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東京ウォーキング

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イスラム寺院参詣

2月12日駒場日本民芸館から前田侯爵邸を見学して次は代々木八幡の東京ジャーミーに向かいました。私がもう少し地理に明るかったら、徒歩で行ったのでしたが。先ず下北沢に行き小田急線に乗り換えて代々木八幡に向かいました。私は新婚時代小田急線の鶴川に12年間住みました。前人事課長のお住いを借り上げていましたので大変緊張して遣わしていただきました。鶴川団地の南側に隣接した丘陵の戸建て住宅地でした。団地のセンター街区でお買い物をして朝晩は超満員の小田急線に乗って、代々木八幡で地下鉄千代田線に乗り換え大手町に行き来して居ました。当時から代々木八幡の街にイスラム教の尖塔が在る事に気付いていましたが。八幡宮をお詣りしてもモスレム(東京ジャーミー)には参詣した事はありませんでした。そこでこの機会に参詣してみる事にしたのでした。
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国道413号線に面して(渋谷区大山町にある東京ジャーミー。此処には前身である東京回教学院があったのでしたが、1938年(昭和13年)に設立。老朽化のため取り壊された後、2000年(平成12年)に再建・開堂しました。建築資材もトルコから職人も同国から派遣されたオスマントルコの文化の殿堂です。モスレムの西側には東京回教学院時代の建物が残されていました。
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モスレムの入り口は1階で集会場と喫茶飲食買い物施設になっています。二階が礼拝場(モスク)で1階で身を浄めて靴を脱いでスカーフで顔を隠してモスクに登ります。
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モスクの入り口携帯禁止の張り紙はありますが、撮影禁止の指示はありません(HP上には撮影禁止になっていますが。撮影しても問題にはされていませんでした。
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モスク入口のアーチ素材の大理石もトルコから運んだものだそうです。施行は鹿島建設)
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1階多目的ホールにある洗い場此処で手足を浄めてから裸足で二階のモスクに上がります。
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モスクに昇ると聖職者が案内してくれました。先ず全員がメッカの方角に向いて頭を垂れます。
総じて日本人にイスラム教を馴染んでほしい想いが伝わって好印象でした。

でワイフに「今日はモスレムに行くからスカーフを持参するように前日に言っておくべきだったのでしたが、ツイツイ忘れてしまい。”車内でモスレムに入るのでスカーフある?”云ったところお小言を頂戴してしまいました参詣記念に買っても良いだろうという事で、代々木八幡駅から尖塔を目標に歩きだしました。
モスレム前の道路に大型バスが停車して居ました。東京ジャーミーは今では観光名所になっているようです。私達は大型観光バスの乗員40名と一緒に説明を受けました。
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何といっても圧倒されるのはモスクの天上のアーチ空間です。ステンドグラスの色が鮮やかで、モスク内部空間は荘厳です。偶像崇拝が禁止されているイスラム教ですから、カリグラフィ(アラビア文字の書道)やアラベスク(植物をモチーフとした紋様)、幾何学紋様が多用されて、神(アッラー)の偉大さを表現しているのでしょう。大きなドームは神(アッラ―の創造したの宇宙を表しているのです。
正面やや右がメッカの方角になります。もう2時間も経てばステンドグラスを通して夕陽が大空間に差し込むことでしょう。
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モスク内部正面やや右がメッカの方角で北極星を戴いた塔があります。立っている人は東京ジャーミーの職員(聖職者」で説明しています。その左床に座っているのが一般人聖職者。右の壇はイマーム(導師)が金曜礼拝の時に説教を行うミンバル(説教壇)です。
室内の中段に帯状の紺青色で塗られてアラビア文字が書かれていますがこれはアッラーの偉大な特徴を記してあるカリグラフィ(アラビア文字の書道)です。
【スカーフと豚について】
ところでスカーフですが聖職者はスカーフを含めて衣服は民増の誇りであると説明し”日本人も着物を誇りにした方が良い”と言いたげでした。私は”そんなものかな?”怪訝に思いながら聞いていました。家に戻るとトリニダードトバコで日本人女性が殺害されその知事が”肌を露出していた日本女性も悪い”と言ったところ知事は世論のパワーで罷免されてしまったとのニュースが流れていました。綺麗な女性はその顔を露出しているだけで犯罪であるといった考え方が何処にでもあるものです。極端なのがイスラム世界なのでしょう。
春になれば女性は肌を露出します。鶯だって狐だって春になれば異性を魅了しようとするのが自然の摂理です。でも理性を惑わす誘惑は宗教的には戒めなくてはなりません。方法は二つ女性の色香に惑わされた男性を罰するか、女性がアッチコッチに色香を撒き散らさないように蓋を指せるかどちらかです。スカーフは後者の手段なのでしょう。短すぎるスカートや透け透けのブラウスは前者の視点で問題があります。
ワイフは大きなハンケチで顔を覆って聖職者のお話に耳を傾けて居ました。販売コーナーに行くとハラール認証ラーメンやスカーフが売られていました。
スカーフの件は一応解決として次はハラール認証です。イスラム教では豚も猪も禁食です。
日本の盛り場は豚骨ラーメンの匂いが充満して居ますから彼等は胸が苦しくなることでしょう。仏教徒から見れば豚も羊も兄弟みたいなものです。豚は食べてはいけない、羊は肉も血も総て食べるのは識別困難です。豚は何でも餌にします。人間の排出物も好物にしてしまいます。”豚は不潔な動物である””人間たるモノ清潔にしなくてはならない”教えが少しオーバーになれば豚を食べてはいけない”になるのは自然です.異常に清潔好きな人は居るものです。私のように脳梗塞の後遺症に苦しむモノにとっては豚を禁食にする宗教は合点しやすいモノで。
宗教は一神教多神教といった分類よりも宗教民俗学とか宗教社会学と云った文化人類学的な分類の方が有効であるように思います。少なくともその方が無意味な宗教的な摩擦軋轢を回避させることでしょう。
東京ジャーミーのイスラム教を身近にして貰おうそんな試みは尊いものと思いました。

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駒場孟母三遷の街

前田侯爵邸を出るともう午後2時過ぎです。流石に腹が減って眩暈がしそうです。出かけるときはランチは下北沢でと思って居たのでしたがもう我慢できません。民芸館通りに面した喫茶店に入ってランチすることにしました。古い蕎麦屋に鰻屋そして小洒落た喫茶店が数店ありました。その中からスープセットが美味しそうな喫茶店コロラドに入りました。既に二組のお客さんが大声で話しています。私は近辺の松濤マダムが居るのかと期待していたのでしたが拍子抜けです。私と同じように日本民芸館に行った帰路のようで、そんな話題で持ちきりのようでした。私の脳裏には孟母三遷の故事が浮かんでいます。
「孟母」とは、孟子の母親のことです。。
「三遷」とは、住居を三度移し変えた事です。
孟子の家族は、はじめ墓場の近くに住んでいたが、孟子が葬式ごっこをして遊ぶので、市場の近くに引っ越した処今度は、孟子は商人の真似ばかりして遊ぶので、学校の近くに引っ越したのでした。
すると孟子は礼儀作法の真似ごとをするようになり、孟子の母は「この地こそ子供にふさわしい」と言って、その地に落ち着いたという故事です。今なら学区制がありますから有名学校の学区は人気があります。東大前なら家庭教師を探すのも駅前の掲示板に「家庭教師求」と貼れば良いでしょうし。コンパばかりしている大学生よりも東大前なら子育てに良い環境でしょう。加えて此処は静かで緑の濃い環境です。大きなお屋敷は少ないようですが渋谷区松濤の延長の高級感が溢れています。
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喫茶店コロラドの前は井の頭線駒場東大前の駅舎で。生徒さんが帰宅する時刻でしたこの道を東に行けば松涛美術館でその先は東急文化村です。次は美術館巡りをすることにしましょう。
 孟母三遷の街だな”思いながら家々を眺めると家にはお金を懸けられても庭木には手が回らないようです。庭木が茫茫と伸びている家も目立ちます。”桜伐る馬鹿、梅伐らぬ馬鹿”言いますが梅の小枝が徒長した茫茫のです。そう言っている我が家の豊後梅も徒長枝が伸びてしまってご近所から”梅伐らぬ馬鹿”思われていることでしょう。早くリハビリを達成して私が刈込をしないと梅さんも小馬鹿にされて可哀想です。 他人の振り見て我が身を振り返るのが適当で安易に他人を批判しないのが賢明なようです。
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一見して二世帯住宅の玄関の白梅昨年の枝が徒長してしまって茫々です。この徒長枝を伐らないと梅の形は崩れてしまうし木自体が充実しません。高級住宅地ですが庭木までお金が回らないのは私と同じです。
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喫茶店コロラドのランチセット手前がクラムチャウダー、向こう@ワイフ)がミニストローネセット(850円税抜き)でした、これに珈琲が付きます。
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コロラドの壁に貼られたポスター。この店は近所の住民の喫茶室であり、民芸館やびじゅつかんを巡る人のオアシスなのでしょう。
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コロラドの店内最近はバリスタ流行りですので珈琲サイフォンで沸かしたコヒーが懐かしく想えます。

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我家の梅の木(豊後梅)昨年伸びた徒長枝が花をつけています。松竹梅三つの植物に共通するのは強靭な成長力です。松も竹も新芽の伸びる力は弩迫力です。そして梅も花が終わると新芽が伸び出して徒長枝になります(写真の中央右まっすぐ伸びた竹のような枝が徒長枝です)。この梅の木1本でも植木屋さんを入れると10万円もかかりますので、徒長枝は伸び放題です。


今日は2月14日バレンタインデーです。夜半から雨が降りだし強い南風も吹き出しました。庭の白梅もこれで散ってしまう事でしょう。でも豊後梅(想いのまま)は咲き出すことでしょう。どちらの梅も私が脳梗塞で倒れて以来手入れをしていませんから徒長枝が気儘に伸びています。でも昨年伸びた徒長枝には花が咲き実もなります。梅の木を育てるのは育児に通じるところがあります。日光が愛情なら、剪定は躾でしょう。どちらが欠けても行き過ぎてもなりません。名古屋の孫が卒園のお遊戯をするので爺さん婆さんも観に来てお誘いが来ています。梅の花も孫の笑顔も私達を励まして”死ぬまで生きろ楽しめ”激励しているようです。この齢になったら周囲の期待に身を任せる事にしましょう。

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日本民芸館を見学して眼も脚も疲れました。そこで次は民芸館の北隣にある前田侯爵邸に向かう事にしました。
実はこの洋館に喫茶サービスがあって人気だと聞いたのでした。
民芸館で道順を聞きます。
「時計回りに駒場公園を廻って北から入るのが道順ですが。反時計回りに駒場公園を廻って南口からは行った方がズット近いですよ」アドバイスしてくれました。少しでも早く喫茶したい私は当然のように駒場公園南口に向かいました。
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これが前田侯爵邸のパンフから抜粋した位置案内
マンションと戸建住宅の間にある小路を辿ると駒場公園南口が見えてきました。鬱蒼と茂ったスダジイの森の奥に芝生の庭があって大きな洋館が見えてきました。案内人に確認した処。加賀100万石前田家は上野寛永寺の西本郷にかけて上屋敷を構えていたのだそうです。関東大震災後本郷のお屋敷を東大本郷キャンバスの拡張などの為に東大農学部の在った駒場のキャンパスと等価交換したのだそうです。本郷に在った前田家の赤門や黒門(上野博物館)は残してきました。駒場の農学部は教養学部になり、農学部は本郷キャンパスに隣接した弥生町に移転しました。
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駒場公園南口から前田侯爵邸の庭に向かう紅梅が咲いて冬鳥が群れていました

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前田侯爵邸の芝生はお花見には最高のようです写真出典目黒区HPhttps://www.city.meguro.tokyo.jp/gyosei/shokai_rekishi/konnamachi/michi/rekishi/hokubu/kyumaeda.html次には桜が咲いた頃この芝生の上でお弁当を広げましょう。
本郷から駒場に移転した前田家第16代当主の利為(としなり)は昭和4年昭和4年(1929)に洋館の建設に着工します。施行は宮内庁宮内省内匠寮工務課技師の高橋貞太郎でした。洋館1階は晩餐会を行なう重要な社交の場で、2階は家族の生活の場にしました。この様式は白金の朝香宮邸(現庭園美術館)にも共通するものです。
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前田侯爵邸の玄関アプローチ
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玄関ホール二階に繋がる階段があって細かな細工が目を奪います。大理石などはイタリアから取り寄せたそうです。
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玄関ホール奥には庭に面して喫茶コーナーがあります。上品な叔母様がコーヒーをいれてくださいました。この椅子に座って庭先の桜の散る様を見て居たいものです。前田侯爵の気分になれるでしょうか。
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喫茶室の名はマルキス(marquis)です。珈琲は350円ですカフェラテカップチーノ(写真)は400円で一枚ビスケットが添えられていました。案内人に訊くとマルキス(marquis)とは侯爵の意味だそうでした。湯沸し室が遠いので珈琲を運ぶのが大変に見えました。
拝観料は無料ですから喫茶室に入ったと思えばコスパは最高ですし。伯母さんはよく勉強していて何でも教えてくださいました。
 洋館の南には広大な芝庭が広がり、洋館北には和館を作りました。和館には茶室も備え、築山と流れに囲まれた回遊式の庭園が、趣を変えながらも有機的につなげてみました。和洋を有機的に合理的に接合させる試みは建築の世界では「昭和モダニズム」と呼ばれています。広い社交場を用意し併せて4畳半の茶室も作るそれは和洋折衷では無くて、和洋の良い所どりをして生活を豊かにするモノでした。建物の外観はチューダー調のゴチック様式でありながら細部の意匠は和洋も混じって肝心の工事は伝統的日本の大工さん(職人)がしました。元々レンガを積み上げる建築よりも軸受の和式建築の方が難しい技を必要にしました。日本の大工さんがゴシック建築を習得する事は容易い事で。大工たちは様々な工夫をする余地が在ったのでしょう。玄関の巨大な空間を劇的に見せる階段の手摺には宝相華模様の細工をしてみました。細工は欄間を得意にした職人が施しました。天井は宮大工が格天井を設えました。構造材は様式で(震災後でしたので鉄筋コンクリートにしました。細部意匠は和式が多用されました。昭和モダニズム建築は従来の天皇制国家(明治国家)から現代の民主国家への変化を衣食住の全面で支えたハードウェア―でした。我家の玄関ホールもささやかな居間も現代の個人主義家族のそれであり昭和モダニズムに端を発するものです。
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階段の手摺の空間を飾った宝相華唐草模様。欄間職人なら容易な細工だったことでしょう。

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二階の居間全員が天上を見上げています。天井は伝統的な格天井でその四隅が外されていました。天井裏に空調設備をいれてその検証を(施工業者と目黒区が実施していたようです。一昨年この物件は国の重要文化財に格上げされ改修を実施したのでした。筆者が利用したエレベーターも新設されていました。右端のマスクの男性が施工業者で施工ポイントを説明左のバインダーを持った女性が施工の可否をチェックして居ました。もうじき和館の改修工事に入るそうですから、和洋館両方見ようと思えば桜の季節が最適でしょう。

前田侯爵家の鎌倉別荘(昭和23年竣工)は鎌倉近代文学館として活用されています。鎌倉近代文学館は見学料も高いし(400円)珈琲のサービスもありません。加えて職員は横柄です、写真を撮らせてもくれません。
運営が鎌倉市文化財団)である事と目黒区である事の違いでしょう。矢張り目黒区は良いなあ思いました。
もう午後1時です空腹感が強くなりました帰りは正門を出て東大キャンバスを東に見ながら井の頭線の東大前に向かいます。駒場小学校の生徒が下校してきました。屹度裕福な家庭のお子様なのでしょう。
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前田侯爵邸正門を入った処のヒマヤラ杉の植え込み庭の桜もこのヒマヤラ杉も樹齢70年を超えて風格充分でした。


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私の銀行員時代上司に人気の経済学者竹内宏」さんが居られました。平易な経済解説で人気で居られました。ご出身が次郎長を産んだ清水でしたし、庶民性が魅力の方でした。著書「路地裏の経済学」の名を取って「路地裏学派」と呼ばれたりしました。私は鞄持ちをしたこともあって同氏が経済学者として大成した秘密を知っていました。
それは路地裏がお好きでいた事、更に、路地裏を観察するだけでは無くて路地裏での井戸端会議に参加して、聞き上手で居られたのでした。人の話を聞いてその話を構築して自分の言葉で井戸端に集まった人に訊かせる、そんな手腕が秀でておいでなのでした。露地裏経済学派は竹内氏引退後も森永卓郎氏や金子勝氏等に引き継がれお茶の間で人気です。
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竹内宏氏の代表作「路地裏の経済学」出典アマゾンhttp://image.search.yahoo.co.jp/search?ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa&p=%E8%B7%AF%E5%9C%B0%E8%A3%8F+%E3%81%AE%E7%B5%8C%E6%B8%88%E5%AD%A6.井原西鶴の「日本永代蔵」も市井の出来事を綴ったものであったように竹内氏も露地裏に入り込んで世間話を聞き込んで話を論理的に構築して茶の間に聞かせるような姿勢で人気でした。路地裏経済学は江戸時代以来我国経済学の主流でした。

ところで浅草寺の一番の人混みと云えば仲見世でしょう。でもこの漢字を書ける人は相当の江戸通で大半の人は「中店」と思って居る事と思います。何しろ浅草寺の参道にあって雷門と総門の中間にある屋台通りなのですから・・・。
大坂の四天王寺にしても京都の東寺にしても露店が軒ならぬテントを連ねています。テントや屋台では出店する方もお客さんも混乱します。毎日賑わうお寺さんなら屋台の位置も決めておいた方が便利です。そこで参道の端っこに一列に屋台の場所を決めたのだと想像します。その上で屋台の主人を集めて『此処は仏様のお膝元なのだから仲良く遣りなさい』と命じられたので『仲見世』と呼ぶようになったと思います。「見世」とは遊郭の花魁が美貌をひけらかせる飾り窓のような施設です。
浅草寺の仲店文化が広がって深川不動尊の参道も「仲見世」k状態です。
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此処はお相撲記念碑の集中している富岡八幡宮。参道にはテントの屋台が並んでいました、この屋台を常態にしたものが仲見世だと思います。多分、屋台を常駐させたのは江戸っ子の合理性でしょう。合理性は基本的に冷たいものですが、接着剤の役割をしたのが下町の人情だったのでしょう。満員電車で尻を動かして席を譲るのもすれ違いに傘を窄めるのも人情です。昨今は江戸人情が薄れた様に感じるのは寂しい限りです。
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富岡八幡のお隣の深川不動尊『成田山東京別院』の参道(人情深川通り)は狭いうえにお店が軒を連ねて仲見世状態です。



深川不動尊から清澄通りを南下すれば大川に沿って佃島越中島そして月島です。ワイフの手にはインターネットでプリントアウトした江戸古地図があります。この辺りは大川の東で深く堀を築いて干拓地にしたようです旗本榊原越中守照清の屋敷があったのでしょう。相生橋の袂の公園には巨大な碇が置かれています。
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隅田川に懸った相生橋の袂に置かれた碇下流に明治丸(帆船重要文化財)が展示されていますので同船の碇でしょうか)
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相生橋から上流を眺める向こうの白い橋が永代橋左の大きなビルが三井住友海本社ビル。高層ビル群の下に露地があってその両側に木造家屋が密集していて質素に暮らしています。40年前この街で私は預金集めで這いずり回っていました。
橋の上から川上(北)を眺めれば石川島播磨重工業始め高層ビルが眺められます。
此処で日本最初の西洋式軍艦「旭日丸」「千代田形」を建造され明治10年に民間に払い下げられると日本初の蒸気船「通運丸」も建造したのでした。有限責任石川島造船所設立れたのは明治22年(1889)でした。
テレビでは今日も国会中継がなされています。
阿倍首相は税収の予算超21兆円を自民党政治の成果と自慢しています。従って補正予算3.6兆円に着いて文句は云わせない主張しているように聞こえます。野党は参院選挙前のバラ撒きであるとして補正予算案に疑問を呈しています。
阿倍首相は”民主党政権下ではこんな果実は見られなかった”と声高です、でも民主党は反論できません。
竹内宏さんが民主党のブレインで居たら仰るでしょう。路地裏視線で見れば疑問が幾らでもあります。陽向に居るのは大企業です。日陰で悲鳴を上げているのは庶民です。
これ以上格差を広げれば日本もテロ社会になってしまいます。
景気上昇、デフレマインドの終息が、税収は21兆上振れしたと云っても国の借金は1000兆におよび国民総生産の2倍になっています。
国債の過半は庶民の為に使われたのではなくて景気対策と云った名目で企業の顔色を窺って使ったものでした。
戦前は富国強兵の為に爪先を灯して貧窮に耐えて来ました、でも戦後は企業優先で庶民は顧られていません。軍艦に費やされた国債は紙屑になってしまいました。

ところで年収に倍する借金証書(国債)の所有者は誰かと云えば日銀、郵貯、そして年金事業団ですこの三者で1000兆円の5割を越します。国債は日本人が保有しているから安心でデフォルトリスクはないと政府は云いますが。こんな借金過多が国際常識で通用する筈はないので何時かは破綻するリスクがあります。国債を売り浴びせるとすれば外国人が想定され、最大の投資家は中国です外国投資家は下表に依れば135兆に及びます。正月明けから株価が続落して私達は疑心暗鬼で、諸悪は中国の「サーキットブレーカー制度にある、と非難していますが。東京証券取引所も国債の相場急落対策として「急落した場合は取引を停止する用意をしています。。
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1000兆に及ぶ国債の所有者内訳。日銀も年金も郵貯も皆身内で。国債と云う借金をたらいまわししているのです。戦前のモラトリアムと同じように国債デフォルトの場合は国民が尻拭いする事になります。中国が安倍政権はけしからんと云って国債を売り浴びせれば日本丸は沈没する事でしょう。私も年金を失う事になります。

私が月島の露地裏で預金集めをしていた頃は安アパートが露地の両側に建っていて、日雇い労働や芸者さんやクラブのママが住んでいました、みんな貧しくても夢がありました。露地裏ではいろんな人が肩を寄せ合い慎ましくも優しくいたわり合って生きていました。ソロソロマンションも出始めていました。マンションには癌研や聖路加の勤務医がお住いで、みんなせっせと貯金しておいででした。
私は勤務医さんの若奥様から貯金を預かって廻りました。
私は銀行の竹内宏さんの露地裏を身を以って廻っていました。表通りには喫茶店が在ってジャズを聴きながらオムライスを頬張りました。当時はモンジャ焼きはありませんでした。表通りに善光寺別院がありました善光寺さんですから阿弥陀様が本尊かと云うと観音様が祀られていました。地下鉄や臨海線が通って立地が良くなったお蔭でしょう。一日会社勤務で疲れた人が月島でオフを楽しむようになったからでしょう。浅草の仲店状態に変身しました。
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これは昔の月島通り浅草寺の仲店が1〜4丁目まで続いています歩天国で椅子も設えてあります。モンジャ屋さんには行列が出来るのでおお店の前にも椅子があります。

1丁目から4丁目まで500mもの間が仲店です。日本最長の仲店です。
善光寺さんは川崎駅前の別院を月島に移転したら、月島の仲通りは善光寺さんの参道のようにチェンジされることでしょう。屹度、長野駅から善光寺本殿迄よりも賑わう事でしょう。
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善光寺別院もビルの中に入ってしまいました。でもビルは公衆浴場ビルで人情のあるもので良かったです。
ワイフともんじゃ焼きを食べて歩行者天国を楽しました。ようやく杖も外して歩き始めた私ですが、此処なら安全です。先日テレビニュースで駅舎のホームで肩がぶつかって線路に突き落とされた事件が起きました。仲店は仲良くするの意味なのでしょう。仲良くする町が居心地良いのです。高層ビルは日陰を作るし、ビル風で小さな木造家屋は心細いのです。大風が吹く度毎に竜巻で吹き飛ばされないかビクビクしておいででしょう。私が好きな三井不動産が大川端開発を推進してきた事実は残念ですが高層ビルと江戸情緒の色濃い長屋文化や露地裏文化を大切にして残して欲しいものです。
70年代は三味線も響いていた露地でした。粋なお姉さんが小唄のお師匠さんなんかしておいでなら楽しいのですが。
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路地裏の向こうは隅田川で高層ビルが聳えています。路地裏は津波が来ない前提です。でもそんな時は高層ビルに避難すれば良いでしょう。江戸の優しさで津波時に避難受け入れ協定を結んでいることでしょう。

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先日は巣鴨の疣取り地蔵尊から庚申塔を巡り都電に乗って大塚経由で帰宅しました。大塚の先は雑司ケ谷である事はその時に知りました。
お墓参りの好きな私でしたから、雑司ケ谷霊園には泉鏡花を始め島村抱月竹久夢二永井荷風等が眠っておいでです、いずれ墓参したいと思って居ましたが、脳梗塞以来左肩や左脚に霊が乗り移っているような気がして、その時はは墓参は止める事にしました。今回も霊園の木立を横目に見ながら進みます。
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都電雑司ヶ谷駅に近い雑司ケ谷霊園。お正月を控えてお墓掃除を終えているようでした。野鳥や野良猫がお供えを狙って姿を見せていました。
都電は大塚駅を出ると左右に急旋回し次は激しいアップダウンです。雑司ケ谷もその先の目白台も強い山・谷だったようです。「山手線の外側には下町風景が残っているなあ!」実感します。車窓に大鳥神社が見えました。次が鬼子母神前です。
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JR大塚駅の線路下に都電の駅があります。都電大塚駅から西に進めば早稲田の手前が雑司ヶ谷です。
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都電は満員でズット立ち通しでした。
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鬼子母神駅から大塚駅方向を見返せば急な谷坂を都電が登って来ます。左の高層ビルは池袋サンシャインです。線路左が大鳥神社です。
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大鳥神社前踏切を通る都電車体には「命を教える帝京大学」と広告されていました。この辺りは隘路続きで一方通行の迷路ばかりです。たまに広い道に出ると「カメラ警戒中/日本女子大学」なんて案内されていていました。叔父さんはウロウロしない方が無難です。
鬼子母神駅前から鬼子母神堂の参道が始まります。細い産道の両側に大きな欅が並んでいます、広重の江戸名所図でもお茶屋の前に欅が描かれていますから樹齢は3百年は経て居る事でしょう。残念なことに樹勢は極めて悪く腐って髄を見せている木も目立ちます。保存会も組織されて活動しているようです。欅は冬は防風林とにもなる武蔵野には欠かせない風物です。
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これが鬼子母神産道の始まりです突き当りのマンションを左折すれば直ぐに鬼子母神堂です。広重の絵では参道の両側はお茶屋が軒を連ねて賑わっていたようです。
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案内所に貼られていた広重の江戸名所図の雑司ヶ谷鬼子母神図立派な茶屋が軒を連ね晴れ着の婦人が参詣しています。左のご被人は子供の手をひいています。子供はミミズクの提灯(ススキで編んだ縁起物の玩具)を持っています。右端の一団のご婦人は屹度遊女でしょう彼女たちは性病治癒や水子供養に鬼子母神を篤く信仰していたのでしょう左の茶屋を覘いている二人連れの男は店(見世)の格子から遊女を物色しているのでしょう。雑司ケ谷は青梅街道沿いの遊び場でもありました。
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これは雑司ヶ谷案内処の店内この日(25日)が店じまいでした。手前の3000円の玩具がミミズク提灯で、ススキの穂を編んで作るのだそうです。ミミズクは不苦労ですし縁起物(ミミズク頭巾のように)なのでした。池袋が街のシンボルにミミズクを選んだのは「袋」の語呂合わせだけでは無く歴史があったのでした。


鬼子母神堂の境内に入ると木枯しが舞ってきました。既に散った銀杏や欅の木の葉を巻き上げて迫って来ます。境内に箒がそれこそ「放棄」されています。寺男が幾ら掃いても木枯しが吹き散らすので風神の悪戯に怒って箒を投げ捨てたようです。
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参道を左折すると正面に鬼子母神堂が見えてきます、既に初詣を受ける準備も完了した様子でした。
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名物の銀杏の大樹の下には箒が投げ捨てられていました。木枯しが止むまで掃除をしても何の役に立たないと悟ったのでしょう鳥居は境内に勧請された武芳稲荷神社(たけよし稲荷)
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これが大銀杏。案内には、樹齢600年を越すとされるイチョウの巨木で幹の周り8メートルもあり、都の天然記念物に指定されています。植えられたのは応永年間ですから、足利義満が生きた頃の時代です。鬼子母神のお堂建立より250年以上も前の事でした。流石に垂れ乳も立派です。
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これは境内にある駄菓子屋さんの上川口屋さん叔母様が店番をしておいででした創業は1781年と書かれていますから田沼意次の時代と云う事になります。
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鬼子母神正面石の仁王像が迎えてくれます
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境内北側に佇む鬼子母神像
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鬼子母神本堂の金網弐貼られたザクロの絵馬は次に依っていると云われます。インドに子供を食べる鬼神「可梨帝母」がいて皆困っていた。それを耳にしたお釈迦様は、可梨帝母の子供を取り上げ「これからは人肉を食べない様にその代りザクロを食べるように言い聞かせました。可梨帝母はお釈迦様との約束をよく守ったため、お釈迦様は可梨帝母に子育ての神様「鬼子母神」となることをお許しになりました。これは仏教説話でザクロは実が沢山着く事から思いついたものでしょう。キリスト教でも生母はザクロを手にされています。

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本堂前の天水桶は鉄鍋でした。関東大震災や空襲の時の炊き出しに使われたのでしょうか風格の滲んだ大鍋でした。
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大黒堂はお茶屋を兼ねているような作りでした。お正月には此処で甘酒やお饅頭を戴けるのでしょう。大黒様もお正月を”もういくつ寝ると・・・”お待ちの風情でした。
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ミミズクに見送られて次の目的地学習院大学に向かいました。

今日は案内しませんでしたが鬼子母神堂には絵馬が沢山掛かっていました。江戸時代のものが30点明治以降も含めて50点も懸っているそうです。何かの機会が在ったらじっくり鑑賞したいものです。お腹も空いて来ました、此処はお稲荷様も立派ですから御蕎麦屋さん(神田の藪蕎麦の出生の地)にも行きたかったのですが。学習院大学の学食が魅力で空き腹を抱えて木枯しの中目白台に向かいました。以来今朝もワイフは風邪声で悩んでいます。鬼子母神は古いモノを大切に伝え守っている懐かしさ滲む処です。戦後漫画文化を築いた漫画家達も雑司ケ谷の優しさ懐かしさを嗅覚して南長崎の常磐荘に集まったのでしょう。

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