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私の宗教観

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人魚と「死」の実相

奈良のスターバックスで気付きました。紙コップについている絵は人魚に違いない、それもグラマーで尾鰭が二つも在る人魚です。
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此れがスターバックスの商標の人魚です。
処で高校の数学の授業(ベクトル)で三次元の説明を受けました。
ゼロ次元とは方向の無い世界です。「点」に生きる蟻地獄や油虫はゼロ次元の生物でしょう。
1次元とは空間で線だけの世界です。(上下か左右しかありません屹度「蟻」は1次元世界で生きているのでしょう)
2次元とは面のある世界です (上下と前後だけの世界) ですから、マリオの世界のようなイメージです。蛇も百足も二次元世界で生きています。
3次元とはが立体のある世界です人間や鳥は三次元世界で生きています。
では4次元世界とは何でしょうか?
授業では「4次元とは時間の制限の無い世界」と教わりました。SFの「タイム・マシン」が該当します。
昔の人4次元の世界を妄想したのでしょう。御伽草子の「浦島太郎」や「八百比丘尼/やおびくに」伝説がそれです。
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此れは若狭小浜の博物館で展示された八百比丘尼像写真出典毎日新聞https://mainichi.jp/articles/20170503/ddl/k18/040/207000c何故か八百比丘尼伝説は北陸地方に多いのです。何処も洞窟がある事椿の杜が自生していること等共通しています。白山信仰(熊野信仰の兄弟社)の地盤です
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此れは箱根の精進池の池畔にある八百比丘尼の墓と言い伝えられている宝篋印塔の基壇です。精進池は魚が棲まない死の池です。そのイメージが八百比丘尼の伝説を生んだのでしょう。
人魚の肉を食べて、永遠に命があって永遠に美しく在ったために苦しんで洞窟に入って自害したのが八百比丘尼の最期です。四苦(生老病死)は人間である事から避けられない苦しみでありますが、八百比丘尼は「死ねない、老いない」事に耐えられずに自害します。そして竜宮城で快楽を貪んだ浦島太郎は乙姫から預かった「玉手箱」を開けた事から封じ込められていた歳月が煙になって時間が早送りされて老死してしまいます。
人魚の肉を食べて、永遠に命があって永遠に美しく在ったために苦しんで洞窟に入って自害したのが八百比丘尼の最期です。四苦(生老病死)は人間である事から避けられない苦しみでありますが、八百比丘尼は「死ねない、老いない」事に耐えられずに自害します。そして竜宮城で快楽を貪んだ浦島太郎は乙姫から預かった「玉手箱」を開けた事から封じ込められていた歳月が煙になって時間が早送りされて老死してしまいます。
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此れはボロボドール遺跡の須弥壇の四方に刻まれた四門遊観図の一つ、釈迦(中央右)は王城の西門を出ると死者(左端)を観る。これ以前に北門を出た処で出家修行者を観て、南門を出て病人を観て、東門を出て杖にすがる老人を見ている、この観察を経て出家する事を決意します。四門遊観図は次に詳しいhttp://borobudur.travel.coocan.jp/firstmainwallrelief.html
どちらの話も「欲望の儘に長生きするのは惨く、」「歳月を生きて、時期が来たら満足して死を受け入れるのが幸福である」と教えています。お釈迦様も四苦の認識から王城を出て悟ったものの、永遠の命を受けた訳でも無く弟子や動物に見送られて一般の生命と同じく三次元世界で終焉します。人間の幸福は「欲望の儘に長生きする事では無くて、隣人や生物に見守られて満足して死路に旅立つ事」なのでしょう。
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これは法隆寺五重塔の一層北面涅槃像土像 国宝 奈良時代(711年)写真出典法隆寺 
スタバが何故人魚を商標にしたのか訳は知りま私の学生時代はアップルもマックも青息吐息の企業でした。ところがIPaDを開発し、IPhоneで市場を開発すると状況は一変し時価総額世界一の企業になりました。林檎を齧るのは神の教えに背くのですが、あえて大衆の欲望を照準に運営する事で成功したのでした。人類は数千年の歴史の中で欲望を抑える事の知恵を学びました。中世が終えてルネッサンスを迎えて人類は羅針盤を開発して大航海時代に入りました。人間の欲望は先ずセックス(種の保存)と長生きです。大航海時代の欲望を象徴したのが美しい人魚でした。だからルネッサンス時代の人魚はどれも官能的です。ローレライだけは中世的で”欲望に身を任せると破滅する”と警句を発しています。
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此れは立山の民俗博物館のポスターです。立山は山自体が阿弥陀浄土であると同時に山麓には地獄の景色も併せ持っています。修験者の住居であった芦峅寺(あしくらじ)は修験者の宿坊でもありました。ポスターの上半分は布橋灌頂会(ぬのばしかんじょうえ)の模様で、閻魔大王の前から芦峅寺まで晒しの布を辿って死から生まれ変わると説いています。

処で9月1日には越中八尾に「風の盆」を仲間24人で観に行く予定です。旅行前に調べていると、立山の阿弥陀信仰は越前白山の観音信仰の影響を色濃く受けています。双方とも熊野修験道の地方発展で。義経は羽黒修験に身を変えて身を隠しました越中八尾を私達は「やお」と呼んでいますが当地の人は「やつお」と呼んでいました。漢字は別にしても口語では「やお」です。八百比丘尼の「やお」です。八百比丘尼伝説の発祥は若狭小浜で伝説の地は越前海岸から越中の海岸に集中しています。椿の自生地が在って海岸洞穴が在ると大概が八百比丘尼の入定地です。近くには勾玉石の産出地「翡翠海岸」もあります。海岸洞穴が入定地なら翡翠海岸は誕生地です。要するに越中八尾は八百比丘尼の「八百」ではないのか思いついたのです。
「八尾」と云えば中小企業が集積する東大阪の八尾を想い出しますが「八百」と書けば全国各地にあります。
八百の地名をスポットして行くとその過半が水銀の産出地なのです。水銀は古墳に遺体を腐食させない無機金属です。立山を水源にする神通川は河口住民に「イタイイタイ病」を発症させました。イタイイタイ病は第二の水俣病でした。地名は言葉の呪性や重みを伝えています。漢字に囚われてしまうと日本人の呪術性を見失ってしまいます。





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法隆寺館を出て愈々タイ仏像展を観に平成館に向かいました。私の目の前をお坊さんが歩いて行かれます。屹度タイの留学生が上野で故郷の門外不出の国宝を拝観できるというので来られたのでしょう。
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タイのお坊さんの法衣(袈裟)は黄色で仏像の金色と同じように見えます。日本のお坊さんは墨染です、黄色は太陽の昇る朝を思わせますが墨染は夜を思わせます。黄色は「どのように生きるか」模索する姿勢を墨染は「死に方を」追及する姿勢を思わせます。写真はワットプラ・シー・ラタナー・マハータート(ワット・ヤイ)寺院。展示パネルを撮影(タイ人が最も美しいと評するバンコク郊外のお寺だそうです。
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東博平成館の外壁に貼られたタイ仏像展の幔幕 中央の釈迦坐像の光背は8頭の巨大なコブラで台座はコブラの胴です(釈迦はトグロの上に坐っています。展示では仏教伝播以前のタイの信仰にナーガ(龍/水神)があった事を説明しています。
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バンコクの街を托鉢する坊さんタイは僧は敬愛されていて在家の人が僧の托鉢行に応じる功徳は僧の修行に準じると考えられています。日本のお遍路が生きているのです。でも遍路衣装は無垢ですが、タイは黄色い袈裟姿です。
日本のお坊さんは墨染の衣ですがタイの御坊様は黄色というか金色です。実はこのお坊さんとズット一緒でした。お坊さんは展示会場でズット熱心にメモを取っておいででした。私は黄色い染料は何なのか?気になって仕方ありません。ターメリック(ウコンカレーの香料)かサフランでしょう。サフランなら先刻ワイフが法隆寺館のレストランで食べていました。どちらも天然染料ですし。蛾や蚊を防ぎますし消毒効果もありそうです。儀軌(仏像の決まりごと)では仏像の体は金色と決められています。ですから、タイでは仏像を金箔で貼ることが善行だとされています。でもお「釈迦様の体が高貴だから金色に輝いていた」と信じるのが普通なのでしょうが、実はお釈迦様も黄色い袈裟を着ておられたのでタイの人は「お釈迦様と同じように修行を積んで自分も釈迦になりたいと思っているので仏像を自分が来ている袈裟と同じ色にしたのではないか」思ったりしました。それが日本に伝わると山岳仏教の)ブロッケン現象(高山で太陽を背にして仏像が出現したように見える幻覚)もあって仏像と云えば金色になったのかも知れません。
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此方はアユチャ歴史公園のアユチャ王朝遺跡のポスターです。(平成館のロビーに貼られていました。)左がウォーキング仏陀と呼ばれる仏陀の遊行像。右は仏陀坐像
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此方も平成館の壁に貼られたポスターでスコータイ歴史公園内の遺跡です。有名なアンコールワット遺跡群は12世紀クメール王朝によるヒンズー教遺跡ですが。その影響下にタイスコータイ王朝(14世紀)による仏教遺跡群です。左の巨大物は日本人感覚だと弥勒如来と直感しますが。釈迦如来坐像でしょう。。カンボジアもタイも似た風土に在って似た宗教エートスを持っていたのでしょう
日本の仏教に較べると随分違う仏教です。日本人は自分達の仏教こそ本物だと思いあがって「大乗仏教」と自称して、私達もそう覚え込まされました。自分のニーズに逢わせて沢山の仏像を創作しました。そしてタイの仏教を自分一人の救済を志す「小乗仏教」と呼んで蔑視してきました。でも最近はタイ仏教を「上部仏教」と呼んで釈迦の原点に回帰しようとするように変わって来ました。
私の印象は次の3点でした。
1、日本の仏像は多様で。お釈迦様を模した釈迦如来は薬師如来等5つも在るのに対し、タイの仏像は瞑想していられるか、歩いておられる釈迦像と随分違うものです。
2、でも仏教受容初期は既存のナーガ(龍神/水神)信仰と習合していたようです。
3、タイの仏教は仏教の原点に戻って釈迦を手本に自ら修行する事を重んじます。でも出家できない一般人は修行僧の托鉢に応じる事で自らを修めます。
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此れは東博のワット プラケオ「エメラルド仏寺院」復元コーナー右側の扉が今回展示の目玉です。
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ワット プラケオ「エメラルド仏寺院」の仏陀坐像(パネルと壁絵)私達の二本でははこの壁絵に阿弥陀来迎図(富貴寺)や阿弥陀浄土図(当麻寺)や地獄絵図を描いて来ましたが上部仏教では修行をし講話を聴いている僧の姿を絵にしていました。
展示会場は写真撮影禁止でした。でも1箇所だけ自由でした。その場所は今次の展示の目玉である大仏殿ワット・スタットの大扉でした。大扉には超絶技巧の透かし彫りが施されていて。先年日本の援助で完成したモノだそうです。ラーマ二世が自ら鑿を握られた扉だそうで、バンコク国立博物館が東博での展示を認めたのは日本の支援への感謝の気持ちで昨年亡くなられたプミポン国王時代に約束されていたモノでしょう。展示場の一角にはプミポン国王への慰霊コーナーが設えてありました。
撮影可の展示場には大扉の向こうに釈迦坐像が見えますし。釈迦像の背後の壁には曼荼羅状の絵が貼られています。富貴寺なら阿弥陀如来の背後の板壁に伽藍の絵が描かれている様な場所です。眼を凝らせると沢山の僧が鹿野苑で修行している有様を描いているようです。
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此れは大扉に刻まれた群猿でジャングルの果実(石榴?無花果?)を食べています。
扉はジャングルのようで。絡み合った樹木には様々な果実が稔っています。石榴(ざくろ)を啄んでいる小鳥も居れば猿もいます。鼠かリスも居ます。皆ジャングルの恵みで生きているように見えます。
日本で云えば法隆寺金堂の扉でしょう。私達は何も考えずに腰を屈めて扉の奥に入ります。すると薄暗闇の向こうの壁に仏様の絵が在って本尊の釈迦三尊像が迎えてくれます。多くの仏教徒は釈迦像に手を合わせて祈願します。タイの上部仏教ではジャングルの向こうに釈迦が居られて人々は釈迦を模範に修行を志すのでしょう。
家に戻って7月21日(土)のテレビ(美の巨人テレビ東京)この大扉を報じていました。
歴史は19世紀に始まります。ラーマ1世はアユタヤに理想郷を建設します。しかしこの都は泰緬戦争(たいめんせんそう)で、ミャンマーのコンバウン王朝(ヒンズー教)に滅ぼされてしまいます。
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タイの古都アユタヤはビルマやミャンマーに攻められ破壊されてしまいます。19世紀に入ってラーマ二世はアユタヤをモデルにバンコクを都にしてシャム王国の再建を果たします。そのシンボルがワット プラケオ「エメラルド仏寺院であり仏殿の大扉でした。
ラーマ二世は現在のバンコクを新しい都に建設します。国家建設のシンボルは仏教であり、アユタヤのワット・ヤイチャイモンコン寺院をモデルにワット プラケオ「エメラルド仏寺院」を建設します。ラーマ二世は仏殿の扉を重要視され自ら鑿を取られたというのが今次東博で展示されている大扉だというのです。「技を伝承する事は難しい事であり、初心こそ大切であり、それは修行僧の発心を重要視する事に通じる」という事なのでしょう。ラーマ二世は彫刻に使った鑿も総て廃棄させたそうです。
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此れはタイ国民の敬愛するラーマ2世像です。写真出典美の巨人。タイ王室が国民から絶大な信愛を受けているのはわずか1世紀前に独立を達成した事と仏教を奉じた事にあるのでしょう。
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ウオーキング仏陀と呼ばれる仏像一見するとブロンズ像のように見えますが木像で黒漆塗り金箔処理なのでしょうか?日本では一番多い仏像は観音像であるようにタイでは楽しげに托鉢される釈迦であったようです。

インドネシアやマレーシアやベトナムには何度も出かけて同地の寺院を観て来た私ですが未だタイには行っていません。バンコクまでなら3時間ラーマ2世縁故のお寺には羽田を飛び立って4時間後には着いていることでしょう。上部仏教への関心と共に行きたくなりました。




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夫婦別墓の奨め

昨日(3/21日)は終日雨でした。テレビでは靖国神社の桜が綻んだ、開花宣言です。雨に濡れた桜花が艶めいて見えました。夕飯前にワイフが言います。
「白木蓮が綺麗ですよ。観てあげて下さいね!」
ワイフのお奨めは二階の長男の部屋か,ベランダから眺める事です。
私は二階に上るのが億劫なので「食後に観ますよ」
言ったまま忘れてしまいました。
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暮れ時の白木蓮の花、数日暖かだったので直ぐに咲いてしまいました。ところが咲いた途端に冷たい雨が一日中降って、強い北風が吹き出しました。
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22日朝の白木蓮の花北風が強いので。今日が最期になることでしょう。良く咲いたね!来年も見せてね!呟きます。
ところが今朝(22日)は大風が吹いています。朝食前に白木蓮さんの事を想い出しました。
そこで二階に上りました。ワイフも後から付いてきてくれました。後ろから階段で転げたら支える積りなのでしょう。
二階の窓からは白木蓮の花が目の前に見えますし、美女の横顔を覘く位置になります。
北風が梢を揺らします。白木蓮の枝は大きく揺れています。私はワイフに云います。
「まるで、美人が強い風で鬢が乱れてているようだね!」鈴木春信の浮世絵を想い出しながら同意を求めました。「美女に強風」は「月に叢雲」に似ています。邪魔者が本体の美しさを際立たせます。

先日義母の戒名が「白蓮院」である事を書きました。若しかしたら、今はお仏壇に戻って来て私達と一緒に白木蓮を観ているかもしれません。白木蓮が義母なら北風は癌だったでしょう。長い闘病中の母の面影を宿す純白な花です。
母は自分の義母の納骨式の時に呟きました。
「私は此処のお墓に入るのは厭だわ!だって、お隣の骨と触れ合うのでしょう。」
そのお墓は田圃の隅にありました。パールバックの大地にあるようなお墓で先祖伝来の田畑の隅で田畑を見守るように建っている嫁ぎ先先祖伝来の合同墓地でした。
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これは伊奈児の光前寺の合奏墓地です。遺骸を埋めた土饅頭の墓標に地蔵尊を立てています。多分此処は穴を掘れば何処も人骨が出て来るでしょう。これほどでは無くても義母が嫌った父方のお墓はジメジメした暗い感じでした。
義父はその後直に新しい墓地を求め「○○家の墓」と刻まれた黒御影の角塔を建てました。それから数年後母はその新しい墓地の墓誌の白蓮院の名を刻みました。何時の日にか、ワイフもその横に名を刻む事でしょう。
私は「何処に眠ろうか」?時々考えます。昔、父が生家の裏山で「お前のお墓は此処だぞ!」言った事がありました。今ではその場所も開発されて墓地として売り出されています。
私は「ワイフに何時までも付いて来ないで!」云われなければ、自分でお墓を探さなくてはなりません。
「母さん私もお墓に入れてね!」頼んで「良いわ!入れてあげる」云われれば、古代と同じ母系家族です。

鎌倉には有名人のお墓が沢山あります。
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此方は東慶寺の小林秀雄氏のお墓。生前小林氏は京都に詳しい永井路子氏に依頼してこの鎌倉時代のモノと思われる五輪塔を古物商から買い求め球形の前面に阿弥陀如来を刻んでもらったのだそうです。永井氏の随筆に書かれていました。小林秀雄氏は個人の墓です。
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これは同じく東慶寺に眠る前田青邨氏のお墓です。この新しい五輪塔に画伯は眠っておいでで、奥様は入口に遠慮気味に控えておいでです。
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此方は同じく東慶寺にある仏教哲学者の鈴木大拙氏のお墓です。同氏はご夫婦で同じ五輪の塔の地下に眠っておいでです。
安国論寺には財政改革の土光さんのお墓があります。土光さんほどの人でも「土光家の墓」に先祖共々眠っておいでです。一方東慶寺には個人墓も多くあります。岩波茂雄氏も小林秀雄氏も一人墓です。前田青邨夫妻は同じ墓地でも墓標塔は別々です。奥様の方が一回り小さい五輪塔です。鈴木大拙氏は奥様とご一緒に眠っておいでです。高名な仏教哲学者はあの世でも奥様とご一緒を選ばれたのです。
「嫁が死んだら夫の先祖伝来の『○○家の墓』に埋まる」と云った習慣は明治に始まり、昭和になって一般化したものです。
昨今は「死んでから姑や舅と一緒になるのは厭だわ」意見も多く散骨する人も多いようです。
自分はどうしようか?考えなくてはいけない年齢に届いて来ました。お墓は時代と共に大きく変遷してきました。夫の家の菩提寺にある夫の家の「○○家の墓」に入ると云った考えは江戸時代明治時代に培われた封建的な実に黴臭い発想なのです。私の義母のように『私あのお墓に入るの嫌よ』と我儘を生前に口にするのは素晴らしいと思います。
最近は私は死んだら散骨してほしいわ!口にされるご婦人も多いようです。夫とも姑とも舅とも一緒になる位なら大自然の中に風の様に彷徨っていたいと思うのでしょう。ワイフが果たして如何思っているか知りませんが、ソロソロ決めておかなくてはなりません。そこで、古典を紐解きます。
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これは太秦にある仁和寺です。写真出典京都花見https://matome.naver.jp/odai/2139488669712731901/2139489346817335803
先ず、思い当たるのは藤原倫子(りんし964-1053))です。倫子の母は、母は藤原 穆子(ぼくし」父は。左大臣源雅信でした。倫子は永延元年(987年)道長と結婚して鷹司殿と呼ばれます。倫子は24歳、道長は22歳でした。道長の実父が藤原兼家です。倫子は永延2年(988)に長女彰子(後の一条天皇中宮・上東門院)を、正暦3年(992年)に長男頼道を生みます。更に次女妍子(後の三条天皇中宮)を産みます。長和5(1016)年万寿4年(1027年)道長(62歳)が薨去します。
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これは道長倫子夫婦の家系図です。倫子の父は左大臣源雅信でしたから、正妻に相応しい家柄でした。家系図に在る通り倫子の娘が3人孫が2人も天皇位に就いたのでしたから、夫道長以上に名誉だった事でしょう。
鳥部野でで火葬され骨は家長の章信(のりのぶ)が首に掛け木幡(こはた/現代の位牌)を手にして宇治に宇治陵を築きます。藤原一族の墓になります。こはたみtまた長女彰子を除く娘三人にも相次いで先立たれ、長暦3年(1039年)に出家、清浄法と号します。曾孫の後冷泉天皇の天喜元年(1053)に90歳で薨去します。夫の道長以上に栄華に満ちた一生でした。
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これは栄花物語(赤染衛門)に描かれた藤原道長です。明らかなメタボですので63歳で亡くなります。一方倫子は90歳の長寿を全うします。道長は藤原一族の墓地であった宇治に埋められまあすが、倫子は皇族の一員として仁和寺に葬られます。
倫子の墓は太秦の仁和寺にあります。夫の道長は宇治陵に祀ったのでしたから相思相愛であったものの倫子には藤原家の一員であるといった意識以上に皇族の祖母としての意識が勝っていたのでしょう。夫婦別墓は古代の常識で現代の様に「夫方の家の墓に一緒に埋められる」と考えるのが非常識なのでしょう。
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宇治の平等院は道長の長男頼通が建立したものですが藤原一族の墓地であって(興福寺は藤原一族の学校の様なもの。

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先月澤田瞳子さんの小説『満つる月の如し 仏師・定朝』を読みました長い間私が抱えていた疑問を扱った面白い小説でした。時代は表題でも想像できるように藤原道長の全盛時代です。若き官僚僧「隆範」は比叡山延暦寺を監察する地位にあり延暦寺の造仏を決定できるポジションに居ました。
世相は混乱し延暦寺でさえも戒律の歪みが露見していました。大寺を建て仏像を祀っても社会の混乱は極まり人心は千路に乱れて行きます。「仏とは何なのか」?官僚も仏師も自問しながら末法の時代を迎えていました。。そんな時道長は自邸のあった土御門に法成寺を造営します。丈六の巨体の阿弥陀仏が9基も納められます。都中から沢山の見物人が混濁の世を救ってくれる阿弥陀仏を拝もうと道長の屋敷に集まって来ていました。ところがそこで不祥事が起こります。9条に在った康尚(定朝の師匠)の仏所(仏像の製作工房)から法成寺まで運ぶ間にお顔を破損していたのでした。責任者の探索と善後策が検討されます。一番に懸念されたのは道長の怒りでした。(この事故は有名で貴族の日記に書きとめられています。)
満場の見物人は天才定朝の彫技を確認して喝采する事になったのでした。定朝は衆人の心配を他所にして見事に阿弥陀様のお顔の傷を治して見せたのでした。「隆範」は延暦寺の仏像を定朝に発注する事を決意します。その決意は定朝の腕を確認したもののそれ以上に”仏とは何か?」自問していた自己自身と同じ疑問を定朝が抱えていたからでした。貴族は権謀術策と漁色に明け暮れる一方で、貧しきものは飢えや病に倒れる時代にあって、『仏は何処にいるのか?』あるいは『自分が仏像を彫ることに何の意味があるのか?』と苦悩する定朝の姿は古代末期の万人の悩みでもあったのでしょう。
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此方が澤田瞳子さんの力作「満つる月のごとし」。「満ちる月がごとし」の表題は道長の和歌「この世をば  わが世とぞ思ふ  望月の
 欠けたることも  なしと思へば」からとったものであると同時に定朝の彫った阿弥陀如来のお顔が満月のように穏やかで優しかったからでしょう。その相貌を「尊容如満月/長秋記」と評されました。写真は平等院鳳凰堂の阿弥陀如来(定朝)です。

日本に仏教が伝来したのは522年司馬達人(止利仏師の父)と云われています。
このことは日本に仏教を伝えたのは僧侶でもあり仏師でもあった帰化人と云う事です。当時の唐は国際都市でしたから。仏像の技法も多種多様であったのでしょう。石を彫った石仏から土を捏ねた塑像、銅を鋳造した金銅仏そして漆で塗り固めた乾漆像。天平時代はそれら多種多様な素材で仏像が作られていたのでした。鎮護国家の大事業奈良の大仏像を実現させると古代の繁栄は一変して凋落して行きます。凋落の原因に大仏鋳造を契機に発生した水銀公害もありました。鎮護国家のシンボルが古代国家の滅亡を速めたのは時代の皮肉でもありました。東大寺や興福寺の仕組みは官僚構造であり封建的な組織でありました。その官僚組織は仏師の世界にも及び東大寺や興福寺の官営仏所が日本中の仏師を牛耳っていました。
古代朝廷の力が衰え各地に荘園が増え。摂関政治から院政に映る時代、古い時代の殻を破って時代の要求であった和風の優しい仏像を大量に彫ったのが定朝でしたし。中世には貴族に代わって台頭してきた武士のエートスを形にしたのが興福寺仏所で生まれた運慶だったのでした。
定朝の偉大さは時代のリーダー権門貴族が心酔した満月の様な慈悲のお顔の仏像を彫った事でした。それまでの仏像は一木から彫り上げたモノ(密教仏)でしたから。必ず内刳りをしていました。これでは大きな仏像は彫れないし。数多く彫る事も出来ませんでした。定朝はこの困難を一気に解決する「寄木」と云う技法とシステムを編み出したのでした。その技法は先ず素材の樹の使用方法です。大きな丸太状の材木をイメージしてください。
材木を4つに割ります。真ん中の材木は仏像の正中に使用します両脇の材木は像の側面に使用します。そうして彫った四材を組み合わせて巨大な阿弥陀像を組み合わせるのでした。この結果乾燥すると仏像が割れたり歪んだりすることが無くなりますし、一度に四体も九体もの仏像を造像することが可能になったのでした。この方法は仏像の量感を失い正面から拝んだ時の印象を強くしました。同時に腕や持物の基準サイズを決めた事もあって彫刻の分業化によって仏像の量産化も可能になったのでした。院政時代には三三間堂が出来千体以上もの十一面観音が出来ますが。これこそ寄木造りをシステムとして完成させた成果でした。
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これは定朝の師匠「康尚」によると東福寺の塔頭同聚院の不動明王一木作りで重量感のある体躯は密教の色を残すが憤怒の表情も穏やかで優しげで定朝の柔和な仏像への過渡期的な仏像です。
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此方は京都日野にある法界寺の阿弥陀堂定朝の作に依る丈六の阿弥陀像が5体も並んでいます。

ところで最大の問題です。古代律令国家の崩壊時末法の時代に陥る時に「仏とは何か?」「仏とは眼には見えないけど何処に居るのか?」「仏とはどんな性格なのか?」といった問題です。実はこの頃日本中でこの問題が討論されていたのでした。その代表は興福寺の徳一上人であり比叡山の最澄法主でした。
日本に伝来した仏教は人間の心(情)は動物の間で輪廻し共通すると考えました。心(情)は命が終わっても滅することは無くて動物の間を輪廻すると考えたのでした。有情の間を心は巡って行くそれは動物の間だけに限ったものでしたが、日本では動物だけでは無く樹木にも草花にも心が在って草木も含めて輪廻すると考え始めたのでした。最澄に依れば心(仏性)は人間だけでは無く稲にも筍にも宿っているので自分一人で仏になろうとするのは無意味で一蓮托生皆で仏になろうと考えたのでした。一方徳一上人は行き着くところは同じでも先ずは一人一人が仏になるために修行する事に始まると云われたのでしょう。
一般に狩猟は動物の命を奪う行為なので戒律の第一に置かれていました
不殺生戒」は第一番の戒律で「不偸盗戒」や「不邪淫戒」「不飲酒戒」よりも上位にあるのでした。
何故なら自分の心は明日は猪に移っているかも知れません。猪を狩猟して食べる事は自分を喰う事で許され難い行為なのでした。
仏教の教えは米作を奨励して鎮護国家を作ろうとした大和朝廷にとっても好都合でした。狩猟や肉食は避けて米作穀物食が国家統一上有効でしたから不殺生戒を尊重して狩猟生活者を蔑視したのでした。
米作を尊重すれば仏性は稲にも桜にも筍にもあると広げて考えるのは自然でした。
「大般涅槃経」に有名な一説があります「一切衆生悉有仏性」総ての生物には悉く仏性が在る」と云う認識でした。この認識は「草木国土悉有仏性」に転じて鎮護国家思想に発展したのでした。「植物にも仏性がある」と云った考えは日本仏教の柱になったようで鎌倉新仏教の旗手道元禅師は植物の姿に釈迦牟尼仏の姿を観てや谷川のせせらぎの音に仏の声を聴いたのでした。(渓声山色)
今朝なら雨だれの音に観音様を聴くようなことでしょうか?

【三十三間堂の棟木伝説について)】
三十三間堂の棟木について著名な由来譚があります。三十三間堂は後白河上皇が1164年に自身の離宮・法住寺殿の敷地内に一宇の仏堂を建立し、1001体の千手観音像を安置したモノであります。その大棟の木に係る言い伝えです。
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三十三間堂の群像は定朝の寄木造りシステムの成果でした。後白河法皇の建てたこの圧倒的な仏像に人々は末法の時代にあっても生き抜く覚悟を固めた事でしょう。
後白河上皇は頭痛に悩まされていた。そこで熊野で祈願したところ、お告げがありました。」
 「上皇の前世は熊野にあった蓮華坊という僧侶であった。仏道修行の功徳によって今世では、天子の位につかれるくらい高貴の方に生まれてきたが、その蓮華坊の髑髏が熊野の岩田川の底に沈んでいる。その髑髏を貫いて柳の木が生えていて、風が吹くと柳の木が揺れて髑髏に触れ、上皇の頭が痛むのだ」というのでした。
 そこで、川を調べさせたところ、髑髏が見つかり、その髑髏を三十三間堂の千手観音の1体の尊像に塗り込め、さらにその柳の木を伐って、京へ運び、三十三間堂の梁に使ったところ、上皇の頭痛は平癒したという。蓮華王院の名は後白河法皇の前世の蓮華坊の名をとって付けられたのでした。
人間の心と柳の木の心とが輪廻しているとの想いが透けて見える伝説です。
人間として現世を生き抜く事は辛い事が多々あるものです。生き抜く苦しみは古代末期も今もあんまり変わらないものでしょう。古代末期には人々は次のように考えていたようです。人間は死ぬとその魂は体を離れて植物にも移って回りまわって(輪廻して)何れ人間に戻るかも知れない。自分の魂は美しい桜や神々しい大木にそして命を繋ぐお米にも巡るかもしれない。それは因縁で繋がっている。ならば自然に身を任せて現世を仏性の声に耳を傾けながら誠実に生き抜こう。その時の清々しい想いが満月のように慈悲深い阿弥陀様のお顔を想わせたのでしょう。そんな訳で道長は定朝の彫った阿弥陀仏の襷を握って浄土に再生する事を願いつつ黄泉に旅だったのでしょう。
私達は不幸にしてギリシャローマ美術ルネッサンス芸術の洗礼を受けています。その価値観や視線で定朝の仏像を観るので迫力不足に思ってしまいます。逆に天平や鎌倉時代の仏像に価値を見出す傾向があります。道長も後白河法皇も自分自身の救済を願って仏像を彫らせた事は間違いないでしょう。でも個人以前に彼等は時代のリーダーでありましたから人民の平安が無ければ個人の平和も無い事を知っていました。だから九体もの阿弥陀仏と千体もの観音像を祀ったのでした。個人と全体との位置関係を見烏なう事はありませんでした。為政者が自分自身の立ち位置しか見えなくなると新約聖書にある通りに民俗は滅びます。今の日本は個人主義が行き過ぎて小乗に偏って大乗を見失ってしまった様に危惧いたします。
和洋文化の珠玉である定朝の仏像こそ日本仏教の至宝だと確信するのです。



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稲作と輪廻観

【輪廻の思想は何時に始舞ったのか?】
私はお寺の生まれですからズット「輪廻」について考えて来ました。中学高校はカソリック系の学校に学びましたので彼我の宗教の相違に関心がありました。どちらも肉体と霊魂の二元論が視点であり、肉体は死滅しても霊魂は永遠であると説きます。此処までは彼我の宗教とも同じなのですが此処からが大違いになりますキリスト教では霊魂は不滅であっても最期の審判を受けた結果「地獄行き」が決まると霊魂は永遠に地獄の責め苦を受ける事になります。ところが仏教では霊魂は輪廻すると説きます。彼我の2つの宗教とも生前の行為の結果で地獄に落ちるか輪廻するか決まるわけですが”お前は永遠に地獄行きだ”宣告されるのと次は”先ず地獄にゆけ”と命じられるのでは、大いに違います。取敢えず地獄に行って、生まれ変ってチャンスを得られると思うのでは大違いです。絶望と落胆くらいの相違があります。自分は仏教で良かったな思ったものでした。
そんな私ですが最近ズット考えていることがあります。輪廻の思想は日本人の奥深く浸みこんできたのですが、それは仏教がもたらしたものなのか、それとも仏教伝来以前からあったものなのか?
「輪廻の思想」が日本古来のモノであったにしても、仏教が伝えたモノであったにしても、日本人に受け入れられた事実は変わりません。「輪廻の思想」が仏教伝来以前から在ったとすれば、それは”何時から在ったのか?”気になります。
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此方は箱根阿弥陀寺の6地蔵尊。死後に魂は六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天/いずれにも地蔵尊がおられて亡者を導いて下さる))の何れかに行く、何処に行くか(成果)は生前の行為(原因)に依ると説かれました。魂は永遠に不滅で生前の行為(原因)の結果行くべき世界(成果)が繰り返される(輪廻)と説かれました。古代のインド社会では現世が苦界である事の認識が一般的だったのでしょう。日本は稲作社会であった事から輪廻の思想は受容されましたが、現世そのものを苦界でなく天国にしたいと努めました。もうじきお地蔵さんの背後は紫陽花で埋まります。

結果を観るにつけてその原因を分析する事は国際規格(ISО)の基本分析技術です。不良品が発生したらその原因分析に遡って対策を講じます。今では常識の思考法も原始仏教からありました。行為が行われた後に何らかの成果が現出します。籾を撒けば芽が出て苗が育ち始め増す。樅を播く行為(カルマ)の結果苗の芽生えと云った成果(梵)が生じたのでした。この考えを現世来世と云った時間空間に拡大して考えます。前世の行為の結果が現世であるし、現世の行為の結果が来世に現われると考えました。この間霊魂は連続していいます。
ところで仏教ではこの輪廻それ自体が苦痛であると説いたのでした。それは仏教成立時の時代背景がカースト制がきつい時代で多くの人が生きる事自体を苦痛と感じていたからでしょう。だから早く輪廻から脱して楽園の住人になりたいと思ったのでしょう。
若しも釈迦が生きられた時代が平和で幸福であったなら輪廻に漂流すること自体を”是”としたと思うのです。、
日本の宗教人は現世で生きること自体を幸せにしたい楽園を輪廻の外にあるのではなくて現世にこそ楽園があるとしたいと思って来たように想うのです。
そんな”楽園を現世に実現したい願望”が法華経のように思うのです。

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鎌倉腰越の双体道祖神イザナギノミコト(女神)とイザナミノミコト(男神)の睦み事)から日本創世の物語が始まります。男神の種が女神の体(田圃)に播かれた事に始まるとも解釈できます。
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御田植祭は伊勢神宮を始め各社で実施されます。写真は大神神社(桜井)です。「夏は来ぬ/佐々木 信綱」の歌詞はさみだれの そそぐ山田に/早乙女が 裳裾(もすそ)ぬらして/玉苗(たまなえ)植うる 夏は来ぬと歌っていますが赤い袴に白い上衣で田の神様も嬉しそうです。(写真出典ウキペィア)
【古事記に観る輪廻観】
イザナギノミコト(女神)とイザナミノミコト(男神)は結婚します。しかし、誤って女性なら求愛し、第一子として生まれたのが蛭子(ヒルコ)でした。      
蛭子は川に流されてしまいます。
 その後、求愛からやり直し、数人の神を産みました。最後に生んだのが火の神だったため、イザナミノミコトは死んでしまいました。イザナギは死んだイザナミを恋しく思って根の国(死者の国)に行ってイザナミを探します。
ようやく見つけたイザナミは根の国の食べ物を口にしていたので既に死んで体は腐敗していました。また根の国から逃げ帰ったイザナギが穢れを洗い流すと、アマテラス、ツクヨミ、スサノオの三貴子が生まれました。
古事記自体が仏教や儒教の影響下で綴られたもので仏教以前の考え方で出来たモノとは言い切れないかもしれませんが・・・・・。でも古事記の世界を仏教以前と思えば輪廻の考えが色濃い事に気付きます。仏教では死者の国は前世ですが古事記では死者の国も現実世界も同じ時の陸続きになっています。それを態々根っこの国と云っているのは死者の国は地底にあって真っ暗で根っこが張っているとイメージしていたのでしょう。
【稲作に観る輪廻観】
 稲作は麦作に較べて圧倒的に多量の収穫が可能で(10倍)食料供給が可能で、栄養価も高いのです。麦作地域であれば超越的な一神教を考え易いのに対し総ての生物に命や霊が宿すとするシャマニズムに馴染み易いのです。一粒の籾が芽生えて稲に生長し、家族全員を養ってくれる場面が毎年毎年繰り返されるわけで牧草地(麦畑)がずっと広がる大地では一神教が棚田で毎年お米を収穫する山岳地で生きていると人間も獣も命や霊が循環するとするシャーマニズムが馴染みやすのです。
季節の巡りを観察して季節の変化に同調して米造りをすれば幸福に暮らせる事を実感していると今年も来年も同じように米作に勤しみたいと考え。種籾は保存して翌年の米作に供え増す。縄文土器の壷の中には種籾を保存して翌年の米作に供えました。種籾に宿した霊が来年も活きて食べ物になってくれると知っていたのでした。古墳時代にはシャーマニズムが一般でシャーマンである巫女が大きな力を有していました。稲作のスキルを有し最有力のシャーマンであった大和朝廷が稲作の全国普及を手段にしながら国家統一に成功したのでしょう。
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これは佐久の五郎兵衛新田を守る大日如来。苗代作りから稲刈りまで一年の農作業を見守り豊作を司るのは曼荼羅の中核である大日如来と思ったのでしょう。御田植祭は諏訪大社でも古式豊かに営れます。
【人は死んでもまだ生き続ける】
現代の社会風潮は「命はこの世限りで死んだら総てがお終いだ」思っている人が多い事でしょう。同時に「死が怖いのは死ぬ時の一瞬の苦しみで・・・・ある」だからできれば安楽死を願う。麻酔から覚めたように気が付いたら極楽に往生して居たい」「最期は苦しむことが無いよう安楽死出来るようにデスノートを書いておきます」
でも本当は違う事を考えているのです。「死とは肉体の生命活動の停止だけで霊は生き続けている」と思っているのです。それが証拠に肉親の法事供養やお墓参りは欠かしません。自分の生活習慣と信仰とのギャップの大きさに気付き始めたのでしょう新聞では歎異抄等の宗教本がベストセラーになっています。単意匠の次は”お文(蓮如上人)がベストセラーになるでしょう。お文の方が平易ですから、先の読める人は〝上人から貴方に愛をこめて”なんて表題をつけてお文の現代文訳を準備していることでしょう。
日本人がお米を食べる民族である以上輪廻の思想に掉さして生きて行くことが最も強く逞しく生き抜けるからです。私はキリスト教文化でなく輪廻の文化で育ったことの幸運をつくづく思うものです。
”永遠の地獄が迎えてる”と思ったら、怖くて怖くて死ねません。平和な気持ちで死を迎えられるのは輪廻の思想のお陰です。輪廻は地球が持続する限り永遠に続きますから。緑と土と水は三位一体で。水が在るから緑(葉緑体)で光合成されます。有機物は死ねば土に変わります。土には有機肥料が蓄積されています。肥料は水に溶けて葉緑体に運ばれます。緑と土と水は相互に循環しているのです。循環に心も任せていることが身体も任せて居れば生きるのが楽しく思われます。
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これは木喰の薬師如来です(在越後柏崎)以前次に書きましたhttp://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/46649422.htmlニコニコされていますので薬壺が飯茶碗のように見えてしまいました。輪廻に身を任せると木喰さんのように笑えるのでしょう。

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