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西行物語の愉しみ(2)

昨日は1135年18歳で出仕した佐藤義清は鳥羽院にも中宮の彰子にも寵愛されながら1140年23歳にして突然に出家したまでを西行物語絵巻に沿って案内しました。
今日はその旅路を絵巻に従って案内致します。
旅行をしている魯日本各地に西行の故事旧跡があります。私の生活圏では藤沢市片瀬に「西行戻り松」がありますし。「戻り松」は松島にもあります。秩父には秩父「西行戻り橋」が日光や越後の国上寺にも「西行戻り石」があります。何れも幼い子供に西行が遣り込められてしまう、「捨て聖」としては情けない西行の姿が故事になって語り継がれているんです。
庶民にとっては西行の一生は理想だが、やっぱり子供を蹴とばした処が納得できない、蹴られた娘に同情する心が「子供に遣り込められた逸話になっているような気がします。
さて、ようやく出家できた西行でしたが直ぐに旅立った訳ではありませんでした、暫く京都郊外の嵯峨に逗留して、鳥羽上皇や彰子の行く末を見守ったようです。
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西行は出家すると嵯峨野に住む捨て聖を訪ね剃髪しました右手の聖は鐘を打ちながらお経を唱え。剃髪式が暗闇の中厳かに進行します。西行の背後には剃刀を手にした雲水、右手には鏡をッ掲げた雲水が手伝っています。既に六波羅には捨て聖が多く居たようですが、西行は嵯峨野に馴染みが深かったのでしょう。敬愛した彰子の住まいもあったし、親友の定家の庵も小倉にあったのでしたから。[ 徳川本土佐経隆筆]  
西行は播磨の書写山から四天王寺に向かいました。その後吉野を経て熊野本宮に向かいます。その旅路を200年後一遍上人が妻子(を連れて辿りますので(一遍上人絵巻)。捨て聖が家族や財立ち居異才を捨てて阿弥陀に身を託す信仰が、西行を手本に進んでいったのでしょう。唯一遍は一切を捨ててあみだに一身を託したのに対し、西行は総てを捨てて和歌屋美的境涯に奉げたそんな違いだったようです。日本文化はこのころから不純なものよこしまなモノを捨てて純粋培養を求める方向に長けていったように思います。純粋培養が世界一の和紙を作り、和歌を記す神になったのは嬉しい限りです。

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旅立ちに際して賀茂神社を詣でる西行法師、[ 徳川本,土佐経隆筆]

西行の旅立ちは29歳1146年で既に彰子は失意のうちに亡くなっていました。西行は彰子に仕えた女官が嵯峨野に侘び住まいしていましたので、其処を訪れ鳥羽院の御所での思い出話に慕ったのでした。多くの秀歌を残しています。
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西行は嵯峨野に侘び住いしていた中納言の局(彰子に仕えた)を訪れます。水のせせらぎに紅葉が流れます。自ずと栄華を極めた待賢門院の想い出に沈んでしまいます。西行は「山おろす嵐の音の激しさをいつならいけるきみのすみかぞ」と詠いました。徳川本土佐経隆筆)
四天王寺は阿弥陀信仰の中核でした。その西門の彼方に太陽が沈みます。太陽の沈んだ先が黄泉で死者の魂はその阿弥陀浄土に迎えられると信仰されていました。四天王寺西門は同時に現世(釈迦の世界)の東門井が諮問でもありますからでもありますから、中世以来西方浄土を願う信仰の聖地でありました。四天王寺から大和街道(今の国道24号線竹内街道二上山の下を通る)を経て吉野から高野山そして、熊野に向かいました。
この街道は古代末期から修験者が通う道で、西行は心を許す修験者や僧とも馴染みます。
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西行は播磨の書写山に向かいました。現在の神戸の裏山で古代末期には捨て聖が多く居ました。徳川本土佐経隆筆)
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雪の積もった吉野山を登る西行。徳川土佐経隆筆)
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吉野山を登る西行【徳川土佐経隆筆)
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大峰山の岩やで修行する西行【徳川土佐経隆筆)
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天王寺を経て交野の神社を詣でて幣を奉じる「徳川本土佐経隆筆)
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吉野から熊野に入った西行は熊野権現の分社である八上王寺神社を詣でました、桜が咲いていました。【徳川本土佐経隆筆)
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熊野から再び山を越えて大和に向かいます。(徳川本土佐経隆筆)
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大和の東屋でご接待を受ける西行。西行が立って挨拶している様に見えます。修験者の先達に「お世話になりました」言って居るのでしょう。牛がゐたり長閑な山里風景です。【徳川本土佐経隆筆)
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西行は大峰山で行尊の墓を詣でました。行尊のを歌を想い出します。「もろともに哀れと思え花よりほかに知る人も無し」行尊は行尊は、修験道の行者として熊野や大峰の山中で厳しい 修行を積んだ山伏でした。徳川本土佐経隆筆)
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山桜咲く吉野山この後手で清水を掬って飲む西行の姿も描かれています。徳川本土佐経隆筆)

西行物語絵巻は大半が欠落してしまっていますので、西行の旅路が総て絵巻にして残っている訳ではありません。でも「小夜の中山」や「藤原実方の墓」を詣でたりする場面は残されています。明日はその辺のところを書きたいと思います。

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西行物語の愉しみ

何時の間にか図書館の返却が月曜日に集中し、同時に借入する習慣になって来ました。”「百道」を返却しますから何を借りますか”ワイフが訊きます。そこで「西行物語絵巻画を視たい」言っておいたところ。ワイフがぶつぶつ言いながら帰って来ました。「重たくて重たくて西瓜を持ち帰るようでしたよ」言います。見ればB4版で5㎝もある豪華美術本です。早速に開いてみれば、徳川黎明会が所蔵する徳川本と蜂須賀本(阿波の蜂須賀家に在ったもの俵屋宋達の筆)両方がのっていますし、年表や家系図など充実しているので美術本であると同時に歴史家の目を通してもあるのです。巻頭言も宮本常一が書いておいでですから美術・歴史・民俗宗教学者の目を通して西行を立体的に解きほぐした本なのでしょう。借入期間は2週間、これからは何時でも居間で開いてみる事が出来ます。
昔は徳川家や蜂須賀家のお殿様しか見られなかった絵巻物が、自宅の居間で視られると葉便利な時代に産まれたもんです。今朝のテレビでは河津桜が咲き出した報道しています。今年の4月西行の生誕地から隠棲地寂滅地の桜を見る旅に出ます。その前に絵巻物を良く見ておくことが出来ます。
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jこれが借りてき田西行物語絵巻です。
西行物語絵巻(徳川本)は西行が鳥羽院の北面の武士に就任したところから始まります。佐藤一族は藤原秀郷の子孫で紀伊の国田仲荘を所領にして代々宮中の衛府に勤める名門でありました、佐藤義清は1135年(保延1年)18歳で鳥羽院の北面の武士に任じられたのでした。武勇に秀でていたばかりでなく蹴鞠にも和歌にも故実にも通じて男の色気満ち満ちていたのでした。鳥羽院にも認められていたことでしょうし。女官にも好意を抱いて咲いて萌逢って居た頃でしょう貰っていたことでしょう。
鳥羽院の障子(襖)絵が更新されました。鳥羽院は見事な絵に満足されましたが「誰か絵に添えて和歌を読め」と命じます。
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左に公家が3人(源経信・大江匡房・藤原基俊)が鳥羽院の殿上に侍しています。座敷の障子(襖絵」に添えて歌を詠えとの鳥羽院の命令を受けても思案投げ首の風です。空しく目の前に硯と短冊が用意されています。一番右に黒い束帯姿の人がいます。これが佐藤義清です。公家の装束が浅葱色の直衣に紫の指衣貫(さしぎぬ/ズボン)で一際美しいのに比べて武官である義清は特別です。此方は宗達筆です。
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殿上人の誰もが被露出来ずに居た処、義清は和歌を詠んでみせます。鳥羽院は褒美として太刀を、中宮の待賢門院璋子は御衣を賜りました。
このようにして義清は警護の武士でありながら和歌などの才能にも恵まれ鳥羽院にも中宮にも重んじられていたのでした。ところが世情は騒がしくなり厭世感が覆いますし,六波羅や嵯峨に高名な捨て聖が出現が出現します。義清の胸中には厭離穢土の実感と出家したい願望が強くなっていたのでしょう。
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義清は院より太刀を中宮璋子より御衣を賜ります。宗達本
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義清は待賢門院璋子を御簾の隙間に垣間見しました。その美しさに一瞬して心を奪われてしまいます。宗達本
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鳥羽院の館の庭の場面左上に検非違使の武人役人がいてその右手に北面の武士二人の席が用意されています。左右の丞と席で赤い
n義清(右衛門の丞)の同僚に佐藤範康(のりやす左衛門の丞)が居ました。鳥羽院は「二人して明朝出仕するよう」命じました。ところがその日の朝になると、範康は頓死していたのでした。義清は改めて人の命の儚さを痛感したのでした。そしていよいよ出家への想いを強くするのでした。この時鳥羽院は義清らに何を伝えようとしたのか?全く分かりません。
絵巻には院の御所に沢山の侍が集まってそれぞれが戦仕立てを終えていたことから今にもクーデターでも起こりそうな気配です。でも保元の乱平治の乱はずっと先でこの時は何も起こりませんでした。院の庭には検非違使の鰓居所が集まって、北面の武士を待っています。
歴史事実は鳥羽上皇は崇徳天皇に譲位を迫り永治次1年(1141年)近衛天皇を実現しました。この結果崇徳天応は上皇に奉られ保元の乱で敗れると隠岐に配流され讃岐で獄死してしまいます、義清の詩人としての感性は獄死して怨霊になる崇徳天皇を予感していたのかもしれません。悲劇の遠因は白川天皇が待賢門院璋子を熱愛し鳥羽を生んだまでは普通でしたが、引退後も待賢門院璋子を愛し関係が続いていたことに在ったのでしょう。鳥羽天皇は待賢門院璋子が産んだ子の種胤を白河院だと思い込んでいました。でしたから、早い時期に崇徳天皇を追い遣りたいと思っていたのでした。古代の母系社会は摂関政治(外祖父が実権を握る)は許されても父方が実権を放さない院政は倫理的に許さなかったのでしょう。それを女性は解っていたからじょりゅう作家による源氏物語も、女性が好んだ伊勢物語りも男性が母と娘の二世代とと交わる事はしませんでした。璋子の美貌と色気は父とその子とも情交させ、親子間で血みどろの殺し合いを誘発したのでした。史実は鳥羽天皇が崇徳天皇を退位させると、美副門院得こが産んだ近衛天皇が実現し後宮も得子が牛耳って璋子は陰ってしまいます。義清は鳥羽院に会う事も無く立ち去ってしまうのでした。義清には自分が敬愛した璋子の将来も崇徳上皇の最期も見えていたのかも知れません。
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鳥羽院の屋敷に出かけると武装した侍が大勢供奉し二人の席がよういされていました。左上は検非違使の役人たちでその右手前の空席が席を立ってしまった義清[ 卯右衛門の常の席空席の左が頓死した範康のピンチヒッターでしょう。(徳川本)

鳥羽院の御所を退去した義清は自邸に戻ります。すると4歳になった可愛い盛りの娘が飛び出して迎えます。義清は娘を縁から庭に蹴落とします。娘の泣き叫ぶ声が屋敷中に響きます家人が何事か?飛んで庭に集まって来ます。
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宗達本の西行物語、太刀を預かったのは奥方で庭に飛び降りたのは乳母でしょう。庭には家人が飛び出て来ています。

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同上場面徳川本(土佐経隆筆)義清が心を鬼にしている表情が良く描かれています。
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寝所で語り合う義清夫婦。義清は夜具から半身をあげてボソボソ話している風ですが奥さんはとりわけ泣く泣く訳も無くて蕭条として夫の話を聞いている風です。義清の奥様は豪胆な性格であったと伝えられれいます。(徳川本土佐経作)
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寝室から夫婦で庭を見詰めています。一晩中話し合って妻は納得し西行はいよいよ晴れて出家できるのでした。庭先の柳の樹にはつがいの鶏が止まっています。「我々は鶏りの様には行きませんでしたね!」なんて話しているのでしょうか?宋達本の方が絵の具の剥脱も無く状態が良く、話も近代的な感覚です。
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場面は鳥羽ど殿荘重な檜皮葺き屋根の門前には武人が警護しています。昨日の博打の話にでも興じている風です。俯瞰図ですが真っ直ぐ曳かれた線が見事です。本殿の縁では義清が平伏して、一族の領袖の藤原為隆(く蔵人頭)に出家する了承を求めています。為隆は眉をひそめて困ったものだなあ!呟いているようです。門前のお気楽な光景と深刻な屋敷の中と対照的に描かれています。
こうして出家の外堀を埋めた義清は先ず嵯峨の捨て聖の元に行き剃髪します。でも暫く都の近郊に留まり、修験者に導かれて吉野から熊野に向かいます。全国遍歴放浪の状況は明日から見て行くことにします。出家に際しての歌でした。
「惜しむとて 惜しまれぬべき此の世かな 身を捨ててこそ 身をも助けめ」


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昨日は今昔物語の巻26の本朝奇談の中から蕪に淫行した結果蕪を食べた娘が孕んでしまった話を照会しました。今昔物語には人間が、蛇に犯され て蛇の子を生む女性の話(巻第二十四 第9)や、その他、蛇と人とが交わる話や死んだ女に憑りつかれて死ぬ男があり後世の雨月物語や怪談に影響したと思われます。多くが妖怪の仕業で偉いお坊さんが登場して妖怪を治める事でエンディングを迎えます。人間が植物と交わって子をなす話は前記だけです。一方死者と生者との交流も数多くあり、大半が死者が現世に残した想いや怨みを晴らす構成にになっています。死者の怨念が消えないで生者に災いを為す、と考えられていたのです。
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これは骸骨小町の図です。骸骨は小野小町のそれで茅が出て眼が痛い痛いと泣くのでした。

今日紹介する話(今昔物語巻454話)はこの逆です。男の、「死者への愛情」が消えなかった話です。
都の下級武士義輔は学問はイマイチでしたが武芸には秀でていました。そこを見込まれ貴族の警護役を仕事にしていました。貴族が出かけるときの警護が仕事でしたから定職とはいえず、好きな女性と交際しても結婚までは話は進展出来ませんでした。でもマスクは良いし体躯も立派でしたからモテる青年武士でありました。気立てのよい美しい姫君(珠依姫)が山科の村に住んでいました。義輔は馬を繰って夜毎通っていました。
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義輔は貴族の護衛をする武士でした。(絵は源氏物語絵巻匂い宮)
義輔は遊び人を自称していましたが、本心は「私の妻はこの女しかない」思っていました。
ある年の弥生、義輔の友人が東国の国司に任じられました。
国司に任じられた男は義輔を誘いました。
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珠依姫(よりたまひめ)は中級貴族の気立ての良い娘でした(絵は伊勢物語日本の古典を複写)

「今まで警護役を務めて戴いて感謝している。この春に相模の国の国司に任じられた。そこで一緒に来てほしい。これからは定職と思っていただいて結構だ。ついては単身では心配だろうから・・・・女性を紹介したい。家柄も器量も申し分なしだ・・・・。」

義輔は瞬間珠依姫の事が頭をよぎったのでしたが、結婚を約束した訳でもないし生来お気楽な性格なので、総てを友人に任せました。そして友人の紹介してくれた姫と結婚しました。相模への旅支度の品々は姫の家で用意してくれました。
卯月になって卯の花も咲き出す頃国司の一団が相模の国に向かって旅立って行きました。
行列の先頭にはを馬に乗った義輔の雄姿がありました。
山科の国に差しかかると、珠依姫の家が見渡せました。
義輔は家に向かって呟きました。
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義輔は珠依姫の館の前を素通りして任地の「相模の国」国司に向かいました。
「さようなら珠依姫。お元気でいてください。私は相模の国に向かいます。貴方に交える事はもう二度とないでしょうが、貴方は幸福を掴んで下さい・・・。」
それから10年は経ったでしょうか。相模国の国司の一団が西に向かっていました逢坂山も越えたのでもう一つ峠を越えれば都の家並みが見えるのです。行列の足並みは殊更に元気になって先を急いでいるように見えました。義輔は再び珠依姫の屋敷の屋根を遠目に見ながら進みました。
「姫は如何しておいでだろう、私は出世も出来て都にも帰れたが姫が気がかりだ」
その日の夕刻でした。義輔は都から馬を馳せて珠依姫の館に向かいました。

でも館の庭は八重葎が茫々と生い茂っていて昔日の面影はありませんでした。でも館の奥に灯りが認められました。義輔は灯りに誘われて奥に進みました。見覚えのある姫の寝所には薄絹を着た珠依姫がポツンと座っていました。珠依姫に向かって義輔は言いました。
「私は相模の国の国司の警護役として10年間勤めて来ました、これからしばらくは都に住みます。貴方を屋敷に迎えたいと思っています。」
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義輔が都に戻ると珠依姫の館は見る影もなく荒れてしまっていました。(絵は一遍上人絵巻神奈川県立美術館図禄)

「嬉しい!」聞こえたでしょうか。突然に義輔の首が重たいと感じました。珠依姫の両の腕が義輔の首に巻かれたのでした。義輔は姫の薄絹の袖に手を通して珠依姫の体を強く抱きました。珠依姫の体は思いのほか華奢に思えました屹度苦労が重なって痩せ細ったのだろう・・・・」思いました。
逢坂山の方角(東」から暁烏の鳴き声が響いてきました。明けカラスの啼き声で義輔は目を覚ましたのでした。朝陽が蔀戸越しに射してきました。義輔は抱いている珠依姫を見て驚愕の声をあげました。
首に巻かれている両腕も自分の胸に凭れてきている頭も絡んでいる両脚も骸骨なのでした。
義輔は庭に飛んで出てお隣の家に駆け込みました。
隣家から話を聞かされて義輔は珠依姫が2年前に亡くなった事を知りました。
「お隣の珠依姫には通ってくる都人も居たようなのでしたが縁が遠く、5年前に両親が亡くなりました。すると家人も一人減り二人減って誰も珠依姫を面倒見なくなりました。姫は痩せ細って一昨年の神無月の23夜に亡くなりました。」
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餓死した珠依姫のイメージ餓鬼草子
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翌朝義輔が目覚めると骸骨を抱いていたのでした。


義介は寝所に戻って昨夜抱いた骸骨を拾って、庭の築山に埋めました。
他所の日の午後。峠の向こうの清水寺のお坊さんの風呪するお経がきこえました。
原作ではお坊さんがお経をあげたので義輔は珠依姫の亡霊に憑り殺されないで済んだ…、となっていますが、寂聴さんの口語訳ではお坊さんの段は省略されています。寂聴さんは仏教説話にしてしまっては面白くないと思われたのでしょう青年武士の愛情を浮き彫りさせた方が良いと判断されました。私も同感です。
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私がこの話を見つけたのは「日本人の死生観」を調べた時に、「生きている人と死んだ人」の交流として記憶に留めたものでした。
今昔物語には純情な青年の想いが良く登場します。現代にも通じる話が目立ちます。
プレーボーイの貴族の話です。美しい姫にアプローチするのですが姫は難題を取り付けて相手にしてくれません。そこで青年は姫への想いを断ち切ろうとして「姫のオマル/排泄物の受け箱」を奪い去り、ウンコを嗅いでみるのですが想いは断ち難く、恋心を処理できずに結局死んでしまいます。佐藤義清も永福門院のオマルを奪えば出家しないで済んだだろう・・・・。なんて想像します。
今昔物語世俗説話は物語り宝庫です。人間性は時代によって変わらない普遍性があるからです。



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托骨(2)

昭和20年8月15日終戦を迎えると、西方村にも戦争帰還兵が目立つようになってきました。蓮杖寺の住職隆法は教え子で帰還した兵隊さんの挨拶を受けていました。
帰還兵たちは口々に戦場の惨劇を報告致しました。
「先生僕はビルマ戦線に出されていました。戦争が終わった事、日本が負けたことは知りましたが、終戦から半年自分はヤーゴンの捕虜収容所に囚われ半年強制労役に努めていました。酷暑の地ビルマでは裸同然の姿で、連日の労働で休憩も無く、ジャングルに道を拓き農園を開墾していました。食べるものも無くて鼠を天麩羅に揚げて食卓に出されました。働いているとビルマの小母さんが握り飯を差し入れてくれました。仲間の捕虜の姿が少しづつ減って、順次国に帰還していることを知りました。正法君はフィリッピン戦線に送られていると聞きましたが、何れ私のように帰られると思いますよ・・・・」
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      (ビルマ戦線ヤーゴン捕虜収容所会田雄二氏に「アーロン収容所」の著があって英国の捕虜の扱いは冷酷非道であって、一方ビルマ人民は総じて英国をビルマから追い払った日本兵に好意的であり食料の差し入れや隠避してくれたそうです。写真出典:Wikipedia)
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       (鼠を調理する捕虜収容所の厨房。日本兵捕虜の食料は家畜用飼料で過酷であったようです。英国の処遇は冷酷極まりなかったと聞きます。写真出典Wikipedia)
唱和21年4月は底抜けに青空が広がるの良い天気の日でした。新聞には「戦犯」や「新憲法」の記事が踊っていました。
今朝も蓮杖寺の住職隆法は境内を竹箒で掃いていした。
もう桜は散って、葉桜に変わっていましたが、桜の実に熟せなかった幼い実が沢山地面を覆っていました。隆法は桜の若葉と未熟で散った跡をを掃き集めて蓑に集めていました。田圃の小路を兵隊さんが寺に向かってきます。瞬間”倅の正法かも知れない”期待で心臓が高鳴りました。
兵隊服を着た青年は正法と同時期に出征した靖男でした。靖男は正法の幼友達でしたし、共にフィリッピン戦線に配属されたのでした.ビルマやマレー戦線は主として英国軍と戦っていたもののフィリッピン戦線は米軍との攻防でした。「戦力の勝る米軍が相手では正法は生きて帰れまい」覚悟は出来つつありましたが、一縷の望みは捨てきれないで居たのでした。
靖男は隆法住職に向かって訥々と話し始めました。
「僕と正法君とは教育召集の補充兵として同じ乙種兵隊合格でした。
昭和13年秋に宇都宮連隊に召集され1か月の教育終了と同時に除隊翌年6月に水戸工兵連隊に配置され神戸港から出帆し、支那の漢口に上陸しました主として大陸沿岸を守備するのが役割でした。私も正法君も健康でありました。正法君は美登里さんの写真を携えていました。
「結婚をお父様反対されたのが堪えていたのでしょう。帰還したらもう一度お許しを得るんだ!」眼を輝かせていました。
隆法が「私も不憫な事を云ったもんだ後悔している」言葉を喉元に詰まらせました。
靖男は隆法の表情の変化に気づかないふりをしながらマニラ戦線の話を続けました。
それから昭和19年私達はフィリッピンのマニラ港に出征いたしました。米軍の反抗が凄まじくマニラの攻防に日本軍は陸軍も集結させたのでした。フィリッピン戦線は支那とは大違いまるで『天国と地獄』でした。
食料は無い塩も無いので力が入りません毎日味気ないタロ芋を食っていました。日本軍はマニラの市街戦に敗北して私達は山に逃げ込み森林を拠点に反攻を試みようとしました。カタツムリや沢蟹を捕まえて食べました。峠から見下ろすと眼下の村に米軍の戦車が見えました。小隊長は私達軍歴の浅い者を選んでに『切り込み隊』を編成しました。切り込み兵は対戦車地雷を抱いて敵戦車に体当たりするのでした。私も正法君も何回か戦友の出発を見送りました。私はも正法君と手を取り合って、森林を前進していました。米軍から逃げるのが精一杯でした。密林には米軍の「降伏を促すチラシが飛行家からばら撒かれました。「命を賭して戦うより降伏すれば飯も食えるし故郷の家族とも恋人にも会えるぞ」書いてありました。私も正法君も本心は降伏したい思っていましたが。既に死んでいった戦友の事を思うと自分だけ生き永らえる事に積極的になれませんでした。
私は生まれも育ちも貧乏百姓ですから粗食に耐えられたのでしたが正法君は逃亡生活の中で痩せ細って来ました。進軍は主として夜間に地を這うようにして行われました。何本もの川を渡りました。川を渡る時は正法君の手を強く握りました。川に正法君が流されてしまいそうに思えたのでした。何度も流されかかっった正法君を引き上げました。その度毎に故郷の思川で川遊びした思い出を口にしました。川を下れば海に出られる海は日本に繋がっている、海岸に出ればその先は倖せが待っていると信じていました。
でもパグサンハン川を渡っていた時です。正法君の手は私の手を放してしまいました。慌てた私は川の底を確認したんですが。正法君は既に流されてしまったようで、見つかりませんでした。私は已む無く小隊に戻ったのでした。」
黙って聞いていた隆法でしたが、正法が生きて帰って欲しい期待が見る見るし萎んでゆくのが解るのでした。唯正法が故郷の思川に似た美しいパグサンハン川で亡くなったのか思うとそれも定めであったのだろう、そんな諦めの気持ちが膨らんでくるのでした。
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マニラに近いパグサンハン川の上流。山の表情も含めて日本の河川と似ています。
 
それから10年待余りたっ経た昭和31年の7月でした。稲穂を揺らして風が渡って来ます。もうじき旧盆です。隆法住職は正法を従えて棚経をしたあの日事を思い出して川の端の馬頭観音のお堂に出かけてみました。そう正法が葦切りの托卵を見つけた場所です。お堂の前に立つと真新しい案内板が立っていました此処の観音像も「隠れキリシタン」の遺跡として有名になりお詣りする人も増えているのでしょう。
今朝の新聞には「もはや戦後では無い」大書されていました。でも隆法の戦争は未だ終わっていないのでした。
倅の正法の願い事「幼馴染の美登里と夫婦になりたい、」それを認めなかったばかりに倅は徴兵され、マニラの裏山のパグサンハン川で水死してしまった。自分が倅の純粋な願いを踏みにじったその理に反した行為が逆縁(ぎゃくえん)とは、仏の教えを素直に信じない(縁に背く)こと、またはそのような 救い難い人をいう。順縁の反対語。また、仏法を誹謗したことがかえって仏道に入ること を指して言う場合もある。子供が親に先立って死ぬこと)も指す。その罪業を為した意識が拭えない中は自分には戦争に終わりは無いのだ・・・・思っているのでした。隆法は考えました。
初恋を成就させてあげたい心は人間の理(本性)に適っています。人間の理に逆らう行為が悪業で、子供に先立たれてしまった逆縁も自分の悪業の為せた結果と思うのでした。
その時足元で♪ギョギョシギョギョシ、カカカカカ♪葦切りの鳴き声が響きました。正法の質問のように聞こえてきます。。
「郭公はずるいよ葦切りの巣に子供を産んで葦切りの子供達は皆殺されてしまって、葦切りは郭公の子供を育てるなんて理に適っていないよ。お父さんは僕の恋を認めて下さらなかった。僕恋は、理に適っていると自信があるのにお父さんが優先しろという差別にも理があるのですか。差別は人間が言い出した便法であって仏の教えなんですか?」息子の抗議の叫びは葦切りの鳴き声になって隆法の耳に痛く届くのでした。
正法よ「私の過ちであった。許しておくれ。」隆法は葦の蒼芽に向けて手を合わせました。
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中央はクイナ足元の青い芽が葦の新芽です。この芽が青々と伸びたら編んで茅の輪を作ります。神社で行う「茅の輪潜り」の神事に使います。
でも一向に葦切りの鳴き声は止まりそうもありません。
遠くから数人の人が此方に向かってきました。両手で四角い箱を捧げ持っています。白い布で包んであります。そう、西方村の職員が正法の骨箱を届けに来たのでした。年配の厚生課長と思しき人が挨拶しました。
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熊谷守一氏の名作「悲しくてやりきれない」真ん中の学生服の子が抱いているのが骨壺。同画伯は貧困で栄養失調で子供の逆縁に度々遭遇されました。
「和尚さん此方にいらしたのでしたか?お寺に伺ったのでしたが居られなかったのでお探ししました。
実はこの春に本厚生省が 日本遺族会等と戦没者遺骨収集団を組織してフィリッピンに出かけていたんです。ご子息の御遺骨を預かっていますのでお届けいたします。」
隆法住職が恭しく両手で白い箱を受け取りました。その時はこの中から「ゴロン」何かが転がる音が響きました。
隆法は白い布を解きました布の中には箱があって蓋を開けると素焼きの壺がありました。壺の底には小石が5つ収まっていました。そうあの日の葦切りの巣と同じでした。小石は郭公の雛に捨てられた葦切りの卵と同じに見えました。隆法は改めて骨壺を確認しました。其処には簡明に次の様に書かれた紙片がありました。
「昭和19年7月10日一等兵大石正法君はマニラ攻防戦の最中パグサンハン川にて没する。遺骨収集に努めるも空しく同川の川原石を届ける。昭和31年6月日本国戦没者遺骨収集団団長 高野山上田天瑞大僧正。
それから数日後新聞で隆法は九段会館及びマニラでおごそかに戦死者の法要が営まれた事を知りました。そして、隆法は骨壺から小石を二個取り出しました。残りの3個の石は骨壺に納めたままにしておきました。両の手で目の前に石を奉げました。石は隆法の涙で黒く滲みました。石を握ったまま墓地に向かいました。墓地の外れに「川の端の美登里の家の墓がありました。墓石には石蓋があって漆喰で固められています。バールを使って石蓋を動かせば容易に開ける事が出来ました。隆法さんは他家の墓を開けるのは初めてでした。ゴトン重い音をたてて石の空間が覗いて見えました。骨壺が幾つも揃って仲良く並んでいました。その中で一番真新しいのが美登里さんの骨壺です。
隆法は涙しながら呟きました。
川西美登里さんよ頑固な拙僧を許しておくれよ、今日は倅正法の骨を届けるよ。正法は戦地から戻ったら改めて私の許しを請い貴方との華燭を結ぼうとしていたんだよ。骨はお前さんの脇に置くから仲よくしてやっておくれよ。
隆法は遺骨『石』に向かって呟きました。「お前を他家の墓に骨を埋める事は尋常ではないけれど。彼の世では二人が結ばれて欲しい」そんな私の想いは仏も許して下さると思うんだよ。」
「ところで正法よこれで良かったのかね?お父さんを許してくれるかね。昔お前に訊かれて「托卵」だと言ったが、私の行為は托骨とでも言おうかな?」「托卵は人間が見れば不条理だが仏が見れば理に適っているかもしれない、托骨は人間界で見れば不法であるが、仏から見れば理に適っているかもしれないよ・・・。
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隠れキリシタン地蔵尊川原石を刻んで優しい地蔵尊を彫り出しています。[大磯の澤田美紀記念館蔵/同記念段アルバムを複写)
 
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托骨1

郷か2日間にわたり「托骨」と題して短編小説を書かせて戴きます。これは筆者が見聞きした文化財を素材にして創作したものであることをお断りしておきます。舞台になっている思川は栃木県北部の地蔵岳を源流にして足尾鉱山から渡良瀬遊水池に流れる川です。川べりにある西方村は隠れキリシタンと言われる地蔵や馬頭観音が潜んでいます
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これが思川です。北は白河との国境で地蔵岳が見えます。下流は渡良瀬遊水池に続きます河原には葦の原っぱが広がっています。写真出典:Wikipedia
【托卵】
第一次近衛内閣が組閣され日本の政府も軍部の独走を抑えきれなくなって来ていた1936年昭和12年の初夏の事でした。新聞には支那品の勃発を報じその年の冬には満州事変を報じ新聞も戦争突入を煽いでいる感がありました。西方村蓮杖寺の住職隆法は小坊主の正法を従えてお檀家の家々を巡っていました。遠くの地蔵岳の頂には黒雲が湧いてきています。夕立が降って雷も来そうな気配です。早く盆の棚経を終えて寺に戻りたい、二人は自然と足を速めていました。思川を渡れば馬頭観音のお堂があってその先にポツンと1戸「川の端」と呼ばれる農家があります。その家で風呪する棚経がが今日午前の最後です。二人が馬頭観音のお堂の前を過ぎようとした時です。
お堂の周囲は葦で囲まれています。葦原からは賑やかな葦切りの声が響いていました。二人が近づくと葦切りの鳴き声はピタリと止まりました。正法は葦切りの啼いていた辺りを眺めると思いがけない光景を目の当たりにしました。葦草の根元近くに葦切りの巣があって、其処から1羽の雛が首を器用に使って背負う様にして卵を巣から地上に落しているのです。正法はお父さんで師匠の隆法に訊きました「あれはなにしているの?」西方小学校の教師でもあった隆法は倅に丁寧に教えてあげました。
あの巣は葦切りの巣なんだよ。葦切りが春になって卵を産むと郭公が遣って来て卵を一つ巣に産み落とすんだ。葦切りの親はそんなことを知らないで。ジット卵を温め続ける。すると最初に郭公の卵が孵化する。郭公の雛は葦切りの卵を巣から落してしまう。葦切りの親は雛が郭公であることに気づかないで一生懸命に餌を与えて育てるんだよ」
「フーン、郭公は声も良いし姿も美しいのに性格は悪いんだね・・・・。それじゃあ葦切りさんが可哀想だ・・・・。」
それが「世の中も自然も不条理に満ちている」正法が最初に気づいた事件でした。
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 大きな郭公を育てる小さな葦切りの親。写真の出典:Wikipedia
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郭公の雛はいち早く孵化して葦切りの卵を捨ててしまいます。出典:http://material.miyazaki-c.ed.jp/ipa/doubutu/tyou_rui/kakkou/IPA-dou620.htm命は因業な遺伝子が刻まれているものです。
那事変は日中戦争に更に日米戦争に拡大して既に冷静なコントロールの効かない事態におちいっていました。西方小学校の校庭では連日出征祝賀会催されていました。蓮杖寺も鐘を戦争の弾に供出していましたからこの戦争の無謀さを薄々気づいていました。隆法も教え画を次々に戦地に送っていました。終に唱和19年正法にも召集令状が届きました。
倅正法が出征する先は南方でした。其処は米軍が豊かな軍事力を活かして反戦に乗り出していたのでした。南方が落ちれば戦場は日本本土になる覚悟せざるを得ません。
見送る隆法には悔悟の念がありました。3年も前正法が結婚したいと言って美しい娘さんを蓮杖寺につれてきたのでした。隆法は娘さんを見るなりある懸念が胸をよぎりました。
若しかしてもの娘さんは「川の端」の娘でかも知れない?
檀家に相談して懸念が現実であった事を知りました。「川の端」とは思い川の葦原にある貧農の家でした。
西方村では「川の端」は部落民だとして避けていたのでした。隠れキリシタンの遺跡もキリシタンが部落に逃げ込んだものだったのでしょう。
隆法がそんな偏見に戦う気力があれば二人は結婚し住職を譲って置いた事でしょう。そうすれば正法に出征礼状が届く事は無かった事でしょう。
自分の偏見が最愛の倅を南方戦線に送る事になった。後悔の念は断ち難いものがあったのでした。
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隠れキリシタン地蔵尊【これは思川流域ではありませんが、同様の地蔵尊が多く祀られているのです。
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川沿いに祀られていることが多い馬頭観音。馬頭観音は馬の霊を慰めた石仏で部落民が信仰を担う事が多かったようです。この先に下の馬頭観音が祀られています。
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