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東京ウォーキング

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南部坂の風景

船越桂氏の彫刻を観たらお父様の船越保武さんの作品を観たくなりワイフを誘って麻布の有栖川公園に出かけました。この街には苦い思い出があります。と云うのは此処に私の勤めた長銀の迎賓館が在ったのです。
長銀破たんの遠因はこの街に迎賓館を建立した頃に既に目立っていたのでした。当時世情は既にバブルと指摘され株価も見る見る4万円台に迫っていました。迎賓館に向かう社用車の室内で常務はご機嫌で居られました。”今日も株価が上昇したので銀行の含み益が2兆円、自己資本に匹敵する含み益が出来たことになりました。米国風の自己資本比率は倍増したことになります。接待会場を自分で作れば接待費を外部流出しなくて済みますし、お座敷にお招きした気持にもなれます。迎賓館を建てた気の緩みは内幸町に本店を建築し、果ては系列ノンバンクのバブル融資を産み本丸の転覆を誘導したのだと思います。
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有栖川記念公園は有栖川野宮威仁親王のお屋敷が昭和9年に一般開放されてできた公園です
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有栖川公園の池撮影日は12月1日でしたから今週末は紅葉が一層進んだことでしょう。
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有栖川公園は森が深く都心でありながら野鳥が棲んでいる森なのです。
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此方は浅倉響子さんの作品「新聞少年像僕は少年新聞や、軽くしごけば新聞のインキがプン匂います大事に抱えて走る時マラソン選手のようでしょう・・・。”
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此方が船越保武さんの「笛を吹く少年像」笛を吹く少年と云えばマネの横笛を吹く少年を思い出します。船越さんは少年と云うより青年の姿です。夭折した長男の冥福を祈ったものでしょうか?盛岡で生まれ逝った長男でしたから、此処南部藩のしもやしきが相応しかったのでしょう。
麻布は坂の多い街です。広尾の駅から南部坂に向かって坂を登れば有栖川公園の入り口に就き当ります。
有栖川公園は江戸時代盛岡南部藩の下屋敷でした。明治29年(1896年)有栖川野宮威仁親王の新邸用地になり昭和9年(1934)に東京都に下賜され記念公園として一般開放されたのでした。
南部坂には播州浅野家の下屋敷も在ったのでした。、元禄15年1702年12月14日赤穂浪士は吉良邸に討ち入ります。その前夜は大雪だったそうです。大石内蔵助は主君浅野内匠頭の未亡人瑤泉院に暇乞いに訪れた「南部坂雪の別れ」の舞台として有名です。中心蔵のサビの名場面です。明日未明の討ち入り決行を伝え、同士の連判状を内匠頭の霊前に供えるのが目的でしたが、吉良の密偵の影にそれもならず、「東下りの旅日記」と偽って連判状を霊前に供えて、と断腸の思いで偽りを伝えて大石は南部坂を下って行きました。怒りに席を立つ未亡人でしたが、降りしきる雪に今生の思いを大石の背中を見送ります。やがて討ち入り成功の報を受けて、大石の志を悟り短慮を悔いる未亡人。討ち入りの場面を曳きたてるサビの名場面でした。恐らくここを飛ばして忠臣蔵という物語は成り立たないだろうと思えるほどの完成された情景でありました。
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右側が有栖川記念公園です。南部坂を挟んで南側の黒い建物がドイツ大使館です。南部坂は急な坂で半身麻痺の私にはハードでした。未だ3時なのでしたが秋の日はつるべ落としでもう夕闇が迫っていました。

  南部坂は急な坂です。
私は転んだらあ”一巻のお終い”ゆっくりゆっくり坂を下ります。乳母車の親子が私を追い抜いて行きます。
南部坂の西側はドイツ大使館です。コンクリートの擁壁にドイツ大使館のメッセージが描かれています。
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急な南部坂を乳母車を引いた親子が追い越して行きました。ドイツ大使館の壁には大使館のメッセージが丁寧に描かれていました。
古典学派の作曲家大学文化的なメッセージが大半です。そしてベルリンの壁崩壊の事件が描かれています。
足元を気配りしながら壁絵を観ながら坂を下ります。
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古典派作曲家の壁絵。そう言えばドイツの文化的貢献の第一は音楽でしょう。納得です。
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次は大学です。日本は医学工作機械を始め社会学などもドイツの恩恵に浴してきました。この壁絵も納得です。
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次の壁絵はベルリンの壁崩壊です。これで冷戦は終止符を打ち地球戦争のリスクは減少し北は解放されました。
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最期の壁絵は自然と文化でした。美しい自然に調和した文化其れは日本のテーマでもあります。
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これは大使館が余白として残した壁でしょう。落書きで汚されていました。「悪貨は良貨を駆逐する」グレシャムの法則。文化も雑な文化が凌駕するようです。油断は禁物です。

坂を下ればナチュラルハウスと云うスーパーがあります。外交官やその家族を得意とするような品揃えです。歩き疲れた私達はこのスーパーの人隅にある31アイスクリームに入りました。青い目のお嬢さんが私達を見つけて”自分もアイスが食べたいよ”お母さんにおねだりします。青い目の女の子は何故あんなに可愛いのか不思議に思いました。
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31アイスクリームで一休みして南部坂を後にしました。


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日文研セミナーで関西出身のМ君のレポートが在りました。テーマは「阪神間昭和モダニズムに見る都市文化の諸相」と題して関西圏の昭和モダニズム建築を照会して阪急小林一三氏を例にして経済人の活躍を解説されました。М君の強い関西への愛情が好印象でした。
私は当ブログでも再三紹介している様に首都圏の昭和モダニズム建築を見て回っています。横浜にも多く残っていますし。東京に出れば高輪や根津の教会には昭和モダニズムの旗手フランク・ライトロイド自身ではなくともライトに学んだ日本人建築家の作品が多いのも魅力です。阪神間の昭和モダニズム建築は総じて富裕層の私的な建物が多いのに比べて首都圏の昭和モダニズム建築はホテルや教会そして学校建築博物館(上野近代美術館)などパブリックな建築が多いのも特徴です。
以来フランク・ライト・ロイドのモダニズム建築を観に行きたいと思って居ましたので、池袋の自由学園校舎(重要文化財様を観に出かけました。湘南新宿ラインが出来たお蔭で、池袋に出かけるのも楽になりました。戸塚駅で乗れば座ったままで池袋に着いてしまいます。東口に出て水天宮の田の神様を拝んで、次には自由学園に回ります。先ず駅西口に出て劇場通りを池袋消防署に向かってその背後の住宅地の中に自由学園があるのです。
久々の池袋です。立教大学の生徒さんの姿が目に入ります。そうです。池袋目白は学園都市でもあるのです。
立教大学近くのレストランで昼食を取れば隣席の学生さんが就職活動の情報交換をしています。
自由学園は1921年(大正10年)に羽仁吉一氏と羽仁もと子氏が創立した学校です。二人ともジャーナリストであり、特にもと子氏は日本最初の女性新聞記者でありました、結婚後二人は自分達の理想とする社会を作ろうと志し先ず雑誌「婦人の友」を創刊します。更に娘の受けている教育を観て疑問を持ちます。教育は知識の詰め込みでは無い子供の考える力を育てる学校が必要であると考え「自由学園」を創立を志したのでした。そこで教会で知り合った「遠藤新」に相談します。遠藤は帝国ホテルの設計の為に来日していたフランク・ライトロイドを紹介します。
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帝国ホテル本館(重要文化財明治村ホームページを転載)フランク・ライトロイド設計正面ビューは暖炉を観る様な安心感を催させます。今日案内する自由学園の兄貴格の建物です。でも自由学園には大正デモクラシーを育んだ思想が建物に表現されています。

ライトは羽仁夫妻の理念に共感し自由学園の校舎の設計を快諾します。こうしてできたのが自由学園の校舎なのでした。勿論ライトの設計ですから水平線の目立つ大空間建築です。そして床や暖炉は大谷石が多く使われています。大正時代はデモクラシーが浸透した小春日和の様な時間でした。日本で婦人参政権も確立したのは大正14年でした。自由学園の創設はそんな時代の空気を代表するモノだったのでした。鈴木三重吉が「赤い鳥/童謡絵本運動]を創刊したのが1923年(大正12年)でしたからそのままデモクラシーが続いたならば日本は幸せだった事でしょう。しかし大正デモクラシー、昭和モダニズムは長続きせず戦争の渦に巻き込まれて消滅してしまいます。昭和モダニズム建築のファンは総じてこんな歴史を悲しむ人に多い様に思います。
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羽仁吉一氏と羽仁もと子氏はジャーナリストでした。特にもと子氏は日本最初の女性新聞記者でありました、二人が子供の教育(知識詰め込み)に疑問を持って大正10年に創設したのが自由学園で、大正デモクラシー昭和モダニズムを体現した建物がフランク・ライト・ロイドの設計した明日館だったのでした。
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この日教室ではセミナーが実施されていました「建物は使ってこそ活きる」考え方は共感です。各地に重文等の指定を受けている建物が在りますが使わないでいるとその価値も解らないし傷みも進行します。
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これは自由学園明日館のパンフレットで玄関(左)講堂(右)です。
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明日館の生垣とフェンスにはボジョーレ・ヌーボを戴いて・・・・案内が出ていました。あの暖炉の前に座ってワインを戴くなんてグッドな企画です。案内ではジャズピアノが演奏されてパスタもついて1000円だそうです。https://ja-jp.facebook.com/myonichikan池袋のお姉さんと渋谷のお嬢さんに声を掛けようかな?

桜紅葉も散り始めていました。平日にも拘わらず見学者も多いようでした。
立教大学のカップルもいて教室の椅子に腰かけて楽しそうです。でも、ももう半年でお別れ短い間に決断を迫られているのかもしれません。昔は電灯をつけず自然光の下で学んでいたそうで態々灯りを消していました。
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明日館の教室立教大のカップルが腰かけて物思いして居ました。丁寧にワックスした床に大きな窓から差し込む冬の光りが優しかったのでした。
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西池袋の住宅街にある自由学園明日館の校舎中央が講堂桜も傘寿を越えて風格が出ていました。
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柊も咲き出してもうじきクリスマスです。
窓から優しい光が二人に注いでいました。若しかしたらあの二人は私達を見て
”私達もあんなになるのかしら?””貴方は屹度半身麻痺して私の介護を必要にするかもね”なんて呟いていたのかもしれません。
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講堂で珈琲を戴く。壁に暖炉が切られていて煤が使用して居る事を示していました。使ってこそ建物は価値があるし長持するものです。この部屋で暖炉に赤々と炎が焚かれてジャズを聴きながらパスタにボジョーレ・ヌーボを戴けるなんて至福な時間でしょう。
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壁に架ったフレスコ画創立10周年の記念事業で生徒さんが力を合作られたのだそうです。明らかに生徒さんにとっても出エジプト記でしょう。創立10周年と云う事は戦争に向けて転げ落ちていた時期でした。生徒にとっての出エジプトは出日本だったのかも知れないと思いました。

歩き疲れた私達は講堂で一服しました。珈琲にクッキーでプラス200円です。座った目の前には大きなフレスコ画が懸っています。係員に訊けば創立10周年の記念事業で生徒さんが描かれたのだそうです。観れば出エジプト記ですがモーゼの姿はありません。羊や農夫も居ません。全員が若い群衆です。羽仁夫婦に導かれて光りに向けて進行している様に見えます。この空気はプロテスタントで私達はカソリックの空気の中で育ちました。少し違いますがヤッパリ宗教的な空間に身を置くと、落ち着きます。

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7月20日は「海の日」です。昔は由比ヶ浜に出かけました。フラダンスのショーなどが観られたのでした。でも、鎌倉市は音楽を流すことを禁じたので。もう実施されません。
鎌倉の海は鎌倉市民ならずとも首都圏に住む人の公共財なのですから。”音楽を禁じる”ことなどせずに”飲酒を禁じる”程度に抑える事は出来ないものでしょうか?
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由比ヶ浜のフラダンス。健康なダンスも条例によって出来ない様になってしまいました。これは立教女学院のお嬢様のフラです。本場ワイキキでも拝めないダンスです、
さて今日はどう過ごそうかな?というわけで川崎大師の風鈴市に出かける事にしました。日中は暑いので3時過ぎに出発して。夕涼みの時間に大師さんに着くようにしました。
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京急大師駅の駅前から大師様への表参道が始まります。此処から大師境内を東回りに半周して真南から仲見世通りに入ります。ポスターは20日に実施されたサンバカーニバル筆者は夕方に参詣したので盆踊りを見て来ました。
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表参道のもんじゃ焼き屋さん”スナックおばんクラブ”のネーミングは適格なのでしょうが顧客誘引力に問題がありそうです。
横浜で京急に乗換え京急川崎で大師線に乗り換えて大師駅から川崎大師に入ります。駅は大師の北にあります。でもお寺は南向きに出来ていますから。アーケードを抜けて仲見世通りを抜けて南大門を潜らなくては境内に入れません。足の不自由な私にとっては北にも門【裏門】があればいいのに思ったりします。でも仲見世や石仏を見る楽しみはあります。
鰻屋の暖簾が降ろされて「お詫び」が張られています。”今日は穴子が売り切れてしまいましたのでお店を閉めます明日お越しください”案内して在ります。24日は土用です。日本人なら鰻を食べたいものpです。のはところが鰻は高いし、幸い穴子なら手が届きます。それに羽田沖は江戸前穴子の産地です。今日はサンバカーニバルもあったので穴子の蒲焼ばかりが売り切れてしまったのでしょう。矢張り川崎大師は下町で良いもんです。
大師の風鈴市は今年で20年目だそうです。全国各地の風鈴3万個も集められているそうです。境内西側の広場に葦簀を張って風鈴の屋台が並んでいます。葦簀の天上からは霧が降って来ます涼しいのですし冷たい麦茶のサービスもあります。川崎大師さんもライバルは浅草寺や巣鴨のとげぬき地蔵さん。サービス競争アイディア競争も激しいものがあるようです。
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表参道を右折すれば仲見世通りで第山門が正面です店の両側は咳きとめの”トントン飴”が競っています。街中が葛餅屋や達磨屋さんが競っています。
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境内西側の風鈴市の屋台葦簀に3万個もの風鈴が吊るされて水蒸気の冷気が噴き降りて来ます。加えて冷たい麦茶のサービスが在ります。
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風鈴市は五重塔の真下です。地元川崎市の風鈴は宙吹きガラス細工でした。
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此方は長野県諏訪地方のアールヌーボーの雰囲気の風鈴
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此方は江戸の〝吊り忍”風鈴です。風鈴の音と信夫草と耳からも眼からも涼しさを誘う、伝統の風鈴です。
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浴衣のお嬢さんが吊り忍を”可愛い”いいながら手にしていました。ぶら下がった玉を手にして可愛いは無いと思いました、昔の吊り忍はこんな苔玉ではありませんでした。
私は一回り観て江戸の吊り忍のコーナーで法被を着たお嬢さんに尋ねてみました。
この吊り忍は何処で育てたのですが?
「私の処は江戸川ですが吊り忍自体は大分で栽培しています。」
「先週浅草寺のほうずき市で何処で生育しているのか聞いたのでしたがやっぱり大分だそうでした。」
「お大師さんは大分と縁が深いのですね!」
私は「苔玉は問題ですね!」訊いて見たかったのですが変態爺さんと思われそうでやめました。
江戸の吊り忍は朽木を組んで弥次郎兵衛を作って微妙なバランスで吊るしたものです。
やっぱり江戸の風鈴は江戸切子でしょう思って探したらありました懐かしいガラスのの風鈴です。
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これが懐かしい江戸風鈴です。
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本堂前庭では8時まで盆踊りナラヌ風鈴市音頭が踊られていました。
”そうかヤッパリ大分か!”思いました。私の九州時代大分知事は平林さんで一村一品運動が盛んでした。元々通産省の役人だった知事は何が地域を盛んにするか熱心に取り組み大分にワールドカップを誘致し全国に向けて通用する一村一品を起こしました。地方創世はバブルが破裂した瞬間から必要だったのでした。
信夫草と言えば古代から福島(信夫山)でしたが、今では大分とは驚きました。2年前臼杵の石仏を巡った時石仏に信夫草が茂っていたことを想いだしました。石仏の保存には迷惑な信夫草ですが大分の風土には適した植物なのでしょう。
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臼杵石仏中のホキ石仏第一群第四龕(地蔵十王像)岩壁に生えているのが信夫草です。環境が悪くても耐えて信夫草は生育します。


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阿吽の狛犬

暑いのに加えて蚊が出て来ました。私は左手が不自由なので痒い処に薬を塗れません。ワイフに頼んで其処でもないソッチでもない大騒ぎです。50年連れ添っても「阿吽の呼吸」とは行きません。阿吽とは梵字でていました。
「阿」は口を開いて最初に出す音、「吽」は口を閉じて出す最後の音であり、 そこから、それぞれ宇宙の始まりと終わりを表す言葉とされます。50音表でも「あ」が最初で「ん」が最後になっています。人間も産まれて最初に「アギャー」と泣いて、臨終は「ン」と唸ります。
奈良の東大寺の南大門にも阿吽の仁王像がてさらに、
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東大寺南大門の仁王像右が阿形【運慶作】左が吽形【快慶作】と言い伝えられていますます。この弩迫力が神社仏閣の入り口にガード役の神将像や狛犬を作らせてきたと思います。また日光東照宮の狛犬が全国の神社の入り口に狛犬を置かせたきっかけになったと思われます。
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豊後両子寺の阿吽の仁王像
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今日の話題は神社の参道で睨みを利かせる狛犬です。三越のライオンもピラミッドのスフィンクスも狛犬の様なもので神社の聖域に邪気や穢れたものが新融資内容に警護しているいます。写真は江の島神社の節分ですが節分から半年経ってもう夏越のお祭りです。

私は脳梗塞のリハビリで毎日発声トレーニングに励んでいます。「あ」「ン」早口言葉するたびに私の脳裏に浮かぶのは豊川稲荷さんの御狐さんです。
お稲荷さんのご本尊は「荼枳尼天(だきにてん)」でそのお使いが狐ですから脇持の位置に阿吽の狐が居ます。阿形の狐は宝珠を咥えていますが吽形の狐は経典を咥えています。
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豊川稲荷のお狐さん。阿吽の狐が並んで別世界に迷い込んだような気になります。
巣鴨の庚申塔を拝して気付きました。
ご本尊は「猿田彦大神」でしてその参道の左右に祀られているお猿さんですから。やっぱり阿吽で居られるのが普通です。ところが巣鴨庚申塔では左右どちらも吽形なのです。
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巣鴨庚申塔の右側の狛犬ならぬ狛猿さん。右側は本来「阿形」ですからお口を開いて「あー」と言って居なくてはいけないのですが「ン」と口を噤んでいます。
こう思って狛犬を探せば秩父の三峰神社の狼も「阿吽の狼」になっているのでしょうか?駒ヶ根光前寺の早太郎は狼犬(ですが木像)ですが。阿吽の記憶はありません修那羅の狼は大きく口を開いた阿形です。
天神様のお使いの牛さんは寝そべっていて口は閉じたままです。
ところで。阿吽のどちらが先かで何時も迷ってしまいます。
薬師如来の脇侍は日光菩薩と月光菩薩です。阿弥陀様の脇侍は観音菩薩と勢至菩薩です。日光が月光の先なのか?観音様は勢至様より偉いのか?日本人の感覚では左の方が清いので先行しますが仏様の世界は中国風で右の方が先行して居そうです。京都ではお雛様御妃様【左】お内裏様【右】はの順に並べます。日本風は阿吽の吽が先で阿は後です。阿吽が生死を表現しているとすれば、先に死んで後に産まれます。死生観というべきです。でも中国風では逆で阿吽の順です生死観となります。漢字で左遷と言えば閑職に追いやられる事で右が左より偉い事になります。この疑問は明治時代にも論争になり大正天皇の御結婚式に際して国際感覚を優先したのだそうです。西洋では男性はか弱い女性を守らなければならないので左に御妃を置き、右手で剣を抜いたのだそうです。だからレディーと歩くときは左側にレディーを位置させ右側を歩く事になるのでしょう。我家では車道側をワイフが歩いて私を自動車の危険から防いで居てくれます。でも駅の階段やエスカレーターではわたしは手摺の位置からして道の右端を歩かざるを得ません。右側を歩くと健常者の邪魔になってしまいます。弱者は左強者は右これが国際感覚なのですから、明治人の感覚は正しかったのでしょう。関西風の駅舎での歩行の左優先は止めにして”お急ぎの人は右側をどうぞ”と統一する事が良さそうです。遠い将来に東大寺南大門の仁王像が左右入れ替わる事になるかも知れません。私達日本人は死生観も生死観もほとんど変わりないと思っているのですから。








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7月22日は杉浦日向子さんの命日です。2005年47歳の若さで惜しまれて逝かれました。「コメディ―お江戸でござる」の時代考証をされる笑顔を懐かしく思っていたところ。北斎の娘を描いた「百日紅」のロードショーが始まるというので。近々に観に行く事にしました。彼女の著に「百物語」があります。
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2005年7月22日亡くなられた杉浦日名子さん。魅力のあるお人柄でした。今夏北斎の娘を描いた「百日紅」がhttp://sarusuberi-movie.com/index.html上映されるそうで近々観に行く積りです。
日向子さんの漫画「百物語」は江戸の御旦那の家に入った植木職人が旦那の耳汚しに怪奇譚を放して聞かせるものです。
何れもショートストーリーばかりですが。江戸時代は庶民の生活の傍に、障子一枚板戸一枚向こう側には霊が居て時には妖怪になって現われるのでした。妖怪と言っても元々は人間の霊であったり動物の霊であったりするもので、霊が強ければ情が深ければ妖怪に変じるものでした。生きざまによっては死者の霊を恐れ慄きながら生活せずばならず、妖怪を畏怖していたし。正しく生きれば妖怪が守護してくれるものだったのでしょう。身近に妖怪を感じながら生きる事は人間らしさを満喫できることに通じていたのでしょう。
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杉浦日向名子さんの「百物語」から
江戸落語に「庚申待ち」が在ります。産の十八番でした。
落語は日本橋博労町の大黒屋金兵衛という旅籠屋で「庚申待」の日に、店を休み、町内の人達を集め夜明かしで話をやり続けると云うものです。説教じみた庚申の話ばかりでは面白くありません。場内がドット涌くような滑稽話も加えられてそれが江戸落語のネタになったものでしょう。
日本橋から中山道を下ると最初の宿が板橋でその中間にあった巣鴨庚申塔はお茶屋が在って賑わっていたようです。賑いの中心は巣鴨のとげぬき地蔵であり王子街道との分岐点であった庚申塔であったのでした。
とげぬき地蔵「高岩寺」を出て一服した私達は庚申塔に向かいました。とげぬき地蔵通りを入口から出口迄歩いたことになります。
私は何処か世田谷のぼろ市(三軒茶屋)」みたいだな思って歩くのを楽しみました。道の先に踏切が在って都電の姿が見えます。都電荒川線「庚申塔」駅があの辺りなのでしょう。
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地蔵通りに面して庚申塔が建っています。小さなお堂ですが綺麗に掃除されていて大切にされていることが良く解ります。8月12日にお祭りと案内されていました。
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案内板の同版画広重の江戸名所図会を銅版にしたもの右上に更新塔が建っています。上(北)への道は王寺道で手前の大通りが中山道でしょう。お茶屋は三軒並んでいて駕籠かき飛脚露店などが見えます。近在の男は庚申の依るに庚申塔に集まって徹夜して絆を固めあったのでした。説教節ばかりでは飽きてしまいます。落語や義太夫節はこの暇つぶしも在って進歩したものでしょう。
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向かって左側の庚申塔のシンボル三猿まるでこま犬のような位置に祀られています。
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此方は右側のお猿さん
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お手水も清潔で信夫草が涼しげです。
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都電荒川線に乗って大塚から池袋で湘南新宿ラインに乗り代えて帰宅しました。思いの外我が家に近いので驚きでした。
ところで落語の庚申待ちを紹介します。
【試し切り】
夜の四つ頃お茶の水に来ると、茶飯屋の流しが来た。そこに現れたのが武士で、「エイっ」と言って茶飯屋の親父に切りつけると、体をかわした親父がお鉢で避けたが飯が飛び散った。これなんだと言うので、「試し斬り」と返事が返ってきたが、「それは茶飯斬り」だと馬鹿っ話をしている。

【玉の輿】
金具付きの駕籠に乗るような出世した娘が居た。美人だった上、腕力があって、ちょっかいを出す男連中をひとひねりしてしまう。あるとき、ムジナを捕まえ、ムジナ汁にしたが気味悪がって誰も食べないので一人で平らげた。それを聞きつけた殿様が、屋敷に上げ、そのうち手が付いて男の子を生んで、お世取りを生んだので出世した。
「女ムジナ汁を食って玉の輿に乗る」と言うから。
ムジナの話が出たところで狐の話となれば何といっても江戸では王子のお稲荷様です。
子の庚申堂の辻を北に向かえば王子のお稲荷さんです。
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  これも広重の江戸名所図会の「王子の狐」です
【王子の狐】
王子の狐は、昔から人を化かすことで有名だった。
ある男、王子稲荷に参詣した帰り道、一匹の狐が美女に化けるところを見かける。どうやらこれから人を化かそうという腹らしい。
そこで男、『ここはひとつ、化かされた振りをしてやれ』と、大胆にも狐に声をかけた。「お玉ちゃん、俺だよ、熊だ。よければ、そこの店で食事でも」と知り合いのふりをすると、「あら熊さん、お久しぶり」とカモを見付けたと思った狐も合わせてくる。
かくして近くの料理屋・扇屋に上がり込んだ二人油揚げや天麩羅などを注文し、差しつ差されつやっていると、狐のお玉ちゃんはすっかり酔いつぶれ、すやすやと眠ってしまった。そこで男、土産に卵焼きまで包ませ、「勘定は女が払う」と言い残すや、図々しい奴で狐を置いてさっさと帰ってしまいました。
しばらくして、店の者に起こされた狐のお玉ちゃん、男が帰ってしまったと聞いて驚いた。びっくりしたあまり、耳がピンと立ち、尻尾がにゅっと生える始末。正体露見に今度は店の者が驚いて狐を追いかけ回し、狐はほうほうの体で逃げ出した。
狐を化かした男、友人に吹聴するが
「ひどいことをしたもんだ。狐は執念深いぞ」と脅かされ、青くなって翌日、王子まで詫びにやってくる。
巣穴とおぼしきあたりで遊んでいた子狐に「昨日は悪いことをした。謝っといてくれ」と手土産を言付けた。
穴の中では痛い目にあった母狐がうんうん唸っている。子狐、「今、人間がきて、謝りながらこれを置いていった」と母狐に手土産を渡す。警戒しながら開けてみると、中身は美味そうな牡丹餅。
子狐「母ちゃん、美味しそうだよ。食べてもいいかい?」
母狐「いけないよ!馬の糞かもしれない」
私達日本人は素敵な文化の中で培われてきたものです。日向子さんのように粋なお姉さんは絶滅危惧人間になって来たようです。毎日お相撲を観ながら砂被りにお姉さんを探すのですが。今は名古屋場所日向子さんは見当たりません。2020年の夏は「おもてなし」の姿勢も込めて日本女性は涼しげに浴衣を着るそんな催しをしても良さそうです。

 



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