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文学散歩

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吉屋信子記念館の静寂

何度来ても閉館でした。
鎌倉由比ガ浜にある「吉屋信子記念館」です。
私は同氏の作品に特段興味はなかったのでしが・・・・、その屋敷の風情に心惹かれていました。
露地に面して土塀が続いています。
土塀の下三分の一が杉板張りで・・・お洒落です。
この土塀の奥では”どんな方がお住まいだったのかな?” 
興味を持ったものでした。
 
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    吉屋信子記念館。昭和48年結腸癌のため死去(77歳没)。晩年この家で過ごした。死後は、事実上のパ     ートナーで戸籍上は養女となっていた秘書の千代により鎌倉市に寄付された。
 
吉屋信子記念館の裏山を西に辿れば、川端康成邸があってその先は長谷の大仏様です。
 
6月3日(日)に”今日こそは開館していますように・・・!”
念じて出かけてみました。
期待通り開館していました。
入り口で確認してみると今日を外せば次回の開館は10月1日迄待たされます。
 
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  門を潜ると直ぐに手水鉢があります。ここを左に折れると大きなスダジイの根元に待屋があります。石畳を真  っ直ぐに進めば玄関に着きます。
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   池から眺めた主屋です。数寄屋作りの「吉田五十八」の設計です。この日は日曜画家が芝生の上でスケッ   チを楽しんでいました。
 
私は玄関先で上品なお婆さんに呼び止められました。
”カメラのシャッターを押してくださいませんか?”
”良いですよ・・・・・” 答えると・・・、私と同年輩の男性がゾロゾロ後から出てきました。
全員で7人、紅一点ならぬ『婆一人・親爺6人』奇妙なグループです。
お婆さんお話によるとこのような事でした。
 
お婆さんは戦後横浜で教鞭をとって、老後は故郷の秋田に隠居していました。
ところが教え子から連絡があって、鎌倉に出て来い・・・、というわけで、
昨晩は海浜荘(由比ガ浜にある老舗旅館)に泊まりました。
今朝は先ず「吉屋信子」の記念館を訪れました。
るお婆さん先生は少女時代心ときめかせて「吉屋信子」を愛読したのでした。
そこで、今日は先ず教え子と一緒に、記念写真を撮りたい・・・、と言う事でした。
 
”貴方は先生ですか?皆様クラスメートで、マドンナだったのだろう・・・・・!”思いました。
お婆さんは、
”まあ、鎌倉の人はお口がお上手ね・・・・・”
笑顔が弾けました。
 
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               吉屋信子記念館、玄関脇の未央柳の花。この前で記念写真を撮りました。
 
吉屋信子記念館は同氏の晩年の創作活動の舞台になりました。
そして、記念館には処女作の「花物語」から、
晩年お代表作「女人平家」や「源氏物語」までの原稿や初版本が展示されています。
秋田のお婆さんもこの館に入れば「永遠の少女」に戻ります。
嬉しそうに展示に見入って居られます。
 
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そして、この記念館の価値は「近代数寄屋建築」であることでしょう。
設計者は吉田五十八(よしだ いそや明治27(1894)〜昭和49(1974)氏でありました。
 
吉田五十八は太田信義(太田胃散の創業者)の第八子として生まれました。
信義は「恥ずかしながら・・・、五八歳で子が出来ました」 呟きながら五十八の名をつけたのでしょう。
生まれて直に母方の性「吉田」を名乗りました。
 
東京美術学校図案科に入学、設計に志します。
当時はモダニズム建築が席巻していましたので、ヨーロッパに修行に出かけます。
しかし、ドイツ・オランダではルネッサンス建築・バロック建築に圧倒されて帰国します。
自分は日本で「何をデザインするのが良いのか・・・・」見失います。
苦悩の末・・・・、日本人にはバロックを真似ても栓方ないことだ・・・、気づきます。
そして、「日本人のオリジナリティーのある建築・・・、数寄屋建築」 に関心を集中させます。
伝統の数寄屋建築の上に、モダニズム運動の精神を上乗せして・・・、数寄屋建築の近代化を志します。
 
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   南面した広い縁側、絨毯と畳の組み合わせが現代人のライフスタイルにマッチしています。
   これが近代数寄屋建築の面目です。
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   玄関から門を見る。洋室の機能に和室の情緒が組み込まれています。
   工業製品のアルミサッシも使われています。
 
 
折からブルーノ・タウトが桂離宮を激賞します。
日本人も数寄屋建築に目を戻す機運が生じます。
自ずから・・・・吉田五十八に注目が集まります。
五十八は建築界の寵児になります。
 
昭和35年(1960)吉田五十八は世田谷の五島美術館を、
昭和36年(1961)には青梅に玉堂美術館を設計します。
美術館や画家のアトリエが一つのジャンルでした。(小林古径・梅原龍三郎・山口蓬春など)
もう一つが寺院(中宮寺や成田山新勝寺本堂等)や歌舞伎座等の大きな空間を必要とする建築・・・。
そして何よりも数寄屋建築本来のジャンルの一般的な「家屋」でした。
 
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   記念館には鎌倉文士の群像が掲示されています。 
   吉屋信子氏は女性同士で写っても、男性と一緒でも何時も真ん中です。
 
昭和36年(1961)には吉田茂邸(大磯先年焼失)、
昭和37年(1962)にこの吉屋信子邸、昭和47年(1972)秩父宮邸(港区)等を設計します。
 
吉屋信子邸を見ても以下のような斬新なデザインに気づきます。
大きな平屋、寄棟の建物の外観、
室内に入れば、フラットで絨毯の敷かれた洋風な設計でありながら・・・・、南面しては広く長い廊下があって、
一段高みに畳が敷かれ、床の間が設えてあります。
座敷と椅子式生活が融合して・・・・、現代人のライフスタイルにぴったりです。
数寄屋でありながら、大壁があるのは建物全体の強度を高めている事でしょう。
障子は横棧で、壁は吹き付けで、数寄屋特有の欄間などはありません。
いたるところに工業製品(アルミ窓等)が使われています。
 
書斎は北向きです。
引き込戸など収容能力溢れた洋間です。
窓の外には大きな藤棚があります。
庭はそのまま山に繋がっています。
朝晩は狸も顔を出したことでしょう。
今は、草ぼうぼうです。
表の芝生も手入れが為されていません。
鎌倉市は貧乏ですから・・・、草も刈れないし、庭木の伐採も困難なのでしょう。
でも、設計が良いから・・・、建築がしっかりしていることから建物は堅牢です。
 
こうして保存して春・秋には無料で公開しているのだから・・・、ありがたいことです。
時間が経てば、近代的数寄屋建築の評価が定まって、この建物も保存対象になることでしょう。
 
 
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江ノ電の由比ガ浜駅を下車して、山側にむいて歩いて7分くらいの位置に「鎌倉文学館」があります。
旧前田侯爵家の鎌倉別邸が鎌倉市に寄贈され、昭和60年に開館したものでした。
建物は昭和11年に建築されました(国の近代化資産)。
西洋建築の技術が日本人のライフスタイルにマッチして出来た昭和モダニズムと呼ばれる建築です。
木造3階建、青い瓦葺の建物は今も斬新です。(設計/渡辺栄治。施工竹中工務店 延床462㎡)
とりわけ青葉が茂って、庭の薔薇、植え込みの躑躅の咲く今頃が最高です。
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   鎌倉文学館建物全景。昭和モダニズム建築で国の近代化資産の指定を受けています。
   テラスでは演奏前の練習中です。
 
6月3日(日)近くの吉屋信子記念館と合わせて、文学散歩と洒落てみました。
偶々この日は葛原岡神社の例大祭で、由比ガ浜町内には神輿が練り歩き賑やかでした。
由比ガ浜通りに面して、すぐ近くには甘縄神社があるのに、・・・・
”遠くの山の葛原岡神社までお神輿を練るのは大変ですね・・・・・・”
法被姿のオヤジに声をかけると・・・・・、
”いや、町内を練るのは六地蔵の辻(町内会館)から此処までにしたんですよ・・・。”
古色蒼然としたお神輿が2基、重たそうです。
でも、担ぎ手は高齢者が10人弱・・・・・、どうもお祭りの維持継続も大変なようです。
 
鎌倉文学館の入場料は400円、ついこの前までは300円だった記憶ですが・・・、展示の大半が常設展で、
狭い空間に鎌倉に馴染みの文学者100人も紹介しているのですから・・・・・・、
近代文学の名簿をみているようで・・・・、
ああ・・・あの人も、この人も鎌倉に住んでいたことがあったのか!   知るばかりです。
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   文学館2階から由比ケ浜を見る。3階からの眺望は更に素晴らしいでしょうが・・・、入れません。
 
でも、今日は何処か雰囲気が違います。
テラスの方から弦楽器の音が流れてきます。
芝生の庭で音楽会が催されるようです。
庭先にはワゴン車が出ていて、コーヒーサービスもしています。
シナモンケーキにブレンドコーヒーで350円です。
緑に包まれて飲むコーヒーは一層美味しそうです。
鎌倉文学館も館長が代わって・・・・・、様々な企画が催されているようです。
 
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     テラスコンサートの様子。演奏は建物のテラスで、聴衆は芝生に腰掛けて、ベンチで・・・・。
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テラスコンサートの開始時間は午後2時、未だ2時間近く待たなくてはなりません。
私は何時も2冊程文庫を携帯していますので、読書しながらコーヒーをいただいて、時間を過ごす事にしました。
 
演奏するのは「ライトハウスアンサンブル」、
ライトハウスとは江ノ島の灯台のことだそうです。
だから、灯台の見える鎌倉藤沢の住人で作った音楽仲間のことなのでしょう。
クラリネットは男性で、バイオリン(2人)ビオラ、チェロは女性の5人組です。
(メンバーは10人ですがこの日は選りすぐりの5人だったようです)
司会役の(チェロ)の紹介では全員が昭和生まれ、昭和育ちのお天婆だそうです。
 
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   テラスにテントが張られて・・・、そこで演奏されました。
 
明治27年夏目漱石は円覚寺に入ります。
大正5年芥川龍之介は塚本文さんと結婚、由比ガ浜の和田塚に下宿して新婚生活をスタートします。
同年作品の「鼻」は漱石の激賞を受けます。
昭和5年、帝大の学生だった太宰治は人妻で銀座で女給をしていた「田部シメ子」と出会います。
二人は腰越の小動岬で心中します。
シメ子は亡くなり、太宰は生き残ります。
終戦が近い昭和20年、久米正雄は鎌倉に住んでいた小林秀雄、川端康成等に声をかけます。
”皆で蔵書を出し合って「貸本屋・鎌倉文庫」を始めようじゃないか!”
生活に困窮した鎌倉文士が自身の蔵書を持ち寄って「貸本屋」を開業したのでした。
試みは大成功します。
久米正雄は戦前の昭和9年「鎌倉カーニバル」を始めています。
作家であり、事業家であったのでしょう。
 
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    この状態で4分咲きと案内しています。
 
 
作家といえども、多士再々です。
芥川も太宰も自殺してしまいます。
一方大衆文学で成功した人も居ます。
共通するのは「鎌倉に惹かれて、鎌倉で過ごし、鎌倉を舞台に作品を残した」事でした。
 
文学散歩は鎌倉の魅力の一つになっています。
鎌倉文学館の庭に誰がいつ頃バラを育て始めたのか・・・知りません。
 
前田公爵が建物を洋風に建てられました。
庭も和洋折衷にしましたから・・・・、当時からバラ園を栽培していられたのでしょう。
若しかしたら・・・、いずれこの屋敷は鎌倉に寄贈するかもしれない・・・、
そうしたら、鎌倉市は鎌倉好きに喜ばれるよように利用するだろう・・・。
前田家の文化財は東京に鎌倉に数多く残され、愛されています。
 
文学者が多士再々であるように・・・、バラも多士再々に育てのかもしれません。
(案内によると188種225株もあるそうです。)
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   薔薇は「春の雪」、同名の三島由紀夫の小説の舞台になっていることから植えられたのでしょう。
 
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日本の文学の一つの流れに「私小説」があります。
自分の体験や心の内を吐露します。
ですから、作家自らの「醜い現実」を赤裸々に描いたものになります。
視線が作家自身の心の中に向かえば「内省的」になるし、社会に向かえば「社会批判」になります。
「自然主義」とも呼ばれます。
作家や編集者に倫理観が乏しいと、「悪露趣味」に陥ります。
現在マスコミの「ワイドショー」や「写真週刊誌/FOCUS等」その流れになるでしょう。
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                 今日の話題「島崎藤村夫妻」。藤村は自然主義文学の大家。
                 写真は大磯町作成のパンフレットから転載
 
15号台風一過、大磯の「島崎藤村」の最期を迎えた家に行きました。
昭和16年2月、藤村は大磯に転居して、静子夫人と二人だけの生活を送ります。
この家を「静の草屋」と呼びました。
「静」は閑静な事と、奥様の名に拠るのでしょう。
更に、「そろそろ、静かに人生の幕を閉じたい」、そんな思いも込められていたことでしょう。
4畳半の書斎と控えの間だけの簡素な住居です。
 
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                     島崎藤村の終の棲家、藤村の時代、この家から海が見えたそうです。
 
屋根に風蘭が自生した瀟洒な冠木門をくぐります。
何処かにセンサーがあったのでしょう。
チャイムが鳴って、声がします。
「庭先からどうぞ・・・・!」
女性が一人で、台風で荒れた庭を掃除されていました。
此処の管理は大磯町ですから、女性は町の職員かボランタリーでしょう。
国道沿いの鴫立庵と同じです。(藤村邸は無料)
訪問者記録に名前を書かされます。
今日は私が最初の見学者です。
 
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                                                       藤村宅の門
 
縁側に腰掛けて、庭や室内を眺めていると、管理の女性が声をかけて下さいました。
彼女の話を核に最期の藤村を表してみます。
 
戦争の気配も濃くなった昭和16年2月、藤村夫妻は転居することにします。
明治学院大学(品川高輪)の名誉教授でもあったので、大磯に決めていました。
大磯の砂浜は古事記にも登場、「こゆるぎ浜」と呼ばれる白砂青松の名勝であります。
加えて、「左義長・ドンド焼き/藤村の故郷馬篭では三九郎と呼ぶ」が大磯の名物でした。(無形文化財)
現在も9基もの「どんど」が砂浜に立ちます。
 
小正月の夕暮れ、裸になった男達は海に入って身を清めます。
砂浜に上がって、「どんど」に火をつけます。
火柱が天に昇ります。
男達の体から湯気が昇ります。
 
「海が見える、どんど焼きも眺められる、簡素な家が良い。出来れば大磯駅の徒歩圏で」
格好の貸家を探しました。
家主は地元・老舗の菓子司「新杵」でした。
同店の主商品は「西行饅頭」、藤村の敬愛した歌人の名を戴いています。
勿論、夫婦ともこの饅頭を好みました。
 
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    大磯町の和菓子「新杵」が藤村宅の家主でした。名物「西行饅頭」が取り持つ縁だったかも知れません。
    鎌倉、藤沢、逗子には文豪が立派な邸宅を構えました。藤村は先ず簡素な事では第一でした。
 
庭にはタブの木がありましたが、あとは何も在りませんでした。
故郷の馬篭には辛夷が咲いていました。
藤村は白い花が好きでした。
そこで白い椿、灯台躑躅 (どうだんつつじ)白萩を植えました。
大磯の砂浜に転がっていた岩も入れさせました。
あばた顔のような傷のある岩の表情が好みでした。
 
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     庭木の大半は藤村が探してきました。灯台躑躅 (どうだんつつじ)もその一つでした。
     春先に白いすずらんのような花が咲きます。 奥のタブの木は貸主が植えたものでした
 
私はかねてからの質問をしてみました。
藤村のお墓のことです。
石の角柱に「島崎藤村墓」とだけ刻まれています。
隣には「島崎静子墓」、まったく同じデザインです。
 
藤村はプロテスタントの洗礼を受けています。
その後、教え子佐藤輔子とのスキャダルで自責、棄教します。
角柱に横木が入れば十字架です。
棄教の経験が仏式でもない、ましてキリスト教にも拠らないシンプルなお墓になったのか・・・?と。
   
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         藤村の「人となり」そのもののような藤村の墓。大磯地福寺の境内、梅林の中にあります。
 
その答えにはならないかもしれないけれど・・・・、言いながらファイルを持ち出して来られました。
其処には「藤村記念堂」の設計者「谷口吉郎」氏の説明が整理されていた。
同氏は「藤村記念堂」と「慶応義塾大学校舎4号館及び学生ホール」を設計しました。
日本建築学会作品賞を受賞(1949)しています。
 
藤村記念堂は「馬篭の自然や人々の生活」を表した建物にした。
その意味で「馬篭記念堂」としてデザインしたのだそうでした。
藤村は木曾の山深い馬込を出て、二度と故郷に戻りませんでした。
でも、その文学に馬篭を切り離しては考えられませんでした。
だから「藤村記念」は「馬篭記念堂」と同じ意味なのでした。
馬篭の外から建材などを運ばないで、馬篭の石、砂、木を使って、馬篭の住人の労力で建築しました。
従って、素人ばかりですから設計図もシンプルで簡素に、作りやすくしました。
同氏が大磯町「地福寺」の藤村夫妻の墓を設計したのだそうでした。
藤村記念堂と共通するデザインでした。
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                                     藤村の戒名、藤村旧宅の縁側にて
 
藤村の戒名が気になります。
葬式を挙げるのは本人の意向もありますが、遺族の考え方が一番大事でしょう。
やはり普通に葬式を挙げたかった・・・・、葬式を挙げるには故人の意向に寄ろうか寄るまいか・・・・、お寺さんにお願いして「戒名」を戴かなければなりません。
そこで、地福寺の住職にお願いしました。
住職は考えたのでしょう。戒名といえども「俗名・藤村」に勝る名前は無い。
閻魔大名も「藤村」の名は聞いておいででしょう。
そこで、戒名も藤村にしました。
でも、院号を入れて最高の9字の名前に飾ってみました。
「文樹院静屋藤村居士」
「静の草屋で亡くなった藤村と言う文豪」の事でした。
藤村は言っているでしょう。
「そんなのなら、簡素に『藤村』で十分じゃないか・・・」
 
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     藤村新婚で小諸義塾で教鞭をとっていたころの家。大磯旧宅の倍の広さです。
 
この夏に私達夫婦は藤村の結婚当初の家に行きました。
小諸に在ったのでしたが、現在は佐久の貞祥寺に移築されています。
この家から藤村は小諸義塾に通いました。
そして、最初の小説「破戒」を書きました。
被差別部落に生まれた主人公「瀬川丑松」は学校教師でした。
 
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     藤村、新婚時代の家。此処で「千曲川旅情の歌」を作り、後の「破戒」の舞台になった。
 
藤村は中山道馬篭の名主の家で生まれました。
馬篭は峠の宿場町です。
牛や馬は大切な家畜でした。
家畜も年齢を重ねれば屠殺したりしなければなりません。
その仕事は「エタ・ヒニン」と呼ばれた非差別民にやらせました。
何故なら、仏教では四足動物を殺す事は禁じられていましたから。
落合川の川原で死体は解体されました。
川が真っ赤に染まって、木曽川に流れ込みました。
そんな生活が、馬頭観音、牛頭観音を多く残しました。
破戒の主人公も「川の瀬に住む丑松」にしました。
 
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     この庭石も藤村が探した、好みの石だそうです。
 
藤村の時代は、急速に西洋文明が日本に流れ込みました。
多く、西洋文明をストレートに受け入れました。
でも、何処か違う、気づいていました。
究極は、「キリスト教の教義」との衝突でありました。
 
その問題を私小説「桜の実の熟する時」に書きました。
オルガンの響きに憧れて教会の門をたたきました。
でも、どこかが違う・・・、悩みます。
主人公は悩んだ挙句にキリスト教を棄てました。
 
藤村の恋人佐藤輔子は早世してしまいます。
藤村は「家」「血」など、日本の根幹に詰め寄ってゆきます。
本人も姪の「こま子」と愛人関係になり、妊娠してしまいます。
「新生」に書きました。
 
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  藤村書斎、4畳半で桑の木製のふみ机が置かれていました。 頭の中が良く整理されていたからこの狭い空  間で「東方の門/未完」を執筆できたのでしょう。
 
 
日本社会も文化も喧騒のきわみだったでしょう。
ようやく静子夫人との静かな生活が始まりました。
大磯で「東方の門」の著作が始まりました。
日本の将来に不安を感じていたのでしょう。
静子夫人は貸家の隣の土地を購入しました。
其処に家を建て、書庫にしました。
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  藤村旧宅の隣に静子夫人が建てた家、当初は書庫とされていた。今は静子夫人の遺族がお住まいです。
 
 
藤村は「東方の門」の原稿を書き上げると、静子夫人に協力してもらい「読み合わせ」をしていたそうです。
読み合わせする事によって、文意が正確に著されているか、文章として品格が在るか・・・・、などなど校正したのでしょう。
 
昭和18年8月22日の昼下がり、広間で読みあわせをしていました。
「子ゆるぎの浜」から海風が吹いてきました。
静子夫人に言いました。
「良い風が吹いてくるね・・・・」言いながら藤村は首を傾けたそうです。
脳溢血が藤村の死因でした。
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藤村旧宅の広間縁側から海の方角を見る。藤村最期に目に映った空間です。
 
 
 
 
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鎌倉二階堂の瑞泉寺を上りました。
渓流に沿って長い坂を登ると、山紅葉の木の下に山門が見えてきます。
名刹にしては小さな門ですが、この敷居を跨ぐには相応の緊張が伴います。
柱に黒板が架かっています。
ご住職が能筆で、参詣者に問いかけをされています。
問いかけは、季節季節に変えておいでです。
この秋は、俳句が書かれています。
   いづくにか たふれ伏すとも 萩の花  曾良
 
 
「奥の細道」では 「いづくにか」 ではなくて、「行く行きて」となっています。
ご住職は前者の方が「人生を考えるに相応しい・・・」考えられたのでしょう。
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    瑞泉寺山門、右柱に俳句が架かっています。ご住職が季節季節に参詣者に問いかけて下さって    います。私は、この俳句を頭に入れてお参りします。 
 
今、鎌倉では萩の花が咲き始めました。
瑞泉寺でも萩や水引が咲き始めています。
花を巡りながら、曾良の俳句を思い巡らせました。
 
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「奥の細道」の場面も加賀の山中温泉に辿り着きました。
芭蕉が曾良さんを伴って深川を出立したのは元禄2年3月27日でした。
そして加賀の山中に入ったのはもう秋風が立ち始めた7月15日(太陽暦8月29日)でした。
 
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    与謝蕪村作「奥の細道図巻」(京都博物館蔵、同館HPから転載。)右が曾良。曾良は墨染めの衣     を着て、行き倒れで死ぬ覚悟も出来ていました。
 
「奥の細道の別れの場面」です。
原作は簡潔な短文ですが、筆者が芭蕉の気持ちになって、詳しく吐露して見ようと思います。
 
私(芭蕉)はずっと、曾良さんが一緒でしたから心強いし、句作も進みました。
心底感謝しています。
ところが、山中にに来て、曾良さんは腹を病んでしまいました。
この先、伊勢の長島温泉にある大智院の住職が縁者だと言うので、曾良さんは先に行くことになりました。
曾良さんは別れが悲しかったのでしょう。
 行き行きて 倒れ伏すとも 萩の原 (曾良)
と書いて置いて行きました。
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与謝蕪村作「奥の細道図巻」の「別れの図」、右が芭蕉。出典京都博物館HPから転載
 
山中から長島まではまだ距離があります。鈴鹿峠も越えなくてはなりません。
曾良さんは「奥の細道を歩いて、更に行って、倒れ死にしたとしても・・・・萩の咲く原で死ねば本望だ・・・・」と吟じました。
 
勿論この句は私達俳人の師である西行法師を本歌取りしたものです。
   いずくにか眠り眠りて倒れ伏さんと おもふ悲しき道芝の露       (西行)
 
西行法師は歌っておいでです。
”奥州平泉に旅をして、何処か草原で眠ってしまいそのまま行き倒れてしまうかもしれない。
そう思うと道端の芝に宿した露(命)もはかなく悲しいものだ”。
 
此処までは二人で続けた旅なのに、
別れなくてはならない曾良さんの悲しみや優しさがしみじみ思われました。
残された私の無念も深いものがあります。
 
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                                 瑞泉寺の水引
 
 
私は中国の故事「隻鳧/(せきふ)の別れ」を思い出しました。
蘇武と李陵とが匈奴に捕らえられてしまいました。
苦楽を共にした二人だったのに、蘇武だけが故郷に召喚されることになり、李陵は北の僻地に残されてしまいました。
私も、一句吟じました。
   今日よりや書付消さん笠の露    (芭蕉)
 
 
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鎌倉亀ヶ谷切り通しに咲いた萩、右側は長寿寺
 
私は深川を立つ時「旅は曾良さんと二人ずれ」なので、編み笠には「同行二人」と書きました。
でも、今日からは私は一人で旅をすることになります。
そこで、編み笠の字を消す事にしました。
 
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     同じく亀ヶ谷切通し、下の道が巨福呂坂になります。左が長寿寺。
 
名作「奥の細道」は芭蕉一人では興冷めなものになっていたでしょう。
お弟子さんの曾良さんが居たから、紀行文に奥行きが出来、至高の名作になりました。
瑞泉寺のご住職はこんな事を諭されたのでしょう。
偉大な功績には必ず陰の人がいる。
曾良のような生き様や覚悟を解りなさい。
誰でもが芭蕉になれる訳でもないし、でも曾良にならなれるかも知れない。
この季節、この人生、考えてみなさい・・・、と。
 
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                     海蔵寺の滝萩は来週、彼岸辺りが盛りでしょう。
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         浄光妙寺の萩はもうじき盛りです。背後は楊貴妃観音像。
         もう一つ、白萩の名所宝戒寺はまだ咲いていません。
 
   参考:「奥の細道・別れ」原文は以下の通りです。
          
曾良は腹を病て、伊勢の国長島と云所にゆかりあれば、先立て行に、
        行き行きてたふれ伏すとも萩の原   曾良 
と書置たり。行ものゝ悲しみ、残るものゝうらみ、隻鳧のわかれて雲にまよふがごとし。
        今日よりは書付消さん笠の露     芭蕉
 
 
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奈良の略中央部に筒井があります。近鉄筒井駅から西に向かえば斑鳩に向かいます。
南に下れば橿原神宮から吉野に行けます。地勢学上の要衝の地でありました。
大和郡山城には戦国時代末期に筒井順慶が居城とし、更には豊臣秀長(秀吉の弟)が治めます。
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                           竹久夢二「筒井筒」の挿絵 幼馴染が丸い井戸を覗き込む
 
筒井の名は伊勢物語(23段)で有名です。先ずその物語を紹介します。
筒井には幼馴染の男女がいました。
二人は丸い井戸の周りで丈比べをしたり、水鏡に映る二人の顔を見たりして遊んでいました。
でも、歳を長じるに従って意識して疎遠になっていました。
二人とも縁談はあったのですが断って独り身でいました。
ある時男は歌を女に遣ります。
筒井つの 井筒にかけし まろがたけ 過ぎにけらしな 妹見ざるまに
(自分達は井戸の高さにも足りなかったのでしたが、貴女を見ない間に私は大人になって背丈が伸び   て井戸の縁をこしたようですよ、・・)
 
女は喜んで返歌します。
  くらべこし ふりわけ髪も 肩過ぎぬ 君ならずして たれかあぐべき
 (私は貴方と比べていたおかっぱの髪ももう肩より伸びましたよ、貴方以外の誰が髪上げ出来るもので  すか・・・・・私は貴方をずっと待ってたのよ・・・。)
こうして幼馴染の二人は結婚しました。
 
ところが女の実家は没落してしまいます。
夫は難波の女の所に通うようになりました。
ところが女は嫉妬もせず、怒りもしませんでした。
不審に思った男は物陰に隠れて女を観察してみました。
すると、女は綺麗に化粧をして物思いに耽っているようです。そして歌います。
    風吹けば 沖つしら浪 たつた山 よはにや君が ひとりこゆらむ
   (風が吹くと沖の白波が立つ竜田山を、夜中に貴方は一人で越えているのでしょうか。
    私は心配しながら貴方を待っているんですよ・・・・。)
女の心根に打たれた男は女の元に帰ったのでした。
 
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                                 伊勢物語絵巻
 
この話は歴史を通して日本人に好まれました。
女性の嫉妬は常にあるものです、夫の浮気も頻繁にあるものです。
でもこの女性は怒ることなく、事故が無いように気遣います・・・、
そんな心根の優しさが好まれたポイントでしょう。
女性好きの秀吉も「日本の女性はかくあるべき」、思っていた事でしょう。
 
 
秀吉が大事にした茶碗に「井戸茶碗の井筒」があります。
筒井順慶が啓上した茶碗でした。
ところがある日近習が落としてしまいます。
無惨にも茶碗は割れてしまいます。
激怒する秀吉、蒼白になる近習、騒然とする茶客、修羅場が現実になる緊迫の瞬間でした。
ところが茶客の細川幽斎が歌を詠みました。
 筒井づの五つにかけし井戸茶碗 咎をばわれがおひにけらしな

幽斎は伊勢物語の歌を引いて、近習をかばったのでした。
秀吉は機嫌を直します。
割れて価値を失った筈の茶碗に「物語」が上乗せされました。
茶碗は接がれてしまいますが、その傷跡は物語の証になりました。
「筒井筒」茶碗に名前がつきました。
  注:井戸茶碗/高麗茶碗の最高峰とされるもので、「竹の節高台」と称される高い高台をもつ。朝鮮          では日常雑器の茶碗に過ぎないが、いかにも侘び茶にふさわしい素朴で力強い味わ            いがある、と言うので武家に好まれた。幽斎の機転で筒井筒は最高の井戸茶碗にな           りました。
 
 
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                「筒井筒」重文、個人蔵、YAHOOから転載
イメージ 7
                   此方は大井戸茶碗、国宝、三井記念館蔵、同館のHPから
 
筒井筒の話は世阿弥のよって能の謡曲(筒井)になります。
お話は少し脚色され、男は在原業平、女はその妻になります。
ある日、僧侶が大和石上(いそこかみ)にあったという在原業平の屋敷跡を尋ねます。
業平の墓を詣でる女性(実は業平の妻の亡霊)に会います。
女性は業平とのなり染めや思い出話をします。
その晩僧は廃寺(在原寺跡)に宿を明かします。
夢に女が現れます。女は業平の忘れ形見の衣装を着ています。
そして「序の舞」を舞います。(中世、忘れ形見を着るとその人と一体になれると信じられていました)
 
女は「筒井筒の・・・・・」思い出の歌を口にしながら、思い出の井戸に向かいます。
そして子供の頃業平としたように、井戸の水鏡に自分の姿を映します。
其処に映じていたのは男の業平の面影でした。「何と・・・懐かしい」女は呟いて泣き崩れます。
女は花の香りを残して姿を消します。僧は目を覚まします。
世阿弥の面目を示す作品になります。
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           謡曲「筒井」、業平の妻(亡霊)は夫の形見を着て、懐かしい筒井を覗いて姿を見る。
 
江戸時代道祖神信仰が盛んになります。
特に双体道祖神が多く祀られます。
石工は理想とする夫婦の姿を思い浮かべながら道祖神を刻みます。
すると・・・・・、伊勢物語の「筒井筒」を思い出します。
幼馴染から、心も育ちも体もすべて理解しあっている「男と女」が理想だ・・・、思い起こします。
すると、男女は「筒井筒」のようになります。
とりわけ東筑摩郡山形村の双体道祖神は多くが「筒井筒」を思い起こすデザインになります。
海外でも評価される道祖神が多く刻まれました。
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    東筑魔山形村の道祖神(筒井筒と呼ばれています。
    石工も伊勢物語23段を思いながら刻んだ事でしょう。
 
文化には文学の他舞台、造形、音楽・・・様々なジャンルがあります。
相互に影響を及ぼしながら展開します。
別のジャンルでも製作者のイマジネーションを刺激して新しい作品が出来るのでしょう。
伊勢物語は最も文化的に影響を与えた文学であると思います。
高校の教科書の出てくる杜若(伊勢物語9段)は尾形光琳・光悦を刺激しました。「八橋」をデザインさせ、八橋の蒔絵硯箱は京都銘菓「八橋」を意匠さえました。
杜若も良いのですが、「筒井筒」こそ高校生に教えてあげたい・・・、思っています。
文学は言葉の文化です。
「文化の母」ともいうべきで、他のジャンルにも影響を与えました。
 
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         東筑魔の修那羅の双体道祖神。幼馴染と言うより姉弟を思わせます。
         二人の握った手に蛾が止まっていました。
 
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