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文学散歩

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江ノ電の極楽寺を降りて、極楽寺川の沿って下ると播磨橋に出ます。
青年会議所の建てた案内碑には、橋の袂に「針職人が住んでいたから・・・」書かれています。
昔は鉄の棒を叩いて、石に磨いて針を作っていたのでしょう。
此処を右折、江ノ電の踏切を渡ると、線路脇に「阿仏尼旧蹟」石碑が建っています。
額アジサイの木が石碑の足元を隠しています。
この先が「月影ヶ谷」で、昨日紹介した「月影地蔵」さんが祀られており、
儚く散った少女「露」が母親と住んでいたのでした。
 
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                             今日の話題は阿仏尼さん
 
阿仏尼は1253年(建長5)に藤原定家の倅「藤原為家」の側室に入ります。
為家には先妻との間の長男藤原為氏が居ました。
阿仏尼には次男藤原為相(和歌の京極家の祖)が出来ました。
為家は阿仏尼を寵愛し、藤原為相に播磨国細川庄を与える証文を書きました。
これが後に藤原為氏との遺産相続争いの原因となります。
1275(建治元)年、藤原為家が亡くなると、藤原為氏(兄)は藤原為相(弟)に対して、細川庄の譲渡を拒否します。「父は生前私に譲ると言っていた・・・」主張します。
そこで60歳の阿仏尼は1279(弘安2)年、鎌倉へ下ります。
14日間の旅日記がつづられます。
藤原為氏も訴訟のために鎌倉に下向しました。
倅の藤原為相も遅れて下向します。
 
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      江ノ電線路脇に阿仏尼の住んでいたと言う旧蹟があります。
 
阿仏尼は月影ヶ谷に住まいます。
何故、此処に住む事にしたのか・・・、事情は書かれていません。
古代・中世の東海道に面した地で、京都から来ても直ぐに判る・・・・、そんな場所だったのかもしれません。また、引付衆(裁判所)の判事北条義時の屋敷があったからかも知れません。
でも、都で産まれて都で育った60歳のお婆さんにはこの住まいは心細かった・・・・思います。
次のように記しました。
 
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      旧蹟の上には見事な桐の花が咲いていました。昔は娘が生まれるとお祝いに桐の木を植え       ました。嫁入りになると桐箪笥の材にしたと聞きます。鎌倉には未だ桐の木があります。
 
 
十六夜日記には次のように記しています。
「浦近き山もとにて、風いとあらし。
山寺(極楽寺)のかたはらなれば、のどかに、すごくて、浪の音、松風たえず。」
阿仏尼旧蹟から更に300mほど下ると、11人塚(新田義貞軍の郎党11人の墓。稲村ガ崎の戦いの旧蹟)があります。
 
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        稲村ガ崎の戦いの記録を留める11人塚阿仏尼旧蹟の近くです
 
阿仏尼は月影ヶ谷に住まいしてから4年後、裁判の結末を得ず、 亡くなります。
阿仏尼の父は和歌の世界のドン「藤原定家」で三代将軍実朝に「万葉集」をプレゼントしています。
自分も、倅の藤原為相も和歌では第1級歌人として自負がありました。
でも、裁判の世界には和歌は無力だったのでしょう。
藤原為相は鎌倉の扇ヶ谷に住居を構えました。(藤ヶ谷と呼びます)
浄光明寺の辺りです。
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 浄光明寺前には扇川が流れています。今はキバナ菖蒲が咲いています。写真奥は塩船地蔵尊です。
 
歌壇を指導し、「藤ヶ谷式目」を作るなどして鎌倉和歌の発展に貢献します。
娘は鎌倉幕府8代将軍久明親王に嫁し、子供は久明親王を育てています。
勝訴の判決を勝ち取る頃には、京都も播磨も関係がなくなってしまいます。
晩年は鎌倉で暮らし、将軍を補佐し鎌倉で亡くなっています。
お墓は浄光明寺の裏山にあります。
 
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浄光明寺本堂、右手の細道を辿ると仏殿があって、その上山の略頂上近くに藤原為相の墓があります
 
阿仏尼 の墓は英勝寺の北、横須賀線の線路に面した櫓の中にあります。
真向かいが浄光明寺で、倅の成功を確認し、その墓を見上げる位置にあります。
月影ヶ谷に戦乱の危険を察知したのかも知れません。
同時に、倅が藤ヶ谷に住まいを構えたので、自身はその近くの尼寺に入ったのかもしれません。
 
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                 阿仏尼の墓。左は英勝寺です。卯の花が岩場を隠していました
 
と言うのは英勝寺は1600年代家康の側室「お勝の局」が建てられた尼寺でした。
新編相模国風土記にによれば、鎌倉時代は「智岸寺」という名の尼寺だったそうです。
東慶寺の旭山尼が隠居所として使用した・・・と。
従って、 阿仏尼は月影ヶ谷から智岸寺に移って、倅の藤原為相に看取られて、亡くなった・・・・、
そしてその境内尼櫓を掘って埋められた・・・・、のでしょう。
そう思うと、強い意志力で自身の本分を果たした・・・・人物像が浮かび上がります。
ある意味、”日本の母・・・貴方は強かった”そんな思いがします。
 
800年も前に、頼りない息子のために、鎌倉まで裁判に出かける母親がいました。
息子は母の後ろからついて行きました。
そのうちに、自らの逆境を打ち砕く生き方を学びました。
そして、京極家を立ち上げ、将軍の後見人にもなりました。
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             阿仏尼の父の名前を冠した「定家かずら」も満開になりました。
 
大学入試や入社試験について行く親がいると聞きます。
親は最期まで子どもの面倒を見ることは出来ません。
”溺愛”は自らも、子供も駄目にします。
阿仏尼のような生き様は自分も、倅も・・・・
もしも運命が不幸の方を向いていたのなら、そのベクトルを変換して、
不幸を克服して将来を切り開いてくれるのでしょう。
 
阿仏尼の「阿」は梵字の題一音、「いろはにほへと」の「い」に当たります。
尼寺で”あぶつにさん”とは呼び難いでしょう。
”凄い名前をつけたもんだ”思います。
屹度、初心が大事、男でも女でも”強い意志力、理性が大事”
そんな考えがうかがえます。
阿仏尼さん、お母さんは偉かった・・・思います。
櫓を真っ白い卯の花が飾っています。
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            鎌倉ではもう雪ノ下が咲き始めました
 
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月影地蔵のお話

鎌倉の長谷から星の井通りを西に向います。
坂ノ下から極楽寺坂、極楽寺切通しを越えると、向こうに赤い橋が見えてきます。
橋の名は「桜橋」、この辺りから極楽寺の桜が眺められるからでしょうか?
橋の下は江ノ電(明治35年開通)が通っていますから、それほど古い橋ではないのでしょう。
 
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      坂ノ下、右奥が虚空蔵堂、その下に「星の井/鎌倉10井」が見える。道路向かいがアジサイ       の名所成就院。その先に極楽寺切通しが続きます。
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    道路の両端の石積みに源平草が花を咲かせます。正面の朱塗りの橋が桜橋。橋の下は江ノ電     の軌道が走っています。その先の甍が極楽寺。左に折れて坂を下ると月影ヶ谷、正面の山裾が    西ヶ谷になります。
 
源平草が咲いています。
切通しの石積みや極楽寺駅の岩壁、極楽寺トンネルの出口、そこら中に咲いています。
一年中咲いていますが、矢張り今頃が一番花数も多く綺麗です。
この名は多分鎌倉だけの名前なのでしょう。
一重咲きのデージーのような花なのですが、一株に紅白の花が咲きます。
源氏が白、平家が朱、だから源平草なのでしょう。
 
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           導地蔵堂    
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          導地蔵尊、堂内は実に綺麗にお掃除されています
 
極楽寺は東大寺の僧「忍性」が創建したと言い伝えられています。
寺の東側(鎌倉寄り)の谷は地獄谷と呼ばれていました。
鎌倉中の貧民が集まっていたと聞きます。
極楽寺の中に「施楽院」「悲田院」を建立、社会事業に勤しみます。
地獄と極楽の境だからでしょう、この辺りに地蔵堂が二つあります。
 
桜橋の西の畔に「導地蔵」さんがあります。
地蔵堂には幅のある縁側があります。極楽寺の参拝客は縁側に腰掛けて一服します。
でも、背中に地蔵の視線を感じています。
帰り際にお賽銭を投じて、ガラス戸の中のお地蔵さんを覗きます。
少し前屈みでお地蔵さんは何か言っていられる様子です。
体中を覆っていたと思われる金箔が剥げて、地の黒い漆が出ています。
 
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江ノ電極楽寺駅(関東100駅の一つ)役の裏が極楽寺です
                              
導地蔵の前を更に西に進むと稲村ガ崎小学校があります。
小学校の先を左折すると、山間に「月影地蔵」があります。
実は現在地は「西ヶ谷」で、月影ヶ谷はこの一帯ではありません。
極楽寺から稲村ガ崎の方に下った辺りです。
十六夜日記の作者「阿仏尼」の住まいがありました。
 
極楽寺の東が「星の井」、西が「月影ヶ谷」、何れも鎌倉の中央から見れば裏寂しい地名です。
でも、星も月も美しく眺められる場所なのでしょう。
 
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月影地蔵堂 お堂の左右に石仏が並んでいます
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月影地蔵、焼けたので江戸時代に再建されました。
光背に桃がデザインされているので延命地蔵と考えてよいでしょう
 
月影地蔵堂が焼け落ちた事から、人目の届く現在地に新たに建て替えられたそうです。
建物の意匠は導地蔵堂と似ています。
導地蔵堂は畳が敷かれ、縁側がありますが、月影ヶ谷地蔵は板の間で、縁側もありません。
月影地蔵は朱色の僧衣を着ておいでです。
そして、手足が真っ白です。まるで女性の皮膚のようです。
その足元に「火気注意」と書かれているのは、前のお地蔵さんが焼けてしまったからでしょう。
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このお地蔵さんには伝説が残されています。
鎌倉時代、親孝行娘の「露」という童女がいました。
露の母親は性分の悪い女で、使えていた北条業時(なりとき/引付衆の責任者・裁判長)の家で高価な青磁を割ってしまいます。
その事実を隠しています。
主の業時は露を呼び尋ねます。「母親の仕業であろう」と、
ところが露は「自分の過ちです」、主張します。
「親孝行は子の努め、まして親を罪人にするなど思いもおよばぬことでございます」
仕方無い、業時は親子二人に暇を出してしまいます。
その時になって母親は「自分の罪です」白状したのですが、”既に遅し”
母親は追放されてしまいます。
 
業時は露の預け先を探します。
そして屋敷を出るとき「梅小紋の小袖」を露に与えます。
でも、性悪の母親はそれを奪い去ってしまいます。
露を預かった屋敷では大切に遇してくれましたが、露は母親と別れた悲しみに沈んでいます。
まもなく病に倒れ、幼くして逝ってしまいました。
 
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     如意輪観音、「露」の不幸を悲しんでいるようで・・・・。
     白い部分が梅ノ木苔、これが梅の小紋に見えた 

辺りの人々はこれを哀れみ、この子の生まれた月影の谷戸に小さな墓をたてます。
やがてその墓に「梅の木苔」がびっしりと生えました。
人々は「袖を通すことの無かった梅小紋の代わり」、と噂します。
 
二つの地蔵堂は何時来ても綺麗に掃除されています。
聞いてみると極楽寺のお檀家が雑巾掛けをして、草をむしっていなさるとの事でした。
 
 
 
鎌倉にはこうした説話(一般に仏教説話)が数多く残されています。
最も有名なのは光触寺の「頬焼き阿弥陀」の話でしょう。何れも正直で心使いの細やかな少女が主人公です。どれもこれも、心温まる良いお話です。
 
今日、月影地蔵の話をしたのは、阿仏尼(十六夜日記作者)の話をする伏線です。
何かと謎が多く、且つ気掛かりな阿仏尼の話を明日させていただきます。
 
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   極楽寺駅、向こうに極楽寺のトンネルが見えます。駅の周囲は源平草と卯の花が咲いています
 
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  月影地蔵の蓮華座、江戸時代の作と伝えられていますが、丁寧です。多分後藤家(鎌倉彫の祖)仏  師の作ではないでしょうか?模様の其処此処に鎌倉彫のデザインを見受けます。(ブログ友人のリクエ ストに応じて載せました)
 
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