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脳梗塞闘病記(文化への憧憬)

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童謡の故郷「浜通り」

常磐線広野駅の下りホームに黒い御影石つくりの記念碑が建っていました。「何か?」と思って確認すれば広野が鉄道唱歌の『汽車』が出来た地なのだそうです。「今は山中、今は浜、今は・・・トンネルの闇を通って広野原」の歌詞は車窓の風景そのものです。
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此れが常磐線広野駅下りホームに設えられた「汽車」の記念碑です。記念碑の下部には大和田 建樹氏が当地で唱歌の「汽車」を作詞した、と刻まれていました。
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常磐線の車両は山手線の車両と中吊広告迄同じであるにも拘らず、お客が無くて車窓風景が楽しめました。
「久の浜では海水浴に興じる家族が見えました。直ぐに鉄橋で、トンネルで、変化に富んだ鉄道です。作詞は大和田 建樹氏(国文学者で現筑波大)、作曲は作曲は大和田愛罹氏です。私は二人の関係に思い遣りました。夫婦か?親子か?ウィキペディアで調べてみれば「故郷の空」「青葉の笛」等も作詞した国文学者と記しています。常磐線の「広野駅」の名もこの歌詞からとられたのでしょう。
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これは四倉駅を過ぎて広野駅に向かう車窓です。向こうの道は国道6号でしょう。
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久野原の海岸風景
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久野原の風景防潮堤と河川に津波が遡上しないよう水門工事をしていました。

「汽車」の歌詞通りに変化に富んだ車窓風景でした。広野駅の改札口を出て待合室のベンチに腰掛ければ目の前に「童謡の町広野」と題して「トンボのメガネ」を紹介しています。額賀誠志作詞、平井康三郎作曲の童謡だそうで、広野町の町医者だった「額賀誠志」氏」が往診に出かけた際に患者宅の庭で子供がトンボとりに興じていた光景を視て作詞したそうです。
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これは広野駅待合室に懸っていた「童謡/蜻蛉のメガネ」の案内です。此処では浜降り祭『右側の写真」もあるようです。
私達は駅前の観光案内を観て「広野の地蔵石仏」を観に歩きました。歩きながら町医者を確認しました今は放射能の影響を確認する目的も加わって町医者の役割は重くなっていそうです。テレビで、甲状腺の検査をしている町医者の仁術を報じていました。役場のと駅の間の好立地に医院があったのですが、転居して閉業になっていました。動揺を作るよな、優しく蜻蛉の眼の様な広い視野のお医者さんは少ないようです。
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広野駅と役場の間に在った医院は転居していました。向こうの大きな建物が役場です。
広野駅は唱歌に童謡、次いで時間待ちした小高駅には歌謡曲「高原の駅よさようなら」の歌碑が建っていました。「小高と高原がどのように結びつくのか?」疑問でしたが、常磐線は歌になる駅が多いようです。昨年の秋には塩矢崎灯台に行きました。美空ひばりさんの歌が響いていました。
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小高駅前に建っていた「高原の駅よさようなら」の歌碑小畑実が歌った映画の主題歌で作詞は佐伯隆夫氏でした。
常磐線沿線に歌が多いのは、第一にその風景が日本人の心象元風景である事と、その住人が草野心平以来詩心が豊かな所為でしょうか?。



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今春浜通りを旅をして楢葉町にある「遠隔操作センター」を見学しました。同センターは放射能事故を招いて原子炉の底に溜まった高濃度廃棄物(デビル)や汚染水を採り出して、廃炉を完全に果たす為の新技術を官民挙って達成させる為のプロジェクトでした。廃炉作業を遣り遂げた時には日本の科学技術は高いモノになると確信させてくれました。
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此れは楢葉町にある、遠隔操作技術センターの実験棟です。此処に模擬的に原子炉を設置し、ロボットを遠隔操作して、メルトダウンして炉底に溜まったデビルを取り出す実験をしていました。
でも未だに、今夏浜通りに未だ汚染土を詰め込んだコンポストが山積みされていて、田圃の水路に赤い旗が立っているのを見ると少し印象が変わってしまいました。日本人がこの事故の跡始末を自分で遣らずに中国人頼りにやっている事実を確認したからです。目標は廃炉作業であって、福島復興であるのは明白ですが、綺麗な仕事、目立つ仕事は日本人技術者が行っています。他方汚染土壌の収集、汚染された田圃の客土等汚れた仕事「力仕事」が外国人労働力が頼りなのです。
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此れは富岡駅前海側の広場に山積された汚染土の詰まったコンポストです。捨て場が見つからないので、遠くに見える堤防の基台部分に転用する予定です。
試しに「帰宅困難地域求人情報」で検索してみると「土木工事、年収800万円、社宅完備」等の求人情報が沢山出て来ます。求人企業は主としてコンサルティング企業で、汚染土処分工事を受注したゼネコンの下請け企業なのです。下請けコンサルティング企業はは多くが外国人労働者を雇い、建設機械をレンタルして、汚染土壌の採掘収拾をして、汚染田圃に綺麗な土を客土するのでしょう。
浜通りのアッチコッチにホテルやアパートが建設されていますし、中国系の新築レストランが目立ちます。これらは外国人労働力をお客に取り込むための一時ビジネスなのでしょう。
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私が泊まった「ホテルヒレンテ広野は常磐線広野駅から2キロ南で国道6号線に面していました。1泊2食で4750円はオープンとお盆価格のようでした。お客は案の定中国人が目立っていました。総じて快適でしたが、バスの排水が室内に溢れ返ってしまい大変でした。
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此れが私達が宿泊した「ホテルヒルレンテ広野です。この8月にオープンした鉄骨プレハブ造りのコスパホテルです。開店祝いに「長嶋選手のお祝いが届いていました。訊けばオーナーの知人が長嶋選手なのだそうです。
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常磐線広野駅の東口の様子。左右に大きなビルが建っていますが左はオフィスビルで右は「旅籠屋」という名のビジネスホテルです。灯りが点いているのは現在突貫工事中だから・・・・。原発事故後の跡始末工事を当て込んだホテルです。
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常磐線広野駅の1キロ北に在る「慶州」という名の民宿・レストラン、如何にも中国人労働者の需要を当て込んだ施設でした。
と云っても私が泊まったホテルもそんな外国人をターゲットにしたホテルでした。ホテルの名は「ホテルヒルメンテ広野」でした。この夏にオープンしたので、8月中は季節的に半額でした。「ホテルから常磐線広野回駅までの送迎も地域のバスもありません。駅のタクシーを利用してください距離は2キロです」素気ない応答でした。日本人向けには刺身、中国人向けに中華料理が用意されていました。勿論中華は中国人向けの脂っぽい味付けでした。ボリューム、味とも充分過ぎました。
日本の廃プラスチックの輸出が世界的に非難を浴び始めて自主規制を始めた処ベトナム等のプラスチック企業の稼働率が落ちてしまったそうです。汚い仕事は外国人を雇って済ませる、廃棄物は海外に輸出するのは、良く似た「事無かれ主義」です。それと云うのも日本中で福島の汚染土壌の受け入れを拒否したのが原因です。果実だけは確実に手にしたいのだが…、”汚い部分は手を汚したくない”エゴイズムと呼ばれます。沖縄の基地問題も同じです。



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今回私の「気まぐれ旅行」に同行してくれたのは近くに住んで居られる高校の先輩です。読書好きで私に本を推薦してくれます。その人の興味を考えて富岡の次は南相馬の小高駅に在る「フルハウス」という名の本屋さんに行く事にしていました。私一人なら豊岡からは一旦、「いわき」に戻って精々田村市経由で郡山から帰路に着くのですが・・・。
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正面が常磐線小高駅白いバスはJRが用意した乗り継ぎバス。豊岡〜原の町間は主にこの乗継バスを使います。バスが駅舎に着く度に警察官が確認してくれます。左の白いポストは広野駅にも設置されていた、放射線量測定器が格納されています。
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小高駅前の観光マップ。右下は今春拝観した日本三大磨崖仏の「薬師如来像」右下は相馬野馬追 「火の祭」の花火と野馬追です。
そんな次第で8月16日は朝から豊岡駅に行き「乗り継ぎバス」に乗って南相馬市小高駅に向かいました。乗り継ぎバスを降りると女性警察官と駅職員が出迎えてくれました。「フルハウス」の場所を訊くと駅前通りを真っ直ぐ西に最初の信号手前右と教えてくれました。言われた通り5分も歩くとチェンバー建築の瀟洒な建物が前方に見えてきました。近隣の住宅は空き家で、庭は雑草が生い茂っています。目的の「フルハウス」はチェンバー造りの家に間違いない、庭にはバーベキュウも設えて在りました。しかし、その瀟洒な建物は廃業したレストランでした。改めて「フルハウス」を探しました。
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この建物が小高のブックカフェ「フルハウス」と確信して歩いて来ました。
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しかし山小屋風の建物は「洋菓子屋さんでしたが、廃業したモノでした。看板には「菓詩工房watanabe」となっていました。
廃業してしまった風のお菓子屋さんを後にしてまた周辺をを探します。駅に戻ろうとすると先刻フルハウスの位置を教えてくれた婦人警官がミニパトの窓を開けて教えてくれました。「フルハウスは道路向かい側よ」
早速にフルハウスの看板を見つけて本屋さんに入りました。深夜ラジオでオーナーの「柳美里さん」が話して居られて、想像していた建物とは全く違って味気ない鉄骨プレハブの建物です。戸塚の安アパートに在るような建物です。こんな安易な建物で本屋さんを始めるのなら、20m先のチェンバー風山小屋をリフォームすれば良かったのに。想いました。
でも最悪なのはその本屋さんのアルミサッシの玄関戸に「盆に付き休業します」貼り紙がしてあったのです。出掛けにネットでフルハウスのホームページを確認した時には「盆休み」は一言も触れていませんでした。
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小高駅の駅前通りに面した山小屋風の建物が本屋の「フルハウス」と思って歩いてきたのでしたが・・・。
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山小屋風の建物は「菓詩watanabe」の看板の懸ったパテスリーでした。
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駅前通りを行きつ戻りつしていると、先刻バスを降りた時迎えてくれた婦人警官が声を掛けてくれました。「フルハウスは20メートル前進した、道路向かいです」
「フルハウス」は芥川賞作家である「柳美里」氏が故郷にオープンした本屋さんです。柳美里氏は小高出身。原町高校卒、早稲田大3年生の時芥川賞を受賞した今風女性作家ですが。原発事故で故郷が寂れてしまった現実に対して故郷に本屋を昨年オープンさせたのでした。深夜ラジオにでられて「地元の学生が通学の待ち時間に立ち読みに寄って何時でも満員状態(フルハウス)にさせたいとして、同名の本屋を開設させたのでした。「https://motion-gallery.net/projects/fullhouse-odaka」に詳しい。
私も同行してくれたS氏も読書好きですが、柳美里氏の著書は感性に隔たりを感じて、未読です。でもそこ志しの高さや、故郷愛は感服します。
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正面の2階建て鉄骨プレハブ作りの民家がブックカフェの「フルハウス」です。
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「盆の為休業」の貼り紙がしてあって・・・。愕然としました。柳美里氏のお住いの鎌倉から遥々来たのに・・・・・・。せめてホームページに盆休みの予定をアップしておいてくれれば良かったのに・・・。
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アルミサッシ製の玄関戸から内部を覘いてみました。のれんの奥の部屋に椅子と机が並んでいるので、其処に本を持ってきて「立ち読み」ならぬ「座り読み」して電車の来る時間を有効に使うのでしょう。
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「フルハウス」の玄関壁に貼られた柳美里氏の新刊本ポスター
「フルハウス」が休みと知って急に腹が空いて来ました。駅前通りにはカレー屋さんや丼物のお店がありましたが、何処も開店は午後からです。午前中から開店する食堂なんて在る筈ありません。処がフルハウスの海より隣に「東町縁側商店」という名の「コンビニ」昔風に言えば「ヨロズヤ」がありました。見れば店の前駐車場に面してベンチが置いてあります。お店で買い物をしてベンチで飲食してください!」そんなコンセプトのようです。昔は戸の家にも縁側があって、誰でも座って住人同士が交流する光景が観られました。そこで、私達は「縁側商店」に入ってお握りや果物やカップ味噌汁を買い込み、縁側代わりのベンチに座って食べる事にしました。
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此れがフルハウスの海よりに在った万屋の「東町縁側商店」です。店内は高校生で一杯です。
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私達は店内で御握りと稲荷ずしを食べました。周囲の壁には地域情報が貼られていました。
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地元小学生の縁側商店向け礼状。
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「縁側商店」の店内、高校生は福島県立小高工業高等学校の生徒です。昔から福島県はいわきにも福島にも工業専門高校(所謂高專)があって、工業教育も進んでいるのです。
食べていると高校生がゾロゾロ店内に入って来ました。都会の高校は8月一杯夏休みですが小高の高校は夏休みが短くて、「田の草取り」や夏祭りに高校生の力を期待しているのでしょう。
高校生は腹が空いて家まで我慢できないのでしょう。ハンバーグやアイスを買って私の隣で食べ始めました。私が高校生に訊きました。
「午後は横浜に戻るのだが、いわき回りが早いか?仙台回りが早いか?」
高校生はスマートフォンを使って調べてくれました。すると、突然に縁側商店の店員がメモを書いて遣ってきて教えてくれました。
「この高校生は皆次の下り電車に乗って原町に行くから、一緒に原町に行きなさい、原町駅前から、福島駅西口に行くバスがあるので、福島駅から新幹線でお帰りなさい」
私は、親切に感謝して、縁側商店の店員の教えてくれた通りに帰る事にしました。
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縁側商店の店員が書いてくれた私達のベストの帰宅方法。
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縁側商店から小高駅に向う時に見つけた民間の放射能測定施設。
小高駅に集まった福島県立小高工業高等学校の生徒さん。私達は彼等と一緒に原町駅に向かいました。



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友人と二人で福島県双葉郡豊岡町にある、麗山神社(はやまじんじゃ)に虫送り神事を観に出かけました。8月15日盆の中日には東海道線で人身事故が遭ったので、特急「ひたち9号」は1時間以上遅延して、いわき駅に到着し、私達は予定していた常磐線に乗り損なってしまい、豊岡駅に着いたのは午後4時でした。駅員に”「火祭り」を観に来たのだが、バスは無いのか?”訊いても全く無関心です。駅舎に繋がっている「コンビニレストランに「火祭りのポスター」が貼られてありました。駅員よりましだろうとと思ってコンビニ職員に訊けば「歩いて行くのは無理な距離だし、町民バスは出ていないとの事、「タクシー」を奨められました。でも楢葉タクシーは1台しか無いので、早めに呼び寄せた方が良い、重ねてアドバイスです。駅前に停まっていた大型バスは参拝客を乗せるバスかと期待したのは私の甘い所で、豊岡の不便さは推測を越えていました。
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タクシーの車窓の風景。双葉郡富岡の田圃の過半は太陽光発電パネルが設えて在りました。運転手に訊けば、「原発の送電施設完備されているので、太陽光パネルさえ設置擦れば、太陽光発電が出来るので、田圃は総て太陽光発電に転用されるとの事でした。
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向こうの三角錐の山が麗山(はやま)で麓の檜林の中に麗山神社があって桧林の中を松明を翳した氏子が山頂にある「奥の院」に駆け上ります。福島県教育委員会では「虫送り神事」として重要民俗文化財に指定しています。タクシーの運転手は「この辺りで眺めるのが最高である」教えてくれました。略燃え尽きた松明は昔は道路左側に流れている川に流したそうですが、流石にこの日は、広場に集めて燃え尽くさせて放水して完全に火消していました。お祭りの主役は松明を掲げた青年団で補佐役は消防団と親爺の氏子と婦人会(直会の接待役)でした。
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此れが松明です。青年団の構成員が1週間かけて作った松明は3mの青竹の先端に松や桧の木端を鋏んでワイヤで固定させたものでした。次々に軽トラに積まれた松明が境内に持ち込まれました。一本一本の松明に名が記されていて、製作者が奥の院まで翳すのです。松明を持つ青年は腰掛けていますし、氏子は法被を着て準備に忙しくしていました。正面の叔父さんは松明に灯油を含ませています。私はお嬢さんが逞しい晒しの短パン姿の青年に熱い眼差しを向けている場面を期待したのですが、娘や年頃の女性は全く見えませんでした。昔は短パンでは無くて「褌」を着ていたそうですから、松明を持つ青年の正装は褌に戻すのも検討した方が良いと思いました。京都の大文字焼きも全員が短パンでした。褌の方が神様も観客も喜びそうです。
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此方の青年は一際大きな松明を担いで来ました。白足袋に白い晒しを腹に巻いて格好良いのですが、短パンは似合いません。私でさえ、褌姿を観たいのですから、若い女性も神様(此処は山の神)も同じ意見だと思います。来年は農村復興に熱心な小泉信次郎議員に来て貰って褌姿を被露して貰ったら良いと思うのですが・・・・。
タクシーはじきに到着、私は件のコンビニで買った農産物を郵便局で宅配依頼をして麗山神社に向かいました。豊岡と云えば有名なのは桜並木、テレビに綺麗な桜並木の中を猪の家族が占拠している光景を視ていますので、運転手に訊くと「今では猪は駆除してしまい、殆ど姿を見ないとの事。
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富岡町と云えば名物は桜並木です。今春はこの桜並木を我物顔で群れを為す猪の家族が報道されていました。
「私が猪が人間は危険である事を体験したから山の中に隠れただけではないのか?)意見を述べれば、「猪による農作物の害も無くなったのだから生息数も急減したのだろう」言います。結局午後8時盆踊りのはじまる頃を見計らって迎えに来て貰う事にしました。片道3千円でしたから、到底歩ける距離ではありませんでした。NHK等マスコミに取り上げて貰うのも結構ですが。お客を運ぶ足も考慮して貰わないとなりません。
麗山神社の近隣の田圃は皆臨時駐車場になっていました。お米も作れない田圃ですから、ビオトープにするか太陽パネルを置いて「太陽光発電」にする位しか活用方法はありません。神社の駐車場にするのは賢明です。麗山は字の通り麗しい姿の里山で一膳飯を思わせます。標高は230mの照葉樹林です。でも神殿の周辺は檜の林で頂上までは600mもあるそうです。神殿で松明に火を点け松明を担いで600mを駆けあがります。そして神殿に戻って。松明の跡始末を終えればその後は盆踊りと直会です。
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祝金を奉納して手拭を貰って直会会場で御握りを戴きました。
私は氏子が持っている「手拭」が欲しくなり、参拝者名簿に揮毫し奉天をしました。すると社務所に上って会食して行けと誘います。私は直会の席に座ると隣に読売新聞の女性記者が座って町民に神事復興の悦びをヒヤリングしていました。流石に記者は優秀で誰もが聞きたい話を的確に聞き出していました。私が社務所に上って聞き知った話は以下の通りでした。
1、麗山の火祭りは戦国時代末に始まって以来400年続いて来ましたが、3.11の東北大震災で休止してしまいました。処が、今春「避難指示解除準備」されたのを機会にお祭りを復活する事にしたのでした。豊岡町は震災前3000戸あったモノが、今では30戸が戻ってきました。「お祭り再開」がきっかけになり、若者が戻って来た事と、更に帰村する人が増える事を期待しています。
2、火祭りは3m程の青竹の先端に松や檜の木端を詰め込んで松明を作り、松明を持って神殿から山頂の奥の院迄駆け上がり戻ってくる神事で、往復1.2K、標高差230mを走り通す訳で体力のある若者が主役です。
幸い若者が豊岡町に戻って来て「豊岡青年団」が組織されたので、1週間前から松明つくりをして、8月15日夕暮れ虫送り神事の本番を迎えたのでした。
地図を想い出せば豊岡町は阿武隈山系の東際にあります。西際には田村市があって船引町には「田村様」と呼ばれる人形道祖神が村境に祀られ災厄の侵入をガードしています。ガードするのが道祖神で、既に入ってしまった災厄を追い出すのが「虫送り」です。民俗の発想は「虫送り」も「道祖神」も似ています。
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此れは田村市船引町の人形道祖神「田村様/坂の上田村麿」です。
麗山神社の神事は午後5時、神主や氏子が神殿に上って始まりました。ご神火がとられると、火種は境内に設えられた竈に移されます。竈で用意された松明に火が移されます。氏子は自分の松明に火が映ると神殿前に集合します。50本の松明を用意した積りでしたが実際は48人が松明を掲げて、山頂に駆け上がったのでした。
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此れは麗山神社に掲げられた教育委員会作成の火祭りの案内板、75膳となっているのは神事を始めた頃の村民が75戸だったからだそうで、各家は農作物を奉納して豊穣を祈ったのでした。
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午後5時ご神火を戴く前に全員が神殿前に勢揃いしました。NHK初め地元の福島民報等のテレビ局がその模様を録画しています。
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午後6時竈にご神火が移されると松明に火を点けます。法被を着た氏子は高齢者でサポート役です。短パンの人が松明を担いで駆け上がる青年で祭りの主役です。
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約50本50人の松明が神殿前に揃い愈々山頂に駈け上ります。
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往復1.2K標高差230メートルの山道を30分かけて往復して戻ります。松明が緩いと燃え尽きたり崩れてしまった松明も目に付きました。
6時半過ぎに松明は山頂から神殿前に戻りました。「ご苦労さん!」の拍手が檜の林に鳴り響きます。氏子に訊けば昔は松明は神社前の河原に持って行ってm川に流したそうです。でも流石にこの日は境内下の駐車場脇で暫く燃やして焼き尽くした処で放水して完全に消火していました。松明行事が終われば盆踊りです。屹度盆踊りは若い娘さんが浴衣に着替えて輪踊りするモノと期待していたのでしたが、残念なことに若い女性の姿は観れませんでした。
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午後7時45分頃始まった盆踊り盆踊りは「相馬盆歌」を期待したのでしたが違いました昔からいわき一帯の盆踊り歌だそうです。法被姿の叔父さん短パンの青年が寂しく踊っていました。男女が揃わないとイケマセン。
「祭りの夜」と云えば若い男女の交流の場だった筈なのに男性の帰村は進んだのに女性の帰村はイマイチのようです甲子園球場で活躍している金足農林高校の女子高生の様なお嬢さんは期待に反して全く見えません。「男は帰って来たが女性は冷めている事こそ」重大なような気がします。豊岡から新産業都市「いわき」迄常磐線で30分です。「いわき」にでれば都会的な楽しみは充分あります。豊岡が若い男女で活気を戻すには幾つものハードルを越さなくてはならないようです。「虫送り」は人間の心に宿っている偏見(都会尊重、田舎蔑視)の打破が必要なような気がします。
翌朝駅舎に蝗が居ました。昨日の夜「虫送り」に遇って逃げて来たのではなくて駅のライトに誘われて飛んできたようです。
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麗山神社の鳥居には様々な虫がライトに誘われて集まって来ていました、蜘蛛等が餌場にしています。

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此れが蝗です。






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日本人はラーメン好きです。ラーメンの麺は小麦粉を練って熟成させたものです。基本的にはピザやパスタ土台も小麦粉です。西欧文明は総じて粉食の文化です。私は胃癌で手術して以来、麺は苦手になってしまいました。大好きな蕎麦でさえ消化に自信を失い、食べた後に戻す癖がついてしまいました。『消化できるだろうか?』気にしながら食べても美味しくないのです。でもビーフンや春巻きは別です、素材が米なのですから、消化に心配は要りません。ビーフンは米粉でも「糯米/もちごめ」では無くて、「粳/うるち」米です。ソモソモ米にはインディカ米とジャポニカ米の二種類がある上に糯米と粳米の二種類があるので合計4タイプがあります。私達が主食にしているのはジャポニカの粳米です。
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此れはJR奈良駅にある奈良のうまいものプラザ の人気朝食「卵かけご飯です。出来れば漬物を刻み奈良漬にしてほしいと思っているのですが・・・・。日本人はお米の粒が立っている事を重視します。
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此れは糯米と粳米の相違を説明した図です。お米はアミロースが多いとパサパサします、一方アミロペクチンが多いと粘り気が出て来ます。日本人が糯米が好きなのは粘り気の多い食べ物が好きだからです。粘り気の多い食物好きはインドネシアから台湾沖縄を経て日本に伝わっています。一方黄河流域から朝鮮半島に掛けては雑穀文化で皆米を主食にするもののうるち米でビーフンや餃子を作っています。

この辺の事は日本大学藤沢キャンバス内にある博物館に行くと良く解ります。日大のい生物資源学部の土台をつくったのは稲の科学者であった、永井威三郎氏(永井荷風の実弟)でした。
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此れは藤沢に在る日大生物資源学部の博物館に展示されているインディカ稲です。タイでは3度/年も収穫できるそうです。インディカ稲はジャポニカ稲に較べて背高く根も深く張ります。
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此方はインディカ米の説明パネルです。野生稲と栽培稲は遺伝子構造が違うと説明し、考古学者の興味についても触れています。焼畑が進歩して棚田が出来たのではなくて。棚田は沖積地の水田で栽培された稲が川を遡って山襞の奥にも栽培されたものと説明しています。
日本の神話で稲は次の通り言い伝えられています。
【古事記】における稲のはじまり。
岩戸隠れ後に高天原を追放素戔嗚尊が、食物神である大気都比売紙(おおげつひめ-)に食物を求めます。すると「大気都比売」は、鼻や口、尻から様々な食材を取り出して調理して須佐之男命に差しあげます。しかし、その様子を覗き見た須佐之男命は食物を汚して差し出したと思って、大気都比売を殺してしまいます。
大気都比売の屍体から様々な食物の種などが生まれました。「頭に蚕」、「目に稲」、「耳に粟」、「鼻に小豆」、「陰部に麦」、「尻に大豆」が生まれました。神皇産霊尊(神産巣日御祖命・かみむすび)はこれらを取って五穀とします。
【日本書紀】の稲のはじまり
日本書紀においては、同様の説話が神産みの第十一の一書に月夜見尊(月読命・つくよみ)と保食神(うけもち)の話として出て来ます。
天照大神はツクヨミに、葦原中国に棲むウケモチという神を見てくるよう命じます。。ツクヨミがウケモチの所へ行くと、ウケモチは、口から米飯、魚、毛皮の動物を出し、それらでツクヨミをもてなした。ツクヨミは汚らわしいと怒り、ウケモチを斬ってしまった。それを聞いたアマテラスは怒り、もうツクヨミとは会いたくないと言った。それで太陽と月は昼と夜とに別れて出るようになったのである。
古事記も日本書紀も穀物を差し出した神は死んでしまいます。まるで山中で狩猟生活をしていた神が死んで、山を下りて里で穀物を栽培して生活を始めたと説明しているようです。
穀物の始まりに係わる神話はギリシャも日本も死体や死者に依る事が多いようです。エジプト神話のイシスや、ギリシャ神話の豊穣の女神デメテル、ローマ神話でのセレス等小麦の始まりは豊穣の女神の死が係ります。
女神の死が係るのは小麦は粉に曳いて食べるからでしょうか?それとも生贄の電設を伝える為でしょうか?西欧文化は小麦文化でしたから三大文明は何れも大河の沖積平野で小麦を栽培した文明でした。男は山に入って狩猟し、女は畑で小麦を栽培するか木の実や貝を採取したのでしょう。小麦を臼と杵で粉に曳いてパン食しました。一方黄河文明と同時期に中国揚子江下流域では稲作文明が起っていました。揚子江下流域の水田稲作が日本にも伝播しましたが元々この辺りは芋(タロイモ)を煮て食べていました。タロイモは里芋に似ていますから粘り気と甘味が特長の食物でした。3代文明は小麦の粉食文明であったのに対し大陸の東端に米や芋の粒食文明が発達しました。私達が儀礼食で口にする食べ物は何れも「原型をとどめ」姿も形も器も美しい事に重きを置いたのでした。神様は美人が好きです。美食も好きです。祭りの後の直会(なおらい」で食べる食事は神饌と呼ばれ姿を留めます。姿を崩したモノは穢れているとして忌避されるのです。
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此れは奈良町に在る卒川神社の百合祭りで供される儀礼食です。
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高々うな重でも形の整ったモノは高級で崩れたモノは廉価品です。お肉で云えばステーキは高級でハンバーグは大衆品になります。
「何も足さない」「何も引かない」地の儘が美味しい、姿や色を楽しむ食文化は米飯にルーツがあり、米を立てて炊く、香りと艶を楽しむ食べ方はジャポニカ米、糯米の食べ方です。一方小麦を粉にしてパンにして食べる野は西欧の食生活でベースは「雑穀文化」です。粒食文化に生まれ育った私達ですから、一粒一粒のお米を大切にして暮らしたいものです。来る東京オリンピックでは日本選手は地の利を活かして活躍してほしいモノです。「地の利」の最大の「利」はご飯を食べれる事です。日本人は大昔から「粒食」のご飯をたらふく食べないと力が出ないのです。



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