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私の宗教観

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私も人生の第四コーナーを廻った自覚が強くなってきました。
新聞を視れば「遺言」だ「終就」だ活字が躍っています。栄六輔さんの「大遺言」も読みました。でも、天才脚本家も粋な生き方だけが綴られていて,少しも心に響きませんでした。テーマを列挙すれば、『知識に予算はかからない」「叱ってくれる人を探す」「人間関係に順位をつけない」「人間は今が一番若い」「生きているだけで面白い」「聞くは話すより難しい」「笑うことは武器になる」と云った話題で、『粋に生きる上では役立つ知恵』であっても、遺言というには寂しすぎます。
「栄六輔さんなら、もっと日本文化や江戸文化の本質に迫る遺言があったろうに!」思いました。そう想いながら見直すと栄六輔さんの自著ではなくてお孫さんがお祖父さんの言葉を想い起したり、栄さんの知り合いに訊きまわって上梓した本でした。
地下の栄さんは『遺言』を江戸っ子の為に書いておけば良かった苦虫を押し殺しておいででしょう。
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最近養老孟司氏の「遺言」が出版されました。脳科学者であると同時に「昆虫好き」で「文化への造詣も深い養老氏」の著書ですから期待を持って読みました。
ベストセラーになった「バカの壁」は養老氏の話をライターが口述筆記して出版したモノで、養老氏は滅多に自著しないのだそうです。でも「遺言」は長い航海の時間を有効に過ごす為に自ら筆を執ったのだそうで。期待を持って熟読しました。
「養老孟司氏が一生をかけて言いたかった事が「遺言」に書かれて居る筈だ、」思ったのでした。養老氏らしく、 『梁塵秘抄』の『 遊びをせんとや生れけむ戯れせんとや生れけん、 」から書き出しておいでです。
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此れは岩波古典体系の「梁塵秘抄」です。
後白河法皇が謳うと反感が強くなりますが屹度時代の変革期に生きた人には「何故自分は産まれたのだろう?”は共通した「疑問」だったのでしょう。現代人も「人生の幕引き」が近づいて自問自答する人も多い事でしょう。どうせ「何の甲斐性も無い人生」です。「せめて面白可笑しく過ごしたい」というのはヘレニズム哲学の古くて新しい人生観です。一般に「エピクロス派」は「快楽主義」と呼ばれます。反対の人生観がストア派で「禁欲主義」という事になります。養老孟司氏も私と同じ栄光学園の卒業生ですからカソリックの倫理観で育っておいでしょう。従って禁欲主義に近い倫理観の中で青春時代を過ごされたと思います。でも脳科学者の遺言ですから科学者らしい視点があると期待されます。
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此れは国立西洋美術館の前庭に在るロダン作地獄門です。地獄門はダンテ作「神曲」で快楽主義者が「「死後行く「地獄の門」の意味で、西洋中世に席捲された「禁欲」それとも「快楽」二者択一の倫理観でした。養老孟司氏は”そんな選択は無意味である”と遺言しておきたかったようです。
第一章は「絶対音感」の説明に始まります。動物は総じて絶対音感の持ち主で一つの周波数の音しか聞き分けられないというのです。人間も産まれて直ぐは「絶対音感」の持ち主ですが、「社会生活を営むうちに絶対音感を失い、ノイズに慣れることに依って多くの人の言葉を聞き分ける事が出来るようになる」、というのです。「人間の耳は元々ピアノの鍵盤のようにな有毛細胞が並んでいるのだそうです。絶対音感を持っているピアニストは脳の中に鍵盤に似たイメージが出来ていて、耳の音感組織が直結していて、一定の周波数の音を聞き分けられのだそうです。でも社会生活を営む上で雑音を訊き分ける為に絶対音感を失うというのです。鶯の囀りも絶対音感で、雄の鶯が雌の鶯に聞こえるようにしているのだそうです。
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これは「雲雀」です。雄の雲雀は自分の縄張りを主張する為に囀り雌を誘っているのでありますから、他の動物に聞かれる必要も無いので絶対音感の持ち主なのだそうです

第二章は「意味の無いモノに在る意味」と題して「感覚所与」を説明されます。「感覚所与」とは哲学用語だそうで「耳に音が聞こえる」「目に光が入る」事によって先ず感覚器官に与えられる印象と云った意味だそうです。絶対音感で云えば耳の感覚器でとらえた感覚が脳の意識意識に伝えられる前の状態で、耳の感覚器を刺激した鍵盤状の感覚が脳に伝播され意識と記憶と交流するのでしょう。
「カメラアイ」があります。カメラアイとは観たモノを瞬間記憶してしまう能力です。 カメラアイは網膜の映像がストレートに「脳の意識や記憶能力が直結」してしまう能力でしょう。屹度鷲や鷹と云った猛禽類はカメラアイで、一度狙った地上の小動物を忘れずに追跡出来る能力になっているのでしょう。
動物は総て感覚所与をベースに生きる事で「個の生存」を確保します。一方人間は感覚所与を忘れて「人間同士共生する生き方」を選びます。「個の生存」よりも「種の保存」を優先しているのです。その為には人間は『結果絶対音感を失い「ノイズ」に慣れてる必要もあるしカメラアイは必要が無く、視た色や形を象形文字等で表わして人間同士のコミュニケーションを容易にしているのでしょう。
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熊谷守一画伯の猫熊谷守一画伯は観察を重ねて感覚所与に映った映像を画布に描いたのかもしれません。人間は猫を「黒」「白」「ミケ」と名付ければ大凡の猫の姿が解りますが、それは意識と云った脳の作業の成果なのでしょう。
第三章は「人は何故イコールを理解したのか」第四章は「意識と感覚の衝突」に移って、終章に向かって意識の説明に重点は移って行きます。睡眠している間は意識が無い事、意識は在っても身体が動かない状態を「金縛り」と云ったり、意識だけが残って感覚の無い状態を「臨死体験」と云ったりする、説明します。
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現代の臨死体験を描いた絵ヒエロニムス・ボス作「Ascent of the Blessed」。トンネルの向こうに光の体験が描かれている。出典:ウキペディア。日本霊異記や今昔物語には臨死体験に基づく地獄の描写が多い。
眠ってしまうと人間は意識を失います。でも睡眠中も脳は活動しているのだそうです。死んでしまうと脳は活動を停止してしまいます。「睡眠」「臨死体験」「死」は「意識」と「身体」のギャップによって違いが生じるそうです。意識の中枢器官は脳ですから脳も身体も活動している状態が「生きている」状態だそうです。体が休んで意識も休んでいる状態が睡眠だそうで、睡眠中の脳は記憶や思考を脳で秩序立てて整理しているのだそうです。「金縛り」意識は覚醒しているのに、身体が意の儘に動かない状態だそうです。「臨死体験」は心停止状態にありながら意識は完全には覚醒しておらず意識スイッチが入りかけた状態で意識が浮遊する状態だそうです。私も脳梗塞で集中治療室に居た間、臨死体験しました。青春を過ごした奈良の峰々や堂塔の甍を見下ろしていたのですが。感覚系は止っていました。気付いたのはワイフが私の手を揉んでいるのを気付いた時でした。”体は死んでも意識は生きている”状態を体験したのでしたが。古代末期であれば臨死体験が地獄を視て来た事にもなるのでしょう。
人間も生物である以上、必ず死にます。問題は”人間だけに発達した「意識」も身体の死と同時に死ぬか?”と云った問題でしょう、体が死ねば血液は脳に届きません。脳も身体に追随して死んでしまうと考えるのが自然でしょう。)スコラ哲学やダンテのように心(意識)は不滅で快楽主義者は地獄に行き、禁欲主義者は天国に行くと考えるのは不自然です。という事は、梁塵秘抄のように『遊びをする為に産まれて来た』自覚は尊いと思います。
でも感覚所与の儘に生きる事は「人間が二足歩行して共同生活を始めて以来」不可能です。感覚所与を活かして共同生活を営む上で大事なのは熊谷守一のように「生きる楽しみ」に浸ルイ着方の様に思えます。それは期せずも「アートな生き様です。養老孟司氏は第7章に「人は何故アートを求めるのか?」記しておいでです。「アートは解毒剤である」とか「コンピュータでアートは出来ない」と云ったテーマも付記されました。「意識も感覚も同じく大切なのだそうです。
今春は盛りです。私の感覚にも強く刺激してくれます。今年も何時もの友人と桜を観ながら旧街道を旅行する予定です。友人と一緒に千年も生き抜いてきた桜を視る事は楽しい事です。養老氏の「遺言」に従えば人を人間たらしめているのは共同生活を可能にしている「意識」です。今年も友人を大切にしながら四季を楽しむ事にしましょう。


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旅行ブログ

水子の矛盾

相模原の「山百合苑」の惨事件が発生してから1年半が経過しました。事件のその後を追った報道が盛んです。山百合苑」惨事件とは昨年の7月26日に発覚しました。旧職員が特別養護老人ホームの患者19人を無差別に殺害したのでした。
犯人にNHKがインタビューをしていました。犯人は自分が犯した犯罪である事は認めながらも「患者は生きていても社会悪であるから」と発言して、一向に後悔したり犠牲者やその家族を傷む気配を見せません。インタビュアーは堪えきれずに「貴方の家族でも身障者なら殺すのですか?」訊けば犯人は無口になってしまいます。
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津久井の山百合苑事件発生から1年半経ちましたが事件の全容も施設の建て替えも何も決まっていません。
テレビを見ながら考えました。良く似た構造の法律に認められた「大量殺人」は昔から在ったし、今もありそうだ。
昭和23年我国では「優生保護法」が施行されました。
この法律の目的は二つありました。一つは「出産しようとする母体の保護です」。もう一つが問題です。「優生上の見地から不良な子孫の出生を防止する」事。要するに「
これから産まれてくるベビーに障害がある事が判明したら。下しても良い」と認めたのです。翌24年には「産まれようとする命を下す事由に経済的事情が加えられた事から、現在では親の任意の儘に下せるようになってしまいました。
「病気や障害をもつ子どもが生まれて こないようにする」とか「優秀な子や美人の出生を促す」と云った施策自体に問題が在りそうです。この発想自体に内包されている矛盾が出生率を下げていると思うのです。

「水子」とは云い得て妙な言葉です。「水子」とは名前も付けられずに流産 または人工妊娠中絶により死亡した胎児のことを云います。「水に流す」とか古事記の「蛭子」が語源でしょう。
私は『優生保護法を施行していながら山百合苑の犯人を断罪する事は矛盾ではないか?』思うのです。
「人の命」にかかわる同じような矛盾はアッチコッチに在ります。
二年前の夏私は京都に「地蔵盆」を観に出かけました。
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京大近くの百万辺での地蔵盆、京都の路地の奥にはこんな会場が設えられて地蔵盆が過ぎて行きます。「地蔵盆」は昔は子供が死ぬことが多かったので、その霊を地域で弔う伝統行事で主役は子供達です。
日中は町屋の中の露地で繰り広げられる地蔵盆を視て廻り、夕方は嵯峨野の奥の「念仏寺」に詣でました。
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京都化野の念仏寺地蔵盆の夜には蝋燭が灯され幻想的な光景になりました。
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これは愛宕念仏寺の羅漢像西村公朝氏の尽力で見違えるようになりました。
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此方は愛宕念仏寺の水子地蔵尊
「念仏寺」は応仁の乱等で発生した無縁仏」を祀ったお寺です。学生時代にもこの寺に上りました。でも記憶していた念仏寺と随分変わっていました。無縁仏の墓標に勝る数の水子地蔵尊が祀られていたのです。「念仏寺」ではなく「水子寺」に変ってしまったのです。
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これは「化野弘正寺」の水子地蔵尊です。現代人の「悪業」を視るようで、背筋に悪寒が走ります。
鎌倉の長谷寺に水子地蔵尊が多く祀られているのは納得です。江戸時代盛んであった「観音講」があって、早逝した子供の霊を弔ったものでしたから、子安観音に代わって水子地蔵も祀られているのでしょう。
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此方は鎌倉長谷寺の水子地蔵尊。前面のお地蔵さんは赤いので赤子ですが、後列は赤子にも満たずに流された水子の霊を祀った水子地蔵尊です。
でも「化野念仏寺」や「愛宕念仏寺/おたぎねんぶつ寺)」は別です。
本来社会の軋轢に遇って無念にも落命した無縁仏を祀ったお寺です。その寺が水子供養の寺に変っている事実に愕然としました。
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奈良山の辺の「帯解寺」の水子地蔵尊。美智子妃殿下に腹帯を届けた古刹も水子地蔵が勝る状況になっていました。
奈良山の辺の「帯解寺」も同様です。美智子妃殿下の腹帯をお届けした古刹は今では水子地蔵で一杯なのです。元気なベビーが産まれて来るように祈願した寺が水子として扱われた霊を弔う寺になってしまった事実は何れ手厳しく非難されるでしょう。

「水子」と似た行為に「間引き」があります。私達は次の様に教わりました。
『江戸時代飢饉に瀕して「子供を育て切れない」覚悟した農家は子供達の中から優秀な子を残して女子や体力の無い子は殺してしまったそれを「間引き」と呼びます。お百姓が畑に瓜や菜の種を播いて発芽した苗の内で生育の良いモノは残すものの生育の劣る苗は抜いてしまう(これを農家用語で『間引き』と呼び、家族に対しても間引きを実施した。これは農家が非倫理的な訳では無く、農家の生産力が無かったのが原因である。「間引き」は柳田国男が「茨城の間引き絵馬」を指摘した事から民俗学の脚光を浴び続けて来ました。結果間引きを指摘した文献を数多く発見してきました。
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此れは典型的な「間引き絵馬」です。多賀城にある「東北歴史博物館」蔵間引きを戒めた絵馬ですが、従来この様な絵馬が北関東から東北に多く残されていた事実から、貧困地帯では「間引き」が盛んに行われた、と解説されましたが、最近は地方の英明な藩主が”子供を大切に育てなさい”教化した絵であると説明するようになりました。歴史家の本流がマルクス主義者で占められていたのが、最近は信条に依らずに実証的に考えるようになったので、変ったモノと思います。
最近の研究成果では「間引き絵馬」は間引きが頻発していた証拠では無くて、「子供を大切にするように農家を指導した絵解きであると云った主張が主流になって来ました。絵馬が多く発見されるのは会津や水戸と云った篤農藩主の地に多く残されているのもその証左です。
例えば回向院は両国にある寺ですが。寛政5年(1739)松平定信が水子塚を建てさせ。水子供養をさせた事で創建されました。回向院にイタコを集めて水子供養をしたのでした。江戸表で水子供養をしたのですから。陸奥佐竹藩でも盛んに水子供養をしたものと考えられます。江戸で水子供養をして「子供を大事に育てよう」運動を始めて地方の藩も水子供養をしたと思われます。
江戸時代は死者の霊は空中に浮遊していて、誰かのお腹に入って産まれると信じられていました。子供を増やすにはイタコに霊を呼ばせて、「産まれて欲しい」想ったのです。
「水子寺」は子供を増やしたいと願って建てられたのでした。空中を浮遊している霊に呼びかけて女性のお腹に入って貰おうとしたのでした。人口は国や藩と云った全体の期待と子供を産む女性の考えが一致した時には急増します。明治維新では国力増強を図った国家と、自由恋愛や子育てをしたいとする女性の考えが一致したので一人の女性が7人も8人も子供を産んで育てたのでした。
終戦後も漸く平和になって女性の描く将来像が明るくなったのでベビーブームになって「団塊」が出来たのでした。国も所得倍増政策を標榜し、昭和憲法を喧伝したので国の用意した施策と女性の期待とが一致しました。結果人口の爆発を誘発しました。
現代は国の施策と女性の描く将来像が逆方向です。
子供は一人育てるのが精一杯で、二人目三人目と増えれば家庭の経済が成り立たない、思えば、出生率は下降するばかりです。
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此れは出生率の推移です。江戸時代を通じて出生率は5%あったのでしたが、江戸時代の子供は半数が7歳に満たずに亡くなってしまったので、江戸時代を通して人口は3千万人を超せませんでした。明治維新と終戦の二度に渡って出生率が上昇したのは国の施策と家庭の目標が一致したからです。更に衛生観念の向上や医学の進歩によって人口爆発して4倍増の1.2億人になりました。
現代の水子供養は「期待されない妊娠によって堕胎したりした子の霊を供養するモノです。水子地蔵尊は『水子の霊は祟るし再度妊娠できないといった風評や堕胎した女性の心の負い目を軽くする呪術です』が、定信の時代の考えは違いました。子供を増やして国を栄えさせたいと云った施策が「イタコによる霊呼び/水子供養」でした。
出生率を上昇させるには『家庭の経済的合理性を犠牲にしてでも子育てに邁進したい親の気持ちを変えるほどの未来図を提供』しなくてはなりません。「GNP極大の為に優秀な労働力が欲しい」言うだけでは「そんなら、労働力は移民に任せた方が良い」言われるだけです。
「国の描く未来図」と「女性の描く将来設計図」とが逆方向を向いている、この矛盾こそ見逃せないと思うのです。加えて問題なのは人工授精です。人工授精は夫婦どちたかの何らかの肉体的事由によって妊娠出産できない場合に限って医師の手助けで子を産めるようにした医学的技術進歩です。江戸時代は子供は「神様からの預かりモノ」と思われてきました。でも現代は医学技術の進歩に眼を奪われて子供は思いの儘得られるモノと考えるようになってしまいました。出来れば優秀な遺伝子を使いたいとか美人の遺伝子が欲しい等と尊大な期待が寄せられてしまいます。「地獄の沙汰も金次第」から「妊娠出産も金次第」の風潮を生んでしまいました。仏教用語に「無明」があります。命に係わる現代の世相はまさに「無明」そのものです。
今朝(2/29)の朝刊には「出生前検査の拡大」の記事が新聞一面に踊っていました。
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2/29の読売新聞朝刊羊水検査をして陽性なら人工中絶を奨める論調です。
新聞記者の目は「出生前の洋水検査(20万円)をすれば略百パーセント障害児の確認が出来るので。検査を拡大して費用も捻出すべきである」主張しています。図も問題です。障害児の例に「ダウン症」をあげています。国やマスコミが率先して障害差別化しているようでは誰がこの矛盾を正すのか五里霧中です。金沢翔子さんの泣き顔が眼に浮かびます。


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庶民のお墓の民俗学

ズット考えている事があります「自分のお墓を如何しようか?」という事です。
父が生前「お前の墓は此処だ!山の中に」指差した場所がありました。その場所も含めて私の生家(寺院)の裏山は墓苑に開発されて分譲されてしまいました。ソロソロ自分の墓を用意しておかなくてはなりません。兄達は夫々自宅の近くに現代的な墓地を手当てしました。わたしも、夫婦の常世を手当てしなければなりません。
江戸時代、寺の中に墓地を手当てした人は成功者か豪農だけでした。庶民は山や畑の脇に穴を掘って埋めました。豪農は街中にある寺に立派な墓標を建てて、寺の墓に子孫や関係者が墓参(参り墓)して、遺体は山の中や畑の脇に埋めました。良く東北を旅していると、立派な一本桜が在って、その根元にお地蔵さんが立っている光景を目にします。それが「埋め墓」です。これを柳田国男は「両墓制」と名付けました。
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赤城山の西水上街道上発地にある地蔵桜。埋め墓であったと思われます。
遺体や遺骨の処理だけであれば簡単です。法律に従って、公的な焼き場で灰にして貰い、然るべき処に埋めて貰うか、散骨して貰えば済みます。葬式の方法も遺骨の処理も、憲法で「信教の自由」が認められていますから、遺言にでもしておけば、「好きな葬儀をして貰い好きな墓に埋められる」のです。海や川や空中に散骨しても良いのです。
問題は死を覚悟して「生きた証をこの世に残したいと思う」未練心です。人類は数万年昔から、肉体と霊とは別だと信じて来ました。近代医学でさえ従来「死後硬直」を死の判断根拠にしていたモノを「息が止った」「心臓の鼓動が止った」「脳の活動が止った」様々な「死の判定」基準があります。数万年の間日本人は「死の判定」は長い「殯」(もがり)を経て、何も起こらなければ「死」を判断してきました。「殯」の間に死者が現世に蘇る事があると信じていたのでした。
今上天皇は昭和天皇の「殯」が済む迄長い時間を要した事から、日本経済社会の活動が停滞した事を懸念されて「生前退位」をお口にされたのでした。生前退位が認められその翌日には皇太子の「天皇即位」が決まりました。死の判断に「殯」は不必要になったのでした。
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今上天皇は昭和天皇の「殯」によって国が委縮してしまった事に心を傷められて「生前退位」をお口にされたのでした。私も訳が分からずも、歴史の変換点である事を意識してこのご記帳の列に加わりました。
死を覚悟して、「自分はこの世に出て何も残せなかった」と思う程情けない事はありません。墓ふが「子供や孫が私を想い起して線香でも奉げてくれる標識」と思えば意義が在るのかもしれません。でも、私の墓を用意するくらいなら孫の成長のお祝いをあげた方がズット喜ばれるし、子孫の記憶の中に生き残れそうです。
大体お墓に拘るのは日本民俗の特長です。インド人や海洋民族は骨を川や海に流してお墓には何の執着もしません。
天皇や名門家の子孫ならその権威を世に示す為に巨大な陵墓や立派な墓標を必要にするでしょう。子孫の権威づけの為にもお墓は立派でなくてはならないのです。自分のお墓は如何しようか?思いながら東慶寺の墓地に行くと小林秀雄や岩波重雄等確たる「生きた証」を残した人の墓が並んでいます。
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鎌倉東慶寺に眠っていられる小林秀雄氏の墓、この墓石は白洲正子氏の随筆で記載されています。女史が京都住まいの時小林氏から「鎌倉時代の五輪塔が欲しいので探しておいてほしい」依頼を受けて、女史が京都の骨董店を巡って探し当てたのだそうです。その時は何の細工も無かったのですが、前面に阿弥陀如来が暘刻されています。屹度小林氏が鎌倉の石屋に持ち込んで細工したのでしょう。小林秀雄の命日は彼岸桜の咲き始める頃(3月1日)です。以前次に書きましたhttps://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/46094266.html?__ysp=5bCP5p6X56eA6ZuE44Gu5ZG95pel
大松博文氏の墓には灯明の位置にバレーボールが置かれています。バレーボールが無くても大松博文監督の名は知れ渡っています。墓地に名刺入れが設えて在るのは、遺族が墓参者に気配りをしているからでしょうか?
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東慶寺の大松博文監督の墓、左のバレーボールの下に「名刺受け」が設えられています。
1月26日先輩のI氏から本が贈られて来ました。同先輩は有名百貨店美術部に実績を残された人です。社会の耳目を集めたのは「運慶作の大日如来」の海外流出を未然に防いだ時でした。著書には「運慶作大日如来」を始め、I氏が手掛けた名作の攻防記録や思い入れが記されていました。昨年末には矢張り先輩T氏から「ドイツに渡った日本文化」の著書を戴きました。T氏が既に「山家集の校本と研究』(1993/三笠間書院)を上梓されていましたから。今回の著書は、ライフワークの追録の様な著書です。人生も第三コーナーも廻って、自身の一生を振り返ろうとする時「安倍首相から国難」と評されるような一生は悔いばかりが残ります。
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左が先輩にI氏の著「10の傑作」遺右は先輩のT氏の著書。生きた証を立派に残されました。
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先輩I氏が手掛けた傑作の内左が運慶の大日如来、右がゴッホの「愛する二人」上記著書からスキャン。
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同じくI氏の手掛けた傑作左がピカソの「マリー・テレ―ズ」の肖像右はルノアールの「赤いブラウスを着た女)同上著書をスキャン。
先輩二人が「何を為したか」著書を上梓して、贈られると、「自分は何を残せたのだろうか?」想い起してしまいます。私は長銀の破綻の判断になった「長銀の債務超過判断になった銀行検査が2年も前の検査結果の見直しであった事実に憤り「銀行検査は国民の知る権利を根拠に国民の財産保護を目的に捨て実施するモノであるから、検査を終えたら可及的速やかに公表しなくてはならない」告発した積りでした。処が上梓した本はマスコミから「暴露本」扱いされてしまい、多くの友人や後輩を失う原因になってしまいました。
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私が金融行政の恣意性に憤慨して(金融検査は国民の知る権利に基づくものだから、検査後一定期間経たならば公表すべき」と主張し、上梓したのですが世間では単なる暴露本として扱われ、自身の友人や後輩に迷惑をかけただけでした。

先輩に較べて「自分は何も社会文化に貢献できなかった半生」を空しく悲しく想います。こんな自分ですが死に係る名著が二冊あります。
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此れは薬師寺の神像です、モデルは死者の書の主人公「大津皇子」であると思います。
第一は折口信夫著「死者の書」です。脳梗塞で病院のベッドに伏せて居た時背中が痛くて仕方なくて。「この痛みや不快感は何処かで記憶している」思ったのでした。それが「死者の書」で「大津皇子」の魂が、約70年を経て塚穴の中で蘇る場面でした。折口氏の筆はオドロオドロしく描写し続けるのです。背中に冷水が浸みて来る、体中にゲジゲジが這い回る。藤原南家の郎女の声掛け(魂醒し/たまさまし」で大津皇子は蘇ります。
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此れは山の辺から見た「二上山」です右が雄峰左が「雌峰」です。大津皇子の姉「大来皇女」はこの山を視て次の様に歌っています。
      「うつそみの人なる我や明日よりは 二上山を弟と我が見む
ですから、藤原京の時代でも二上山は「二人の神の山」と思われていたと思うのです。
もう一冊は「奥の細道」です。奥の細道序文は和文で最も美しく内容も日本人の崇高な精神性を表わしています。元禄2年(1689年3月27日)芭蕉は深川を出立し千住宿に向けて旅立ちます。その出で立ち姿は「常世」への旅姿であり「古人も多く旅に死せるあり」と覚悟を示しています。芭蕉の云う古人とは「能因」であり「西行」であります。道祖神の招きにあいとるモノ、とりあえず」と書いている道祖神とは笠島の道祖神であり藤原実方が探した歌枕の松であると確信するのです実方は笠島の松を探し当てた悦びに道祖神への礼を失し、笠島で客死してしまっています。「弔う」とは「訪/ともらう」事ですから、芭蕉は尊敬する西行や実方の霊を弔う為に死も覚悟しての旅立ちだったと思うのです。
芭蕉の生きた証は現代から見れば「奥の細道」をはじめとした紀行文学であります。芭蕉自身も蕉風俳句に確信を持ち、生きた証を残せる確信を持って命を懸けた旅立ちだったのでしょう。
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奥の細道旅立ちの図(蕪村画)左の見送られているのが芭蕉と曽良二人とも死出での旅姿です。蕉風俳句の完成と、敬愛する先人(実方や西行)を弔う為には命を懸けても充分な旅だったのでしょう。
「死」を自覚する事は「生きる事」を志す事です。それは私が門前の小僧で何も解らず覚えたお経(修証義)の冒頭のフレーズです「生を明め死を明むるは仏家一大事の因縁なり、ただ生死即ち涅槃と心得て、 生死として厭うべきもなく、涅槃として欣うべきもなし。 この時はじめて生死 を離るる分あり」
私は大病を患って病院で半生を振り返って初めて生死は人生の裏表である事に気付きました。友人は「君と旅すると墓ばかり巡って死ばかりイメージしているようだ」言います。でも、そのお蔭で「死者の書」や「奥の細道」が名作である事に気付く様になれました。

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12月27日(水)はラジオで24節季の「麋角解」(さわしかのつのおつる)に当る,報じていました。「さわしか」とは大きな角を持った逞しい雄鹿の事だそうです。その大鹿が角を落とすのだそうです。ラジオを聞いていながら私は春日大社の森の中で神使の雄鹿が自慢の角を落とす様子を思い浮べました。
我家の庭の「隼人瓜」も梅の梢からポトンと地面に落下しています。

古代大和朝廷の統一に際して南の隼人と北の蝦夷が抵抗しました。隼人も蝦夷も総じて云えば縄文人で大和朝廷は養老4年(4年/720年」大伴旅人を派遣して隼人を征服しました。
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此れは大隅半島にある「隼人塚」です写真出典ウィキペディア
勇猛果敢な隼人も矢が尽き刀が折れたのでしょう。隼人瓜も勇敢な隼人の名を冠しているだけに生命力旺盛な瓜です。我が庭でも木瓜の木や梅の梢を覆って繁茂していました。その成果がこの晩秋沢山の実になりました。
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庭の梅の梢にぶら下った隼人瓜、精々食べているのですが食べ尽くせません。
流石に南国の植物で寒さは苦手のようで、弦が枯れると、実を落します。落すところは大鹿の角と同じです。役割を果たしたら次世代に役に立つのが自然の摂理です。
屋根の上の隼人瓜は夏中盛んでしたが霜が降りはじめると勢いが無くなってしまいました。大和言葉で云えば「気」が枯れた状態です。宮本常一氏の著書では「気が枯れた状態を『けがれ』と云ったそうです。漢字に転換すると「穢れ」とか「汚れ」になりますが。日本民族の「宗教観・倫理観」の根本を為す概念です。テレビでは薬師寺の仏様のお身拭いを報じていました。若いお坊さんが白衣の上に墨染衣を着こんで竹箒で埃を叩いて雑巾でお身体を拭います。雑巾はタオルで汚れをふき取って桶には米のとぎ汁を用意して汚れた雑巾を絞るのだそうです。お身拭いで使用した雑巾の御利益は大きく、その雑巾で顔を拭けば美顔になれるし。腰に当てれば腰痛も消えるそうです。でも誰にでもご利益があるわけでは無く信じている人だけにご利益があるのでしょう。
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薬師寺の薬師三尊お身拭い様子写真出典薬師寺HPhttp://www.nara-yakushiji.com/contents/nenmatunensi/index.html
けがれの「け」は「気」の意味で生気の「き」の事でしょう。生気が枯れて消えてしまえば「死」です。けがれを拭い去る事は「死」を遠さける事を意味します。葬儀の後では死の穢れを塩で浄める事を意味します。身内の葬儀があればその穢れを他者に移すことを避ける為にも1年間は忌みに籠ります。穢れ特に死者の穢れを忌む事を「黒不浄」と呼びます。「黒不浄」は「赤不浄/血の穢れ」と共に穢れの基本概念です。1年間は忌み籠る事が慣習です。年賀状も正月行事も避けなくてはなりません。死者儀礼は1年に留まらず33年49年50年と長期に亘って供養する事によって穢れを拭いされます。私の父は葬儀の後の説教で回忌法要を『33年も経つと故人の骨も大地に戻るし、人々の記憶からも消えます。遺族の方は回忌法要を営む事で個人も往生できるし、力強く生きてゆけるモノです。』話していました。
人間の心(霊、魂)は死んでしまって処置が悪いと魔が憑りつくと考えられました。魔が憑りつかないで、遺族の守護霊(祖霊)になるように儀礼を尽くすのが殯(もがり)で、今上天皇も昭和天皇の殯(もがり)の記憶が気懸りで居られたようでした。生前退位問題は古代の天皇家の葬儀と平成の国民葬儀の調和を図る問題だったのでしょう。「瑞穂の国では世代代わりこそ重要です。そこで一点でも黒不浄が混じってはいけません。
死者の遺族が逞しく生きてゆくことが故人の何よりもの供養になるのは明瞭ですし、遺族も励みになるモノです。
私達は12月16日には世田谷の実相院に佐々木一雄先生の墓参りをしました。私の病気も目途がたったので報告に墓参したのでした。丁度「ぼろ市」でしたし、祖母の想い出話に再三登場した「松陰神社」も詣でました。
歳末に墓参りし、私のルーツを確認したのは「心の穢れを消す行為でもありました。
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此方が世田谷の松陰神社、長州藩の屋敷跡であったから、伊藤博文等の尽力によって松陰神社が祀られました。私の祖母の生家実相院からは良く見渡せて「乃木大将が詣でる様子を良く眺めたそうです。六本木の乃木神社のほうが師の松陰神社より荘厳なのは乃木さんも気にかけておいででしょう。松陰さんの家紋が卍である事を初めて知りました。境内も本殿も掃き清められて元旦祭の準備は完了でした。
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松陰神社の内陣も元旦祭の準備を終えていました。
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戸塚平戸の白幡神社も掃き清められ竃では甘酒で火を焚く準備も完了しました。この状態が気持ち良いのです。
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墓参りも神社詣でも、手を浄め口を灌ぐのは穢れを落とす為です。墓標に水を灌ぐのも故人の穢れを落として成仏を願う民族の習俗です。
昔日先生の俳句が佐々木嘉信先生の墓前に奉げられていました。
「親爺に 話ししたくて墓参り」
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佐々木一雄師の隠居庵跡は多宝塔が建立されました。背後の赤松は鶴松院実相院のシンボルでした。墓参りは故人の成仏を願う儀礼ですが、墓参りを終えた清々しさは墓参者の生き様に反映されます。「故人と生人との交流の場」です。
私達の立場では親爺を「仲人」に代えればピッタリです。
私も何組か仲人をしました。賀状も欠く人が増えて来ました。それも結構でしょう
23日出状した年賀状が何枚か「転居先不明」で戻って来ました。今日は出状し直します。この歳になると引っ越しする人も多いのでしょう。松の内に賀状が着くと確信するのは気持ちの良いモノです。神社に初詣した穢れを落とした時に似ています。


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奈良のスターバックスで気付きました。紙コップについている絵は人魚に違いない、それもグラマーで尾鰭が二つも在る人魚です。
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此れがスターバックスの商標の人魚です。
処で高校の数学の授業(ベクトル)で三次元の説明を受けました。
ゼロ次元とは方向の無い世界です。「点」に生きる蟻地獄や油虫はゼロ次元の生物でしょう。
1次元とは空間で線だけの世界です。(上下か左右しかありません屹度「蟻」は1次元世界で生きているのでしょう)
2次元とは面のある世界です (上下と前後だけの世界) ですから、マリオの世界のようなイメージです。蛇も百足も二次元世界で生きています。
3次元とはが立体のある世界です人間や鳥は三次元世界で生きています。
では4次元世界とは何でしょうか?
授業では「4次元とは時間の制限の無い世界」と教わりました。SFの「タイム・マシン」が該当します。
昔の人4次元の世界を妄想したのでしょう。御伽草子の「浦島太郎」や「八百比丘尼/やおびくに」伝説がそれです。
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此れは若狭小浜の博物館で展示された八百比丘尼像写真出典毎日新聞https://mainichi.jp/articles/20170503/ddl/k18/040/207000c何故か八百比丘尼伝説は北陸地方に多いのです。何処も洞窟がある事椿の杜が自生していること等共通しています。白山信仰(熊野信仰の兄弟社)の地盤です。
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これは箱根の芦之湯温泉に近い精進池の遊歩道に建っている八百比丘尼の墓と伝えられる宝篋印塔の基壇。後ろの山が駒が竹で池は魚が棲めない「死の池」です。そんな環境が八百比丘尼の伝説を生んだのかもしれません。以前https://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/folder/893303.html?m=lc&sv=%C8%A2%BA%AC&sk=0に書きました。
人魚の肉を食べて、永遠に命があって永遠に美しく在ったために苦しんで洞窟に入って自害したのが八百比丘尼の最期です。四苦(生老病死)は人間である事から避けられない苦しみでありますが、八百比丘尼は「死ねない、老いない」事に耐えられずに自害します。そして竜宮城で快楽を貪んだ浦島太郎は乙姫から預かった「玉手箱」を開けた事から封じ込められていた歳月が煙になって時間が早送りされて老死してしまいます。
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此れはボロボドール遺跡の須弥壇の四方に刻まれた四門遊観図の一つ、釈迦(中央右)は王城の西門を出ると死者(左端)を観る。これ以前に北門を出た処で出家修行者を観て、南門を出て病人を観て、東門を出て杖にすがる老人を見ている、この観察を経て出家する事を決意します。四門遊観図は次に詳しいhttp://borobudur.travel.coocan.jp/firstmainwallrelief.html
どちらの話も「欲望の儘に長生きするのは惨く、」「歳月を生きて、時期が来たら満足して死を受け入れるのが幸福である」と教えています。お釈迦様も四苦の認識から王城を出て悟ったものの、永遠の命を受けた訳でも無く弟子や動物に見送られて一般の生命と同じく三次元世界で終焉します。人間の幸福は「欲望の儘に長生きする事では無くて、隣人や生物に見守られて満足して死路に旅立つ事」なのでしょう。
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これは法隆寺五重塔の一層北面涅槃像土像 国宝 奈良時代(711年)写真出典法隆寺                             
スタバが何故人魚を商標にしたのか訳は知りまん。私の学生時代はアップルもマックも青息吐息の企業でした。ところがIPaDを開発し、IPhоneで市場を開発すると状況は一変し時価総額世界一の企業になりました。林檎を齧るのは神の教えに背くのですが、あえて大衆の欲望を照準に運営する事で成功したのでした。人類は数千年の歴史の中で欲望を抑える事の知恵を学びました。中世が終えてルネッサンスを迎えて人類は羅針盤を開発して大航海時代に入りました。人間の欲望は先ずセックス(種の保存)と長生きです。大航海時代の欲望を象徴したのが美しい人魚でした。だからルネッサンス時代の人魚はどれも官能的です。ローレライだけは中世的で”欲望に身を任せると破滅する”と警句を発しています。
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此れは立山の民俗博物館のポスターです。立山は山自体が阿弥陀浄土であると同時に山麓には地獄の景色も併せ持っています。修験者の住居であった芦峅寺(あしくらじ)は修験者の宿坊でもありました。ポスターの上半分は布橋灌頂会(ぬのばしかんじょうえ)の模様で、閻魔大王の前から芦峅寺まで晒しの布を辿って死から生まれ変わると説いています。

処で9月1日には越中八尾に「風の盆」を仲間24人で観に行く予定です。旅行前に調べていると、立山の阿弥陀信仰は越前白山の観音信仰の影響を色濃く受けています。双方とも熊野修験道の地方発展で。義経は羽黒修験に身を変えて身を隠しました越中八尾を私達は「やお」と呼んでいますが当地の人は「やつお」と呼んでいました。漢字は別にしても口語では「やお」です。八百比丘尼の「やお」です。八百比丘尼伝説の発祥は若狭小浜で伝説の地は越前海岸から越中の海岸に集中しています。椿の自生地が在って海岸洞穴が在ると大概が八百比丘尼の入定地です。近くには勾玉石の産出地「翡翠海岸」もあります。海岸洞穴が入定地なら翡翠海岸は誕生地です。要するに越中八尾は八百比丘尼の「八百」ではないのか思いついたのです。
「八尾」と云えば中小企業が集積する東大阪の八尾を想い出しますが「八百」と書けば全国各地にあります。
八百の地名をスポットして行くとその過半が水銀の産出地なのです。水銀は古墳に遺体を腐食させない無機金属です。立山を水源にする神通川は河口住民に「イタイイタイ病」を発症させました。イタイイタイ病は第二の水俣病でした。地名は言葉の呪性や重みを伝えています。漢字に囚われてしまうと日本人の呪術性を見失ってしまいます。





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