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妖怪・幽霊

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8月12日は良い日でした。、私は満足して横になると「ラジオ深夜便」からは「坂本九」さんの歌声が響いてきます。そう、日航機事故からもう29年も経ったのです
横に鳴ると障子を掠めて笹竹が揺るぎます。そう、誰か来たようです。
家内が玄関を出て門まで歩いて行きました。
私は思います。「盆の入り」は明日ですから、お母さんは気が急いてい一晩早く来られたのだろうか?」
お母さんなら怖い事は少しもありませんが、宵が深まった今時が「逢魔時」です。幽霊も百鬼も出かける時刻です。私の家は寺の墓地に続く道に面していますから、色々な霊が通るんです。
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お盆になると必ずと言っていいほど紹介される雪女(雪子」像、丸山応挙作と伝えられるが、作風は応挙とは異なるようです。美しい若い美人画であり、黒白で描かれているので雪女の美しさを想像したものでしょう。江戸時代秀作と言えば絵画は応挙彫刻は甚五郎でした。
ボケた頭で私は考えます。
雪女は宵が深まった吹雪の晩にの雨戸を叩きました。
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歌麿の「金太郎と山姥の絵」(ウィキペィアから転載 
雪女は「山の神」かそれとも「山姥」か、私の住む相模には金時山があって、山姥が住んでいました。子供が「金太郎」で金太郎は長じて坂田金時になり、妖怪大江山酒呑童子を退治します。山姥の子が妖怪を退治するのでした。
山姥は怖いけど「山爺」は怖くありません、逆に少し滑稽で愛されています。山の神の世界でも女はしっかりしていて、生活力も旺盛で、男はボケ多存在のようです。
雪女が有名なのは小泉八雲の怪談のお蔭でしょう、でも八雲以前から全国に雪女の伝説は散らばっていて、中世には「宗祇諸国物語」に採取されています。
新潟の小千谷のお話でした。老夫婦の庵に深夜美しい女が訪れました、老夫婦は「寒かろう」心配してお風呂を奨めます。ところが女は中々風呂から出ません、怪訝に思ってお風呂を見ると、湯船には溶けかかった氷柱が浮いていました。
山形の上山にも雪女の伝説が残されていました。
山住まいの若者の庵にある晩美しい女が一夜の宿を求めて来ました。女の濡れた衣服を庵の炎で乾かしてあげました。冬の間二人は夫婦になりました。春が来て夏が近づくと女は次第に伏しがちになりました。ある朝突然女は姿を消してしまいました。女が座っていた席はしっとり濡れていて書き置きが残されていました。
「私は雪女です。優しいあなたの子供を宿したいと願っていました。幸い子が出来ましたのでこれからは山に戻ります。」
小千谷も上山も雪深く山がちな処です。流石に雪女は怖いと言うより哀れで女の性(さが)愛情の深さを思わせます。
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漫画日本の昔話(雪女」から、雪女は若者(已之助)に4人もの子供を託して山に帰ります。
「小泉八雲の雪女は何処の民話を採取したのか解りませんが、裏日本の風土を感じさせます。
改めて八雲の雪女をあらすじを説明します。
山深く若者が歳老いた父と二人で生活していました。
ある雪深い夜に突然雨戸を叩く音がします。雨戸をあけると美しい若い女が戸口に佇んでいました。「今晩一夜お泊めください」
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出典同上:大雪の夜美しい女が親子の男暮らしの家を訪れます。雪国で男暮らしをしているとこんな想いが湧くものでしょう。男一人の暮らしも老後も心配で若くて優しくて美しい女性が来てくれないかと期待してしまいます。まず妄想でしょう。
 
三人して囲炉裏端でうつらうつらしていました、若者が気づくと女はお父さんの上に屈んで息を吹きかけていました。お父さんは見る見る凍えて死んでしまいました。
女は去り際に若者に言いました。
「おまえもあの老人(父)のように殺してやろうと思ったが、おまえは若くきれいだから、助けてやることにした。だが、おまえは今夜のことを誰にも言ってはいけない。誰かに言ったら命はない」
それからしばらく経って春が来ました。若者の庵に若い女が訪れ住み込むようになりました。二人の間に4人も子供ができて幸せな毎日が続きました。
以来若者と女は夫婦として仲良く暮らしました。不思議な事に女は老いる事が無く何時までも変わらない美しさでした。
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出典同上:男が約束を破ったのでしたが女(雪女)は子供の将来を男に託して去りました。
ある夜、子供達を寝かしつけた女(お雪)に、若者が言いました。
「こうしておまえを見ていると、十八歳の頃にあった不思議な出来事を思い出す。
あの日、おまえにそっくりな美しい女に出会ったんだ。恐ろしい出来事だったが、
あれは夢だったのか」
若者がそういうと、女(お雪)は突然立ち上り、言いました。
「あの時お前が見たのは私です。私はあの時、”この出来事”を喋ったらら殺す、と言いました。だが、ここで寝ている子供達を見ていると、どうしてもお前を殺せない。どうか子供達の面倒をよく見ておくれ……」
そう言い残して女はみるみる溶けて白い霧になり、消えてしまいました。
 
私はどうしても気になります。
「母親の愛情の深さ」に共感して雪女は口伝されてきたものでしょう。ならば、深い母の愛情のお蔭で成長した子供はどうなったの?誰しも気になるものです。
お雪は子供の将来をを案じて若者を殺さなかったのでした。ならば子供達は長じてどうなったのでしょうか?きっと雪女の期待通りになった事でしょう。
金時山の山姥の子供は立派な武士になって妖怪を退治して社会の役に立ちました。ならば、雪女の子供は成長して愛情の深い立派なお坊様人になりました・・・・。そんな話が想像されます。「幽霊飴」や「小夜の中山夜泣き石の」どちらも女性の子供に託す愛情の深さを留めています。子供は長じて、立派なお坊様になりました。
 
想像ばかりしていると頭が冴えて寝られなくなります。
坂本九さんの歌声も最後です。
 
明日は戴きものの「葛きり」を戴く事にしましょう。
 
 
今朝昨晩の笹竹の辺りを確認してみました。
翡翠色の甲虫が一匹蠢いていました。
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 雪女立ち去った後には子(黄)金虫残れり
 
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鎌倉の鶴岡八幡宮の境内に二つの美術館があります。
東に鎌倉の仏像を中心に展示している「国宝館」、そして西側に「近代美術館」があります。
鎌倉が伝統と進歩的な側面を併せ持っている・・・、そんな特長を二つの美術館が示しているのでしょう。
 
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                               鶴岡八幡宮、左の生垣の奥に近代美術館があります。
 
鶴岡八幡宮の参道を歩いていると、巨大なポスターにギョッとします。
真ん中に強大な鯰が泳いでいて、その頭上に神様が乗っていて、鯰に剣を刺しています。
まるで、白鯨の背に乗った「モービィ・ディック」を思わせます。
気谷誠氏がコレクションした「鯰絵」を展示しているのです。
ポスターの迫力に誘われて見学することにしました。
 
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                            鯰を抑える鹿島大神宮(1855年) ポスターを撮影。
 
1840年代、幕末も近づくと世相は混沌としてきます。
幕府は「天保の改革」を断行し、質素倹約を旨とし、贅沢品を禁じます。
色数の多い錦絵(役者絵・美人絵等)や歌舞伎、幕府への風刺画や自由な発想の読み本も弾圧されます。
1853年には浦賀に黒船が4隻来航し、世相の混乱が加速しました。
そして、1855年(安政2年)安政の大地震が江戸の町を襲いました。
倒壊家屋2万戸、死者1万人と言われているようです。
 
大鯰が地下に棲んでいて、地震は大鯰が悪戯するものだ…、そんな信仰が一般的でした。
地震は紀伊沖から信濃の善光寺、そして江戸に連続しました。
人々は大鯰が「日の本を荒らし回っている」、とでも思ったことでしょう。
大鯰が地震を起こさないように、自分やその家族が地震の災害に遭遇しないように…、
護符の期待を込めて「鯰絵」を求めました。
ポスターの鯰絵は「鹿島大明神」が大鯰を懲らしめている…、そんな絵柄です。
この錦絵を長押に貼ったり、神棚に忍ばせて・・・・、地震の災難除けにしたものでしょう。
江戸の町だから…、鹿島大明神が多かったようですが、
伊勢神宮の神馬が鯰を蹴飛ばしている…、そんな絵図もありました。
八百万の神々が鯰を諌めている…、そんな絵図もありました。
 
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                                              近代美術館の展示から
 
鯰絵が単に「震災除け」の護符代わりの錦絵なら・・・・・、気谷氏はコレクションしなかったかもしれません。
実は「庶民が地震を起こした鯰」を歓迎している…、そんな絵が数多くあるのです。
気谷氏はそんな錦絵を好んでコレクションしたようです。
 
吉原の遊女の絵があります。
一枚は遊女達が鯰を叩いて懲らしめています。
屹度、吉原が地震後の大火で焼け落ちて、自分も逃げ延びた事実や、お友達を失った悲しみから…、
鯰を叩いているのでしょう。
でも、もう一枚は違います。
遊女は遊郭の「仮屋」に入っています。
店先には鯰顔のお客さんが沢山来ています。
地震のあと、吉原では価格引き下げを断行した事もあったでしょう。
また、復興景気で大工や左官・・・・江戸の庶民の懐が潤っていたこともあるのでしょう。
地震直後は泣いた遊女も庶民も、しばらくたつと好景気に沸いたのでしょう。
鯰は「福の神」に見えてきました。
 
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             鯰に三味線を振り上げて懲らしめている芸子や遊女が多く描かれています。
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    取りあえず遊女達は仮宅に収まり客を呼びました。震災復興に潤った江戸の庶民は押すな押すなで遊女    を買いに出かけました。庶民はみんな震災を忘れて好景気に浮かれました。
 
鯰絵は震災直後から大量に発行されました。
もとより錦絵はご禁制で、許可が必要でした。
作者も発行元も伏されて、ゲリラ的に発行されました。
だから、約2か月の間しか作品は出回らなかった…、説明されていました。
最大の問題は絵図に「世直し」の期待が込められていたからでしょう。
 
幕末になると商品経済が浸透し…、金持ちと貧乏人の貧富の差が大きくなってきました。
土地を持っている大店や札差や蔵元…、限られた者がドンドン大金持ちになり…、
貧乏人は日に日に窮してゆきました。
そんな時に安政の大地震が起きました。
大金持ちは店を失い、商品を焼き、証文も失いました。
一方、庶民は復興景気に潤いました。
一番良い思いをしたのは長屋住まいの「大工」で、左官で、鳶職だ・・・、そんな番付表もありました。
 
何のことはない・・・、鯰は困ったものだ…、思っていましたが…、実は「世直し」してくれるんじゃないか!
瞬く間に庶民にとって、鯰は歓迎され始めたのです。
幕府は「世直し鰻」に敏感に反応し、取り締まります。
 
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  右上の鯰は既に神様になっています。画面上部には「地震から改めて世が直り、家もゆったりして、人もゆっ  たりして・・・」と記されています。画面下には様々な業種の人が「鯰様有難う・・・」と祝意を述べています。
  例えば、材木屋は注文がどっと来た、鳶職はお得意様が増えた、灯心売りも車夫も屋根屋も注文が増え    た…言っています。
 
近代美術館が東日本大震災後1年を経たこの時期に鯰絵を展示したのは…、その意図は明らかです。
たった150年前の大震災で・・・・、江戸庶民が逞しく、したたかに立ち上がった姿を見直して欲しい・・・、
現代を生きる私達に期待したのでしょう。
 
大鯰が地震を引き起こす…、考えは迷信、俗信であります。
でも、”災難を転じて福と受け止める”生き方や生き様は素晴らしいと思います。
 
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            常磐津の師匠(常磐寿無事大夫)に「老松」をお稽古している鯰。鯰は「野中の一本杉」を演じ            て決めた所です。師匠の上には遊郭の「仮宅」を列挙しています。常磐津の文句は仮名垣              魯文と案内されていました。(目録を撮影)
 
鯰絵は当時の世相を反映したものですが、その風刺精神は後世に引き継がれます。
また、「護符」としての役割は1862年江戸で天然痘が大流行すると「はしか絵」に引き継がれます。
金太郎、桃太郎、鍾馗などをはしかが嫌う紅い色で描かれました。
 
江戸庶民は幕末、安政の外憂内患、天変地異に遭遇して、
逞しく、したたかに、そして遊び心豊かに生き抜きました。
鯰絵は現代に生きる私達にエールを送っているように思います。
ブログには書ききれない楽しさがあります。
是非、お出かけください。
 
 
 
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鎌倉山之内の浄智寺に狸が三匹います。
良く、田舎の宿屋や酒屋、一杯飲屋の店頭に置かれている「信楽」の陶器です。
大きな一体が親爺ならふくよかなのがお嫁さん、そして一粒種の子供が一匹、
家族三体が山裾に並んでいます。
背後には穴が開いていて、此処が狸家族の棲家のようです。
場所は方丈の裏、墓地の入り口で、周囲は竹林です。
目の前に古井戸があって、お檀家が此処で桶に水を汲んでお墓参りします。
 
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     鎌倉浄智寺裏山の三匹の狸。竹林の中、墓地の入り口にあります。
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                          子狸は酒屋の大福帳を下げています。奥が狸の棲んでいた穴です。
 
もう、10年も前でしょうか、
この狸に卒塔婆が立てられていました。
能筆で「たぬきのお墓」、背に「浄智寺山内居士建立」と書かれていました。
尋ねると、お檀家の方が朝方道路で命を落とした狸を見つけて、お寺に持って来たそうです。
そこで、和尚さんは狸が棲んでいた穴の前に葬ってあげたのだそうです。
きっと、その後に狸の陶器が置かれたのでしょう。
 
4年ほど前、私の町内(戸塚)に都市計画道路が通りました。
4車線の素晴らしい道路です。
駅までの生活道路は狭くて朝晩大渋滞ですから、
こんな道路を作るお金があるのなら生活道路の拡幅をして欲しい・・・・、思いました。
信号や横断歩道の設置場所について、戸塚土木、警察、地元で協議しました。
 
「最初の犠牲者が出たぞ!」
報告がありました。
狸が轢かれたのでした。
狸は気が弱いので、ヘッドライトに身がすくんで、車の前で止まってしまったのでしょう。
瞬間、私は浄智寺の狸を思い出しました。
 
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            狸の隣は櫓が並んでいて、冬の陽射しが石仏を優しく照らしています。(右端が狸です)
 
私の生家もお寺です。
本堂の縁の下に狸が棲んだ事がありました。
お墓の供え物を食べたり、裏山の小動物を食べたり、防空壕に保存しておいた芋などを食べていたのでしょう。
同じ屋根の下に住むのですから・・・・、可愛い奴でした。
 
狸は夫婦になると何時も一緒です。
どちらかが死ぬまで夫婦の絆は守られます。
狸の夫婦に嘘偽りはありません。
一緒に食事して、同じ場所で糞をします。
 
”獣”を篇にして”里”と書いて”狸(たぬき)”です。
”里に住む獣”とは良く出来た漢字です。
もうじき、干支は兎から龍に変わります。
私が選者なら、狸と狐、そして猫を加えます。
親しい動物を干支に加えないのは残念です。
架空の動物や害を為す動物を干支にするのなら、身近で心の通った動物を選ぶべきです。
 
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   瑞泉寺のムジナ塚。沢山の石仏の真ん中に法衣を着た狸が鎮座しています。
 
 
鎌倉二階堂の瑞泉寺には「ムジナ塚」があります。
山門を見下ろす小高い丘の上です。
頭上は藪椿が覆っています。
その上には山楓ですから、とても綺麗です。
 
10体ほどの石仏が車座に座っています。
石仏の輪の中心に狸がいます。
狸はお坊さんの法衣を着ていて、偉そうです。
周囲の石仏はお地蔵さんだったり観音様だったり、様々です。
たとえ狸が仏になったとしても、地蔵や観音よりも上位に座るのはシックリ行きません。
所詮狸は畜生でしょう・・・・?
でも瑞泉寺の和尚さんは、地蔵や観音より狸を上位にしたのです。
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                              何処のお寺にも居そうな狸和尚のお顔です。
 
この狸にも説話があります。
和尚さんと狸との交流です。
一寸した事故で狸が亡くなってしまいます。
それを悼んだ和尚様が立派な塚に葬ったのでした。
(この話は以下に書きました) http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/12959212.html
 
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                              瑞泉寺、ムジナ塚からは山門が見渡せます。
 
千葉の木更津に証誠寺があります。
童謡で有名な「狸囃子」のお寺です。
狸が和尚さんを驚かそうと、総出で腹を出して鼓を打ちます。
和尚さんは負けじと三味線を弾きます。
三日目の晩、狸の腹の皮が破れてしまいます。
 
何処のお寺の伝説だか忘れてしまいました、こんな話がありました。
和尚さんは寂しく暮らしていました。
狸が庭先に姿を現すようになりました。
和尚さんは狸を可愛がってあげました。
ある、寒い晩、囲炉裏で暖を取っていると、雨戸をたたく音がしました。
和尚さんが雨戸を開くと、美しい女が居ました。
 
和尚さんは、狸が遊びに来たか・・・・!直感しましたが、囲炉裏に招いて、残りの雑炊を奨めました。
美女は腹は満ちたし、暖かいのでついウトウト寝てしまいました。
和尚さんが見れば、美女から尻尾が出て、着物の前がはだけて白い太ももが覗いています。
”狸を驚かせてやろう・・・”
和尚さんに悪戯心がわきあがって・・・・、囲炉裏の残り火を持ちます。
未だ、少し赤いものが見える炭を美女の太ももに差し込んでしまいます。
美女は飛び上がって驚きます。
その瞬間に心臓が破裂して死んでしまいました。
囲炉裏端に狸が一匹息絶えていました。
 
和尚さんは、心底悔やみます。
そして、懇ろに葬ってあげるのでした・・・。
また、寂しいわび住まいが始まりました。
 
どの、話にも和尚さんと狸の心の交流があります。
ただ、瑞泉寺の和尚さんも美女の和尚さんも、悪戯心が災いになってしまいました。
でも、中世から現代まで狸と和尚さんは心の通う関係にありました。
 
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    正月前の閑静な浄智寺、正面の茅葺屋根が方丈、その向うに竹林があって狸のお墓があります。
 
 
 
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宮城野萩が招いた幽霊

万葉集で最も歌われた花は「萩」でした。
奈良の「山之辺道」には今頃は、萩が咲いて頭を垂れている事でしょう。
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  鎌倉扇ガ谷浄光明寺の宮城野萩。このお寺の裏山には冷泉為相(鎌倉時代和歌の名手)の墓があります。
 
萩といえば大半が「宮城野萩」です。
赤紫の小花が細い枝に咲きます。
普段でも細枝はしなっていますが、花の重みに垂れた姿は物思いに沈んだ女性の姿を思わせます。
「異性への思い」を託すには格好な花だったのでしょう。
     宮城野の本あらのこはぎ露を重み 風をまつこときみをこそ待て (古今集)
 昔からの名所である宮城野の本荒の里に咲く萩は頭を垂れています。それは花に露が重いからで   す。萩の花が秋風が吹いて露を払ってくれるように、私も貴方をお持ちしていますよ・・・。
 
 
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                          鎌倉の宮城野萩(巨福呂坂円応寺)
         
仙台市宮城野区、奈良時代には国分寺、薬師堂、国分尼寺等がありました。
橘為仲は陸奥守の任を終わって都に帰るとき、萩を長櫃12に入れました。
「都に着く頃に花が咲くだろう・・・・、都人を喜ばせてあげたい」計画したのでした。
 
宮城野は歌枕にもなっています。
都人は「宮城野の萩」に憧れを持っていたのでしょう。
江戸時代伊達藩は宮城野一帯を禁野として伐採を禁じ、宮城野萩を保護しました。
野守と呼ばれる「野原の番人」を置きました。
其処も、今は仙台の住宅地になってしまいました。
 
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      宮城野萩は花が咲くとその重みで垂れ下がること、更に夜露が葉に留まる事にあります。
 
この宮城野に「幽霊の話」が残されています。
美しい、古代らしい話ですから紹介します。
 
松島の雄島に見仏上人が住んでいました
上人には若くて聡明な宮千代と言う名の少年が仕えていました。
宮千代は常々「和歌の道を究めたいものだ」と思っていました。
そこで、上人に京の都に上りたい、頼みましたが、上人は許してくれませんでした。
「京の都は未だお前には危険が多すぎる」
しかし宮千代の京への憧れは絶ち難く、ある時一人で旅立ってしまいました。
 
多賀を過ぎて、宮城野原に着いたときは真夜中でした。
お月様が煌々と照り輝いていました。
萩の葉に降り落ちた露が月の光を受けて照り輝いていました。
歌心に誘われた宮千代は吟じました。
「月は露 つゆは草葉の宿借りて」
上の句は出来たのでしたが、下の句が続きません。
宮城野原で苦吟が続きました。
そのまま寝込んで、何時しか息絶えてしまいました。
 
哀れに思った里人が宮千代の死体を弔ってあげたのでした。
しかし、夜な夜な宮城野原に幽霊が出ると言う噂が立ちました。
その幽霊は「月は露つゆは草葉の宿借りて」と口ずさむというのです。 
その噂を耳にした見仏上人、ある夜宮城野原を訪れ塚の前にさしか かると、
墓の下から「月は露つゆは草葉の宿借りて」と言う歌が聞こえてきました。
 
すかさず、見仏上人「それこそそれよ宮城野の原」という下の句を供てあげました。
すると、二度と宮千代の幽霊は出なくなりました。
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歌に命を書ける、命以上に歌に心を入れ込む、と言う意味では平家物語の平忠度を思わせます。
「さざなみや 志賀の都は 荒れにしを 昔ながらの 山桜かな」 (千載集66)
 
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  浄光明寺の櫓 冷泉家の関係、大伴家(八幡宮の宮司)の関係で美しい墓標が目立    ちます。
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      大伴家墓標(浄光明寺)
 
古代の幽霊は「歌や花に思いを残して救われない魂」がこの世に漂っているものが多いのです。
中世には「家族や地域のことが気になって、救われない魂」が現世に留まります。
近世には「人への恨みを果たす為、現世に復讐しようとする魂」が出現します。
幽霊の変遷はそのまま、人間の深化を示しているように思われます。
 
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浄光明寺墓地 背後は櫓群です
 
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昭和20年代、どの家でも蚊帳を吊って夏を過ごしました。
蚊帳に入ると、海の底に沈んだようで楽しみでした。
布団に入ると、祖母が幽霊の話をしました。
勿論、祖母の話ですから「飴屋の幽霊」のような説話が多かったのでしたが・・・・。
「今、二人で蚊帳を吊っただろう・・・、4隅の最後に吊った隅は何処かな?其処から幽霊が出るよ・・・」
私は最後に蚊帳を張った隅を見ます。
蚊帳の外には結界を恨めしげに見やる幽霊が・・・・・、
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                    歌川国歳「小兵次」、蚊帳から覗く幽霊. 
蚊帳の役割は蚊を防ぐ事です。
でも、その中に入った安心感は「結界」を張られているように思ったのでしょう。
だから、三人で張った蚊帳や、最後の吊った隅に幽霊が出る・・・・、そんな話が出たのでしょう。
人は囲まれていると安心します。
「結界」もその一つでしょう。
放たれると、心配でなりません。
 
 
 
江戸三大幽霊と言えば「番町皿屋敷のお菊」「東海道四谷怪談のお岩」、そして「眞景 累ヶ 淵」の累(かさね)であります。どれも、実話を素材に鶴屋南北が歌舞伎に作り上げたものです。
能の世阿弥の位置に歌舞伎の鶴屋南北があります。
此処では、「累ヶ 淵」を紹介します。
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      葛飾北斎画、四谷怪談の話題の場面「提灯通し(提灯が燃えて、中からお岩の幽霊が飛び出       す)」を描いた。
 
累(かさね)と助の亡霊】
この歌舞伎は
4代目鶴屋南北が文政6年(1823)に発表したものでした。
下総国岡田郡羽生村(茨城県水海道市)に「累」という、醜い女が住んでいました。
この女には先祖伝来の田畑がありました。
その田畑に目ががくらんだ与右衛門は入り婿になります。
与右衛門は、ひそかに累を殺そうと決意します。
与右衛門は、累を川の中へ突き落とし、首を絞めて殺します。
そして、累の死体を同村の法蔵寺に運び葬りました。

累の財産を得た与右衛門は、新しい女房を迎えます。
しかし女房は相次いでなくなり、ようやく6人目の女房との間に娘が一人生まれました。
菊と名付けたましたが、娘が13歳になった年に、その母も死んでしまいました。
菊に金五郎という婿をとって与右衛門の老いの助けとしました。
 
翌年菊が煩い、口から泡をふいて苦しみながら訴えます。
「わたしは菊ではない。そなたの妻の累だ。26年前、よくもわたしを責め殺したな。地獄から訪れて菊の体に入れ替わり、おのれを責め殺すのだ!」
と与右衛門につかみかかって来ました。
必死の思いで与右衛門は、法蔵寺に逃げ込みました。
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      左「女房・かさね」を<5>岩井半四郎。右「与右衛門」を5代目松本幸四郎が演じるポスタ        ー。(演劇博物館)

怨霊をなだめようとする村人に対し、累の死霊は石仏一体の建立を求めました。
村人がその要求を入れても、死霊は菊から去ろうとしません。
祐天上人(目黒の祐天寺の開山)が、この累の話を聞き、累の霊を成仏させました。

累の死霊も成仏したと人々が安堵していましたが、菊がまた
も死霊に悩まされていると言います。
祐天上人が再び駆けつけて、菊にとりついた死霊に正体に問いました。
すると「助」と名のる子供の霊があらわれました。
61年前、累の父の先代与右衛門が、醜い連れ子の「助」を川の中へ投げ込んで殺したこと、
また翌年生まれた女の子が、累であったことなどが明らかになりました。
天上人が、十念を授けると、
助の霊もついに成仏をとげたという。
 
目黒祐天寺の本堂横には大絵馬が掛かっています。
「累ヶ 淵」の故事を伝えています。
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祐天寺の巨大絵馬
 
中世の幽霊に比べると、以下が特長であり、時代が進んでいることが分かります。
1、幽霊の原因が財産に目がくらんで、家内を殺した事実にある。
2、幽霊は恨みを果たすため、加害者を何処までも追い詰める。
「累ヶ 淵」の場合は祐天上人の法力によって加害者は殺されないが、
多くの場合殺すまで追い回します。
 
文化文政時代(19世紀)になりますと、商工経済は発展していました。
町人は貨幣の力を持って、武士を圧倒し、農民も新田開発を成功させていました。
「社会は人間の努力次第で変わるものだ、問題は自分自身の主体的に働きかけ」にある、
考えるようになりました。
支配的な封建思想や、仏教思想を覆す合理的な考え方が生まれます。
社会や秩序を批判する考え方、実践哲学も尊ばれます。
心学の石田梅岩、農本主義ともいえる安藤昌益、報徳思想の二宮尊徳などがその代表でしょう。
何れも、主体的に社会や自然に働きかけて、より豊かな収穫や収益、生活を実現しようとします。
 
丸山真男は19世紀のこうした考え方を『日本政治思想史研究』に著しました。
19世紀になって、日本人の社会に対して考え方が大変革しました。
運命的な家で生まれたのだから、この秩序の範囲内で生きる他無い」と考えられてきたものが、
「運命と諦められていた社会関係を自分自身の側から把握し、変革をトライした」と。
我が国近世も西欧と同じく、
「主体性を自覚した人間が社会に働きかけることを意識した」ところから始まります。
近代化の準備は19世紀には用意されていた・・・・、丸山氏の研究成果でした。
 
 
上記は社会観の変革でしたが、死生観にも、幽霊にも大変革を起こし、
前述の「累ヶ 淵」の特長のようになりました。
 
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          応挙の「お雪」、応挙の幽霊は高名で「落語の道具屋」では軸の幽霊が出て来て、お           酌をしてくれます。こんな美女なら・・・・、
 
 
 
古川柳に次があります。
  講釈師、冬は義士、夏はお化けで飯を食い
 
浄瑠璃に、歌舞伎に、浮世絵に、講談に「幽霊もの」がもてはやされました。
円山応挙の幽霊がもてはやされ、一幅の幽霊の軸で御茶屋が繁盛して、落語にもなりました。
幽霊の絵のあるお寺も人気になりました。
歌舞伎などでは「もっともっと、恐いものを見せたい・・・」工夫を凝らします。
平和な時代、夏には「恐いものが見たい・・・」思いもあったでしょう。
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               四谷怪談の見せ場「戸板返し」の図、天保2年(1832)
              伊右衛門が戸板を引き上げるとお岩の怨霊があらわれる。
 
家などの束縛から解放されて自由になった人間は、改めて自分自身を見つめざるを得ませんでした。
心の中を見つめると、其処には
「金のためなら人を殺す」「愛が醒めれば家内も殺す自分」がいることを自覚しました。
だから・・・・、「若しかしたら自分自身が累ヶ淵の与右衛門になるかもしれない」思いながら、
怪談を見つめました。
「家」と言う「結界」から解き放たれて「個」となった人は、
「近世と言う名の十字架」を背負ったようなものでした。
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戸板を裏返しすると無念の形相の小兵に変わる。 
 
鶴屋南北から高々200年の現代です。
ジャパンホラーは近年ハリウッドでリメイクされ、一層評価を高めています。
文化作品は民族の歴史文化が深いほど、その重なりが多いほど奥行きが出来ます。
今後、様々な作品が発表されることでしょう。
幽霊文化は、日本が世界一強い分野であると思います。
 
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鮨崎英朋 画
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