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何度来ても閉館でした。
鎌倉由比ガ浜にある「吉屋信子記念館」です。
私は同氏の作品に特段興味はなかったのでしが・・・・、その屋敷の風情に心惹かれていました。
露地に面して土塀が続いています。
土塀の下三分の一が杉板張りで・・・お洒落です。
この土塀の奥では”どんな方がお住まいだったのかな?”
興味を持ったものでした。
吉屋信子記念館。昭和48年結腸癌のため死去(77歳没)。晩年この家で過ごした。死後は、事実上のパ ートナーで戸籍上は養女となっていた秘書の千代により鎌倉市に寄付された。
吉屋信子記念館の裏山を西に辿れば、川端康成邸があってその先は長谷の大仏様です。
6月3日(日)に”今日こそは開館していますように・・・!”
念じて出かけてみました。
期待通り開館していました。
入り口で確認してみると今日を外せば次回の開館は10月1日迄待たされます。
門を潜ると直ぐに手水鉢があります。ここを左に折れると大きなスダジイの根元に待屋があります。石畳を真 っ直ぐに進めば玄関に着きます。
池から眺めた主屋です。数寄屋作りの「吉田五十八」の設計です。この日は日曜画家が芝生の上でスケッ チを楽しんでいました。
私は玄関先で上品なお婆さんに呼び止められました。
”カメラのシャッターを押してくださいませんか?”
”良いですよ・・・・・” 答えると・・・、私と同年輩の男性がゾロゾロ後から出てきました。
全員で7人、紅一点ならぬ『婆一人・親爺6人』奇妙なグループです。
お婆さんお話によるとこのような事でした。
お婆さんは戦後横浜で教鞭をとって、老後は故郷の秋田に隠居していました。
ところが教え子から連絡があって、鎌倉に出て来い・・・、というわけで、
昨晩は海浜荘(由比ガ浜にある老舗旅館)に泊まりました。
今朝は先ず「吉屋信子」の記念館を訪れました。
るお婆さん先生は少女時代心ときめかせて「吉屋信子」を愛読したのでした。
そこで、今日は先ず教え子と一緒に、記念写真を撮りたい・・・、と言う事でした。
”貴方は先生ですか?皆様クラスメートで、マドンナだったのだろう・・・・・!”思いました。
お婆さんは、
”まあ、鎌倉の人はお口がお上手ね・・・・・”
笑顔が弾けました。
吉屋信子記念館、玄関脇の未央柳の花。この前で記念写真を撮りました。
吉屋信子記念館は同氏の晩年の創作活動の舞台になりました。
そして、記念館には処女作の「花物語」から、
晩年お代表作「女人平家」や「源氏物語」までの原稿や初版本が展示されています。
秋田のお婆さんもこの館に入れば「永遠の少女」に戻ります。
嬉しそうに展示に見入って居られます。
そして、この記念館の価値は「近代数寄屋建築」であることでしょう。
設計者は吉田五十八(よしだ いそや明治27(1894)〜昭和49(1974)氏でありました。
吉田五十八は太田信義(太田胃散の創業者)の第八子として生まれました。
信義は「恥ずかしながら・・・、五八歳で子が出来ました」 呟きながら五十八の名をつけたのでしょう。
生まれて直に母方の性「吉田」を名乗りました。
東京美術学校図案科に入学、設計に志します。
当時はモダニズム建築が席巻していましたので、ヨーロッパに修行に出かけます。
しかし、ドイツ・オランダではルネッサンス建築・バロック建築に圧倒されて帰国します。
自分は日本で「何をデザインするのが良いのか・・・・」見失います。
苦悩の末・・・・、日本人にはバロックを真似ても栓方ないことだ・・・、気づきます。
そして、「日本人のオリジナリティーのある建築・・・、数寄屋建築」 に関心を集中させます。
伝統の数寄屋建築の上に、モダニズム運動の精神を上乗せして・・・、数寄屋建築の近代化を志します。
南面した広い縁側、絨毯と畳の組み合わせが現代人のライフスタイルにマッチしています。
これが近代数寄屋建築の面目です。
玄関から門を見る。洋室の機能に和室の情緒が組み込まれています。
工業製品のアルミサッシも使われています。
折からブルーノ・タウトが桂離宮を激賞します。
日本人も数寄屋建築に目を戻す機運が生じます。
自ずから・・・・吉田五十八に注目が集まります。
五十八は建築界の寵児になります。
昭和35年(1960)吉田五十八は世田谷の五島美術館を、
昭和36年(1961)には青梅に玉堂美術館を設計します。
美術館や画家のアトリエが一つのジャンルでした。(小林古径・梅原龍三郎・山口蓬春など)
もう一つが寺院(中宮寺や成田山新勝寺本堂等)や歌舞伎座等の大きな空間を必要とする建築・・・。
そして何よりも数寄屋建築本来のジャンルの一般的な「家屋」でした。
記念館には鎌倉文士の群像が掲示されています。
吉屋信子氏は女性同士で写っても、男性と一緒でも何時も真ん中です。
昭和36年(1961)には吉田茂邸(大磯先年焼失)、
昭和37年(1962)にこの吉屋信子邸、昭和47年(1972)秩父宮邸(港区)等を設計します。
吉屋信子邸を見ても以下のような斬新なデザインに気づきます。
大きな平屋、寄棟の建物の外観、
室内に入れば、フラットで絨毯の敷かれた洋風な設計でありながら・・・・、南面しては広く長い廊下があって、
一段高みに畳が敷かれ、床の間が設えてあります。
座敷と椅子式生活が融合して・・・・、現代人のライフスタイルにぴったりです。
数寄屋でありながら、大壁があるのは建物全体の強度を高めている事でしょう。
障子は横棧で、壁は吹き付けで、数寄屋特有の欄間などはありません。
いたるところに工業製品(アルミ窓等)が使われています。
書斎は北向きです。
引き込戸など収容能力溢れた洋間です。
窓の外には大きな藤棚があります。
庭はそのまま山に繋がっています。
朝晩は狸も顔を出したことでしょう。
今は、草ぼうぼうです。
表の芝生も手入れが為されていません。
鎌倉市は貧乏ですから・・・、草も刈れないし、庭木の伐採も困難なのでしょう。
でも、設計が良いから・・・、建築がしっかりしていることから建物は堅牢です。
こうして保存して春・秋には無料で公開しているのだから・・・、ありがたいことです。
時間が経てば、近代的数寄屋建築の評価が定まって、この建物も保存対象になることでしょう。
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