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明治学院大学のチャペル建物を見学して、国道1号線を渡り高輪二本榎通りに戻りました。
交差点の左には消防署右側に高輪警察署があります。この辺りは要人も多く住まわれていますし大使館も多いので警察も消防署も近隣の安全安心に重責を果たしているのでしょう。緑も多いし、地盤は堅固ですし垂涎の住宅地である事は明治維新からずっと変わらないようです。そのど真ん中に高野山金剛峰寺の東京別院があります。
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これは東京消防局高輪二本榎出張所の建物この建物は昭和8年(1933年)12月28日に落成したもので、近代建築の遺産(ドイツ表現主義)として東京都文化デザイン事業により保存建築物になっています内部も見学できます。塔屋は終戦後までは火の見櫓として活用していたそうです。この右道路向かい角にに高輪警察が在ってその奥が高野山東京別院です。
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これは東京消防局高輪二本榎出張所に配置されていた梯子消防車(日産)幼稚園児の絵が建物廊下に貼られていました。
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此方が高輪警察署隣の高野山東京別院の西門です。
殆どが壮大な鉄筋コンクリートの近代建築ですから、歴史は浅いものと推測するととんでもない、江戸幕府が出来て間もない明暦元年(1655年)に創建されたのだそうです。明暦3年(1657年に)、明暦の大火(振袖火事)で江戸市中の半分が焼け落ちると高野山は浅草の日輪寺(浅草3丁目)から現在地に移転しました。幕府にすれば住宅密集地から東海道の要衝に移転させるのは都市再開発と併せて軍事的にも理に適った政策だったのでしょう。
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高野山東京別院の本堂昭和63年(1988)年竣工した鉄骨建築です。
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高野山東京別院本堂の内陣
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高野山東京別院本堂の賓頭廬尊者像(びんずるそんじゃ ぞう)。私が麻痺している左脚を擦ろうとしたところ夥しい御礼の達磨さんが供えられてありました。脚の痛みが治癒された人のお礼詣でなのでしょう。
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正面が本堂で右手の建物が不動堂境内に四国88遍路の石仏や西国33観音の石仏等が並んでいますから東京で100遍路と88遍路を廻る事が出来るのです。右側の人影がエンジンブロウと水圧洗浄機でお掃除をしていた僧です。

昭和2年に(1927年)高野山東京別院に改称し昭和63年(1988)年に現本堂が竣工したそうです。私が就職した頃は本堂が無かったのでしたが、就職してからは何度かこのお寺に焼香に登りました。大手町からは地下鉄を乗り換えて泉岳寺で降りて坂道を登って来ました。せめて増上寺か本願寺、青山斎場で葬儀をしてくれればよいのに社葬を高野山で行うのには訳があるのだろうと思ったものでした。
私はワイフを誘って高輪警察署の隣の西門から高野山東京別院に入りました。
『高野山の境内ですから静寂で清浄な空気が満ちている』と期待したのでしたが阿仁測らずや爆音が響いています。何かと思えば無縁仏塔周辺から騒音が響いて来ます。”何事?”と見やれば作務衣を着た僧がエンジン送風機を背負って落ち葉を吹いて掃除しているのです。
騒音はエンジンブロワの音なのでした。
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エンジンブローと水圧洗浄機でお掃除された無縁仏さん。お地蔵さんが水圧洗浄機は痛いからタワシにして頂戴呟いて居るような気がしました。
昔はお掃除も修行でした。禅寺では掃除の掃き目を観て修行の程度を確認、修行が進んだ僧には枯山水の波紋を描かせた、と聞きます。長い回廊の雑巾がけの跡も修行の成果を示すと聞きました。現代はお寺も合理化が進んで、雑巾がけはモップで、落ち葉掃きはエンジンブロワーで済ませるのが流行りのようです。そう想うと卒塔婆もプリンターでアウトプットしたものが目立つような気がします。
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枯山水の水文は修行の進んだ僧が描くと聞きます。屹度箒目を立てるのと熊手で砂利を曳くのが共通するのでしょう。写真は大徳寺
弘法大師とは云わなくも徳のあるお坊さんに書いて貰ってこそ霊験(呪力)が期待されるものプリンターでは霊験はきたいできませんし、僧も修行にならないでしょう。
そもそも、修行はお釈迦様の体験を自分もトライしようとするものですから、合理性とは真逆の事でしょう。”合理性は宗教の対極にあるもの”です。食べ物を托鉢すればGNPにはカウントされません。売買するのが資本主義の構造です。経済合理性を無視した世界の清浄な空気感が宗教です。
高野山別院と聞いて和歌山の檀上の聖地の静寂を期待するのが間違いのようです。
そう想いながら無縁仏群の観音様を見ると。観音様もエンジンブロワー の響きがお嫌いのようでお顔を歪めておいででした。もうじき鶯も鳴きだし東風に春を聴く季節です。
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四国88霊場巡りの石仏には態々『風葉に因縁をを知る輪廻幾の年にか』刻まれていました。エンジンブローの騒音では風を聴く事も出来ません。
観音の意味は”お釈迦様の教えはお釈迦様が亡くなった今は風の音や鳥の鳴声に訊け”と云った事と推測します。私の好きな和歌(道元)を想い出しました。
峰の色 谷の響も 皆ながら 吾が釋迦牟尼の 声と姿と
意味は大凡次の通りでしょう。
山々の色合いも、谷川の響きも、すべてそのままに、お釈迦さまのお声であり、お姿である。
もう3月東風に鶯の初音に仏の声が宙に満ち満ちる季節です。
道元さんもウキウキされて次の歌も残されました。
春風に綻にけり桃の花 枝葉にわたる疑ひもなし
桃の花越しに吹いてくる風で花が散り始め私の頬を快く撫でて過ぎ去って行く。想うに桃の花がを散らせる風を機縁にして得た悟りは、確かで、尊いものであることよ・・・。
本堂を参詣して西門に向かうと山門脇に黄色い花が咲いていました。ミモザの花です別院の整備をして庭木に何を植えようか?考えて”此処は高輪だから街の雰囲気に沿った木を植えようと決めて、高輪婦人が悦びそうな黄色い花を植えたのでしょう。
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高野山東京別院西門脇のミモザの花
若しかしたら鎌倉材木座の来迎寺さんのミモザをご覧になられたのかも知れません。ソロソロ腹が減りました。ミモザを見たらミモザサラダが食べたくなりました。泉岳寺の駅周辺にはフレンチのレストランも多い事でしょう・・・・。腹をすかして歩いたのですが結局はシンガポールレストランに入ってしまいました。






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何といっても青春の甘美な想いは”年上の女性との恋”に勝るものは無いと確信しています。まして木曾の山奥で育った島崎藤村でしたなら尚更の事だったことでしょう。日本の近代化に醒めて行こうとする青年藤村が上京して美しい年上の女性を見染めたのがチャペルであったならまるでマリア様を慕う様に微熱が昂じて高熱に菟づいた事でしょう。そんな藤村の自伝小説が「桜の実野宿する時」です。主人公の捨吉は藤村に間違いありません。ならば繁子は誰がモデルであったのか興味が尽きません。何度も明治学院大学の前は通ったのですが、初めて大学の門を入ってみました。
「チャペルを見たい、のですが・・・・!」
「捨吉が繁子を見染めた舞台のチャペルはこのキャンバスのチャペルだと思っていいのですか?」
守衛に確認すると。流石に同じ思いで尋ねる人が多いのでしょう。次の様に回答されました。
『「桜の実の熟する時」の舞台になった教会高輪台教会http://www.geocities.jp/takanawachurch/だと思います。』高輪台教会はプロテスタントの教会でその建物は昭和モダニズム/ライト風の建物として高く評価されています。
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これが二本榎通りにある高輪教会。現在のチャペルは昭和初年に建てられたライト風建築ですが。藤村の時代は明治学院のチャペルと同じネオゴチック風建築だったことでしょう。
確かにチャペルが大学内に在ったらば捨吉は頻繁に繁子と会う事になってしまいます。大学を離れて相応の距離に教会があったので故意に繁子に会わずにいた小説の状況には国道1号線を渡って高輪台にまで出かけてゆく距離感が恋の微熱を高熱にアップさせるには最適です。
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明治学院大学の正門を入った処左側の煉瓦積ゴチック建築がチャペル1916(大正5)年設計はW.Mヴォーリズ東京都港区有形文化財
。右側銀杏の木の奥の煉瓦の建物が歴史資料館、1890年(明治23年)神学部校舎兼図書館として建立されたもの。東京都港区有形文化財

守衛は更にいいました。
「建物の中には入れません。外からの見学だけになります。ただ記念館には大学の歴史資料を展示してあるので入れます。若しも建物の内部を見学されたいのなら文化の日頃に開放しますのでその頃に再訪してください。
この日はもう大学は春休みのようで体育会の生徒だけがチラホラ見えました。
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インブリー館典型的なコロニアル建築で1889(明治22)年竣工国の重要文化財です。奥の高層建物が教室棟で赤レンガが統一感を醸成しています。
明治20年代に高輪台の学舎に学んでいた主人公岸本捨吉は、年上の繁子との交際に破れ、新しい生活を求めて実社会へ出て行く。しかし、そこで遭遇した勝子との恋愛にも挫折した捨吉は西京への旅に出る――。作品の行間には少年の日の幸福の象徴である桜の実にも似た甘ずっぱい懐かしさが漂い、同時に恐ろしい程に覚醒した青春の憂鬱が漂う、日本の傑れた青春文学であると思います。
歴史資料館に入りました。
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歴史資料館の藤村のコーナー
ヘボン塾以来の歴史が展示され日本の近代化に果たした明治学院の歴史が誇らしげに展示されていました。
キャンバスには桜の大木が何本もありました。どれも染井吉野で大学と同じ程度の齢(歴史)を経ているようです。今年は東京の桜の開花予想が3月25日と云う事は4月5日頃が満開で桜の実が熟する頃は連休明け卯の花が咲き出す頃になる事でしょう。桜が咲いたら再訪したい明治の建物群でありました

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キリシタン処刑の記憶

長崎のキリシタン教会群の世界遺産登録申請は取り下げの方向だそうです。国宝の浦上天主堂でさえ1,862年(文久2年)の竣工ですから。歴史的遺産は稀にしかありません。確かに五島列島や平戸の島影に教会が建っている光景は美しいし、ロマンを掻きたてられるのですが、精々100年余りの歴史しかありません。”気持ちはわかるが遺産と呼ばれるほどのドキュメントが不足している”そしりは免れられません。いっそ方向転換して、キリスト教文化の受容プロセスをユネスコの文化遺産に申請したらどうだろうか?思います。
日本中に分散している明治の近代化遺産が認められたのですから。ヨーロッパで発祥したキリスト教がユーラシア大陸の東の涯でどのようにして受容されたかといった事実はユネスコとしてもローマ法王もご関心が高いと思います。何しろ日本人でローマ法王が聖人として認めたのは「日本26聖人」をはじめ「日本205福者殉教者」など、有名無名の多くの信仰の先人たちを生み出してきたのでした。その多くが命を賭して敬虔な信仰を守り通したのですから。ヨーロッパの聖人の様に教会や修道院を建てた、とか寄付金をした。と云った種のものとは質が違うのです。
西洋から見れば日本人のキリスト教は日本の習俗や神道や仏教に染まっていて純粋では無い、批判があるでしょうが。今日的には習俗や文化と習合して行く事実にこそ価値があると思われます。宗教の純粋性を突き詰めれば原理主義に嵌って無益な摩擦軋轢を生じる事になります。地球上にはあるように色々な民族が生きているように色々な宗教画共存してお互いを認め合う事が大切なようです。
その意味では。キリスト教が禁教として弾圧されにも拘らず300年もの間地下に潜伏して脈々と伝えられてきた事実をユネスコにアピールしたいものです。
例えば大磯の「澤田美喜 記念館」を見ても鎌倉東慶寺の「イエズス会紋章入り葡萄蒔絵螺鈿聖餅箱」等は500年近い歴史がありますし、歴史の厚みについては充分なモノと思います。
常々以上のように思って居ましたので。鎌倉で捕縛された隠れキリシタンが小伝馬町の牢屋に入れられ三田の「札の辻」で処刑されたその遺跡にはかねがね参詣したいと思って居ました。
そんな次第で三田台の縄文遺跡を観て明治学院大学のチャペルを見学して最後は高輪柘榴坂の高輪教会に行きました。高輪教会のホームページはhttp://www.catakanawa.com/about/edojun/index.htmです

高輪教会は品川駅西口を出て西武プリンスホテルと京急のパシフックホテルの間にある急な坂を登って尾根道 二本榎通り)に折れる門にあります。
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高輪教会は品川駅西口柘榴坂を登り切った処にあります。この坂道は昔は日航のASさんが大勢通っていました。彼女たちの常宿が在ったのです。珍さんの中華飯店(マーボ豆腐で有名)も健在でした。
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坂をを登ると左上から見下ろす位置に殉教者顕彰碑が出現します背後は近代的な高輪教会が建っています。
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高輪教会の庭にはキリスト像が迎えてくれます。
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高輪教会の壁に懸けられた札の辻でのキリシタン殉教の図。188名の隠れキリシタンが棄教命令を聴かずに殉教したのでした。

家光のキリシタン弾圧端凄まじく札の辻で1623年188名が殉教し江戸市中では200名もが殉教したのだそうです。詳細は前掲の高輪教会のホームページをご参照ください。この二本榎通りは元禄十六年(1703年)2月4日、赤穂浪士47人が切腹します。赤穂浪士に礼を尽くしたのは細川家でした。私は国道1号線と海岸通りに向かう交差点を札が辻と呼ぶのは赤穂浪士が吉良の首を取って泉岳寺に凱旋した時に渡った辻である事からこの名が付いたと推測しています。
今朝は2月26日)はこれから新幹線に乗って岡崎に名鉄戦で東岡崎バスに乗り換えて焚き山寺に向かいます。時々縄文遺跡を観たくなるのと同じように運慶を拝みたくなるのです80年前の今日皇道派の青年将校がクーデターを起こしました。所謂2.26事件でした。愛国心の強い青年達が農村の疲弊一方で政財界の腐敗に憤ったのでした。でも青年達の熱い信条とは裏腹にクーデターは国家を極端に右傾化させ、大東亜戦争への坂を下り落ちてしまいます。歴史は皮肉なモノです。新幹線の車内では家永裁判を読むことにしましょう。昨今の文部行政を達観すると家永裁判があったこと等昔日の感があります。
此処20年の間に教科書も随分内容が変わって来ました。私が学んだのは日本人は同じ民族で旧石器時代縄文時代弥生時代そして古墳時代を通じて同じ日本人が日本列島に居て変遷してきたと教わりました。ところが最近は遺伝子科学の進歩によって。日本人は南中国にインドネシア内モンゴル等のDNAの混血だと解って来ました。大和朝廷は多民族が仲良くする(和を尊ぶ)国家だと宣言したものだったのでした。戦艦大和は名前からして矛盾しており太平洋の藻屑と消えたのは必然だったのでしょう。キリシタン大虐殺も間違いであり私達は驕り高ぶると大間違いを再三犯す民族のようです。”井の中の蛙にならないように自戒”しなくてはいけないようです。

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化粧地蔵の民俗学

三田台遺跡を観て私は幽霊坂に向かいましたこの辺りは東を向いても西を向いても坂ばかりです。細道の両側は石壁で壁の上からは塔婆が覘いて見えます。まるで卒塔婆が通行人をチェックしているようです。私はこんな風景はは見慣れているので怖くもなんとも無いのですが,常人なら薄気味悪い事でしょう。まして幽霊坂なんていう名が付いているのですから。都内には坂が多いし寺も多いので幽霊坂は各地にあるようです。先月も東京女子大の西を歩いていて幽霊坂を登って成瀬記念館に着きました。
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二本榎通りから右折西に向かうと幽霊坂があります。細い下り坂の両側はお寺で塀の上から卒塔婆が覘いて見えます。夜には怖くて通れない事でしょう。見ての通り防犯灯も街路灯も無いのは幽霊坂の雰囲気を壊さないためでしょう。住人には拘りがあって、安心安全より雰囲気を優先しているようです。

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今でも高輪の二本榎通りには骨董店が数多く営業しています。江戸時代にもこの辺りは寺町で古道具が活躍していたことでしょう。
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私の目的は幽霊坂の略真ん中にある玉鵬寺(右)です。山門は高橋是清翁寄進と案内されていました。山門の東に立派なお堂が建っていてこの中に化粧地蔵尊が祀られているのです。

ところで学生時代度々日吉校舎から三田公舎に行きました。東急線で先ず学芸大駅に行きます。駅近くの目黒通りで東京駅行きのバスを拾って白金を越えて清正黌を越えれば直に慶応三田でした。濟々黌と云えば熊本の名門高校で屹度藩校の名を冠したのでしょう。でも加藤清正の名がルーツなのでしょう。屹度義理堅い肥後モッコスが殿様は細川に代わっても清正公に愛着や恩義を感じて藩校の名にヨミだけを残して漢字は濟々黌を当てたのだと思います。今度何かの機会が在ったら濟々黌ОBに確認してみる事にしましょう。そしてこの幽霊坂の辺りに細川家の上屋敷が在ったのでしょう。今でもお屋敷に在った椎の巨木が残っているそうです。
細川と云えば細川護煕さん(16代細川家当主)です。昨年は全国で春画展を開催しましたし茶器のこれlくションでも有名です。落語の井戸茶碗』にも登場する。人情に篤い殿様だったようです。少し遠回りになりますが落語の「井戸茶碗』を紹介します。今日の本題に通所要る江戸時代の人情や粋に通じるお話ですから。
【古典落語の井戸茶碗】
麻布谷町に住む、くず屋の清兵衛が居ました。古道具を扱うと、自分はもうかるが、他人に損をさせるので、
それが嫌だと言う程の正直一途な男で、人呼んで「正直清兵衛」。で屑しか買わない古道具屋でした。
ある日、濟々黌の裏長屋に入っていくと、歳の頃十八、九の、大変に器量はいいが、身なりが粗末な娘に呼び止められます。娘の父親で千代田卜斎(ちよだ・ぼくさい)と名乗浪人の持っている仏像を買ってほしいというのでした。うらぶれてはいるが、人品卑しからぬ浪人でした。正直清兵衛は仏像を取敢えず200文で預かる事にします。「200文より高く売れたら超過分を折半しよう・・・・」
清兵衛は長屋に持ち帰って繫々と仏像を眺めます。埃と煤に汚れています。清兵衛は細川家の家臣の高木佐久左衛門に仏像を持って行き300文で売る事に成功しました。高木は仏像を少しでも綺麗にして差し上げようと思ってぬるま湯に浸けて見ました。すると仏像の台座の裏に貼られていた紙が剥げ落ちて仏像の体内から何とと50両の金貨が現われました。
慌てた高木は清兵衛の長屋を訪れます。
高木は「仏像は買ったが五十両は買った覚えはない。自分の物ではないので、売り主(清兵衛)に返したい」主張します。清兵衛は卜斎を訪れ事の顛末を報告して50両を卜斎に受け取らせようとしますが卜斎は受け取ろうとしません。「売った仏像から何が出ようとも自分の物ではない」卜斎の主張でした。清兵衛は高木と卜斎の間で右往左往するばかりでした。正直者ばかりの間では埒があきません。
そこで長屋の家主に相談すると家主は次の提案をしてくれました。
家主は「高木に二十両、卜斎に二十両、清兵衛に十両」の案を出したのでした。大岡越前の名裁判は「三方一両損」でしたが今回は「三方両得」案でした。高木は納得するが、卜斎は納得しません。
そこで卜斎の使っていた小汚い茶碗を20両で買い受ける事にしました。これで三方が収まったのでした。高木の手元には20両の金と小汚い茶碗が残りました。
この美談が細川の殿様の耳に入り、「茶碗が見たい」と言う。高木が茶碗をお見せすると、たまたま、出入りの目利きが拝見し、これが何と名器「井戸の茶碗」だと判り、殿様が三百両で買い上げる事になったのでした。
 この300両をを見て高木は考え込んでしまいます。清兵衛も困ります。そこで、、先例にならい半分の百五十両を卜斎の元に届けると、卜斎も困ったが考えたあげく、「もう私には渡す物もない。独身の高木殿は正直なお方の様だから娘を嫁に差し上げたい。結納代わりなら金を受け取る」と、言います。
   早速清兵衛は高木にこの事を伝えて、「良い娘だからお貰いになりなさい。今は貧乏でひどいナリをしているが、高木様の手で磨いてご覧なさい、美人になりますよ・・・」。
すると高木、「いやぁ、もう磨くのはよそう。また小判が出るといけない(落語のオチです」。
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これが細川家所蔵の井戸茶碗のイメージです。出典細川 護光 | 柿傳ギャラリーhttp://image.search.yahoo.co.jp/search?fr=top_ga1_sa&p=%E7%B4%B0%E5%B7%9D%E5%AE%B6%E3%80%8C%E4%BA%95%E6%88%B8%E8%8C%B6%E7%A2%97&ei=UTF-8&xargs=4&b=61
私達が玉鵬寺の山門を潜ると右手に山門を寄進したのは高橋是清翁であると案内がしてありました。高橋是清のお墓は祖母の生家世田谷弦巻の実相院にあります。ご住職にこの話もしようと思ったのでしたが立ち話が長くなるので止めてしまいました。私の疑問はこの化粧地蔵尊が何時から誰によって化粧されるようになったかという事でした。
私は日本中で化粧されたお地蔵様を見て来ました。
北から数えれば青森から佐渡にも白く化粧されたお地蔵様が祀られています。特に青森では化粧されたお地蔵さんを”お白様”と呼んでいます。白く化粧しなければお白様にはなりません。私の生活圏にも藤沢のメルシャンワイン前には化粧された双体道祖神が化粧地蔵尊と呼ばれて祀られています。
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これが藤沢の化粧地蔵尊。私はこの近くに有名な飯盛り女の墓がある事からお化粧したのは藤沢宿の飯盛り女だと思って居たのでした。佐渡や津軽の化粧地蔵も同地に遊郭こそなかったものの瞽女ごぜ)(旅芸人で求めに応じて春も商った)が祈ったものと思ってきたのでした。
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これは京都の街中の地蔵尊地蔵盆のお祭りに際して子供達の成育を祈って子供達によって化粧されますお雛様の感覚に似た霊力祈願です。去年のじぞうぼんでは友人らと満喫しました。
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これは足柄峠(矢倉往還)の化粧地蔵尊以前次に書きました/足柄峠の白塗り地蔵尊http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/43868992.html。白いのは小麦粉で。安産祈願とされていました。足柄と云えば金太郎で力持ちの男の子を授かるよう祈願したのでしょうが・・・。



化粧地蔵尊は足柄峠にも祀られています。足柄峠の地蔵尊は小麦粉を塗されて真っ白でした。
そして化粧と云えば安曇野の彩色道祖神です。彩色地蔵尊は足助から木曾にかけても目立ちます。
更に京都の街中のお地蔵様も彩色されていてお顔は真っ白に塗られてまるで舞妓さんのようです。
彩色されるのはその呪力に期待して毎年新しいパワー(霊力や呪力)を期待して綺麗に塗ったものでしょう。私が見て来たものは多くが色町が近くて遊女が痘痕を消すこと色白美人になれる事を期待して祈ったようです。ですから、品川や目黒の遊女が高輪まで”わたしを綺麗にして・・・私の梅毒を治癒して・・・・”お詣りに来たものと推測していたのでした目黒の5百羅漢寺の寄進者にも遊女が目立ちますし。蛸薬師も梅毒に依る膿を吸い出してくれると期待したものと思ってきたのでした。ご住職の説明はそんな私の生半可の知識や推量を頭から否定するもので延命地蔵尊の御p利益を期待する江戸の善男善女の信仰が白くお化粧する事で。近年は可愛くなりたいという普通の女性や肌の衰えが懸念される叔母さま方の参詣が盛んだという事で。お寺ではベビーパウダーを置いて”お使いください”としているようです。
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これが玉鵬寺の化粧地蔵尊です。お顔だけでは無くて全身が真っ白に化粧されています。白御影石の膝元にはベビーパウダーが置かれていました。紅が散っているのは口紅でしょうか?
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ワイフも化粧地蔵尊に白粉して霊力を授かろうとしていました。



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高輪の縄文遺跡


去年の夏には利根川上流月夜野に矢瀬遺跡を見学しました。以来暫く縄文遺跡を観ていません。そう想うと無性に縄文遺跡を訪れたくなってきます。私の町内にも倉田原遺跡と云う縄文遺跡があって。慶応大学で発掘し、現在は町内にある明治学院大学の図書館に文化財を所蔵(一部展示)されていますが、昔日の面影は全く解りません。
我家から一番行き易い縄文遺跡と云えば大森駅に近い大森貝塚ですがもう何度も行きました。他にもあるだろうと思って調べていた所,ありました。高輪泉岳寺の西側お寺を見下ろす位置に「三田台遺跡http://www.city.minato.tokyo.jp/shisetsu/koen/takanawa/03.html」があるのです。
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二本榎通りのあちこちにマップがあるので散策には格好です。
地図で確認すれば大盛貝塚とほぼ同じロケーションです。どちらも品川沖を見下ろす高台の中腹です。慶応大学の学生さんなら、三田台遺跡は三田の学び舎からは目と鼻の先です。魚籃坂や泉岳寺に向かえば三田台を越えてその先が伊皿子坂(イサラコサカ)で左折してだらだら坂を下れば泉岳寺になります。伊皿子坂を右折すれば魚籃坂です。高松の宮様のお屋敷も近くです。赤穂浪士の切腹跡の史蹟もあります。
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交差点左が明治学院大学方面 手前の道が「二本榎通り」で奥が慶応大学途中左手に高松宮邸があり右手に三田台公園があります。向こうに(北向き)に赤穂浪士自刃の跡があってその先が高松宮邸跡です。
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此方が高松宮邸です。私が学生時代は警察官が常駐して居ましたが今は主も居られませんし跡地の利用は皇室典範問題も絡んで五里霧中です。噂によると住友商事が買収して億ションにして売り出されるそうです。
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これが赤穂浪士自刃の跡です。後ろの建物は都営高輪アパートです。
その先右側にある承教寺の山門前に大きな榎が二本在ってその幹高い位置に注連縄が張られていたそうです。ですからこの道を二本榎通りと呼びこの一帯を高輪と呼んだのだそうです。江戸っ子は高輪の注連縄を潜って品川宿に入りました。この先が桜の名所の御殿山でした。
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これが高輪の謂れになった承教寺の山門から見た本堂です。
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山門前に祀られた狛犬、承教寺は英一蝶(錦絵の革命者)の墓があるので一蝶のデザインかと思ったら道教の狛犬は総じてこんなにおめでたい姿なのだそうです。お顔も松竹梅が散りばめられていました。
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これが三田台公園です。公園の下は泉岳寺で地下鉄泉岳寺駅の周囲は高層のオフィスが林立して居ます。商売上手のJR東日本は此処に山手線の新駅を計画しているそうです。


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コンクリート製の竪穴住居が造られていますが内部は縄文時代の素材でフィギアでk縄文人の生活を再現させています。近づくとライトアップして音声ガイドが流れる仕組みです。
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これは貝塚の地層を展示したものです。
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三田台遺跡の案内板。持っているのは埼玉県熊谷の野原古墳から出土した踊る埴輪です。国立博物館蔵国宝で時代も違うし発掘場所も違います。港区の知的感覚が疑われます。それこそ縄文人も”ビックリポン”でしょう。
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此方も三田台遺跡の案内で砂場の脇にあります。此方は重文の土偶でありは土偶 群馬県吾妻郡東吾妻遺跡から出土したものです。縄文時代ですし。縄文の意匠が身体にされていますからコッチは上段の埴輪ほどの問題はありません。いずれにせよ縄文遺跡を近隣公園にして跡地を残したのは賢明です。

二本榎通りは北側に縄文遺跡があって一番南に隠れキリシタン処刑の碑があります。慶応大学側から歩きはじめれば歴史年表通りの順に遺跡が並んでいます。レストランも古物商もお寺も石仏も数多く楽しい道です。

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