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25日午前中は雑司ケ谷で鬼子母神様を詣で、ランチは学習院大学で摂ろうと決めて行きました。正門で守衛に建造物の見学を申し出ます。
すると聞きもしないのに
「今日は既に冬休みなので学食は総て閉じています」言われました。
私は
「松本楼もお休みですか?」尋ねれば、
「コンビニは開いていますから・・・・」言われます。
そして、建造物(国の夕景登録文化財7棟)と学食パンフレットを渡してくれました。
私のように学内を見学し、学食でランチするような人が多いようです。
胸に「見学許可証」をぶら下げて、学内をアッチコッチお上りさんさせていただきました。
学内では警備員に何度もすれ違いまあした。
学習院の起源は、幕末の京都に設けられた公家の教育機関でありました。
光格天皇は朝廷の権威の復活を強く意識し、平安時代におかれた大学寮以来の教育機関を構想します。続く仁孝天皇の時代に公家のための学問所を作る計画が決まり、孝明天皇に代わった1847(弘化4)年3月、京都御所の東側に学問所の設置が実現し、講義が開始されました。翌々年の1849(嘉永2)年に、「学習院」の額(=勅額)が下賜されて、学習院の名称が定まりました。
明治政府が京都から東京に移ると、1871(明治4)年、明治天皇は華族に向けて、勅諭を出します。「華族は国民の範とならなくてはいけないので独自の教育機関の設立をする、として明治10年/1877)年、華族学校を神田錦町に開設しました。校名は京都時代を継承して学習院としました。現在の学習院は、この時を創立としています。
神田錦町の学習院の校舎は1886(明治19)年に火災で焼失したため、一時期虎の門の元工部大学校に移転した後、1890(明治23)年に四谷に新たな校舎を建設しました。しかし四谷校舎の本館は1894(明治27)年の地震で使用できなくなり、1896(明治29)年に北豊島郡高田村(目白)へ三度目の移転が決まります。現キャンパスはこの3度目の移転によるものです。昭和20年の東京大空襲では目白キャンパスの大半が焼失してしまいます。
1947(昭和22)年4月には、現在の学校制度の根幹である学校教育法と教育基本法が施行されました。
学習院も同年度より私立学校としてスタートします。経営の舵取りを担う院長には、前文部大臣の安倍能成が就任し、学校経営の再建に取り組みました。
JR目白駅の真ん前にある学習院大学正門。篆書体の文字は私立大学としてスタートした最初の学長「阿倍能生」氏の揮毫です。厳めしいので入り難そうですが、守衛さんは親切ですし、見学に値する文化財が豊富です。学食も利用できるので入ってみる事をお勧めします。
年が明ければ卒業式シーズンです。レンタル業者の看板が帰郷する学生にアピールして居ました。
守衛さんに戴いた学内の案内。学食や本屋やコンビニ等も案内されています見開きの中には大きな地図がプリントされていますし。文化財の建物には個別に解説が為されています。後で説明するように明治初年の疑似洋風建築からネオ・ゴチック建築アール・デコ建築など並んでいるので明治村を観ているような想いがします。
これが疑似洋風建築の「北別館/旧資料館」です。
私達は古い順に建物を見学して回る事にしました。先ず向かったがです。木立の中にコロニアル葺きの木造建築が観られました。塔屋こそありませんが札幌の時計塔のような建物です。設計したのは工部大学校(現東大)でコンドルに師事した多くの学校建築を為した久留正道でした。
同氏の作品は都内に多く東京音楽学校奏楽堂重要文化財/https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A7%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E9%9F%B3%E6%A5%BD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E5%A5%8F%E6%A5%BD%E5%A0%82始め数多く残されています。この建物は資料館その前は図書館として利用されていた古き良き時代の薫り高い建物ですが昭年54年にコの字の比翼が切り離され現在のL字形になったそうです。用務員さんが池に落ちた木の葉を掬い上げていましたが、木の葉は止め処も無く散って来ます。掬っても掬っても水面を覆ってしまいます。賽の河原の鬼を想い出す光景でありました。庭には老桜が根を張っていましたがその幹は既に腐っていて何時まで花を咲かし続けられるか覚束ない風情でした北別館はまだしも周囲に高層の建物が増えたので光や風が塞がれてしまったのが災いしているのでしょう。老桜を愛でられるのは今の中と云う事でしょう。
これが東別館(旧皇族寮」で木造二階建てです。右側は図書館で学生が真剣に閲覧していました。
次に回ったのは東別館(旧皇族寮)です。この木造二階建て建物は大正2年に皇族学生の寮として建てられ昭和10年代まで使われたもので大学の案内では秩父宮雍仁親王(ちちぶのみや やすひとしんのう秩父宮擁仁親王も此処で過されたとの事でした。
東別館(旧皇族寮の西側側面
東別館(旧皇族寮の西側側面から「乃木館」に回りました。学習院は明治41(1908)年に目白移転を機に6棟の寄宿舎が建てられ、開寮と同時に第10代乃木希典院長は総寮部内の一室に起臥しました。学生と寝食を共にしてその薫陶にあたったのでした。同院長の逝去後、院長の居室であった総寮部を「乃木館」として保存し、昭和19(1944)年ごろ現在の場所に移築したのでした。「乃木館」の西は崖でその下は「血洗い池」の案内が為されていました。元々は灌漑池であったものが構内の防火池になりそのうちに高田の馬場の決闘で著名な堀部安兵衛が血刀や体を洗ったという伝説が語られて「血洗い池」と云った生々しい名が被されたものでしょう。鬱蒼と茂ったスダジイの間に水面が光っていました。
乃木館の東側を観れば飛び石の向こうに南1号館が迫って見えます。
このネオ・ゴシック様式の建物は関東大震災直後の昭和2年に耐震性考慮して建てられたコンクリート建築で。設計は宮内省内匠寮です(東京都庭園美術館の朝香の宮邸と同じ)。東大の本郷キャンパスと同じ雰囲気を持った建物で現在も活用されています。窓枠デザインは花頭形で如何にもアール・デコ様式ですが。素材がアルミ窓枠です。予算的に建築当初の様式を踏襲する事は無理だったのでしょうが、少し残念な気もします
南1号館の横には西1号館が建っています。此方は昭和5年(1930)に建てられました内部はステンドグラスや暖炉の施設が凝らしてあるそうです。
一応5棟を見て回りました。私達はグランドの横から平屋建ての武道場に出ました。稽古着が物干しに吊るされているので此処が武道場である事は直ぐに解りました。武道場の脇木には真赤なイイギリが実っていました。野鳥に人気の木の実ですが未だ野鳥は集まっていませんでした。都会ではムクドリもヒヨドリも餌が豊富なので冬本番に残しているのかも知れません。
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