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文学散歩

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朝のニュースでは御嶽山噴火の被害の状況が流されています。昨日は11人もの死者が確認され、死者は既に47人、最悪の火山事故になってしまいました。
勿論亡くなった人は気の毒ですが一番に涙を誘うのは故人のご家族です。「死」の実相は本人は知らず、最愛のご家族に実相を確認させるのは惨い事実です。
それにしても人は危険が伴うかもしれない高い山に何故登るのでしょうか?山男に訊けば「そこに山があるから」答えます、でもが実は「浄土を見たいから」ではないでしょうか。私はそう思っています。古代「浄土を見たければ宇治(平等院)に行け」言われました。
今年は平等院の修復が終わって改めて古代人の感性に驚かされました。
現代人は「高山の頂上にこそ浄土がある」経験してしまったのです。夏にはお花畑が出現し秋には紅葉が錦に染まります。何時もは麓から頂上を見上げるだけだった高山でしたが、「あそこに行けば浄土が視られる」確信していたからこそ祖先の霊は山上に宿っているし」自分も登りたいと思うのでしょう。
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平等院は修理も終えて一層鮮やかさを増して拝観できるようになりました。修理に際して古代人の世界観が改めて確認されて興味深いものでした。写真は色漆を塗られた雲中供養仏(朝日新聞日本の美を複写)
宇治は浄土を現出していましたが、同時に木曾の義仲が義経に攻められ源平の争乱も宇治が舞台になってしまいました、浄土は地獄の隣に位置していたのでした。
御嶽山に浄土を見たハイカーは次の瞬間に地獄の底に落されてしまったようです。噴煙が襲い、雨・霰と噴石が落ちてきたのでした。
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飛火地獄図はまるで火山が噴火して人々の頭上に火山弾が落下してきているようです。
テレビでは噴石が野球のボール程の大きさで時速300キロに及んだこと、高い密度で落下してきて一瞬のうちに落命したであろうと説明しています。
私は突然に川原石を連想しました。
実は昨年の今頃は放代忌で瑞泉寺と山崎放大さんお墓のある山梨の左右口村の円楽寺に上ったのでした。
日文研のT先輩からお借りした放代さんの「青紫蘇のうた」では放代さんが自分お墓標にしようと笛吹川の川原石を拾ってきて、父母の墓の横に据えた事が書かれていました。どうも墓石を置いた時から放代さんの歌は一皮むけて新境地に到達したようです。
同じ丸い石でも火山弾は命を奪いますが、川原石になれば丸くなって命を活かすかのようです。
円楽寺には大銀杏があって、その門前が山崎方代さんのルーツ小林家でありました。
放代さんの墓は円楽寺の本堂裏にありました。道に落ちていても誰も拾わないのでしょう、栗が落ちていました。
私と家内は沢山ある山崎家と刻まれたの墓の中から放代さんの墓を探しました。墓碑銘を見て回ります。ようやく見つけました。墓石の側面に脇に施主であった放代さんの想いが刻まれていました。
墓碑銘は次の通りでした。
墓碑銘は「父山崎龍吉、母けさ乃、ここに眠る。兄龍男をはじめ若く幼くして死んだ八人の兄弟姉妹ここにやすらぐ。
われ一人、歌に志し故郷を出でていまだ漂泊せり。壮健なれど漸くにして年歯かたむく。われまたここに入る日も近からん。心せかるるまま山崎一族墓をここに建つ。方代」と。
墓を建てて、肝の据わった放代さんは独自の境地を闊達に進んでゆけるようになったのでしょう。
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放代さんのお墓に通じる道路に落ちた栗の実
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鎌倉手広の放代庵の近くで自生している紫蘇
 
の名は山崎けさのと申します日の暮方の今日のおもいよ        (一路)    
地上より消えゆくときも人間は暗き秘密を一つ持つべし
私が死んでしまえばわたくしの心の父はどうなるのだろう

ふるさとの右左口郷は骨壺の底にゆられてわがかえる村(右左口)
なるようになってしもうたようであるが穴がせまくて引き返せない    (迦葉
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これが放代さんの作られた山崎家の墓右手前の丸い石が放代さんが自分で拾ってきた笛吹川の川原石だと思われます
私達は黒胃御影石の脇に無造作に置かれた川原石(白御影)を確認しました。そしてその花入れを見て驚きました。何と黄ばんだし壜が置かれているのです。
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墓石の前にし壜が置かれていました。
放代さん自身が設えたとは思えません。誰かが面白半分諧謔趣味でし壜を花入れ代わりに置いたのでしょう。
 
私は「落語」を想い出しました。桂文楽さんが得意にした落語に「尿瓶(しびん)」があります。
道具屋の店主が花瓶の横に尿瓶(しびん)を置いて処、武士が来て尿瓶(しびん)を手に取りしげしげと見詰めていたのでした。店主は一瞬嫌な予感がします。武士はどうしても尿瓶(しびん)」が欲しいと言うのでした。
店主は「それは花瓶でなく尿瓶(しびん)です、汚いものですからお止め下さい」と言えないで居ました。「それはしびんです」かすかな声で言うと武士は「し壜と申す名工の作であるか!」と感心します。
そこで腹を決めた店主は「流石にお目が効きなさる」と言って5両と吹っかけます。
武士はし壜を求めて意気揚々と帰ります。
 
暫くすると武士が道具屋にどなり込んできました。
手討ちに致すから首を出せ、刀の柄に手を掛けます。
道具屋は真っ青になって答えます。
「病気の老母に、朝鮮人参という五両もする高い薬を
飲ませなくてはならずその金欲しさ、悪いこととは知りながら、
尿瓶を五両でお売りしました。
お蔭で母の喜ぶ顔が見られます。その時まで私の命を預けてください」懇願すると。
武士は去って行きました。
そこで道具屋は店終いをしてしてドロンしてしまいました。
放代さんのお墓に尿瓶を置いた人の考えは解りませんが多分落語の事は承知していて江戸っ子の洒落の積りなのでしょう。洒落奈良自分の墓にすれば良いものを、戦後を代表する私の敬愛する歌人の墓にするとは、最悪の趣味です。何れ放代さんを敬愛する方が撤去さする事でしょう。
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放代さんが好んだ銀杏の実放っておけば迷惑ですが拾って果肉を除けば美味しいのですが・・・。
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今年は我が家で一人で放代忌
 
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田谷・竹林の方代さん

日本文学には「放浪・遍歴」という太い柱があるようです。
古事記では高千穂を追放された素戔嗚尊(すさのうのみこと)も、日本武尊(やまとたけるのみこと)も全国を行脚します。この二人は日本統一を果たす為に出雲、熊襲、蝦夷をはじめ全国を旅します。
でも、この二人の旅は英雄伝であって、放浪の旅とは言えないでしょう。
 
都を落ちて、地方を旅した文人としては、平安時代の在原業平、藤原実方、中世の西行、近世には芭蕉や良寛、そして近代には種田山頭火、尾崎放哉(おざき ほうさい)、昭和には山崎方代が現われます。
 
古代から現代まで、遍歴放浪への憧れは日本人のDNAに埋め込まれ、
文化史の柱になっていると思われます。
 
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  平成25年方代忌(瑞泉寺)にて撮影。
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  瑞泉寺の方代歌碑「手の平に豆腐を乗せていそいそと いつもの角を曲がりて帰る」、
  今日はこの歌を作った横浜戸塚の田谷時代を取材しました。
 
 
1914年(大正3)山梨の右左口に生まれた方代さんは尋常小学校時代から俳句に親しみます。
新聞や雑誌に投句して入選します。
1938年(昭和13年/24歳)横浜に嫁いだ姉「関くま」の下に引き取られ、
以降職を転々とします。
1941年(昭和16年)には千葉の高射砲部隊に入隊し、台湾やジャワチモールに出兵します。
しかし、右目を失明してしまいます。
昭和21年には病院船で帰還します。
昭和25年には全国の歌仲間を訪ねて放浪の旅に出ます。
そして、昭和43年(1968年/54歳)戸塚の田谷に移り住むようになりました。
 
この頃から鎌倉の吉野秀雄氏に知遇を得て、その指導を受けるようになります。
更に、吉野氏の口添えによって小林秀雄氏や唐木順三氏に紹介され、
その推薦を受けるようになります。
齢も重ねたし、文壇の実力者の知遇も得た、姉の住まいは横浜だし、
戸塚の田谷が万事都合が良かったのでしょう。
 
田谷では加藤さんの農業を手伝います。
同家から300メートルほど離れた竹林の中に小屋を建てて貰い、此処での住み込み生活が始まります。
 
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   信号は「山王口交差点」この右角によろず屋がありました。此処で方代さんはお豆腐を買って左     の道をまっすぐ進んで加藤家の角を左に曲がってその先300m竹林の家に帰りました。
    今は山王口交差点の右側には大きなパチンコ店と日帰り風呂があります。
 
 
 
私は加藤家に訪問しました。
お婆ちゃんが出て来られ、方代さんの思い出話を聞かせて貰いました。
 
方代さんは誰からも愛された方でした、
農作業もお上手でしたし・・・・、良く働いてくれました。
主人が竹林の中に小屋を建てて、其処に住まわせました。
農作業は季節的なモノですから・・・・・、暇な時は良く出かけておいででした。
加藤家はバス通り(山王口停留所)によろず屋を出していました。
方代さんはそのお店でお豆腐を買って帰り、
豆腐を肴に小屋で一杯やるのが楽しみだったのでしょう。
冒頭の瑞泉寺の和歌は、此処の我が家と方代さんの小屋との分岐点が最適な歌なんです・・・・。
 
お婆さんは私の注文に従って、土間の上り框の上に方代さん関連の封筒を並べてくださいました。
でも、残念なことに方代さんの直筆は無かった(少なかった)ようで、多くが瑞泉寺の大下一真師のものでした。
 
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  これが方代さんの面倒を見た田谷の加藤家。
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   加藤家で見せて戴いた方代さんの関連資料
 
 
竹林は千秀小学校(当時は豊田小学校の千秀分校、現状は千秀公園)の脇にありました。
ですから、日中は子供の声が聞こえたことでしょう。
 
方代さんが鎌倉の手広に転居した後は、無人になってしまいました。
加藤さんの倅が住んでいましたが、失火してしまい現代は礎石だけが残っています。6畳間一間に、台所トイレが在ったようです。
 
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   千秀小学校の案山子
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   方代さんはこの竹林の中の住んでいました、まるで良寛さんの5合庵のようです。
    農作業をしているのは方代さんに遊んで貰った須藤さん。
 
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  向こうの緑色の屋根が加藤家。その角が和歌で歌詠われた”何時もの角”です。
  手前は蜜柑、ユズも混植されていました。
 
竹林の東は畑で法蓮草や小松菜を栽培していました。
その東は棚田で・・・・、その境に土止めをかねて柚子が植えられてありました。
法蓮草の収穫をしていました須藤さんに尋ねてみると、
「子供のころに遊んでもらいました。
善い人でした・・・・、最近は此処まで訪ねて来られる人が居ます。」
私は尋ねます。
「此処の柚子、方代さんが採った事もあるでしょう?」
「湯豆腐に柚子は良いもんですから・・・・・、採られた事でしょう。人が食べなければ野鳥が食べるだけです。良かったらお持ち帰り下さい。でも棘が強いから、怪我をしないように注意してくださいな・・・・。」
仰ります。
 
須藤さんも良い人でした。
もう1か月余りで冬至です。
それまでもつように、小枝を二本貰いました。
玄関の花瓶に生けました。
 
 
竹林の方代さん・・・・、憧れの良寛さんを髣髴させる住まいだったようです。
 
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  竹林の中にある小屋の礎石。マムシ注意の看板がありました。
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  芋など野菜を貯蔵したと思われる横穴
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  真っ白なジンジャーの花が未だ咲いていました。辺りは脱穀を終えて捨てられた籾殻は一杯でした。
 
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此処は千秀公園、以前は豊田小学校千秀分校でした。手前が竹林で方代さんが住んでいました。
 
 
 
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10月9日、太宰治の富岳百景の舞台になった「天下茶屋」で、
名物の「ほうとう」を戴きました。
御坂街道を下って、次の目的地右左村(うばくちむら)に向かいます。
右左口村は私の愛する山崎方代さんの生まれた土地なのです。
瑞泉寺の木下一真師の随筆で大凡の輪郭はとれているのですが、
実際に行くのは初めてです。
方代さんが次のように詠った故郷を確認して、お墓詣りするのが目的です。
  ふるさとの右左郷は骨壺の
              底にゆられて わがかえる村
 
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  山崎方代さんの生家のある「右左口村」、此処は中道往還の宿場町でもありました。
   方代さんの育ったころは養蚕業が主だったようです。方代さんの生家は突き当りです。
   山は迦葉山、その峠(右左口峠)を越せば本栖湖になります。
 
 
右左口村は甲斐と駿河を最短で結んだ「鎌倉街道・中道往還」にあります。
峠を越えた先は本栖湖で、その先は丸畑の山裾を通って、富士川の岸辺を通って下れば、駿河湾に面した興津に出られます。
駿河湾の海産物を馬の背に載せて、甲斐まで運びました。
甲府の名産品「煮貝」もこの道を運ばれました。
勿論、江戸時代この道を辿る旅人は、身延山久遠寺を詣でた事でしょう。
丸畑で育った木喰少年(幼少期の名は解らない)は日本橋の薬商人に手を曳かれて、右左口村を通って、江戸に向かいました。
16歳でした。
 
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   右左口村下宿にある円楽寺(真言宗)、此処の墓地に方代さんは眠っておいでです。
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  方代さん「観相院方代無煩居士」が眠るお墓に奉げられた塔婆。
  毎年放代会が方代忌にお参りしています。
 
私と家内は円楽寺に入りました。
大きな銀杏が一本境内に茂って、そろそろ黄葉し始めていました。
この寺の門前にある小林家が方代さんの父「龍吉」さんの生家です。(下宿)
竜吉さんは此処から右左口村上宿にある「迦葉山敬泉寺」門前にあった山崎家に入り婿します。
でも、貧乏人の子沢山、方代さんの兄・姉は8人も幼くして亡くなっていました。
龍吉さんは、”生まれた子供が生きるも死ぬも、神任せ・・・・”
そんな思いで”放題・・・・・・、方代”の名を付けたと言われます。
一生を独り者で、一所不住の生活をし、酒を愛し、天衣無縫に生きた方代さんです。
この”生きるも放題・・・・死ぬも放題・・・・” 
方代の名が生きざまを決めたのかも知れません。
 
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方代さんの生家に近い観音堂。石段横に「馬糞を拾った父の思い出の歌が紹介されています。
そんなに貧困とは信じがたいのですが・・・・。
 
今は7・5・3のお祝いの季節です。
100年も昔は子供が成人する事は稀だったのでしょう。
ようやく3歳になった、5歳におなった、いよいよ7歳になった・・・・、そんなお祝いです。7歳まで育てば・・・・・体力も充実するので成人する期待も大きくなります。
7歳までは神任せ・・・・・・、7歳を越えたら責任を持って育てたのでしょう。
 
円楽寺の墓地を家内と一緒に放代さんのお墓を探しました。
目指すは「山崎家の墓」、でも100基を超えるお墓の半分は山崎家です。
ですから……、墓誌銘を確認して回ります。
歌人のお墓なのですから・・・・、歌碑が建っているか・・・・案内板が在っても良さそうですが、何にも見当たりません。
ようやく、旧墓地の外れに目指すお墓がありました。
黒御影の角柱に「山崎家の墓」と刻まれています。
そして、その脇には墓誌銘が刻まれていて、父龍吉さんはじめ家族のお名前が刻んでありました。
でも幼くして亡くなった兄・姉の名は・・・・、
放代さんは教えらていなかったのでしょうか?
刻まれていませんでした。
 
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  円楽寺の無縁墓地の六地蔵、絵馬風です。
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 同じく円楽寺無縁墓地の絵馬風六地蔵尊、こうした無縁仏に拝すると、
 方代さんの兄姉のように名も貰えずに亡くなった水子の霊を思い起こします。
 
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   無縁墓地の地蔵尊、お名前は「紅雲童子」でした。石に塗られた丹がわずかに残っています。
   此処は八ヶ岳に沈む夕日が見事なアングルです。
   方代さんの墓は向こうの竹藪の上、右手にあります。
 
円楽寺では八角堂を建てて、新しい墓地を整備しました。
その一角に無縁墓地があります。
墓標塔にはお地蔵さんが目立ちます。
幼くして亡くなれば、子供を三途の川の畔に出て導いてくれるのがお地蔵さんでした。
日本人が自分で作ったお経が和讃で、その代表が江戸時代の「地蔵和讃」です。
亡くなった幼子は賽の川原に出て、石を積みます。
  「一重組んでは父のため
   二重組んでは母のため
   三重組んではふるさとの
   兄弟我身と回向して
   昼は独りで遊べども
   日も入り相いのその頃は
   地獄の鬼が現れて・・・・・・・・」
父母の孝養を尽くそうとします。
でも、地獄の鬼が出て折角積み上げた塔を壊してしまいます。
 
そんな子供を守るのがお地蔵様です。
ですから、6体のお地蔵様をまるで絵馬の様にして建立したのでしょう。
無縁仏には6地蔵さんが絵馬風にして建てられていました。

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    墓碑には父母のほか祖父、横浜に嫁いだ姉などの名が刻まれています。
     幼くして亡くなった兄姉の名はありません。
    
私達は右左口村の下宿から街道を上って、上宿に向かいます。
上宿には敬泉寺があって、その門前に「山崎放代生家跡」があります。
貧農の倅と聞いていましたが、中々に広い敷地です。
放代さんの歌は貧農を強調し過ぎ? 憶測いたしました。
でも、この家で方代さんは生まれて育ったのは間違いありません。
 
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   右左口村上宿の迦葉山敬泉寺本堂。使われなくなった石臼は敷石に使われていて、
    六文銭のようです(六文銭は三途川の渡し賃)。この門前に方代さんの生家がありました。
 
生家跡を見下ろす位置に観音堂がありました。
私達は観音堂に登りました。
正面に八ヶ岳が見渡せます。
その左手には甲斐駒を先頭にして、南アルプスが続いています。
でも、午前中は雨でしたから・・・・、アルプスの頂は雲間に隠れて見えませんでした。
 
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    生家に建てられた・・・・「ふるさとの・・・・わがかえる村/前掲」の歌碑。
     遠方に赤い屋根の観音堂が見えます。
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 観音堂からの右左口村全景。手前が敬泉寺本堂です。
 鐘楼の左休み所があるのが方代さんの生家(公園・駐車場)です。
 遠方正面が八ヶ岳、左に南アルプス、夕焼けが美しいロケーションです。
 
 
 
観音堂の前にお堂が在って、十王像が並んでいます。
閻魔大王を筆頭に・・・・、10体の裁判官の像です。
奪衣婆もあります。
閻魔さまはお地蔵様のもう一つのお顔です。
ですから、地蔵信仰が強い村は、閻魔信仰も強かった土地です。
方代少年はこの閻魔様の足元で育ったのです。
 
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  観音堂の十王像、方代少年にこれらの像が情操を与えたことでしょう。
 
 
 
 
 
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甲府右左口村(うばくちむら)の山崎放大記念館に行きました。
幾つもの写真パネルに、方代さんが石段にドカッと腰かけている写真がありました。
右手には大きな陶製の徳利を吊るしておいでです。
この石段、どこかで見た記憶があるなあ・・・・、
見詰めていて気付きました。
これは、瑞泉寺の石段です。
何処の禅寺でも入口に「葷酒山門に入るを許さず」刻まれています。
葷酒は修行の妨げになるから・・・・・、寺の中に持ち込んではいけない・・・、意味です。
入口には「此処は夢窓礎石の人生道場である」記されているんですから、酒は困るんじゃないの!
思いました。
でも、瑞泉寺の和尚さんは無類の酒好き・ヘビースモーカーの方代さんを許していたんでしょう。
持参のお酒を飲んで、和尚さんからお小遣いを戴いて(※)、山を下りてきました。
でも、足元が千鳥足・・・・、しばらく石段で酔いを醒ましてから帰る・・・、そんな作戦のようです。
 
   ※ 瑞泉寺の 和尚がくれし小遣いを たしかめおれば 雪が降りくる
 
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瑞泉寺の石段で写したと思われる方代さん。右手に徳利を持っています。
 
私の父は酒を口にしませんでした。
だから・・・・、酒の留め置きも無ければ、酒屋の御用聞きもありませんでした。
でも、父の弟たちは揃いも揃って大酒のみでした。
だから、親戚が訪れると、酒を買いに行かされました。
小学生の私は、近くの小野商店に出かけて、一升瓶を吊るして戻ります。
酒屋は大きな風呂敷で一升瓶を包んでくれました。
私は一升瓶の底が道に触れないように、持ち上げ気味に持ち帰りました。
お寺の坂まではどうにか無事に持ち帰ったのでしたが・・・・、石段の階に来たときでした。
”コツン” 音がして、一気にお酒が流れ出しました。
一升瓶の底が石段の角にぶっついてしまったのでした。
お酒の流れ出るのを見た私は、事態を確認しました。
同時に大泣きしてしまいました。
祖母が父や母を厳しく叱ってくれました。
叔父さんは小さくなっていました。
 
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    鎌倉雪ノ下の三河屋酒店。
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   三河屋酒店の通い徳利
 
方代さんの徳利は何処かの酒屋で貰ったものでしょう。
酒屋はお得意さんに徳利を配りました。
お得意さんはこの徳利を持って行き、酒屋で量り売りしてもらうのでした。
だからこの徳利を「通い徳利」と呼びます。
私はこの徳利が何処のお店が配ったものか? 気になります。
「滝本」か「梅本」と書かれているようです。
鎌倉で、同名の酒屋は無いように思います。
方代さんが居候をしていた、田谷にも手広にも無さそうです。
でも、鎌倉の酒屋に訊けば解るだろう・・・・、気楽に考えていました。
 
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  鎌倉大町、蛭子神社脇にある「スリービーンズ」
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    鎌倉大町にある石川酒店。
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   石川酒店の店内
 
先ずは鎌倉の老舗「三河屋さん」に行きました。
この日の店番は何時ものお婆さんではありません。
訊いてみたんですが・・・・、知らないとの事でした。
 
総じていえば鎌倉の酒店は苦戦しているようです。
半分店じまいしている所もありますし、既に廃業してしまった竹腰酒店もあります。
店の看板に「酒屋」の看板が残っているだけです。
郊外の量販店に押されて・・・・、街の酒屋さんは苦境なんでしょう。
 
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   鎌倉材木座に在った竹腰酒店。今は街角アートの展示場になっています。
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    竹腰酒店で使っていた徳利。長押の上に置かれていました。
 
酒屋を二店、三店訊いて歩くうちに・・・・、お付き合いで買った酢も増えてしまいました。
でも、結局滝本酒店は見つかりませんでした。
・・・・、という事はこの写真パネルは鎌倉瑞泉寺では無いのでしょうか?
では・・・・、甲府の酒屋の徳利で・・・・、
望郷の歌人方代さんは、故郷の徳利を持ち歩いていたのでしょうか?
 
今しばらく、この徳利を配ったのが何処の酒屋であったのか・・・・、
疑問を解くには時間がかかりそうです。
右左口で聞いておけばよかった・・・、思いました。
 
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  鎌倉材木座の進藤酒店。
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  進藤酒店の屋号は菱善でした。その通い徳利。
 
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   光明寺門前にある(材木座)萬屋酒店
 
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昨日は八木重吉の代表作「素朴な琴」を、その作詩した場所を探すことで紹介しました。
私は重吉の詩を読むたびに、その詩が詠まれた・・・・・、
奥様(とみさん)お嬢様(桃子さん)がどんな人だったのか、関心が湧きます。
キリストの再来を渇望し、清らかな愛を詠うには・・・、愛の向けられた奥様・娘様が美しく無ければ、
あんな詩は出来なかっただろう・・・・、思うんです。
 
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   手前から八木とみ、桃子、陽二、八木重吉が愛した家族。
   彼らが居なければ珠玉の詩はありませんでした。(「琴は静かに」から複写)
 
 
奥様(八木とみさん)は2冊の著書を残しています。
一冊は「琴は静かに/八木重吉の妻として」、
もう一冊は「わが胸の底ひに/吉野秀雄の妻として」の2冊です。
珠玉の詩を遺した八木重吉、現代の万葉歌人吉野秀雄、二人に愛され、その妻となったのですから、
それは幸いな女性と言えるでしょう。
でも、歓びはその作品を読み返し夫の愛を思い返す時だけのようでした。
今日は、とみさんの独語(モノローグ)で、二人の夫を紹介させていただきます。
             (これは前記著書等をベースに私の言葉で綴ったものです)
 
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大正10年(1921)3月の事でした。
私(島田とみ/17歳)は越後の高田から上京して独学していました。
目的は滝野川にある「女子聖学院」の3年に編入するため・・・・・・・、
勉強の総仕上げをする為・・・・・、東京高等師範(現在の筑波教育大学)の学生だった八木重吉さん(24歳)に家庭教師をお願いしました。学科は数学と英語でした。
麻布からバスを乗り継いで、池袋の粗末な下宿を訪れました。
この時が最初に重吉さんにお会いした時でした。
それから1週間、勉強ははかどり、私は希望通り聖学院に編入できました。
でも、この時重吉さんの心に湧きあがった恋心には全く気付きませんでした。
 
 
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   鎌倉鶴岡八幡宮東側の小路、突き当りが八木重吉が学んだ神奈川師範(現横浜国大教育学部)
 
重吉さんは神戸の御影にある「御影師範学校」の英語の教師として赴任しました。
私は女子聖学院での乙女の日々が始まりました。
でも、その年(1921年)9月重吉さんから重い手紙が届きました。
以降も日を置かずに重吉さんからの手紙が続きました。
12月、実兄の慶冶に連れ添われて芝公園の茶屋で、重吉さん内藤氏の4人で会いました。
一図と言えば聞こえは良いのですが・・・・、暴走する重吉さんは気味が悪い程でした。
私はどうなる事かと・・・・慄きましたが・・・・、
兄さんは”今時珍しい青年だ!” なんて言い、重吉さんを最初に理解しているようでした。
私は既に父を亡くしていましたから・・・・、父代わりの兄の判断を聴きました。
1922年1月、「結婚はとみが卒業するまで、2年先にしよう・・・・!」決められました。
 
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   柏の風景(イメージ) 夫婦が柏に転居した家は・・・・・、野原の新築住宅でした。
   田圃を埋め立てた急ごしらえの新居でしたから・・・・、湿気が多くて結核を誘発した?
   推測します。 吉野秀雄は後年、とみ子を娶って次のように詠っています。
     コスモスの地に乱れ伏す季にして 十字彫たる君の墓 子らの墓 
   コスモスはとみ子さんのイメージだったのでしょう。
 
1922年は1月に婚約が決まったのでしたが、5月私は肋膜炎を患いました。
すると、御影から重吉さんが飛んできました。
重吉さんは私を”御影に連れて行く”主張するんです。
兄は説得されて・・・・、私の女子聖学院の生活は1年余りで終わってしまいました。
7月19日、御影の借家で内藤さんの仲人で、慎ましい結婚式が執り行われました。
 
式が終わると内藤さんは”海辺に行くから・・・・”、言い残して出かけられました。
私達は”どうしたのだろう”気遣いました。
翌朝重吉さんは師範学校に出勤されました。
内藤さんから言われました。
「とみさん、昨晩腰に巻いていたものを見せてくれますか?」
それは恥ずかしかったんですが・・・・・、私は言われるままに下着を内藤先生にお見せしました。
紅が点々と滲んでいました。
「ああ、これで良いんだよ、昔はみんなこの印を手箱に納めて仲人が両親の処に届けて婚姻が無事に完了した」報告したんだよ。仰られました。
八木家は私達の結婚を認めて居なかったんです。
大正12年(1923年重吉26歳、とみ19歳)長女の桃子が産まれました。
大正13年には第一詩集「秋の瞳」を刊行しました。
長男陽二が産まれました。
「長男なのに何で陽二なの? 陽一じゃないの?」訊くと
「陽の字は重い、陽一では重すぎるから陽二が良いんだ・・・・」言われました。
 
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八木重吉は茅ヶ崎の結核専門病棟南湖院で亡くなりました。その第一病棟だけが保存されています。
 
 
 
大正14年(1925年重吉28歳、とみ21歳)重吉は千葉県東葛飾中学校の英語教師に転任しました。
今は柏市の住宅街ですが、当時は田園地帯でした。
教職員宿舎は新築でした。
家族4人で新居に入りました。
新築住宅は・・・・、ジメッとしていました。(これが災いした?)
でも、家を出れば、一面の野原がありました。
 
 
大正15年・昭和元年(1926)重吉29歳 とみ22歳
重吉さんは2月から風邪気味でした。
病臥が続いたので九段の東洋内科病院で診断して戴いたところ、結核第二期と判明、
5月には茅ヶ崎にある南湖院に入院しました。
私達も柏から茅ヶ崎駅に近い10間坂に転居し、病魔への臨戦態勢に入りました。
同年晩秋のころからは耳下腺炎腹痛などの余病も併発し絶対安静の闘病生活に陥りました。
そんな中で第二詩集「貧しき信徒」の発刊に向けて作業をしました。
重吉さんが口述して、私が原稿用紙に清書して・・・・・・、
再び加藤武雄さんに出版の斡旋をお願いしました。
昭和2年10月26日午前4時、重吉さんは高熱の中十字を切って、私の名を呼びながら昇天してしまいました。
27日茅ヶ崎の寓居で親しい人によって告別式が執り行われました。
 
結核の病魔は重吉さんを奪いました。
私には二人の息子と重吉さんの詩稿だけが残されました。
残りの人生は二人の子供成長を確かめ、重吉さんの詩を世に発表する・・・、
ことを生甲斐にすることになりました。
白木屋さんに勤めながら、家族を守っていました。
でも、再び病魔が家族を襲いました。
昭和12年(1937年)桃子は15歳、女子聖学院の2年生でした。
父と同じ結核によって逝きました。
昭和15年には陽二(16歳聖学院4年生)が重吉さんの後を追いました。
 
私は思いで深い南湖院の事務員として働き始めました。
子供を失った私にとっての生甲斐は、重吉さんの遺して行ってくれた詩稿だけでした。
昭和17年(1942)には高村光太郎先生の意向を受けて三ツ村繁蔵様、草野心平様の尽力によって
「八木重吉詩集」が刊行されました。
でも、重吉の残した詩稿は3000にも及びます。
未だ、道半ばでした。
私に命であった重吉さんの詩を世に発表し尽くすには・・・・、まだ善い人の協力が必要でした。
 
昭和19年、米機の本土空襲も激しくなった頃の事でした。
私に声がかかりました。
鎌倉の雪ノ下教会の東側にお住いの吉野秀雄さまのお宅で・・・・、
4人の子供の訓育に当って欲しい・・・、そんなお話でした。
私は重吉さんの詩稿を抱えて、吉野さんの屋敷に入りました。
屋敷と言ってもあんまり売れない清貧な万葉歌人のお宅です。
ご近所の大仏次郎さんのお屋敷に比べればこじんまりしたものでした。
4人の子供の母親代わりと、家事一切をお引き受けいたしました。
 
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    鎌倉小町の吉尾秀雄家の裏は宇都宮稲荷です。
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   鎌倉小町の大仏次郎別宅。この小路の突き当りに吉野家があります。
   吉野登美子さんは美しい鎌倉夫人だったと思います。
   
 
 
秀雄氏と私は連れ合いを亡くした者同士の共感がありました。
加えて秀雄氏は重吉さんの最高の理解者でありました。
重吉さんの事をこう評してくれました。
「これほど、純粋で純潔な人を私は知らない。私は重吉氏を尊敬する」
そして、第4詩集「八木重吉詩集」の発刊に尽力してくれました。
 
昭和22年(1947)私は秀雄氏の求愛を受け入れて結婚いたしました。
 わが胸の底ひに汝(なれ)の恃むべき清き泉のなしとせなくに
この歌が秀雄氏の求愛の歌でした。
私の心の奥底に、貴方が頼りにされている清い泉が本当に湧いていますように・・・・・、
そんな歌でした。
清い泉とは重吉さんの純粋な心の事でしょう。
私と一緒に重吉さんの清い泉を大切に生きて行きましょう・・・・、
秀雄氏の求愛は心底嬉しいものでした。
天国の重吉さんもこの敬虔な仏教徒と私が世帯を持つことを祝福していてくれる、確信しました。
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                                              吉野秀雄歌碑/瑞泉寺
 
秀雄氏も重吉さんと同じように病弱でした。
加えて「八木重吉、吉野秀雄と言った世にも稀な純粋な詩魂に恵まれた人と一緒する・・・・、私の運命も神の(仏の)思し召しによるものだと確信しました。
秀雄氏は65歳で亡くなりました。
私は幸いに95歳も長生きできました。
秀雄氏のお墓に私の名も刻ませていただきました。朱色の字で・・・。
私が亡くなったら・・・・、秀雄氏から重吉さんのお墓に入れて貰える・・・・、お約束を戴いています。
子供のような・・・・駄々っ子であった重吉さんに比べて、
秀雄氏は思慮深い方でした。
   注 重吉の墓参りの折に、吉尾秀雄の歌
     重吉の妻なりし今のわが妻よ ためらわずその墓に手を置け
     われの亡き後にならめども 妻死なば骨分けて此処にも埋めてやりたし。
 
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  小学校の図書室に置かれた「八木重吉」詩集。教科書に「素朴な琴」が載っているので、
  詩集も整理してあるのでしょう。椅子のほかに畳が敷かれていて、子供達は寝転んだり
  勝手な格好で読書しています。
 
 
秀雄氏の尽力もあって、重吉さんの詩は世間に広まりました。
今では、「素朴な琴」は小学校5年生の教科書を始めに、中学、高校の教科書にもとられています。
重吉さんも、秀雄氏も私は看取りました。
重吉さんは死にきれない気持ちと、キリストさまの足元にすがりたい・・・・、
そんな気持ちが交錯しながら昇って行ったものと思います。
私は、長生きで来て・・・・、重吉さんの詩も世間に認められて、若い人に愛読されて・・・・います。
私は遣り終えて、生き終えて・・・・、重吉さんの処に、秀雄氏の待つ極楽(天国)に参ります。
3人で、子供を入れて5人で、再会を祝えるでしょう。
でも、私は超お婆ちゃん、重吉さんは30歳、話がすれ違わないか? 
少しだけ心配です。
 
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                                        「素朴な琴」のイメージ。
 
 
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