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平安女官の悩み

清少納言に紫式部と云えば平安時代一条天皇の后定子や中宮彰子に仕えたエリート女官だったのでしょう。和歌も上手だし書も出来る加えて漢文も諳んじている。頭脳も明晰で・・・・・。日本に科挙が無かったのはあんなエリート女官がゴロゴロしていたからでしょう。古代国や韓国は出来の悪い男性ばかりだから、科挙の試験をして優秀な官吏を選別せざるを得なかったのでしょう。そんな訳だから政変は安禄山の様に官吏が引き起こしました。また官吏は後宮にも出入りしますので、そっちの官吏は皆アソコをカットして役立たずにしました。私は高校の世界史の授業で「宦官」の説明を聴く度に「あそこの出血は止まらないだろうな?」思い皮膚看過で日本で良かった、想いました。
何時の時代もパワーエリートはいるモノです。防衛大臣の稲田 朋美サンなどは公務員試験(現代の科挙)も通っていないのに東大法学部卒を使って見事に振る舞っています。歴史観が偏っている嫌いがある事と直ぐ泣き出す性癖がある処は問題ですが、網タイツが似合うとは思いませんが、運が強くて、ライバルと目された丸川珠代氏や高市早苗氏それに昨今は小渕 優子氏もコケテいますし、運も良い様なので、何れトップに立つ器かもしれません。
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現代のパワーエリート女性稲田朋美防衛大臣、早稲田法学部出身で子持ちである所、運が在る処が良いと思います.
歴史観に偏向が目立ちますが・・・・。
パワーエリート特別職は私とは縁遠い世界です。平安時代の一般職、今日は、エリートでない女官の生活を推測してみます。
内裏と同じように摂関家も受領(国司が地方に根を張って財も実力も付けた貴族)も女官を抱えていました。女官の上位者は家の指図をし、奉公人である下男下女に命令して、家の財政を司り、食事や衣服や燃料を手配していたのでしょう。
山椒大夫の厨子王は関白師実の知遇を得て越後の国司になって離れ離れになった母を見つけます。
家族は冤罪で大宰府に流罪された父の救済の為に福島の磐城から越後から越前を経て京に旅行中に人買いに遭難したのでした。母と姉弟の面倒を見たのが奉公人の姥竹でした。名前からして竹の様に実直な乳母だったのでしょう。日本中の受領の家には姥竹のようなしっかり者が居て家の運営を任されていたのでしょう。
信貴山縁起絵巻の山崎長者の巻には、姥竹の様な女官頭が描かれています。
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山崎長者とは受領の一人です。名前からして山城の国の山崎に居た受領でしょう。サントリーの山崎工場の辺りの強欲な受領と思われます。農民から搾取をし。税(祖)は都に届けないばかりか種籾も自分の屋敷の蔵に隠してしまいます。貴山の中興である命蓮が加持祈祷すると山崎長者の蔵から米俵が飛びだして宙を舞って本来あるべき処に飛び去ったという話です。
上の図は山崎長者の蔵の扉が開いて米俵が宙を舞い始めたのを見て。女官頭が驚いている様を漫画の様に描いています。女中頭の左右には下女が居て、右側の下女は主人の処に報告に駈け出そうとしている様に見えますし、左の下女も歯を剝いて驚愕しています。館の室内には様々な仕事を分担している下女の姿も確認できます。女中頭の女官には次のような資質があったのでしょう。
①主人から絶大な信頼を胃もたれている。
②読み書き算盤が出来る(出納が出来る)
③下男・下女を指揮して家の切り守りする才覚がある。
このうち②,③は大概の女性が兼ね備えていたようです。伴大納言絵詞でも洛中の市場などで商品の販売をしているのは女性ですし、後白河法皇の梁塵秘抄(今様)では女性が洛中を行商する呼び声が記されています。下々の家では物つくりは男の仕事で出納は女の仕事に分別されていたのでしょう。物語で「柴刈り」はお爺さん「柴売り」はお婆さんの役割です。
信貴山縁起絵巻の女官(下女を含めて)は活き活きとした表情です。彼女らは雇われ人で主人の財産が無くなろうが別に問題は無いのでしょう。屹度欲張りな受領とドライな労使関係が在ったのでしょう。でも上級貴族となると違います。イメージ 3
伴大納言絵詞の左大臣源信の屋敷の様子。沢山の女官が嘆き悲しんでいます。応天門を焼いたのは自分の主人だと聞かされたからでした。物語は舎人の子供が喧嘩して、仲裁すべき親が喧嘩相手の子供を蹴とばした事から、子供が「僕は観たよ応天門に火をつけた人を!」叫んだことから真犯人が伴善雄である事が判明しました。
伴大納言絵詞は応天門が焼けて、時の大納言伴善男が「「犯人は左大臣の源信」ですと。と報告します。
すると左大臣家の女官は嘆き悲しみます。悲嘆の表情が実にリアルです。女官は「明日からは私の仕事は無い」と思ったのでしょう。高級貴族の屋敷では主人と女官は運命共同体なのでしょう。
一条天皇の寵愛が定子から彰子に移っては清少納言は自分が離縁されたような気になったのでしょう。主人と女官は運命共同体の絆で結ばれていたのでしょう。
一方高級女官もそれなりに悩みが多かったようです。病草子には現代のパワーエリートも悩んで居そうな病気が描かれています。エリートのキャリアー女性にとって仕事の他の悩みと云えば矢張り第一は美顔でしょう。下の絵は病草紙(京博)の顔に痣のある女です。女官は十二単を着こんで手鏡で自らの顔を観て、眉を曇らせています。一重の女は付け人で赤い上着の少女は娘でしょうか?二人とも心配しているのでしょうが、付け人はs不躾にも指指して何やら言っています。
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次は「口臭の酷い女」です。絵の右の女官は十二単までは着ていませんが着替え中のようです。屹度歯周病なのでしょう。右手で長い房楊枝を使って口臭の原因である歯周病を治療しています。手前の椀は薬でしょう。
一方付け人の一人は指さしていますし。もう一人は笑いこけています。主人は屹度お怒りでしょうに。
最後に太った女です。この絵は詞書きがついていますので、中央の太った女性は女官ではありません四条の高利貸しです。太り過ぎて左右の付け人の肩を借りて歩こうとしています。
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太った高利貸しの女。この絵には詞書きが添えられていますので太った女は四条の高利貸しである事が判ります。3人も付け人を従えて四条ンの市場に出たのでしょう、自分は熱いので上着は脱いで付け人に持たせています左右に付け人を添わせて肩を借りています。市場の男達も笑ってみています。市女笠の女は路傍に腰を下ろして乳を与えています。
古代も現代も女性は逞しくもしなやかに生きて来ました。でも次の事実は歴史が教えています。
①.古代は総じて母系社会で、女性がトップの時代は総じて平和を享受してきました。
②庶民の期待に反して戦乱が起きた後は女性が指導して平和を維持しました。女性は総じて聞き上手話し上手ですから、総意を形成して爺資する事に長けていたのでしょう。推古天皇も持統天皇もそんな女性固有な資質を持った指導者でした。古代末期平仮名を開発して駆使したのはパワーエリートの女官でした。私達はその恩恵を受けて平仮名で自分の考えを纏め他人に話し、文章に発表しています。考える読む聴く話す総てのコミュニケーションは平仮名の恩恵です。ソモソモコミュニケーション上手は昔も今も女性でしたから。『女性の方が長けている、特に平和な時代には』それは歴史の実証する事実で生物学は遺伝子や染色体から女性の方が優れていることを証明しています。今日も女性紺プレックに沈みながらも平和な一日が始まります。


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三人妻の苦悩

年寄りの興味は次から次に広がって行きます。
最初は春めいてきた事。夕焼けが綺麗だったので奈良の二上山に心が飛んで、大津の皇子に移りました。
そして大津の皇子の歌から「采女」に「采女」から「女官」に女官から「平仮名」に移って行きました。
      采女の袖吹き返す明日香風都を遠みいたずらに吹く
「平仮名」から次は清少納言や和泉式部に移るのは先輩のYさんでしょう。私の好みは「蜻蛉日記」です。
【藤原道綱の母とは】
道綱母は、蜻蛉日記の作者として有名ですが作者名はお気の毒に余り知られていません。道綱母とて道綱は道長や頼通の引き立て役で、記憶に残らない人物でした。道綱母は36歌仙の一人ですから、文学史上も大変な人物です。公式系図「尊卑分脈/系図解説書」の中では小野小町、衣通姫と共に本朝三美人に数えられています。
【蜻蛉日記は愛の暴露記事】
蜻蛉日記に依れば、その美しさに目をつけた藤原兼家が執拗に通い詰めて無理矢理妻にされています。ところが天性の兼家は浮気性で、次々に別の女性に心移りして行きます。婚姻後も半ば捨てられたも同然の扱いでした。道綱を産んだ後も状況は好転せず、兼家は藤原時子の意の儘にされてしまいます。時子は藤原道隆、道兼、道長を産んだのでしたから。道綱母は”主人は厭きもせず、つまらない女に次々に手を出して”呆れていた風です。時子は既に諦めてその地位に坐っていたのでしょうが道綱母は口惜しくて我慢できません。時子は藤原本家の母堂として揺るぎの無い地位を確保して行きます。三男の道長は娘の彰子を一条天皇の中宮に嫁がせますので、時子は天皇の祖母になります。道綱母の時子へのライバル心は線香花火の様に空しく散るだけでした。
でも単なる女の嫉妬で終わらないで蜻蛉日記を最高の日記文学に評価させているのは、嫉妬心による愛の暴露記事が一歩先に抜けて、まるで蜻蛉が穢いヤゴから赤蜻蛉に脱皮した様な名作にしているのです。今日でいえば夫婦間の軋轢の暴露日記ですが、高僧や聖の諦観にも似た道綱母の境涯が素晴らしいのです。「采女」に始まった私の好奇心は道綱の母に辿り着いてしばし膠着しました。
そこで今日は道綱の母を紹介させていただきます。
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今日の話題は右大将藤原道綱の母の素晴らしさです。道綱母は平安女流文学の中でも特異な存在です。
道綱が産まれた時 道綱母の父「藤原 倫寧(トモヤス) 」は、陸奥守として京を離れておりました。、道綱母は産まれたばかりの子供を抱いての母子家庭で寂しい生活を送っていました。でも頼りの夫兼家は来なくなってしまいます。
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これは源氏物語絵巻の柏木の場面左上で新生児を抱いているのが光源氏です。
この時代妻は実家に戻って出産しました。源氏の館では正妻の「紫の上」は六条の御息所の死霊にとり憑かれ臥している間に女三の宮は柏木と 密通して子供を産みます。源氏は。自分の子供では無いを息子としてを抱いています。源氏の手前が女三の宮と仕える女房です。この後紫の上は源氏の腕の中で落命してしまいます。平安時代は「嫁取り婚」から「婿取り婚」に変化します。飛鳥時代は母系社会で子供を産む女性が家の中核でしたが。平安時代になると荘園制が発展して力のある男性が家の中核に変わります。女性は出産を両親の屋敷に戻って行います。男性は出産に立ち会い、1週間は休暇を取りました(理由はジェンダーではなくて出産に立ち会っているので穢れているとみなされたからです)。道綱母も源氏の様な夫を期待したのでしょうが、兼家は他の若い女の家に通うばかりで今風に云えば「最低な駄目な夫」でした。
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女三の宮の産んだ子(薫)の父が柏木とも知らずに抱く光源氏古代の嫁取り婚から中世の婿取り婚に変化する社会でしたから源氏の様に出産にも立ち会い、権力もあって男前で優しい男性が小期待されました。道綱母は夫の兼家に失望して離婚を覚悟します。絵の出典(源氏物語絵巻集英社日本の四方を複写)
子供を産むとトンと遣って来ない兼家に道綱母は怒ります。10月の末頃、3日も兼家が道綱母の家に顔を見せなかったのでした。道綱母は兼家の文箱の中にこれから他所の女に渡すであろう和歌を見つけます。その後遣って来た兼家に”あの歌は何よ!”詰問します。すると兼家は”これから重要な用があるので参内する”、言い残して帰ってしまいます。道綱母は侍従に道兼の後をつけさせます。道兼は町中の陰勘解由小路かげゆこうじ)のどこかにお泊りになりました」と報告を受けます。その翌実兼家が遣って来ます。その時の和歌が百人一首に取られています。
 歎なげきつつ とりぬる夜の あくるまに いかにひさしき ものとかはしる
一人寝る夜 が明けるまでの間がどんなにか長いものであるかをあなたはご存じでしょうか。そんな意味でしょう。晩秋に忘れ去られたように咲いている残菊を自分自身になぞらせて、「チクリ」兼家に文句を言ったのでした。道綱の母が凄いのは『老いの自覚』です。正妻の時子と自分を比較して女の子を産んでいないことを自覚すると養女を迎えます。行動力も在る女性でした。
道綱母は日中に兼家の恰幅の良い姿を観ます。そして .自らの老いて来た姿を確認します。そして離婚を覚悟します。古代の離婚は裁判所も無いのですから、夫が通って来なければ離婚です。時に道綱母は38歳でした。古代の離婚は「床去り」と云いました。「もう一緒に寝ません」そんな意味でしょう。此処からの道綱母の和歌も日記も凄みを増します。.ある夜道綱母は夢を観ます。夢の一つが蛇でした。
蜻蛉日記には「我が腹の内なる蛇ありきて肝を喰う。これを治癒するには顔を水で洗おう」と云う日記でした。昨日嫌な夢を観たわ私の腹の中に蛇がいて私の内臓を喰っているのよ。気持ち悪いので冷たい水で顔を洗ったわ」フロイド心理学的にいえば蛇は男性器で夢は性的不満足なのでしょう。38歳の時道綱母は自邸を売って父の中川の屋敷に移ります。39歳の時藤原遠度(とうのり).に求婚されます。そこで兼家に相談しましたが、
「従兄弟の遠度がしつっこいのは貴方が誰にでも優しくするからでしょう」とつれないのでした。道綱母は怒って次の和歌を兼家に送ります。
今更に如何なる駒かなつくべきすさめぬ草とのがれにし身を
今更誰が私等に寄りつくでしょうか?馬でさえ見向きもしない枯草の様な私ですから・・・・」そんな意味でしょう。
この歌は古今集の「森の下草」を下敷きにしています。
「大荒木の森の下草老いぬれば駒もすさめず刈る人も無し」
「森の下草」とは女性の陰毛を暗喩しています。
平安末期になると40歳に近い女性は夫が健在でも尼そぎをして床去りしました。
尼そぎ戸は髪を切る事です。切ると云っても丸坊主になるのではなくてショートカットする事です。一昨年の平清盛では尼そぎした女性が涙を誘いました。
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尼そぎをした女性この場面は美福門院得子(びふくもんいんなるこ/松雪泰子)です。得子は九尾の狐の玉藻のモデルとも言われました
道綱母は屹度40歳を過ぎても大変に美しかったと確信します。若かった時は本朝3美人に数えられ老いを自覚してからも時に乳母として母として娘の出産や結婚には頼りになる存在だった事でしょう。
古語辞典では盛りを過ぎる事を「さだ過ぎ」と云い女性だけに云います。清少納言も「さだ過ぎ」には悩んだようです。
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これは源氏物語絵巻の宿木の場面です。平安時代の結婚は次のような既成事実を重ねた挙句の事実婚でした。①男性が好みの女性に文(和歌)を送るそして夜に女性のの館に入る、②翌朝女性の家を辞したらお礼の文(和歌)を送る。これを後朝/きりぎぬと呼びました。この妻問を3日重ねると結婚したものと見做されました。宿木のこの場面は3日通った事実の後に男性が女性の両親に顔を合わせて、被露宴を開くのでした。この絵は右の男性が匂宮です。女性は夕霧の娘の六の君です。衝立の後ろに居るのは六の君の母です。女性の母は娘の性愛の監督役でした。このような被露宴の事を露顕(ところあらわし)と云いました。二人が結婚した事実を公表するそんな意味だったのでしょう。
結婚がこのように簡単でしたので離婚も簡単です。男性が通って来なければ事実として離婚です。
離婚した場合女性は長い髪を落します(尼そぎ坊主になる事では無くてショートカットします。)尼そぎは女性の離婚宣言であり社会に対しては「私はフリーなの」発表するようなものです。
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道綱の母と藤原兼家の家系図兼家にはなんと8人もの妻がいましたが。時子が正妻で兼家よりも30歳も年上で、道綱母は兼家より7歳若かったのでしたが。何故か次々に嫁を獲ります。嫁と云っても側室とか妾では無くて大輔は同じ屋敷に館を宛がわれていたし。藤原国彰娘も館に住んでいたようです。道綱母だけが実家に戻って別居していたのでしょう。中世になると奥様を館の名前で呼ぶようになります。「北の方」と云えば母屋の北の建物の意味から正妻の意味に変わって行きます。
これまでは蜻蛉日記を根拠に道綱母の暴露日記を辿って来ました。
そのままでは兼家が最悪です。兼家サイドで確認してみます。
兼家は右大臣藤原 師輔(ふじわら の もろすけ藤原北家)の三男として産まれます。(929年)949年には中納言になり藤原北家の一員として順調に権力の中枢を登って行きます。

兼家は天暦8年(954)、美人の評判高かった道綱母(19歳)を娶ります兼家は26歳でした。この時、兼家には時姫という正妻がありました、時姫の父は摂津の守藤原中正でしたから道綱母とたいして変わりありません。時姫は31歳も年長でしたし、美人である事和歌に秀でていること等では道綱母は正妻に劣る心配は無かった事でしょう。
綱母は平安時代に最も重要な和歌に秀でていたのに対し。兼家は勅撰集に一首も選ばれていない凡庸な人物だったでしょうから。事ある度に道綱母が代作したでしょうし。偶々秀作が出来ても奥さんの代作だと誰しもが想ったでしょう。教養や才能のレベルが違っていたと思われます。屹度兼家は美人の道綱母をゲットする事に熱心でゲットした途端にコンプレックスに陥ったのでしょう。慶応大学にもそんなカップルが幾つもありました。かく云う私もそんな一人かも知れませんが・・・。
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これは源氏物語絵巻の東屋の場面です。不義の子薫は、亡き源氏の面影を宿す浮舟に関心を持って宇治の館に日参します。でも浮舟は自分が受領の娘と云った身分の低さから薫の求愛に引けています。其処で浮船実家に隠れます。母の中将の君模糊の縁談には消極的で娘を屋敷の奥に隠します。
絵の奥に居る緑の上衣を着ているのが浮船です。手前で髪を梳いて貰っているのが中将の君です。面白いのは浮舟が絵本(女絵」と呼ぶを観て居る事です。御簾の陰の女房は何やら物語を読んでいます。
ましたが、道綱を出産したので。既に道綱母は時姫に遠慮もいらない立場になった筈でした。兼家は従兄弟の道長にドンドン差をつけられてしまいます。道長は娘(彰子)を一条天皇の中宮に押し込み、更に彰子の身辺にキラ星のように才能はあっても、美貌は程々の女房を送り込みます。
兼家は道長のライバルにもなりえない単なる色好みだったようです。
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これは寝殿造りのジオラマ(京博)です。出典はウキペディア1. 寝殿(しんでん)、2. 北対(きたのたい)、3. 細殿(ほそどの)、4. 東対(ひがしのたい)、5. 東北対(ひがしきたのたい)、6. 侍所(さむらいどころ)、7. 渡殿(わたどの)、8. 中門廊(ちゅうもんろう)、9. 釣殿(つりどの)です。1の寝殿は主人の住居で2は正妻の住居で寝殿の北に在ったので正妻の事を北の方と呼ぶようになりました。この屋敷では4に東対と5東北対があるので、正妻の他に2人の女(妻)がいた事になります。兼家の場合は老いても時子をズット本妻にして、新妻の道綱母も次々に迎えた女(妻)も正妻の座を渡しませんでした。道綱母だけは屋敷内に入れなかったのは道綱母の正妻時子へのライバル心が強いので。女同士のバトルが勃発するのを避けたのでしょう。蜻蛉日記には兼家が再三屋敷の工事をしているので「私を迎えてくれそうだ」期待したのでしたが空振りに終わってしまいます。道綱母の心の傷は痛い程判る気がします。

古代母系社会の嫁取り婚から中世の婿取り婚への過渡期がこの時代です。女性の立場から日記に記したのが蜻蛉日記なら。道長は「御堂関白日記」を残しました。藤原道長は権勢をほしいままにしたのでしたが、正妻・倫子(りんし)と美貌の女・明子(めいし)。を妻にして腐心します。王朝絵巻は愛の交錯です。源氏物語が幾つも垣間見られます。此れも女性が平仮名を作ったからです。そして源氏物語絵巻の様な絵を「女絵」と呼びました。その意味する処は女性が絵筆をとって描いた絵本の様な絵の意味です。女絵がある以上男絵もあります。男絵は墨で輪郭線を描いた漢詩の添え絵のようなモノでした。女絵は鎌倉時代の絵巻物や大和絵に伝わり江戸時代には琳派に継承されます。私の好きな安田靫彦も女絵の伝承者です。

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永井荷風への憧れ

昨日は実に暑かった。今日も天気予報では夏日が続くそうで深夜ラジオでは”熱中症対策”を報じています。「エアコンは節約しないでつけましょう」とおせっかいな事をアナウンスしているのは。高齢者が電気代を節約して熱中症になってしまう事故が多いせいでしょうか?
ソロソロ起きようかな?思っていると鶯の啼き声が響いて来ました。3月ごろはぎこちなかったものの。もう立派に啼き続けています。鶯もこの2か月間で立派な男に成長したようです。あれなら雌も寄って来ることでしょう。
寝床で鶯君の囀りを聞きながら「今日のブログは何を書こうか?」考えます。
普段から頭の引き出しを沢山用意しておいてその日に気の向く儘に書いているのですが。時折こういう事が起ります。書く事が思い当たらないのです。
熱中症・孤独死の連想で永井荷風を想い出したので、今日は永井荷風を書く事にしましょう。先週墨東奇譚を読みました。昨年の6月には浅草寺「ほうずき市」に行き更に浄閑寺や吉原の稲荷神社を詣でました。でも其処が永井荷風が墨東奇譚を書いた街とは知りませんでした。ですから浄閑寺でも吉原弁才天でも荷風の記憶を確認しないで素通りしてしまいました。今年もほうずき市に行って私娼窟「玉乃井」の面影を探してみたいものです。ベレー帽でも被って・・・・。
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これが墨東奇譚の表紙です。絵は朝日新聞の挿絵を木村荘八が描いたモノ小説家大江匡(荷風自身)が私娼お雪に自宅に連れて行かれた場面です。矢代安芸の「雨の慕情」を想い出します。
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ポスターは新藤兼人監督の作品女優さんは「墨田ユキ」さん。主演として活躍したのはこの一作品だけで大半はAV女優として不遇な役者生活を過したようです。この作品のイメージが強すぎたのか荷風の霊が乗り移ってしまったのか?私が中学生になった頃このポスターが街中に溢れていました。
ところで、我が家の筋向こうでアパートを建築中です。狭い通路に1棟6戸のアパートを見る見る建築して行きます。施行店は積水住宅です総じて疑問のある事業ですが1点だけ感心する事があります。それは兎角汚してしまう道路をこまめに掃除して居る事です。竹箒とミノを使ってゴミや泥を掃いています。お蔭で落ち葉や散った花で汚れ易い我家の前も綺麗です。(ワイフの名誉の為に書いておくと毎朝ワイフも掃除をしているのですが。積水住宅は仕事の前後に眼の届く範囲を掃除しています。アスファルト道路を竹箒で掃くのですから箒の先は見る見る傷んでゆきます。元々消耗品の竹箒ですが最後まで使い切るようです。道具を大事にして使い切る事は良い事です。屹度竹箒も嬉しい事でしょう。
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これはお寺のお掃除道具最近は送風機で吹き飛ばすのが流行りでしょうが。竹箒で落ち葉やゴミを掃き集めて堆肥にするのが常識でした。我が生家でも掻き集めた落ち葉は畑の茗荷の堆肥にしていました。写真のように穂先が均等に短くなって行くのが上手な使い方です。掃き後の地面や道具を見れば修行の程度が解ると教わりました。

私の体もアッチコッチ傷んでボロボロですが体も能力も使い切る事が使命と云うものでしょう。永井荷風が墨東奇譚を書き始めたのは昭和12年58歳の時でした。昭和20年66歳で東京大空襲で自宅「偏奇館)を焼失以降浅草から市川近辺の下町でしもた屋で「間借りを続けました。昭和27年70歳の時に文化勲章を受章します。
借家の近隣の人も浅草の演劇劇場でも隣に居る好々爺が文化勲章受章者だとは気付かなかったことでしょう悠々自適に孤独な生活を楽しみ昭和34年4月29日79歳で亡くなります。本八幡の借家で吐血し、孤独死しているのが発見されました。
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荷風は浅草の楽屋通いに熱中します。贔屓の女優高杉由美子の為に「停電の夜の出来事」を書きおろし自らも舞台に上ります。写真出典は「荷風流東京一人歩き/JTBブックス)
明治12年小石川のお屋敷の長男として産まれて。学芸大附属学校に学び。横浜正金銀行(現横浜銀行)に就職し米国やフランスで生活し慶応大学文学部教授として迎えられ三田文学を創刊した前半生に較べて後半生は惨めでありました。死後荷風愛用のバッグの中には世間が驚く現金が在ったそうです。荷風おじいさんは何時も大金を持ち歩いていたようです。屹度浅草の小屋に行って踊り子さんにばら撒いていたのでしょう。
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荷風の愛用した生活グッズ下駄は足が大きくて合う靴が無かったからでしょう。中央の竹籠(?)は惣菜買い出し用。左下のバッグに大金が入っていたので話題になったそうです。どれもこれも使い切るまで愛用する姿勢でいたようです。この精神が素晴らしい。写真出典同上。

上流から下流に転落する契機になったのは大逆事件で光徳秋水が特別高等警察に逮捕される現場に偶々居合わせた為だと云われています。何もできなかった自身の無能さに嫌気がさし、金にも資産にも名誉にも無頓着になって、精神的自由を謳歌し、江戸時代風の情の深い空間に耽溺していったのでした。
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此方が貸し間で使われていた炊事用具。七輪もアルミ鍋も昭和20年代の色と香りが浸みこんでいるようです永井荷風ファンなら幾ら出しても欲しい一品でしょう。写真出典は「荷風流東京一人歩き/JTBブックス」

私の住む戸塚にもホームレスが目立ちます。私達団塊の世代は60年代は安保闘争の闘志と云われ高度成長期には見事に転進して事業家として成功したモノも目立ちます、荷風の孤高なスピリッツは転向を潔しとはしなかったのでしょう。正直と云うか真っ直ぐな生き方が上流生活を捨てさせ下流生活の挙句に孤独死したのでしょう。とホームレスにはそれぞれの人生が在って荷風以上に劇的な人生が隠れているのかもしれません。
荷風がモノを大事にして、安物のペンを使って、銀行で貰った鉛筆を極短になるまで使い切っている様や擦り切れた下駄の歯を観るにつけて感服します。昔から日本人は道具にも命が在って道具を粗末にするとつくも神に祟られると信じられて来ました。大金を持っていた荷風なのですから大事な商売道具です。万年筆なら最高級品も買えたでしょうが。安物のペン先を愛用していたようです。名作が安物のペン先で書かれたのは楽しい事だと思いました。
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これは荷風が最期まで使っていた文机に執筆用具を揃えたものです。机は市川駅前の露店で150円で求めたものだそうです。左下の鉛筆は銀行のギフト用品で机上の小刀で不器用に削って使っていたようです。左上のペンは安物の柔らかいけれども太字のペン先で付け替えて使っていたようです。紅い軸のペンは校正用の朱筆のペンです印鑑が沢山あるのは戦前は著作権の確認の為に押印した為幾つも必要だったのでしょう一番大きいのは谷崎潤一郎氏からプレゼントして貰ったものだそうで「永井荷風氏著作権の証」と刻印されています。写真出典同上


私もすでに後半生です。荷風先輩に倣って道具を大事に使い切りようにしましょう。体もアッチコッチ疲れて来ました。でも神様仏様両親から戴いた唯一無二の体です。あと何年持つのか不確実ですが大事に使活きる事にしましょう。同時に時間も頭脳も使い切る事に腐心する事にしましょう。

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龍之介河童の文明批判

今年も上高地の河童橋は見事に紅葉し、河童橋は沢山の観光客で賑わった事でしょう。
梓川の源流大正池に近い河童橋は芥川龍之介が1927年(昭和2年)に発表した 小説である「河童」を着想し、執筆したのが上高地あった事からそこに架る吊り橋に冠した橋名です。「河童」は 当時の日本社会、あるいは人間社会を痛烈に風刺、批判した小説であり、 同じ年の芥川の自殺の動機を考える上でも重要な作品の一つであるといえます。龍之介は師と仰いだ夏目漱石を 大正5年(1916年)失いました。漱石が「猫」の眼を通して借りて人間や社会を批判(風刺)したのでしたが、龍之介は「河童」を使って当時の人間社会を批判したのでした。
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飄飄とした龍之介の描く河童、痩せて折れそうな体躯は龍之介に似ているようですし。大きく見開いた眼や大きな口は龍之介の激しい批判の精神猟区を示している様に思うのですが。龍之介は墨田区両国で育っていますから。河童寺の義民としての河童に馴染んでいたものと思います。茅を担いで鋭く見返す河童の姿に清廉に生きようとする龍之介の姿が見えるような気がします。茅はススキの事で災厄を祓い窮めて有益な植物でした。出典アマゾン中古本
既に龍之介は文壇で地位を固めていましたから、社会や文明の批判をしなければそれなりの一生を送れたのでしょうが、龍之介の地勢や気性は安易な生き方を許さず、批判精神を活動させたのでしょう。しかしそうした姿勢は、大正デモクラシーから戦争に転げ落ちようとした時代には大変な負担をかけたようで・・・龍之介の精神は病んでいたのでした。その行き着くところは大正12年の自殺でした。(巣鴨の慈眼寺に夭折した作家の霊は眠っています。
漱石の境地は猫の眼ですから則天去私で済む訳でしたが、龍之介は当時の日本の社会や文化の矛盾を河童の頭で見詰めて居たのでしたから、その不条理に悩んで死に至る精神病であったようです。昨日まで河童のルーツをアレコレ詮索してきたのでしたが。どの河童も人間性と人間社会の板挟みにあって、「人柱に祀られたり」、父なし子として間引かれたり」「行政が治水工事をしない怠慢に代わって工事をしたり・・・・」「縄張りを守らせるために妖怪になったり」「溶鉱炉の秘密を守らせるために敢て被差別民になったり
どれもこれも人間が人間性を失って社会の機構や体制を守る為に犠牲になって、いわば「義」の為に犠牲になった人達だったのでした。そんな人の霊を癒やすために河童は大明神に祀り上げられた、気の毒な眷属だったと言えます。
大正末期はデモクラシーも一般化し、婦人参政権まで認められたのでしたが。貧富の差が大きくなり日本の資本主義の拡大志向にブレーキがかからず。大東亜共栄圏と云った誇大妄想が社会を席巻しました。龍之介の鋭い知性はこの危うさを見抜いて、その繊細な感性が折れて精神病に陥り自殺と云う幕を閉じたと思われます。
それでは龍之介の河童はどんな矛盾を指摘していたのか?いか短編小説河童に従って紹介いたします。
原本はネット上でも読めます(http://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/45761_39095.html)

【龍之介「河童」の概要】
1あらすじ/
精神病院に入院している患者の回想としてこの作品は始まります。
主人公となる「僕」は3年前の夏に上高地の温泉宿から
穂高山へ上ろうと霧の深くなる梓川の谷へ下りて行った時に偶然河童を見つけます
「僕」は追いかけますが、河童を追いかけている途中の大きな穴に落ちてしまいます。穴の底で僕は長い間気を失っていたのでした。
「僕」が気がつくと、そこは既に河童の世界だったのです。
「僕」は河童の世界で「特別保護住民」としてしての生活が始まります。
河童の世界は大都会の地中奥深くにあるようでした。その河童ワールドは後述するように人間世界とは真逆の価値観で動いていました。この指摘が龍之介の人間及び人間社会への糾弾であるのです。ところで僕は河童ワールドの様々な人(河童)と知り合います。生活する事になります。
河童の世界の住人となった「僕」の知り合った人は以下の通りでした。
チャックという医者、バッグという漁夫、トックという詩人、ゲエルという大資本家、ラップという学生
と言った様々な人たちと出会い、親交を深めます。
イメージ 2
これは常泉寺(大和市)の河童さん井戸端で合掌しています。
2、【河童ワールドと比較する事によって指摘した人間批判】
河童のワールドは人間の世界と似ているようでいて、 実を言うと全く違った価値観を持った世界だたのでした。
 具体的な例をいくつか挙げれば、
1、河童の赤ちゃんが生まれるかどうかの判断を母親のおなかの中で決断します。赤ちゃんが”産まれたいのか産まれたくないのか?”御産婆さんが母親の子宮口に耳を当てて確認します。そうして産まれたい反応した赤ちゃんだけがお母さんに抱かれるのです。
2雌の河童が求愛のオプションを持っています。だから雌河童が雄を追いかけまわします。掴まった雄河童は嘴が腐りはじめます。
3、演奏会が特別警察によって絶えず検閲されます。
河童には耳が無いので文字や絵は判断できますが音に弱いのです。
風俗を壊乱する曲でに感染すると困るので警察は演奏会を中止させるのです。こんな警察に対して河童ワールドの河童たちは激しく抵抗します。
4、河童ワールドは機械化が進んでいます。機械は労働者の職を奪います。労働者として使えなくなった河童は食肉用に加工してしまいます。皆それを当然と考え河童肉のハンバーグ等を食べています。
5、泥棒をしてもその泥棒をした時と現在の状況が変わっていれば泥棒として逮捕できません。
捕まる事はできなくなります。
6戦争観/河童はいつも獺(カワウソ)を仮設敵にしています。しかも獺は河童に負けない軍備を具へてゐると云ふことです。或るカッパ夫婦の痴話喧嘩が原因で雌河童が雄河童を殺して保険金を搾取しようと目論見ました。茶碗に青酸カリを入れておいたのです。処が間違って獺が茶を飲んでしまいました。これに端を発して河童と獺
が戦争に突入してしまいました。戦争は河童国が勝利しましたが河童国は40万人もの命を失いました。一方獺国は相応の死者が出たのでしょうが大きな国なので痛くも痒くもなかったのでした。
この様に色々な点で河童ワールドは人間の世界との違いが明らかになります。
河童ワールルドの指摘は日本社会の批判に通じるものです。その最たるものが宗教観でした。
7、河童ワールド宗教は「近代教」別名「生活教」です。生活教は単に「生きる」と云ふよりも「飯を食つたり、酒を飲んだり、交合を行つたり」する意味です。人間世界の宗教の様に理念が先行している宗教は信奉されていません。生活教の本山の庭には「命の樹」が茂っています。金色と緑色の実がなります。金色の実は善で緑色の実は悪です。
8、河童ワールド中でも時々価値観がずれてしまって精神病に陥る者が出現します。

龍之介の河童ワールドを読み進めました。最初の中は文明批判として理解できたのですが次第に私の脳は龍之介に置いて行かれてしまいました。それは、屹度私が現代文明に汚染されていて常識の中で安住できているからでしょう。更に共感できるようになったら「僕」と同じ精神病を病んでいるのかも知れません。
イメージ 3
常泉寺の河童さん龍之介は河童ワールドには赤青二タイプの河童が居ました。龍之介は皮膚組織がカメレオンに似ているのだろううと推測しています。僕はこの事実を発見した時柳田国男の「 西国の河童は緑色であり、東北の河童は赤い」と云ふ指摘に合点しています。

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芥川龍之介の蜜柑

昨晩のラジオ深夜便で朗読三本立てを流していました。
副題に「心に物語の灯を」と題していましたので"寝ながら読書の秋を楽しもう”と云った怠惰ながらも貪欲な企画です。
内容は芥川龍之介 著「蜜柑(みかん)」を松本一路アナウンサーが朗読し、太宰治 著「リイズ」を 迎康子アナウンサーが朗読し。夏目漱石 著「夢十夜」を石澤典夫アナウンサーが朗読しました。
偶々昨日はワイフが和弓のお仲間から露地植え野蜜柑を貰って帰宅しましたので。
蜜柑には縁のある一日でした。
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ワイフが戴いて帰った露地植えの蜜柑。お皿は友人のI君の手作りを貰ったもので、最近は貰い物で生活している感じです。
【蜜柑のあらすじ】
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龍之介の蜜柑はJR横須賀駅でケタタマシク下駄の音を響かせて飛び乗った少女がいた事から話が始まります。
筆者(24歳の龍之介/当時横須賀の海軍機関学校の英語教師として勤務する為、鎌倉の借家から横須賀線に乗って通勤していました)。
横須賀線のニ等車(グリーン車両)に乗っていると下駄の音を響かせて飛び乗った少女が居ました。
曇った冬の日暮れでした。筆者には「疲労と倦怠感」が襲っていました。
筆者は少女を一瞥して不快に思います。
何しろ汚くて不潔感が漂っているのです。そして頬っぺたはアカギレしています。加えて少女は汽車の窓を下そうとします(昔の窓は下ろして開けたのでした)。窓を開ければ冷たい外気が入って来ます。少女は3等車両に行くべきなのに間違えて2等車両に乗った上に傍若無人にふるまっているのです。インテリの筆者は不快感を行動に表そうとさえします。
汽車が トンネルに入りました汽車の煤煙が車両に充満します。筆者は眼と喉を煤煙に襲われてて咳き込みます。
声を発して少女の行動を押し留めようとした途端に汽車は踏切に差しかかりました。
踏切には少年が三人並んで手を振っていました、何れも少年も貧疎な服装をしていますが、懸命に汽車に向かって手を振っていました。
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これがJRの田浦トンネルを駅舎の高架橋から見る中央の下り線が明治22年(1889)の横須賀線開通時に完成した最も古いトンネルです一番右が上り線で、複線化に伴い大正13年(1924)に増設されました。一番大きいトンネルは、昭和18年(1943)軍需輸送の引き込み線用として造られたものです。ですから龍之介の蜜柑は中央のトンネルでの出来事と云う事になります。因みに私はこの田浦駅から高校のある長浦まで四〇分程歩いていたのでした。

屹度”お姉さん御達者でね!早くた戻って来てね!”叫んでいたのでしょうが轟音で筆者は聞き取れません。でも少女が弟達に投げた蜜柑だけが目に飛び込んできたのでした。筆者は直ぐに状況を把握しました。自分の横に居る穢い少女は横須賀の家族から離れて都会に奉公に出るのでしょう。そして少女の弟達がこの踏切まで見送りに出ているのです。
疲労と倦怠に沈んでいた作者に新鮮な電流が流れた瞬間でもありました。この頃、龍之介は恩師の漱石を失い喪失感に沈んでいたのでした。
私は朗読を聞き終えて、少年たちが線路内に入って姉さんが投げた蜜柑を拾う姿を想像しました。蜜柑は傷ついていたかもしれません。でも弟達は蜜柑を口に運んでその酸っぱさに姉の辛酸な将来を噛みしめていたことでしょう。
60年も前に読んだ短編小説もこの年齢になると味わいも変わって、名作と評される所以も納得します。
【蜜柑の描かれた踏切は何処か?】
引き続いて何処のトンネルで何処の踏切だったのだろうか想像します。第一の候補は田浦トンネルです。
横須賀線の横須賀駅の次は田浦駅で田浦駅は前後をトンネルで挟まれています。横須賀寄りのトンネルが七釜トンネルで逗子寄りのトンネルが田浦トンネルです。
イメージ 4
名越切通しから鎌倉方面を眺めるこの下を通っているトンネルが名越トンネルです。左の四方流れの建物が長勝寺の本堂で横須賀線車両の最後尾辺りに名越の踏切があります。踏切の北側に安国論寺があってこの辺りは日蓮上人の聖蹟寺院が立て込んでいます。

私は中学から高校一年迄四年間通学で田浦駅で乗り降りして居ました。でも小説では筆者は少女を一瞥してからしわくちゃの新聞を取り出して読み始めています。時間は相当経過していますから田浦トンネルではなさそうです。で・・・・次のトンネルはと云えばまで逗子駅と鎌倉駅の真ん中に在る名越トンネルです。トンネルを出ると直に踏切(名越踏切)がありますので小説蜜柑にはピッタリ符合します。
此処のトンネルは西側に自動車専用のトンネルが在って。トンネルの上は有名な「名越の切通し」もあります。
名門三浦一族が敗走した古戦場でもあり現在火葬場もあるのでトンネルは心霊スポットとして有名でもあります。
何しろ名越の名は古くは「難越」(なこし)と書いた程ですから古跡なのです。私は候補二つのうち後者の名越トンネルが蜜柑の舞台だと判断します、
イメージ 5
芥川龍之介は由比ヶ浜にあった海浜ホテルに近い野間洗濯店の離れに借家されていました。海の近くでした。


横須賀の津久井浜には蜜柑園が幾つもあります。三浦半島の海に面した斜面は蜜柑畑が似合うのです。もう三浦は水仙も咲き出しているかもしれません。

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