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東京ウォーキング

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25日午前中は雑司ケ谷で鬼子母神様を詣で、ランチは学習院大学で摂ろうと決めて行きました。正門で守衛に建造物の見学を申し出ます。
すると聞きもしないのに
「今日は既に冬休みなので学食は総て閉じています」言われました。
私は
「松本楼もお休みですか?」尋ねれば、
「コンビニは開いていますから・・・・」言われます。
そして、建造物(国の夕景登録文化財7棟)と学食パンフレットを渡してくれました。
私のように学内を見学し、学食でランチするような人が多いようです。
胸に「見学許可証」をぶら下げて、学内をアッチコッチお上りさんさせていただきました。
学内では警備員に何度もすれ違いまあした。

学習院の起源は、幕末の京都に設けられた公家の教育機関でありました。
光格天皇は朝廷の権威の復活を強く意識し、平安時代におかれた大学寮以来の教育機関を構想します。続く仁孝天皇の時代に公家のための学問所を作る計画が決まり、孝明天皇に代わった1847(弘化4)年3月、京都御所の東側に学問所の設置が実現し、講義が開始されました。翌々年の1849(嘉永2)年に、「学習院」の額(=勅額)が下賜されて、学習院の名称が定まりました。

明治政府が京都から東京に移ると、1871(明治4)年、明治天皇は華族に向けて、勅諭を出します。「華族は国民の範とならなくてはいけないので独自の教育機関の設立をする、として明治10年/1877)年、華族学校を神田錦町に開設しました。校名は京都時代を継承して学習院としました。現在の学習院は、この時を創立としています。
神田錦町の学習院の校舎は1886(明治19)年に火災で焼失したため、一時期虎の門の元工部大学校に移転した後、1890(明治23)年に四谷に新たな校舎を建設しました。しかし四谷校舎の本館は1894(明治27)年の地震で使用できなくなり、1896(明治29)年に北豊島郡高田村(目白)へ三度目の移転が決まります。現キャンパスはこの3度目の移転によるものです。昭和20年の東京大空襲では目白キャンパスの大半が焼失してしまいます。

1947(昭和22)年4月には、現在の学校制度の根幹である学校教育法と教育基本法が施行されました。
学習院も同年度より私立学校としてスタートします。経営の舵取りを担う院長には、前文部大臣の安倍能成が就任し、学校経営の再建に取り組みました。
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JR目白駅の真ん前にある学習院大学正門。篆書体の文字は私立大学としてスタートした最初の学長「阿倍能生」氏の揮毫です。厳めしいので入り難そうですが、守衛さんは親切ですし、見学に値する文化財が豊富です。学食も利用できるので入ってみる事をお勧めします。
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年が明ければ卒業式シーズンです。レンタル業者の看板が帰郷する学生にアピールして居ました。
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守衛さんに戴いた学内の案内。学食や本屋やコンビニ等も案内されています見開きの中には大きな地図がプリントされていますし。文化財の建物には個別に解説が為されています。後で説明するように明治初年の疑似洋風建築からネオ・ゴチック建築アール・デコ建築など並んでいるので明治村を観ているような想いがします。
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これが疑似洋風建築の「北別館/旧資料館」です。
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今はL字型の「北別館/旧資料館」ですが元々はコの字型だったそうです。手前の噴水池は木の葉が落ちて大変な状態でした。庭にあるのは桜の老大樹です。横に這った幹は右手も左手も腐っていました。

私達は古い順に建物を見学して回る事にしました。先ず向かったがです。木立の中にコロニアル葺きの木造建築が観られました。塔屋こそありませんが札幌の時計塔のような建物です。設計したのは工部大学校(現東大)でコンドルに師事した多くの学校建築を為した久留正道でした。
同氏の作品は都内に多く東京音楽学校奏楽堂重要文化財/https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A7%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E9%9F%B3%E6%A5%BD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E5%A5%8F%E6%A5%BD%E5%A0%82始め数多く残されています。この建物は資料館その前は図書館として利用されていた古き良き時代の薫り高い建物ですが昭年54年にコの字の比翼が切り離され現在のL字形になったそうです。用務員さんが池に落ちた木の葉を掬い上げていましたが、木の葉は止め処も無く散って来ます。掬っても掬っても水面を覆ってしまいます。賽の河原の鬼を想い出す光景でありました。庭には老桜が根を張っていましたがその幹は既に腐っていて何時まで花を咲かし続けられるか覚束ない風情でした北別館はまだしも周囲に高層の建物が増えたので光や風が塞がれてしまったのが災いしているのでしょう。老桜を愛でられるのは今の中と云う事でしょう。
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これが東別館(旧皇族寮」で木造二階建てです。右側は図書館で学生が真剣に閲覧していました。
次に回ったのは東別館(旧皇族寮)です。この木造二階建て建物は大正2年に皇族学生の寮として建てられ昭和10年代まで使われたもので大学の案内では秩父宮雍仁親王(ちちぶのみや やすひとしんのう秩父宮擁仁親王も此処で過されたとの事でした。
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東別館(旧皇族寮の西側側面
東別館(旧皇族寮の西側側面から「乃木館」に回りました。学習院は明治41(1908)年に目白移転を機に6棟の寄宿舎が建てられ、開寮と同時に第10代乃木希典院長は総寮部内の一室に起臥しました。学生と寝食を共にしてその薫陶にあたったのでした。同院長の逝去後、院長の居室であった総寮部を「乃木館」として保存し、昭和19(1944)年ごろ現在の場所に移築したのでした。「乃木館」の西は崖でその下は「血洗い池」の案内が為されていました。元々は灌漑池であったものが構内の防火池になりそのうちに高田の馬場の決闘で著名な堀部安兵衛が血刀や体を洗ったという伝説が語られて「血洗い池」と云った生々しい名が被されたものでしょう。鬱蒼と茂ったスダジイの間に水面が光っていました。
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この建物が「乃木館」です裏(西)が血洗い池になります。秩父宮雍仁親王は屹度薄暗い寮に押し込まれて寮を出れば乃木院長に睨まれて屹度息苦しかった事でしょう。
乃木館の東側を観れば飛び石の向こうに南1号館が迫って見えます。
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乃木館から東を見ると正面に南1号館が見えます
このネオ・ゴシック様式の建物は関東大震災直後の昭和2年に耐震性考慮して建てられたコンクリート建築で。設計は宮内省内匠寮です(東京都庭園美術館の朝香の宮邸と同じ)。東大の本郷キャンパスと同じ雰囲気を持った建物で現在も活用されています。窓枠デザインは花頭形で如何にもアール・デコ様式ですが。素材がアルミ窓枠です。予算的に建築当初の様式を踏襲する事は無理だったのでしょうが、少し残念な気もします
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南1号館の玄関外形はネオ・ゴチック様式ですが内装はアール・デコの大空間で細部の意匠にアール・デコが認められます。アール・デコは工場大量生産の無機質もののアンチテーゼとして起こった文化運動でしたので扉が木質なのは当然として窓枠をアルミサッシにしているのは残念至極です
南1号館の横には西1号館が建っています。此方は昭和5年(1930)に建てられました内部はステンドグラスや暖炉の施設が凝らしてあるそうです。
一応5棟を見て回りました。私達はグランドの横から平屋建ての武道場に出ました。稽古着が物干しに吊るされているので此処が武道場である事は直ぐに解りました。武道場の脇木には真赤なイイギリが実っていました。野鳥に人気の木の実ですが未だ野鳥は集まっていませんでした。都会ではムクドリもヒヨドリも餌が豊富なので冬本番に残しているのかも知れません。
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武道場脇に実っていたイイギリの実



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クリスマスツリーを観に立教大学に出かけました。午前中は雑司ヶ谷教会と宣教師の館を廻りましたのでチャペルでの礼拝には参加できませんでした。でもチャペルの煉瓦積の壁に近づくとパイプオルガンの響きがチャペル全体で響いて来るようです。
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25日午前中は雑司ケ谷霊園に近い雑司ヶ谷教会を訪れました宣教師の家は修復中で入れませんでした(来年3月末まで)宣教師通りのデザインにコロニアル建築の面影を見て暗くなるまで目白台で過して立教大学のチャペルに向かいました。
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この建物が立教大学のチャペルです。煉瓦積建築で大正5年竣工でしたから丁度旧丸ビルの工事が始まった頃に相当します三菱1号館はゴシック建築に対し旧丸ビルはアール・デコ建築で、大正デモクラシー昭和モダニズム建築の代表するモノでした。このチャペルもアールデコを色濃く残している(大空間建築+装飾建築)です。この近くの自由学園明日館も同じタイプの建築です。何故か目白通り沿い西池袋はプロテスタント宗教建築が多いのです。丸ビルの基礎杭は松の木で岩盤まで届いていませんでしたからこの教会も松の杭の上に乗っているのでしょう。でも関東大震災にも空襲にも耐えてきました。
私達はパイプオルガンに誘われてチャペルの玄関に向かいました。扉は開いていました”仏教徒もどうぞお入りください”そう感じました。午後5時を過ぎてしまいましたので、既に総ての行事は終えていて、奏者が練習を兼ねてオルガンをひているようです。
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これは立教大学チャペルの西側ステンドグラス中から観て見たくなります。
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チャペルの扉は開いていました。

キリスト教は先ずギリシャローマに伝播した事から理性に依る整合性を経てラテン語による聖書を得て更に宗教の荘厳さを増す音楽や賛美歌を得て、絵画を加えて神学を核にした宗教文化に昇華したのだと思いますゴシック建築やパイプオルガンが無くて聖書だけであればキリスト教は世界宗教になりえなかったでしょう。単に「遊牧民族のヘブライ人の信じたも民俗信仰」の位置づけだったことでしょう既に成熟していたギリシャローマ(ヘレニズム)文化の中二伝播した事から信仰の周辺を彩る文化を吸収し、信仰の荘厳さを増して、信心を深めていったものと思います。
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チャペルの大空間煉瓦積の壁の上に木造のトラスを組み立て大屋根を支える構造です。落ち着いた木質の壁にはイコン画や窓(ステンドグラス嵌め)壁絵が飾られていました。圧倒的なパイプオルガンが大空間を揺るがしていました。
私達の耳にする聖歌もローマに遡ります(グレゴリオ聖歌)。日本人も「清しこの夜」を歌えない人は少なく、聖歌のお蔭でキリスト教の尊さを感じているものと思われます。
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この日の午前中は此処で少年少女聖歌隊が讃美歌を歌っていたことでしょう。無事にクリスマスの行事も終えて安堵感が漂う空間でパイプオルガンが響いていました。
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パイプオルガンは練習で奏じているようでした。でも外は風が強いし次第に人が集まって来ました。このパイプオルガンは2013年10月に納入されたもので詳しくは次に案内されています。http://www.rikkyo.ac.jp/news/2013/10/13428/大学の伝統音楽に対する真摯な姿勢が解ります。金属パイプに風を送ってフルートの様に音を響かせます。音の数だけパイプが必要になります。圧倒的な響きが天上の神の声を想わせたのでしょう。

私は10代をカソリックの学校で育ったことから信者の友人も多く、何時しか兄弟の中でも倫理観がとズレてしまいました。結果”変わり者”扱いされてきました。私の理性はカソリックですので行動は兄弟と違ってしまいました。でも私の情操は曹洞宗でありました。私の兄弟両親ははドップリの曹洞宗ですから一致する事は土台無理があったようです。
遠藤周作氏「沈黙」は「踏み絵」を思いついた棄教者の良心の呵責を描いた名作ですが異教徒の私がチャペルの扉を開ける時に十字を切らずの低頭合掌する度毎に治沈黙する他に術の無かった棄教者の痛みを想像するのでした。
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ルーテル教会の掲示板に貼られた渡辺禎夫氏の版画「最後の晩餐」ここには情操と理性の調和が表現されていると思いました。

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チャペル二階への螺旋階段脇に収められた聖書。印刷機の普及が宗教改革をを引き起こしました宗教は人類をリードしますがテクノロジーは宗教の普及に寄与しました。テクノロジーも聖歌もチャペルもパイプオルガンも皆テクノロジーです。テクノロジーの進歩をもたらすのは理性でした。

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ズット気に懸っていた建物があります。日本女子大の成瀬記念館ですです。
立教大学のアール・デコ建築の中でランチを終えて意気揚々と目白台の日本女子大に向かいました。思い込みは悪いものです、私は昭和モダニズム建築の前は疑似洋風建築で英国人コンドルが教えた建築群で成瀬記念講堂はその代表例と思って居ました。昭和女子大が出来たのは明治11年でしたからその講堂もその時の建物と思い込ん、ズット見学したいと思って居たのでした。JR目白駅を降りれば日本女子大行のバスが頻繁に出ています。学習院のキャンバスを透かし見しながら銀杏の並木を東に向かえば5分もしない中に日本女子大に着きます。j大学の構内でバスは折り返して目白駅にピストンします。
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学習院大学の正門、構内に入り難い雰囲気です。
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右側が学習院大学目白通りを東に向かえば直に日本女子大です。
何歳になっても女子大に入る時は胸が騒ぎます。
守衛に「成瀬記念会館を見学させて下さい」来意を告げます。
守衛は「其処ですよ!」背後の赤煉瓦積の建物を示します。
既に大学は冬休みなのでしょうか?女子大生の姿は疎らです。代わって小学生の姿が目立ちます。JRバスを乗り継いで名門学校の初等教育を受けているお金持ちの子弟なのでしょう。日本女子大の門を潜ると高層のビルが林立しています。一番高い建物が百年館で、その横に少しだけ低層の建物が控えています。それらが80年館70年館でおのおの創立記念事業で建てたもののようです。
成瀬記念会館は正門左(西側)に建っていますが1984(昭和59)年に竣工したのでしたから、建学(1906年明治9年)から数えて77年目喜寿の記念事業だったのでしょう。設計は設計者・浦辺鎮太郎氏で大原美術館新館や大仏次郎記念館などを設計した人物なので赤レンガ造りがお得意なようです。工事はコンドルに育てられた清水建設が請け負いました。
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日本女子大正門の景色成瀬記念会館前から見る。紅葉しているのは南京櫨、正面のクリーム色の建物が70年館その右の鼠色の建物が桜楓館その右に香雪館(尖塔のある建物があってバスロータリーに面しています
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バスロータリー前にある尖塔のある建物現在香雪館と名付けられていますが建学頭所からの建物で現在の成瀬記念会館のある場所に建っていたようです。
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成瀬記念会館の全体風景。私は長い間この建物が明治初頭にコンドルの設計で建てられた洋風建築と思い込んでいました。
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この写真が建学頭初のモノのよ正門を挟んで向い合う豊明小学校(左)と豊明館(教育学部校舎)だそうです。これらの建物が赤レンガ積で残っていた事から新しく成瀬記念会館を赤レンガ積で建築したように思われます。でも空地に高層の建築が建ったことから煉瓦が囲った空間は消えてしまったようです。写真の出典は日本女子大のホームページhttp://www.jwu.ac.jp/unv/facilities/naruse_memorial/outline.html

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成瀬記念会館の正面赤い煉瓦積の建物は建学77年に建てられたもので当時日本女子大のキャンバスには煉瓦建築が目立ったことから既存建築に調和させて1961年(昭和36年)に建てられました。
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かっての日本女子大の成瀬記念講堂関東大震災で被災したそうです写真出典日本女子大ホームページhttps://www.jwu.ac.jp/unv/about/building/mejiro_campus.html立教大学第一食堂に似た構造材です。

真新しい赤レンガ積の建築よりもその向かいの尖塔のある建物が気になりました。
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成瀬記念会館の向かいにある香雪館。この建物が建学頭初から使われた講堂であったと思います。

教会建築の様に見えます。日本女子大の資料で確認するとその教会風の建物は成瀬仁蔵氏が大坂(梅花女学院)や大和時代に牧師だったそうで日本女子大の建学の精神に表にこそはキリスト教を出さずとも幅広く女子教育に情熱を注いで,ベースには米国風の開拓向上心が強かったようでした。尖塔のある建物はそんな校風を象徴していたのでしょう。当初は板張りのコロニアル建築だったようですが今はブリキの板で囲っています歴史ある建物にも少し資金を回せば良かったと残念な気持ちで眺めました。
私の事前調査が不十分であった事から成瀬記念会館を見学しただけで日本女子大を後にしました。もっと奥に入ってみれば歴史的な建物も見学できたでしょうに・・・女子大を観て回るといった後ろめたさが災いしたのでした。
成瀬記念会館は大学を卒業して児童文学に功績のあった方々を照会して居ました。
年明けには朝のドラマ”朝が来た”のヒロイン広岡浅子さんの展示を予定しているのでした。
広岡浅子さんは成瀬氏と二人三脚で日本女子大を建学したでした。
そんな次第で、既に広岡浅子さんの遺品が展示され資料も用意されていました。
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成瀬記念館では年が明ければ広岡浅子を展示します。写真の様に能筆家でありました。
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成瀬記念館のパンフレットステンドグラスやフレスコ画「作野旦平氏」が見所です。
ワイフが熱心に「朝が来た」を見ていますので私もつられてみていました。
最初に女子大の入学式風景が舞台でした。だから今回のドラマは女子大の教育に貢献の在った人物である事は承知して居ました。でも納得のゆかない事が二つありました。
その何れも広岡浅子さんの出生に係る事です。
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浅子さんはお転婆で自由奔放な女性に描かれていましたが何故史実に反してそう描いたのか訳が分かりません。
第一が浅子さんが自由奔放でお転婆な女性である事は良いのですが何故「字が下手で姉さんが良妻賢母型の古風な女で描かれた」という事です。成瀬さんへの手紙や色紙(短歌)を見る限り字も上手で短歌も秀作でした。
また浅子さんは京都の両替商「今井」の娘にした事でした。事実は江戸小石川のの三井家でした(改めて調べると京都の出水で育ったようです)。三井家は日本橋を拠点に京都にも店がありましたから、京都で育ったのは、大嘘という訳でも無いでしょうが・・・・。三井の娘ならバックとして申し分はありません。大坂の加賀屋さんも願ったり叶ったりの結婚だったでしょう。浅子が石炭に入れこんだのも「人の三井」なら自然な事です。
ドラマを面白くするために史実を脚色するにも程度がありましょう。才能を隠し「相撲と算盤が好きなお転婆だった」。既に日本一の両替商だった三井の娘で産まれたのに京都の老舗両替商に仕立てるのは疑問に思います。NHKの画面は歴史考証も信頼して観ています。軽々に弄ると信頼を欠きます。ニュースで”僧侶のやらせ”が問題になっていますが、出家する事で戸籍を無くして銀行から借り入れを詐称する・・・そんなドラマ仕立てに迷わされたのもこんな軽軽な姿勢が影響しているのではないかと懸念してしまいます。


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親友のお父上の展覧会が催されているので池袋の要町に出かけました。つい先日自由学園明日館と熊谷守一美術館に行ったばかりでしたから。要町には再三出かける事になりました光文社ビルからルーテル徳経教会を経て立教大学に向かいました。途中江戸川乱歩文学館がありました。残念ながら今日(12月16日)は休館日で閉ざされた門の井間から稀代の推理作家の自宅を覗き見しました。小さな窓の室内では猟奇殺人事件でも勃発して居そうな何処か無気味な建物です。
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これが江戸川乱歩記念館左隣は立教大学の池袋キャンパスです。
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この樅の木の通りを進むと立教大学の中央に出てきます。立教大学は守衛が居ないオープンキャンパスです。
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立教大学正面突き当りの尖塔のある建物が第一食堂左に旧図書館建物右側に事務所棟が「こ」の字に建っています。に庭の左右に大きな樅の木が立っていて学生の主催するクリスマス実行委に依ってクリスマスツリーの飾りが為されています。

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これは立教大学クリスマス実行委による夜のクリスマスツリー出典は同委員会のホームページのホームページhttp://www.date-navi.com/xmas/rikkyou.html
立教大学は明治8年築地の疎開地に建てられた米国聖公会系のミッション大学です。池袋キャンパスには、大正7年(1918年)に転居しました。時は大正デモクラシーの時代、我国建築界はフランク・ロイド・ライト主導するアールデコが主流でした。個が尊重された明治を経て立憲主義も大衆化されてきました。建築界も沢山の人々の集まる大空間が尊重され教会やホテルや次々に建てられました。立教大学池袋キャンパスのそんな流れの中にあった記念碑的な建築群で、レンガ造りの本館、図書館、チャペルなが、大正時代のキャンパス開設時に建てられたまま現在でも残されており最高の見所は正門から一直線に本館を抜け、突き当りに位置する第一食堂が形成するコの字形の空間です。丸いテーブルと椅子が置かれていて此処の学生が集って談笑する光景は、日本の大学でも他にあまり例を見ない空間だと思います。単純に羨ましいと思います。
戦前のキリスト教学校の建築は、外国人によって設計されることがほとんどでありました。その多くはフランク・ロイド・ライトの弟子達がたちで日本に在住者して設計しました(ガーディナーやヴォーリズ、レーモンド等)ロイドライト系の建物は今も全国至る所に現存しています。軽井沢の教会群も過半がフランク・ロイド・ライトの遺風を引き継いでいます。私達はこの水平線が織りなす大空間に昭和の懐かしさを覚えるのです。
立教大学が築地から池袋に転居するに際し設計したのは無名に近いマーフィとダナという建築家でした。両者とも日本での在住経験はなく、日本では立教大学以外に事例が確認されていませんでした。知名度こそはは決して高いとは言えなません、しかし、日本で活躍したガーディナーやヴォーリズなどとは異なり、大学で正規の建築学を修め、アメリカ東海岸の設計事務所でさまざまな建築の設計に携わっていた。特にマーフィはその後中国などアジア地域でさまざまな建築を手掛けるなど、国際的に活躍していた建築家でありました。移転時の立教大学の指導層の眼の確かだったことが窺がえます。
建築費は米国聖公会宣教師アーサー・ラザフォード・モリス氏の寄付によって建てられたことから、モリス館の愛称がつきます。なお、中央時計台の時計はイギリス・デント社製だそうです。
早起きしていましたので11時でお腹が空いて来ました。そこで第一食堂と云う学食に入りました。先ずその大空間をご覧ください。
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これが第一食堂の大空間です。上品なベージュの壁と木質の袖板窓枠そして天井力感溢れるトラス構造に魅入られました。留学生が目立って外国語が交錯する空間でした。
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此処がほぼ中央でクリスマスツリーが飾られていました。

何といっても魅入られるのは天上でトラス構造が確認できそのさきに天井の裏板も見えます。
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何といっても魅入られるのは天上でトラス構造が確認できそのさきに天井の裏板も見えます。トラスを観ると唐招提寺の補修に際し大屋根を支える空間にトラスを補強材に使って事が想い出されます。昭和の大修理は失敗だったようでトラスは大屋根の歪みを招き千年平成の修理を終えたのでした。この仕事は竹中工務店が実施し次のホームページに詳しいです、http://www.takenaka.co.jp/solution_manage/purpose/traditional/service07/index.html

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これが私の食べたビーフシチュー500円ご飯は豊後高田の新米でした。名物はかつ丼370円だそうです。ご近所の人も多く見られました。
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これは実行委員が製作したステンドグラス。
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キャンパスの紅葉は未だ残っていました。建物は視線の高さまで煉積でした。
立教大学池袋キャンパスは建物も自然も最高で特に学生が生き生きしているのが良かったのでした。改めてミサ(聖公会ではミサと云わないのかな?)に列席したいものです。

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朝香邸新館の妙

12月1日東京の紅葉を観たいと思って白金の東京都庭園美術館に出かけました。前回見学したのは10年前当時は朝香邸新館(プリンスホテルが使用していた)に耐震性問題が発生して建て直しの最中でした。従ってお庭を見学庭に配置された彫刻やオブジェを観て帰りました。今年の春朝香邸旧館が重文指定を受け一般公開が始まっていましたので来たい来たいと思って居ました。しかし日本庭園のお茶室等も重文の指定を受けたようで。日本庭園は工事中でした。
私達は余程朝香邸とは縁遠いのかも知れません。工事の進捗状況を見れば来春の桜の季節には庭も建物も全部心行くまで鑑賞できるかもしれません。
【朝香の宮邸の重要文化財評価の根拠】
朝香宮(あさかのみや)は、明治後期、久邇宮朝彦親王の第8皇子である鳩彦王(やすひこおう)が創設した宮家でした。鳩彦王は明治天皇のの第8皇女充子(のぶ子)内親王と結婚,陸軍大学校を経て大正11年(1922年)フランスに留学しました。当時のフランスはシトロエンが建築したエッフェル塔をシンボルにしたパリ万国博覧会 (1925年)が開催されていました。総じて云えば産業革命の成果として量産された粗悪な生活雑貨に対する批判から、精巧で官能的な装飾芸術やデザインが評価されていました。そんな装飾的なデザインをアール・デコ(Art Deco)というと言い表しました。
青年鳩彦王はアール・デコの虜になったものと思われます。鳩彦王は日本に帰国するとフランス風のアール・デコで装飾された自邸を建築したのでした。
朝香の宮ご家族は皇室離脱された1947年までこの白金台に住まわれました。その後は吉田茂の首相公邸になり(1954年まで)迎賓館として利用されていましたが1981年赤坂離宮が整備され離宮が迎賓館として利用されることになると1983年東京都に移され庭園美術館として一般公開されたのでした。そして今年我国を代表するアール・デコ建築である事が評価され重要文化財の指定を受けたのでした。
アールデコが装飾装身具に秀でていた伝統からでしょう。今次はオットー・クランツリの作品を展示して居ました。
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洋風庭園から見た朝香邸の旧館(重要文化財)
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朝香邸玄関のモザイクタイル(アンリ・ルバン)とガラスの扉(ルネ・ラリック」有翼の女性像は繊細で美しいのですが惜しい事に罅が入ってししまっていました。


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当日はオットー・クランツリのアクセサリーを展示して居ました。年明けはガレです
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二階から自然光を取り入れるために装飾硝子を嵌めていました。

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居間の段防具の覆いまでがアール・デコで飾られていました
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1階から二階への階段の照明。落ち着いた色調で統一されていました
ところで私が感心したのは新館の建物です。
旧館は宮内庁の匠が丹精込めて建築したのですから感服する出来栄えであるのは当然です。難しいのは新館の設計です。旧館の文化的価値を損なわず、できればその輝きを増して欲しいものです。旧館は屋敷の主人の好みを満足させれば良いのですしお金は自由だったでしょう。設計も建築も易しかったと思います。ところが新館はそうは言えません。旧館の輝きを増したうえで美術館としての機能を補足しなければなりません。こんな難しい仕事を受け持つ人は凡人ではありません。私が感心したのは旧館から新館への通路です。ガラスの通路になっていました。ガラスを通して差し込む光が壁や床に文様を落としています。時間によってはプリズム効果で虹が出るのかも知れません。旧館の落ち着いた上品な雰囲気を損なわずに新館の展示場に誘導してくれます。新館には展示場とトイレや喫茶店ミュージアムショップが用意されていました。
杉本博司氏のアドバイスによって久米設計事務所がデザインしたのでした。
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手前が旧館向こうが新館通路をガラスが囲っています。三保谷硝子のガラスが両者を繋いでいました。
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これが新館です。喫茶室が見えます。
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これは新館のミュージアムショップです。クランツのアクセサリーが売られていました。
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これは洗面所。トイレも良かったです。
今週末が紅葉も最高でしょう。

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