。縁起物の小モノを商っていました。黄色い鰐皮お財布に可愛い招き猫等が並んでいました。縁起モノ小モノ店も良し「占い」コーナーも良さそうです。自由が丘夫人やお嬢さんに評価される「占い」をしようかな?思いながら「大鳥神社」や豪徳寺や「浅草寺」のお札の取次も需要がありそうな気がします。友人が「高齢医療保険の相談」で手伝ってくれそうでもあります。友人が保険を販売して、私が縁起物を小売して。何か楽しそうです。
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自由が丘デパートを出ると向かいがモンブランです。
自由が丘デパートを出れば目の前がモンブランでポルシェが違法駐車しています。モンブランに入って喫茶は止めて、ケーキを買って家で戴く事にしました。
ワイフが言います。「駅東は随分変わったそうよ!」私は駅東で喫茶することにして今しばらく自由が丘の空気を吸う事にしました。
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自由が丘駅東の緑道に据えられたクリスマスツリー、女学生は甘味をテークアウトしてベンチで食べていました。ツリーの点灯は午後4時だそうです。



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6月29日に上野公園に出かけました。目的は二つ、第一はブリューゲルの「バベルの塔」を観る事でした。
「バベルの塔」は旧約聖書のテーマの一つで、ヘブライ人が驕り昂ぶり、天に届く塔を築いたことに怒った神が塔を壊された伝説を絵にしたものでした。ブリューゲルは今のベルギーに住んでいた近世初頭の農民画家で、中世社会が崩れ近世の息吹が活発になる時代、宗教改革の時代に本来は砂漠の中に屹立していた塔を緑の濃いネーデルランドに描いて見せたモノでした。
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此れがブリューゲルのバベルの塔です。小さな画面で精密な絵ですから。展覧会はこの絵の前で人波が止まってしまいます。でもパネルで拡大したり模型展示をしたりして、楽しませてくれます。
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新装なった東京都美術館の賑い。
宗教改革は「キリストの原点回帰運動だった」と思えば神が怒るような活動では無かったのでしょうが、ブリューゲルにとっては科学やテクノロジーへの過信が問題だったのかもしれません。
「バベルの塔」が人気なのも、現代社会がそんな懸念を多分に持っていると多くの人が危惧しているのでしょう。展覧会の印象は後日書く事にしましょう。と云うのは今テッドチャンの「貴方の人生の物語早川書房」を読んでいるからですブックカバーには「映画メッセージの原作」と案内されています。この秋にも放映されるでしょうから、その前に読んでしまいたいと思ったのでした。
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これがテッドチャンのバベルの塔を素材にした空想歴史科学小説。塔の横にオスプレイが飛んでいます。現代文明への風刺がテーマです。
私のプランは上の博物館の平成館で「タイの仏像展」も観るモノでした。そこで、東京都美術館と東京都博物館の間に在る、東京芸大の学生食堂でランチすることにしました。
ランチの楽しみは美味しいモノで腹を満たすことと、同時に若さと熱に満ちた学生の醸す空気を吸う事です。勿論コスパも魅力です。
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タイの仏像展も観る積りでしたが7,8月でした。
最近の芸大は面白いと思います。今春、琵琶湖の仏像展を観た時に痛感しました。
私の学生時代は和辻哲郎や亀井勝一郎や会津八一が人気だった時代、ギリシャローマの古典的な美術眼で仏像を鑑賞するか、抒情的な日本人の宗教観に基づいて仏像の心を探るかどちらかでした。でも、一応は私も学士ですから、そのどちらでも満足しません。美術美学史的な見方でも戦争で病んだ心で仏像を仰ぎ見るのも知的に不満足でした。ところが芸大の展示は琵琶湖の地勢や風土の中に仏像を置いて民俗学的に、地域文化の核として11面観音を置いているのでした。人文学の中に仏像を置いて放射性同位元素等の科学的洞察を加えて仏像を解析しようとする姿勢に感心しました。
今次のバベルの塔についても芸大では建築模型を作って「ブリューゲルのバベルの塔は技術的に建築不能」であるとの結論を導き出しました『Study of BABEL/http://www.geidai.ac.jp/news/2017050856149.html
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私達の文部省愛唱歌を作成したのが芸大です、この奏楽堂で愛唱歌が作られ発表されたのでした。今松井建設施行で全面リニューアル工事中です。芸大側(西)からの眺めこっちは裏側なので屋根の上の櫓が見えません。櫓はく換気をすることに加えて正面を彩る構築物です
東京都美術館の西側は奏楽堂です。現在松井建設(一部上場)によって全面修築中です。芸大の学生の発表会場であり、同時に市民も身近に音楽を楽しめる施設としてリニューアルされるようです。
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芸大の学生食堂は生協の運営です。食品サンプルも蝋製では無くて試作品のようです。定食はご飯を子盛りにすると450円です。
芸大食堂は慶応や立教の学生食堂のようにカフェテリアスタイルではありますが、調理師さんは叔母さん揃いですし、キッチンは昔ながらの施設です。でも最高なのは硝子の外が森である事です。
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芸大食堂の魅力は窓から臨める緑の樹木です。
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食堂入口に自生しているスダジイの巨樹。
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食堂南側の森には「塩の道」と記された緑道があってその脇には岡倉天心像があります。
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天心像の東側に在る栃の大木。
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上の栃の大木の傘の下に在る青銅像。通リすがりの学生に尋ねたのですが知りませんでした。守衛に確認するとロダン作のゲーテ像だそうです。
スダジイや栃の大木を眺めながらランチできる爽快感は慶応や立教の近代施設には無い魅力です。
私達は本日のランチ(450円)を食べましたが、向かいのお嬢さんはアジフライ定食をソースをたっぷりかけてバリバリ食べて居ました。岡本太郎は『芸術は爆発だ』と喝破しましたが、『芸術はお腹が空いては出来ません』お嬢さんは色気よりも食い気のようです。
美味しくいただいて食堂前の緑を楽しみました。都会の森です。森の下道を何故か「塩の道」とネーミングしていました。塩の道の入り口には六角堂があって岡倉天心像が学生に睨みを効かせています。その東は栃の大木で巨大な銅像が立っていました。守衛さんに確認するとロダン作のゲーテ像だそうです。
ロダンは国立西洋美術館の前庭にも「考える人」「カレーの市民」「地獄門」がありま巣が、芸大の森にも「ゲーテ像」と「青銅時代」に二基があるのです。
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陳列館の前にもあるロダン作の「青銅時代」若い肉体を観ていると「青春時代/歌謡曲」を想い出しました。
飯も食ったし都会の森も観た「森」は「盛り」であるし「杜」とも書くな「杜の都は仙台で都の西北は早稲田の杜で上野も「杜」であって「森」では無いな考えました。守は神の居ますところで精神が盛り上がるのでしょう。
学生さんがスピリットを盛り上げるには緑の杜の環境が最高です。
私達は不忍池に睡蓮が咲き出したか確認しようと上野の杜を南北に縦断しました。

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4月16日は朝から西武線に乗って高麗の桜を観に行きました。
小手指まで戻ると何と東急電車が走っていました。”関東の私鉄の雄である西武と東急が相互に乗り入れているなんて、”私のサラリーマン時代は想像もし難い現実です。
ワイフと相談しました「このまま東急線に乗って九品仏の桜を観に行くか、多摩川古墳も良さそうです。でももう一案あります。昨秋観た学習院大学のキャンバスの桜を観るか。重要文化財の建物を背景に桜の古木が気になります。どんな花をつけているのか?民俗の記憶に残る最期を遂げた乃木稀助夫妻も観たであろう桜の花そのものを観たいと思いました。
「ドッチも行きたいわよ、あなたの行きたい方にすれば良いじゃない」予想通りと云うか相変わらずの返事です。
結局遠回りになりますが再び池袋駅に戻り目白駅を回って学習院大学のキャンバスに入りました。
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目白駅の東口を出れば学習院大学の門です。午後3時学生たちがそぞろ帰宅していました。
大学は新入生を迎えたばかり、「新入生歓迎」の立て看板が目立ちます。私達は新入生の父兄と云うかお爺ちゃんお婆ちゃんの様に見える事でしょう。守衛さんに「乃木会館周囲の桜を観たいので入れて下さい」お願いすると「受付簿に名前住所を記載させられ、キャンバスマップを下さいました。新入生は眩しいばかりに輝いて見えます椎の大木の根元で咲き始めたシャガや山吹のように陰でも目立っています。
時間は午後3時ソロソロ学生も授業を終えてテンデに帰宅する時刻です。外から教室を窺がうと笑い声が響いて来ました。教授も自由選択の学生が多く集まらないと評価に影響します。学生を喜ばせるようなジョークを連発しているのも知れません。カフェテラスや学生食堂では新入生を勧誘する学生が目立ちます。
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常緑樹を額縁にして桜が目立つキャンバスです。
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西2号館(学生食堂がある)の前の広場は学生たちの集う処。ベンチが沢山置かれていて青春の歓声がこだましていました。此処に身を置くだけで青春の血が巡り出すようです。
私達も半世紀前体験した熱気です。
私達は”京都でデート!”なんて云うフレーズで誘われて、同じサークルで知り合いました。『京都でデート』なんて云うフレーズはJR東海も飛びつきたくなりそうです。
私達の今日の目標は大学内の明治時代の建造物の見学です。
一番の目的は北別館で白いコロニアル建築が眩しい建物です。案内には明治42年竣工となっていまあしたから、日露戦争に勝利して明治天皇が建築費を寄贈したのかもしれません。乃木将軍もこの建物を仰ぎ見た事でしょう。その玄関横に桜の老木があります。屹度強風を受けて倒れてしまったのでしょう。横になっても桜の生命力は横溢していて次々に垂直な枝木を伸ばして現在も見事に花を咲かせています。
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これは北別館(資料館です(明治42年竣工国登録有形文化財)。板張りコロニアル建築は明治の息吹を伝えています。手前の桜は一度倒れたモノの物凄い生命力で枝を垂直に伸ばして艶やかに花を咲かせています。
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北別館の背の様子。
もう一つ大正年(1913年)に建てられた東別館があります。此方は茶色の板張り建築で2棟のアパート風の建物です。皇族の子弟が入った皇族寮でした。
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これが皇族の子弟の入った学生寮です。此れも国登録の有形文化財です。
煉瓦積みの建物はどれも国登録の有形文化財ですどれも昭和初期の竣工です。
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これは南1号館、昭和2年1927年の竣工理科の実験教場として建てられたそうです。窓が変わって見えますが有毒ガスが発生した時に排気し易くしたものだそうです。
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これは西1号館で昭和5年1930年にイートン校をモデルに建てたものだそうです
南1号館西1号館に挟まれた空間は素晴らしい中庭テラスです。4月16日では既に枝垂れ桜は散り始めていました。南1号館の背後には近代的な南7号館が聳えています。屹度設備も新しくて快適な空間で勉学に勤しんでいるのでしょう。南1号館の横を西に向かえば乃木会館です。方形のとこ平屋建て質素な板張り建物です。乃木希典は学生寮の院長としてこの建物で終日暮らして寮生に眼を光らせていたのだそうです。鐘馗様のような院長に監視されたのでは寮生も生きた心地はしなかったことでしょう。屹度教室から出てくる男女の学生の睦ましい姿を観たら乃木院長は目を回す事でしょう。
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これが乃木館です。手前に南1号館があります。背後は昔の溜池で堀部安兵衛が高田の馬場の決闘で助太刀して血糊の付いた刀を洗ったという伝説から「血洗い池」と呼ばれています。



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