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5月8日、ラジオ深夜便で「上野の同潤会アパートが取り壊される・・・」報道していました。
同潤会アパートと言えば、代官坂や表参道の一等地にありました。
惜しまれながらも取り壊され、代官坂アドレス、表参道ヒルズに再開発されてしまいました。
あれで、同潤会も無くなってしまった・・・、思っていた所、
どっこい東上野に小さいながらもまだ残っていたのでした。
 
5月11日、午後から日本文化研究会セミナーが開かれます。
私は午前中に同潤会アパートメントの最後の姿を見ておきたい・・・、傘をさして出かけました。
 
久々の上野駅表口(東口)です。
昭和通に渡る大きなデッキが出来ていました。
社会人になって直ぐのころ、此処の横断歩道を渡って営団地下鉄本社に良く来ました。
でも、その奥の下町に入るのは初めてです。
この日は下谷神社の例大祭です。
各町内に「お旅所」が設営され、お神輿やお神酒らが出されています。
法被姿の氏子たちが忙しく準備を進めています。
 
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         浅草通りに面して、素晴らしい歯医者さんがありました。
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  浅草通りを清澄通りの交差点を左折して直に同潤会アパートメントがあります。居酒屋の隣が床屋、裏通りに入   ると銭湯があって、いかにも下町の雰囲気です。
 
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                  銭湯の横から奥を覗くと蔦に絡まれた同潤会アパートの窓が見えます。
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     この日は下谷神社の例大祭でした。この裏通りが同潤会アパートの正面になります。
 
上野同潤会アパートメントは清澄通りに面してあります。
翠雲堂をはじめ大手の仏具屋さんの角を曲がれば・・・、その先にひっそりと同潤会アパートメントがありました。
4階建て、鉄筋コンクリート作り、茶色っぽい壁に鉄錆の黒い建具が入っています。
銀杏の樹の陰から・・・、昭和の色濃いアパートが顔を覘かせています。
代官坂や表参道のアパートと全く変わらない表情です。
 
文化財保護法によると、重要文化財の選定事由は以下の何れかに該当するものになっています。
①意匠的に優秀なもの ②技術的に優秀なもの ③歴史的に価値の高いもの ④学術的に価値の高いもの ⑤流派的または地域的に特色顕著なもの。
こんな根拠に基づいて、毎年数件の重要文化財が指定され、
鉄筋コンクリート作りの建造物でも重要文化財に指定されて来ています。
 
近年では旧東京帝室博物館(現上野の国立博物館)が指定されました。
三井、住友、三菱らの旧財閥に始まり地方の富裕な人(例えば灘の山邑家/現ヨドコウ迎賓館)の住居や別荘も数多く重要文化財の指定を受けています。
その一つ一つに異論があるわけでは無いのですが・・・・、
どれもこれも、富裕層の建物であり、庶民感覚には・・・・、距離があります。
 
庶民も文化の担い手なんだから・・・・、
文化財保護法を公平に施行して、庶民の住宅も重文指定の栄誉を受けたいもんだ…、思います。
 
【国立博物館重文指定の根拠】

 
重文指定の根拠(文化庁)
旧東京帝室博物館本館東京都台東区
昭和12年竣工
 鉄骨鉄筋コンクリート造による昭和初期を代表する建築。意匠的に完成度が高く,昭和初期の日本の近代建築の到達点を示す作品のひとつとして高い価値がある。博物館建築としての設備面も,当時最新の技術水準が示されている。

 
国立博物館を重文に指定したと同じように、同潤会アパートメントを重文に指定するとすれば・・・・、
次のようになる事でしょう。
【上野同潤会アパートメント重文指定の根拠/仮想】

 
重文指定の根拠(筆者)
同潤会アパートメント
東京都台東区
2棟76戸
昭和4年竣工
関東大震災後、住宅の復興などの担い手として同潤会が創設された。
鉄骨鉄筋コンクリート造による我が国最初の集合住宅である。昭和初期の段階で高水準の集合住宅を実現させ、その後のマンションと呼ばれる庶民の住宅の先駆を為した。

根拠とすれば国立博物館に劣らない説得力があると思います。
 
また、後世の人が見た時、
”そうか!RC造りの集合住宅は関東大震災の戦後復興を目標に始まったのか!、この住宅の成功が住宅公団の団地をうみ、マンションに発展したのか!”
と言いながら昭和世代の頑張りに敬服してくれることでしょう。
 
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同潤会アパートには部外者が入れないように柵がしてあり、階段入口にある扉には封印がしてありました。
誰かが侵入して、寝泊まりしないように警戒しているのでしょう。
お知らせ看板によると、
この5月から取り壊しが始まり、再開発の建物は8月に着工して2年後竣工することになっています。
再開発後の建物は店舗兼住宅で地下1階地上14階の建物です。
近隣は精々2階建ての木造建築ですから・・・・、迷惑な高層マンションが出現するのでしょう。
建築設計はUR都市機構(旧住宅公団)、
でも事業主体は上野下アパートメントマンション事業協同組合となっています。
この建物が歴史的に、文化史的に如何に価値が高くても、
地権者が住まうのが不便であれば再開発もやむを得ないのでしょう。
加えて、充分に容積率を利用していない・・・、となればなおさらです。
”自分達の財産なんだから・・・、自由に使わせてくれ・・・・!”
と主張されれば・・・、致し方ありません。
同潤会アパートは全部消えてしまう運命なのでしょう。
 
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せめて・・・・、単身者住宅、1ブロック(階段の左右に4戸ずつある)だけでも、残して欲しいもんだ!
期待しますが・・・、そうした事も無理だったのでしょう。
 
もう、解体業者が架設用のパイプなどを持ち込んできています。
「中に入らせてほしい!」
言っても相手にしてくれません。
建物の中は、台所にはどんな設備が在ったのか…、どんな生活が在ったのか・・・、見てみたいものです。
でも…、それもかないません。
 
【お勧め】
本件上野同潤会アパートメントについては次のブログが良く出来ています。ご関心のある方は観られる事をお奨めいたします。http://allxa.web.fc2.com/a-map/jp_tokyo/uenoshita/uenoshita01.html
 
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          解体業者が入って、その準備に取り掛かっていました。正面扉を入ると階段があってその左右に、4          階、8戸の住居が並んでいます。
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            この日は下谷神社の例大祭でした。未だ早い事と雨でしたので人出はイマイチのようです。
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      各町内に下谷神社例大祭のお旅所が設営されていました。近隣は木造二階建ての家が集積してい          る・・・・、昭和ノスタルジー漂う空間です。
 
 
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8月21日、読売新聞紙上に「第29回読売書法展」の作品が全二面に掲載されました。
一般に「書道」というのに、聞きなれない「書法」と主張するのは、屹度深い意味があるんだろうな?
ぼんやりと思いながら、紙上で受賞者の作品64点を眺めました。
 
突然に日文研2期の先輩H.Tさんから招待状2枚が送られてきました。
夏の初め毎日書道展に「日文研6期のS.Aさんの作品を見た・・・」報告を当ブログで書いたことから、
気遣いをして貰ったのでした。
何かなければ都心に出かける事も無い生活ですから・・・、出かけるきっかけになりますし、
会場の「国立新美術館」には思い入れもあって・・・、8月26日夫婦で出かけました。
 
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          読売書法展第一会場「国立新美術館」。設計は黒川記章氏
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読売書法展第二開場「池袋サンシャイン」の入り口付近
 
私は美術館は朝9時開場と錯覚していました。
すこし時間潰しをして、開場と同時の10時に入場しました。
 
読売書道展は2万7千点もの作品が池袋サンシャイン会場を併せて展示されています。
先ず、そのボリュームと作品の持つ熱意に圧倒されました。
見学で目も脳も疲れました。
日本の書道人口は凄いものがあるんだ・・・・、実感しました。
 
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                展示場の風景。目録で出展者の展示室を確認して目的の部屋に向かいます。
 
私の実家のお寺でも母が書道教室を行っていました。
子供達を集めて、教えていました。
お習字を書くには姿勢が大切で、
背筋を伸ばして、体と机の間には拳一つ置いて、机の面がお臍の高さにして・・・・・・、
紙面全体を見下ろしながら…、肩と手頸の力を抜いて・・・、運筆しなさいよ。
母が教えていましたが…、子供は直に飽きてしまって・・・・、膝を崩してしまいました。
 
書法には中国の言葉で・・・・、「書の形式」ということでしょうか?
読売書法展は1984年「伝統の書を継承しながら発展向上を目指してスタートしたそうです。
そして、約30年書壇を代表する公募展に発展しました。(読売新聞記事)
 
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   今井凌雪さんの遺作(昨年88歳で亡くなられました。奈良在住)「老馬識途」。
    春秋時代、斉の国で管仲が王の供をして 遠出した。ところが帰路、道が判らなくなり王は途方に暮れた。    その時管仲が「年老いた 馬を放して帰還することが出来た。凌雪さんの心境通りの故事でしょう。
 
書の形式を習熟すれば…、自ずと作家の個性や題に対する理解が現れるのでしょう。
同じ万葉集の家持を書にしながら、書家によって作品の趣は大いに違ってきます。
先生の作品を模倣ばかりしていては…、書法に適さないでしょう。
書法に徹すれば…、作品は多士済々になるのでしょう。
 
同じような作品が陳列されると…、飽きてしまいます。
読売書法展は個々の作品に個性が強いので…、見て面白いのですが…、疲れました。
公募展が充実している限り、読売書法は発展し続けているということでしょう。
 
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  杉岡華邨(すぎおかかそん)さんの遺作。今年3月98歳で亡くなられました。(奈良在住)、2000年文化勲章。
  月待ちの のぼる光のきわまりて 大きくもある冬最上川
  死者の魂が帰るといわれる月山に月があがりました。
  山裾には最上川が月明かりに照らされて大きく蛇行しながら流れています。
  最晩年の杉岡さんの心情が私にも解るような書です。同氏は書法展の今日の盛況の礎を築かれたのでしょ  う。
 
 
H.Tさんの作品はサンシャイン会場の3階第1室にありました。
同氏は実績があり、既に会友扱いと聞いていますから…、
この部屋は会友の作品が展示されていたのかもしれません。
 
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                                                         H.Tさんの書
 
家内と何と「書いてあるんだろう?」 意見を出し合いました、万葉集は中々読み難いものです。
H.Tさんにも確認しました。
 
   暇なみ来まさぬ君にほととぎす 我かく恋ふと行きて告げこそ
中々会いに来てくれないつれない人に…、ホトトギスよ”私が恋焦がれている”と伝えてくださいな!
そんな意味でしょう。
 
二首目は
     言繁み君は来まさずほととぎす 汝れだに来鳴け朝戸開かむ
 
噂が立ったので愛する人は来てくれません。ホトトギスよ、おまえだけでも来て鳴いておくれ。
朝の扉を開け放って置きましょう。
 
屹度H.Tさんがこの作品を仕上げていたころはホトトギスの啼く季節だったのでしょう。
今年は鎌倉でも明月院裏で何度も聞いたホトトギスの鳴声です。
H.Tさんがお住まいの多摩丘陵も自然が豊かで、ホトトギスの啼き声を心待ちする・・・、
そんな場面もあった事でしょう。
 
一首目と二首目は応答歌ではありません。
でも、まるで男女二人の応答歌のように聞こえます。
血を吐いて啼くといわれるホトトギスです、昔も今も度々恋心を表しました。
だから、この二首を一緒に書かれたのでしょう。
 
ご本人は”私はマダマダ”と謙遜されてい居られましたが、
少しも媚びた所が無い、おおらかな良い書と思いました。
私は好きな書です。
長年の研鑽の成果でもありましょう。
 
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   津金孝那氏の書。 夢と題して鴎外の三首を書いておいでです。
     わが夢の曠野には 汝いかでいでて見ん
     阿古屋貝 蔵せる珠 汝が夢の楽園に
     ともすれば われゆかん 清冷の淵なる 魚
   良い書だな…、ほれ込みます。でも、もう遠い昔の記憶です。
 
幾つかの作品を見ていて「書道」とは呼ばず「書法」とい聞きなれない名をつけた事由が解ったような気がしました。
書道が芸道に堕するのではなく、「書法」という書を書く形式を大切にすることは、
書家の個性や題の内容を大切にすることのようです。
そう思うと、HTさんの書も「書法」に徹していると思いました。
 
九月二日まで展示されています。
 
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六本木の国立新美術館に出かけました。
その合間に「麻布山善福寺」に参詣しました。
今日は8月26日(日)麻布十番商店街は「納涼祭り」が行われています。
未だ午前中、その準備に忙しくしていて、有名な狸煎餅も開店前です。
善福寺は商店街を越して、参道の突き当りにあります。
参道には大きな柳があって、その根元に井戸があります。
弘法大師が柳の木の下で杖を立てたところ、水が湧きだしたと伝えられています。
 
私の祖母は度々善福寺の話をしていました。
祖父が赤坂の豊川稲荷に居ましたから・・・・、ご近所でお付き合いがあったのでしょう。
私はこの日参詣するまで「禅福寺」と書いて同じ曹洞宗のお寺さんだと勘違いしていました。
お寺に登って初めてこの寺が真言宗のお寺さんから、
親鸞聖人が越後配流を許されて戻ったとき、改宗したことを知りました。
以来浄土真宗本願寺派の寺院として、都内の古刹として信仰されてきています。
 
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                                手前が善福寺本堂。奥が元麻布ヒルズの威容。
 
一般に寺の参道を登り、入山する時の気持ちは格別です。
善福寺を登ると、本堂の上に異様な建物が見渡せます。
高級・高層マンション「元麻布ヒルズ」の威容です。
 
元々は善福寺の所有地をバブル崩壊の直前(1983年)に森ビルが譲り受けて、建設したものです。
森ビルは港区のお米屋さんが貸しビル業に発展したもの、
地元の古刹を見下ろすマンション建設に際して、景観などに配慮してこうしたデザインにしたものでしょう。
下層階が細くて、上層階が太い姿はついつい目を惹かれます。
建物自体を仏具の和蝋燭(燭台)にしたもののようです。
でも、麻布の山の頂上に立った和蝋燭は異様に見えます。
美しいとは思いません。
てらいもなくシンプルなビルのほうが良かったのではないでしょうか?
森ビルは愛宕山の青松寺にも高層ビルを二棟建てています。
 
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                                  善福寺に米国公使館が置かれていた記念碑
 
私の目的の一つが有名な「善福寺の逆さ銀杏」を見学することです。
本堂前にも大きな銀杏の木がありました。
樹下には記念碑が建っていて「安政5年(1859)日米修好通商条約に基づいて寺院内に米国公使館が設けられ、タウンゼントハリスが在留した」と記されています。
でも、この銀杏は次世代のようです。
逆さ銀杏は墓地内の東北の角にありました。
「逆さ」と名づいているのは通常枝は上に向かって伸びて行きます。
ところがこの銀杏の枝は、下に向かって伸びているからです。
 
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   逆さ銀杏の西側。こちらは傷もなく、樹皮も健康です。巨大な乳根が垂れ下がっています。
 
親鸞聖人がこの地で杖をつきました。
杖から根が出て、枝が伸びました。
でも、杖が逆さだったので、枝も逆さに伸びている・・・、そんな言い伝えのようです。
越後の国でも親鸞聖人の杖が大木に成長した…、言い伝えは複数あります。
奇瑞を説話に発展させるのは、布教のツールだったのでしょう。
 
驚くのはこの樹の生命力です。
樹齢は親鸞聖人の説話にも符合して750年と言われています。
でも、幹の上部は既に損なわれてしまっています。
幹回りは10.4メートルあるそうです。
何しろ圧倒的な幅です。西側から見れば樹皮はしっかりしていますが、
東側から見るともう痛みが進行しています。
幹の一部は炭化していて焼けた事実が解ります。
 
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            大銀杏を東から見ると大樹の髄が炭化してボロボロと落ちてきていることが解ります。
 
六本木には陸軍司令部がありました。(新国立美術館の敷地)
米軍は六本木を標的に空襲をします。
焼夷弾が雨・あられと落され麻布山も焦土に化したのでしょう。
麻布十番の町に燃え盛った炎は麻布山の山上に向けて走ります。
善福寺にも火の手が襲ってきていました。
「逆さ銀杏」は身を呈して火の手を防ごうとしました。
 
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                            六本木の陸軍司令部ビル(模型)新国立美術館にて
 
一般にお寺や神社に銀杏の木が植えられているのは・・・・、銀杏が防火の役割を果たすからです。
木も、葉も燃えません。
善福寺の逆さ銀杏も我が身を焦がしても本堂を守ろうとしたのでした。
結局逆さ銀杏を残して善福寺は全焼してしまいました。
 
逆さ銀杏はその威容に敬意を抱きます。
更に、東京大空襲の記憶を留めている事に、一層に畏敬の念を深めます。
国の天然記念物ですが、同時に歴史資産でもあります。
 
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  逆さ銀杏の乳根(ちちね)この樹は雄なのですがお乳が出来ます。
  乳根は料理用の「すりこ木」を思わせます。
  精進料理では多用する道具です。元麻布ヒルズの建物は「すりこ木」か「お杓文字」を思わせます。
 
 【追記】 善福寺には福沢諭吉先生の墓所があります。
 
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三崎坂の全生庵で幽霊の掛け軸を拝観し、私達は坂を下りました。
坂の上は谷中から上野の森が広がります。
そして、坂の向かいの丘陵には東大のキャンバスが見渡せます。
その谷合に不忍通りが走っています。
だからこの界隈を谷中というのかもしれません。
 
谷中には、狭い路地が張り巡らされまるで迷路のようです。
私のサラリーマン時代、上司だった竹内宏氏は「路地裏の経済学」を発表し、人気の経済学者でいられました。
同氏の母校東大は弥生坂の上です。
「路地裏」のネーミングはこの辺り、谷中から根津・池の端辺りを思い浮かべられたのでしょう。
 
伊勢辰(千代紙屋)の隣は「乱歩(喫茶店)」で、そのお隣は銭湯です。
筋向いがお寿司屋に煎餅屋さんです。
路地裏の細道はやたらに曲がりくねっています。
「蛇道」と案内されています。
蛇が生息していたから、蛇のように曲がりくねった道だから・・・・、でしょう。
人懐っこい竹内さんはこの路地裏で江戸人情を味わったことでしょう。
『日本の社会経済はごっちゃ混ぜであるように見えても、それぞれが柔構造で連関している・・・・。
それが日本社会経済の特長で強みである…、説明されました。』
接着剤の役割を果たしたのが・・・・、隣近所の人情だったのでした。
 
 
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     三崎坂「伊勢辰」の辻。左手に喫茶店の「乱歩」がある。もう一本右側の路地が「蛇道」です。
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                               根津駅近くの(はん亭/串揚げ屋)
 
 
私達の次の目的地は、根津神社の近くにある「教会」巡りです。
明治時代大挙してやってきた宣教師は、文教地区に進出しました。
文教地区には進歩的な人が住んでいた事、そして何よりも学生が多かったからでしょう。
オーム真理教など新勢力が大学を布教のターゲットにしたのは、維新の宣教師を真似たのでしょう。
そこで、東大に近いこの辺りに教会を多く建てたのでした。
 
夏目漱石旧宅前を過ぎて、真っ直ぐ南に進むと権現坂(根津権現)との三叉路にぶつかります。
ここに「聖テモテ教会」があります。
聖テモテ教会は1903年(明治36)米人宣教師ウェルボーンによって設立されました。
モルタル平屋建ての簡素な建物は隣近所の民家より低そうです。
でも、一点豪華に尖塔が建っています。
尖塔の屋根は鱗のようなスレートが張られています。
真っ直ぐな尖塔は「神を崇める心」を示しているのでしょう。
そして、簡素な建物は・・・・・・・、宣教師たちの生き様を示しているのでしょう。
少しでも倹約して、出来た浄財は社会活動や布教活動に使ったのでしょう。
教会の庭先には「葡萄の家」があります。
難病苦病を治癒するため上京した子供やその家族の滞在施設だそうです。
 
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                            聖テモテ教会。右側が権現坂で根津権現に出られます。
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                                                聖テモテ教会の尖塔。
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                                  ステンドグラス。教会の中から見上げてみたい・・・・。
 
 
権現坂を下って、根津権現の前を南に折れると、もう一つ夢のように素敵な教会があります。
「根津教会」です。
教会建物を特徴づけているのは第一に真っ直ぐ青空に伸びた尖塔です。
そして、第二に板張りの外壁です。(下見板張りと言いコロニアル建築の特長です)
 
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        根津教会の全容。お隣の二階建てアパート(長屋風)とのマッチングが良いのです。
        薄いブルーのペンキが塗られた外壁が「下見張」で、近代建築の特長の一つでした。
 
 
薄く板を製材する技術は、イギリスで開発され、開拓時代のアメリカで急速に広がりました。
木の柱の上から長い薄板を水平に打って外壁を作る工法です。
ですから、アメリカ人宣教師が下見張建築で教会を建てたのはごく自然な事でした。
まるで、アメリカ西部の開拓村に建築された教会のようです。
教会の影から「誇り高き男」が現れそうです。
 
屋根の上には尖塔が建っています。
尖塔は中世ヨーロッパで「ゴチック建築」の特長として現れました。
石やレンガを積んで、柱の少ない大空間を実現させるための工法でした。
垂直に伸びた尖塔は神の国を憧れさせ、
聖堂を大空間は人々に教会権威の圧倒的な存在を見せつけたことでしょう。
 
でも、此処は根津の路地裏の教会です。
敷地は狭いし、隣近所は江戸時代からの下町です。
圧倒的な空間ではなくて…、親しみのある聖なる空間を設えたようです。
 
1919年(大正8年)に竣工しました。(国の登録有形文化財)
日本も良い時代でした。
竹久夢二や白樺派文学が人気でした。
     (根津教会の近くに竹久夢二美術館もあります。)
下見張の外壁にアールデコ風の丸窓や装飾をつけています。
親しみのある、一寸寄ってみようかな! 思わせる教会です。
 
1923年(大正12)の関東大震災でも、1945年(昭和20)の東京大空襲でもこの教会は焼けませんでした。
周囲の街並みも、路地裏のまま残されました。
教会と街並みと共に生き残った事が・・・・、大変に懐かしい空間を残しました。
 
 
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    教会のお隣は長屋風のアパートでした。 道の突き当りの緑が東大で、三四郎池のあたりになります。
 
 
今日は日曜日です。
今の時間は礼拝の時間でしょう。
鍋谷牧師の説教が案内されています。
「どんな牧師さんかな?」少し気がかりです。
家に戻ってインターネットで調べました。
福井県出身で、三井物産にお勤めになり、依願退職し、牧師になられた・・・・、異色の経歴の持ち主でした。
中学の頃、親の目を盗んで今東光の「春泥尼抄」を読んだとか。
そういえば、私も父が読み残した週刊誌のページを開いて、同書を読みました。
大人の世界を垣間見て心をときめかせました。
ますます、心惹かれる教会であります。
 
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                                  根津教会の礼拝堂内部。(根津教会のHPから転載)
 
 
 

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今日の話題は谷中「全生庵」の圓朝幽霊画コレクションです。
圓朝さんも全生庵も「圓朝祭り」で書きましたので、そちらをご覧ください。
 
平安時代末期、京都の町には怨霊(妖怪)が再三が出現します。
政争に敗れた上皇や貴族、時には豪族が怨霊になって恨みを晴らそうとするものでした。
怨霊と言えば力のある男だけでした。
幕末明治維新も、殺戮が日常茶飯で、混乱した世相が覆っていました。
この時代にも死に切れなかった霊が怨霊に化けて出現します。
大半が愛情を裏切られた女性の恨みが、幽霊になって仕返しに出現したものでした。
 
日本の絵画の伝統は、山水画、花鳥画、そして頂相等の人物画であります。
ところが、1825年鶴屋南北の「東海道四谷怪談」が歌舞伎興行されると、幽霊画といったジャンルが出現します。
歌舞伎の舞台に、興行のポスターに「おどろおどろしい幽霊の図画」が描かれたのでした。
以来、歌舞伎に、落語(噺家)に、浮世絵に幽霊は多く表現されてきました。
 
歌舞伎界では尾上菊五郎(5代目)が幽霊の絵画をコレクションします。
また、落語界では三遊亭圓朝(初代、1835〜1900年)が幽霊の掛け軸をコレクションしていました。
 
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   圓朝コレクションの代表作、丸山応挙の幽霊図。応挙の代表作「江口君図」に似ていることから応挙作と言
   われています。真偽は解りませんがふくよかなお顔の輪郭、気品の良さがうかがえます。足が描かれてい
   ない事、俯き加減で涼やかな眼差しに「恨めしや・・・」が感じられます。
 
 
圓朝さんは「人情話」が得意でした。
人情が人一倍強い人は・・・・・、自分の情愛を裏切られると幽霊になってしまいます。
人情話と怪談話は紙の裏表でしょう。
圓朝さんは、「真景累ケ淵」「怪談牡丹燈籠」「塩原多助一代記」「文七元結(もっとい)」等の怪談を創作します。
創作落語は高座で演じられましたが・・・、夏には柳橋の料亭でも話されました。
”圓朝の怪談噺を聞く会”とでも名付けていたでしょうか?
お座敷には電燈を暗めにして・・・・・・、
床の間には幽霊の軸が掛けられています。
東京の旦那方が固唾を飲みながら圓朝さんの名人芸に聞き耳を立てた事でしょう。
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      江戸時代以降の幽霊は殆ど女性でした。下半身が血まみれの若い女性の後ろ姿からは赤子の両足と
      左の乳房が見えています。お産で死んだ女性が「産女(うぶめ)」と呼ばれる幽霊に転じた…、そんな図 
      でしょう。未練を残して死んでいった若い母親の悲しみが伝わってきます。
      (尾上菊五郎のコレクション、慶応大学所蔵)
 
 
幕末維新は人間の凶暴性を垣間見せました。
何時も冷静な人が突然に狂気に走る…、そんな現場を多く見ていたことでしょう。
人間の正気と狂気が人格の裏表である…、そんな自覚が生じてきていました。
そんな世相が怪談噺を聞きたい…、欲求を高めていたことでしょう。
 
奇々怪々の幕末を代表する浮世絵師が「歌川国芳」であり、その弟子の「月岡芳年」でした。
更に明治になると川鍋暁斎等が出現します。
尾上菊五郎も圓朝さんも芳年や暁斎と親交がありました。
画家たちは圓朝さんの芸に聞き入り・・・、幽霊画を描いて寄贈したのかもしれません。
昔から「百鬼夜行図」や「化け物草子」が描かれてきました。
そんな例に倣って怪談話には「百物語」が一つのスタイルになっていました。
怪談会に集まった人が一人一人「怖い話」をして聞かせるのです。
99番目で怪談会は終了してしまいます。
100番目を話してしまうと本物の怪が現れてしまうのです。
 
イメージ 1
    国芳作「相馬の古内裏」。山東京伝の「善知安方忠義伝」の場面。ワイド画面の左に平将門の遺児「滝夜
    叉姫」が妖術で巨大な骸骨を呼び出し、勇士大宅太郎光国を襲う場面です。
    (全生庵コレクションではありません)
 
 
圓朝さんは全生庵(谷中・三崎坂にある臨済宗寺院)に幽霊掛け軸のコレクションを寄贈します。
すると、「圓朝の怪談噺を聞く会」のメンバーが全生庵に自分のコレクションを寄贈するようになりました。
その大スポンサーが築地野菜市場を仕切っていた藤浦周吉、富太郎親子でした。
藤浦家から全生庵に寄贈された軸は40幅に及ぶとされています。
藤浦家では圓朝さんのスポンサーとして同氏の日記や原稿を多数預かっていたそうです。
幽霊の軸は圓朝さんの墓所である全生庵に寄贈しました。
その直後に関東大震災、圓朝さんの原稿などは焼失してしまいました。
でも、掛け軸は難を逃れました。(この段は安村敏信氏の調査による)
 
全生庵では8月中に本堂脇の控室で軸の虫干しをかねて展示しています。(寸志500円)
50余りの軸があるそうですが、部屋の広さの都合上一年毎に掛けかえるのだそうです。
だから…、二年続けて拝観すれば全部観られます。
本堂1階の座禅場では落語会が催されていました。(8月5日、圓朝まつり)
私達が掛け軸を見つめていると、お寺の若奥様が親切に説明してくださいました。
 
「幽霊の軸は怖い事ありませんよ、(幽霊は十分に祀っていますから)観る人を守護して下さいますよ」
仰られます。
冷房の効いた室内の奥に仏壇が祀られてありました。
 
菅原道真、平将門、後鳥羽上皇・・・・、怨霊が祟りました。
でも、人々が霊を手厚く祀って慰撫すると・・・・、守護霊に転じます。
幽霊も怨霊と同じように、怖い存在から守ってくれる神様にチェンジするのです。
 
イメージ 4
        歌川国歳「こはだ小平次」図。山東京伝の「復讐奇談安積沼」を歌舞伎にした「こはだ小平次」の 
        図。小平次は幽霊役が得意の歌舞伎役者であった。お塚という女房が居たのだが、女房は鼓打ち
        の安達左九郎という男と密通していた福島の安積に旅興行に出た。
        小平次は安積沼に突き落とされ落命してしまいます。
        小平次は幽霊になって江戸にもどって・・・・、蚊帳の中を覘いています。
        蚊帳の中、布団にはお塚と佐九郎が睦んでいるのでしょう。
        夏になると蚊帳の中で寝ました。見上げると青い海の底に居るようでした。
        天井には節目があって…、幽霊が見下ろしているような気味悪さがありました。
 
イメージ 5
   伊藤晴雨作「怪談乳房榎図」。伊藤晴雨が圓朝さんの同名の新作怪談を取材して描いたもの。
   滝壺の中から子供を抱いて現れた幽霊は「菱川重信」。重信は美人女房「おせき」が居たのだが、浪人磯貝
   浪江に懸想されてしまう。重信は磯貝に殺されてしまう。重信の子「真与太郎」は松月院にお預けられてし 
   まう。松月院には榎の大樹があって、その瘤は乳房のように垂れていました。ですから「乳房榎」と呼ばれ、
   お乳の守り神として信じられていました。
   磯貝と暮らし始めた「おせき」でしたが、乳房に腫物が出来て…、自殺してしまいます。
 
イメージ 6
    明治の狂画家「川鍋暁斎」の幽霊図。暁斎はコンドル(明治の建築家)が弟子入りした事でも有名な超絶技
    巧の絵師。霧の中に消え入りそうな幽霊は「怨念」よりも「諦念」が感じられます。
イメージ 7
   月岡芳年作「宿場女郎図」。 藤沢の妓楼で病み衰えた宿場女郎をスケッチしたもの。
   病魔に犯されて衰弱しきった姿は既に幽霊を思わせます。藤沢の遊郭跡は駅と遊行寺の間にあり、未だ昔
   日の面影が残っています。
 
イメージ 8
   歌川広重(三代目)作、「瞽女(ごぜ)の幽霊」。瞽女とは「瞽女」とは三味線を弾いたり唄を歌ったりする、
盲目の旅芸人のようなものである。彼女は左目を大きく見開いて、川を下ろうとしているようであります。
   この絵を見ると泉鏡花の「高野聖」を思い出します。
   高野聖が飛騨の山奥で薬売りと会います。分かれ道で薬売りは「近道」を選びます。高野聖は冠水した本
   道を進みます。本道は距離があっても安全だと聞かされていたのでした。
   薬売りは近道を選んだものの、蛇や蛭に悩まされます。
   すると絶世の美人が現れます。薬売りは美女に誘われてゆきます。
   一方、本道を選んだ高野聖も美女に誘われます。
   高野聖の足は蛭に座れてあざだらけになっています。
   美女はあざを水で洗って、高野聖のあし面倒を見てくれます。
   いつの間にか美女は全裸になっています。
   怖くなった高野聖はお経を唱え、山を逃げるように下ります。
   里で教えられます。
   女は魔性で実は素顔は醜く化けているのでした。
  そして、自分の色香に迷った男たちを動物の姿に変えてしまうのでした。
  山中に巣食っていた蛭も蝙蝠も蛇も・・・・、すべて色香に嵌った男達であると言うのでした。
 
【追記】
圓朝さんの幽霊画は撮影禁止です。当写真はそのアルバムを複写しました。
 

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