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脳梗塞闘病記(文化への憧憬)

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日本人はラーメン好きです。ラーメンの麺は小麦粉を練って熟成させて作ります。基本的にはピザやパスタ土台も原料は小麦粉です。西欧文明は総じて小麦粉の粉食の文化です。私は胃癌で手術して以来、麺は苦手になってしまいました。大好きな蕎麦でさえ消化に自信を失い、食べた後に戻す癖がついてしまいました。『消化できるだろうか?』気にしながら食べても美味しくないのです。
でもビーフンや春巻きは別です、素材が米なのですから、消化には自信があります。ビーフンの原料はは米粉でも「糯米/もちごめ」では無くて、「粳/うるち」米です。ソモソモ米にはインディカ米とジャポニカ米の二種類がある上に、糯米と粳米の二種類があるので、合計4タイプがあります。私達が主食にしているのはジャポニカの粳米です。ハレの日は糯米を食べます。
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此れはJR奈良駅にある奈良のうまいものプラザ の人気朝食「卵かけご飯です。出来れば漬物を刻み奈良漬にしてほしいと思っているのですが・・・・。日本人はお米の粒が立っている事を重視します。
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此れは糯米と粳米の相違を説明した図です。お米はアミロースが多いとパサパサします、一方アミロペクチンが多いと粘り気が出て来ます。
日本人が糯米が好きなのは粘り気の多い食べ物が好きだからです。粘り気の多い食物好きはインドネシアから台湾沖縄を経て日本に伝わっています。一方黄河流域から朝鮮半島に掛けては雑穀文化で皆米を主食にするものの、うるち米でビーフンや餃子を作っています。
この辺の事は日本大学藤沢キャンバス内にある博物館に行くと良く解ります。日大のい生物資源学部の土台をつくったのは稲の科学者であった、永井威三郎氏(永井荷風の実弟)でした。私は暇になると日大博物館に出かけます。
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此れは藤沢に在る日大生物資源学部の博物館に展示されているインディカ稲です。タイでは3度/年も収穫できるそうです。インディカ稲はジャポニカ稲に較べて背高く根も深く張ります。
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此方はインディカ米の説明パネルです。野生稲と栽培稲は遺伝子構造が違うと説明し、考古学者の興味についても触れています。焼畑が進歩して棚田が出来たのではなくて。棚田は沖積地の水田で栽培された稲が川を遡って山襞の奥にも栽培されたものと説明しています。
日本の神話で稲は次の通り言い伝えられています。
【古事記】における稲のはじまり。
岩戸隠れ後に高天原を追放素戔嗚尊が、食物神である大気都比売紙(おおげつひめ-)に食物を求めます。すると「大気都比売」は、鼻や口、尻から様々な食材を取り出して調理して須佐之男命に差しあげます。しかし、その様子を覗き見た須佐之男命は食物を汚して差し出したと思って、大気都比売を殺してしまいます。
大気都比売の屍体から様々な食物の種などが生まれました。「頭に蚕」、「目に稲」、「耳に粟」、「鼻に小豆」、「陰部に麦」、「尻に大豆」が生まれました。神皇産霊尊(神産巣日御祖命・かみむすび)はこれらを取って五穀とします。
【日本書紀】の稲のはじまり
日本書紀においては、同様の説話が神産みの第十一の一書に月夜見尊(月読命・つくよみ)と保食神(うけもち)の話として出て来ます。
天照大神はツクヨミに、葦原中国に棲むウケモチという神を見てくるよう命じます。。ツクヨミがウケモチの所へ行くと、ウケモチは、口から米飯、魚、毛皮の動物を出し、それらでツクヨミをもてなした。ツクヨミは汚らわしいと怒り、ウケモチを斬ってしまった。それを聞いたアマテラスは怒り、もうツクヨミとは会いたくないと言った。それで太陽と月は昼と夜とに別れて出るようになったのである。
古事記も日本書紀も穀物を差し出した神は死んでしまいます。まるで山中で狩猟生活をしていた神が死んで、山を下りて里で穀物を栽培して生活を始めたと説明しているようです。
穀物の始まりに係わる神話はギリシャも日本も死体や死者に依る事が多いようです。エジプト神話のイシスや、ギリシャ神話の豊穣の女神デメテル、ローマ神話でのセレス等小麦の始まりは豊穣の女神の死が係ります。
女神の死が係るのは小麦は粉に曳いて食べるからでしょうか?それとも生贄の電設を伝える為でしょうか?西欧文化は小麦文化でしたから三大文明は何れも大河の沖積平野で小麦を栽培した文明でした。男は山に入って狩猟し、女は畑で小麦を栽培するか木の実や貝を採取したのでしょう。小麦を臼と杵で粉に曳いてパン食しました。一方黄河文明と同時期に中国揚子江下流域では稲作文明が起っていました。揚子江下流域の水田稲作が日本にも伝播しましたが元々この辺りは芋(タロイモ)を煮て食べていました。タロイモは里芋に似ていますから粘り気と甘味が特長の食物でした。3代文明は小麦の粉食文明であったのに対し大陸の東端に米や芋の粒食文明が発達しました。私達が儀礼食で口にする食べ物は何れも「原型をとどめ」姿も形も器も美しい事に重きを置いたのでした。神様は美人が好きです。美食も好きです。祭りの後の直会(なおらい」で食べる食事は神饌と呼ばれ姿を留めます。姿を崩したモノは穢れているとして忌避されるのです。
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此れは奈良町に在る卒川神社の百合祭りで供される儀礼食です。
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これは「お食い初め」の祝食です。ご飯は粒の立った糯米の赤飯です。形の崩れた食べ物は一つもありません。
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高々うな重でも形の整ったモノは高級で崩れたモノは廉価品です。お肉で云えばステーキは高級でハンバーグは大衆品になります。
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高々泥鰌鍋でも「マル」がご馳走で写真の様にヒラキは一段下です。海老でも日本では「尾かしら付」が尊ばれます。

お肉でもステーキはハレの食べ物ですが、ハンバーグは「穢」というか日常食です。



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ノーエ節のルーツ

昨日は横浜歴史博物館の工作室で作った「小田原提灯」の事を書きました、話は前後しますが、今日は歴史博物館に行った目的「戊申の横浜」の展示を紹介します戊申とは慶応4年大政奉還を意識していました。
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此れが「戊辰の横浜」のポスターです。上部の新政府の行列は藤沢宿を通る「大総督東下の図」で下部の凶刃の図は月岡芳年による「東叡山文殊楼焼き討ちの図」です。
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此れは横浜歴史博物館で展示中の「戊辰の横浜です。
私の住む横浜市戸塚は東海道の第4番目の宿場町で、江戸日本橋を朝に出立すれば健脚の人なら1日目の宿は戸塚でした。隣の保土ヶ谷宿とお客を奪い合った仲のようで、以来ズット戸塚と保土ヶ谷はライバル意識が強いようです。戸塚の郷土史でも権太坂の助郷役の負担を巡ってトラブルが生じていた事を遺しています。
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「岩倉郷実記」にも日記されている京都の下町に始まった民衆運動で、『ヨイジャナイカ、エイジャナイカ、エイジャーナカト』と叫武民衆が慶応3年に始まり東海道を下って慶応4年8月まで王政復古の大号令の日に至て止む、とある。
戸塚の自慢は「八坂神社のお札播き/無形文化財」で戸塚郷土誌では京都に始まった『ええじゃないか運動』が残ったと案内しています。この民衆運動は東海道の各宿場町で起きたお祭り騒動で「世直しの天王札(天皇札では無い)が舞って、勤王の志士がこの世直し騒動を操って、倒幕を有利に進めた」解説しています。戊辰とは大政奉還の在った「慶応4年」で、副題に「名もなき民の慶応4年」と記されています。入室すると最初の展示が官軍が韮山の江川太郎左衛門に「人馬や物資の調達」を命じたお沙汰書で、韮山代官の太郎左衛門秀武は命令に従います。一方『名もなき民』は総じて「自衛団」こそ組織しますが、それは薩長の虎の威を借りた兵士の略奪を防護するのが目的で、心情的には佐幕であったようです。
江戸の防衛線になった「丸子の渡し」や大「師の渡し」では薩長軍に抵抗します。江戸では白金の薩摩屋敷や上野の山で酒食中の官軍に討ち入りします。展示解説文は
「名もなき民は何時も自分の家族や生活を守る事に精一杯で。官は自分の都合だけで民の生活を守ろうとはしない)と説明していました。
偶々近くに居たボランタリーの解説者と談話しました。
「何時の時代もf官や政府は変わらない。大義は”民の為”と大声を張り上げるが、実は自分の為であって、民は何時もその犠牲になってしまう。自衛団は「自分や家族は自分が守る」意気ごみこそ大切で、今も150年前も少しも変わらない。NHKの大河ドラマは一昨年こそ八重の桜で民の視点であったが昨年も今年も国とは云いながら長州官僚の視点で今年は薩摩の視点で民の視点とは距離が在る。」
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此れが戸塚の八坂神社の天王祭で催される「お札播き」です団扇で叩かれ舞っているのが牛頭天王のお札で、このお札播きを活用したのが幕末の世直し騒動「エエジャナイカ運動」と云う訳です。以前次に書きました。https://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/47436117.html
ですから私は「戸塚のお札播き」がどのように展示されているか確認する事が目的でした。処が「エエジャナイカ運動」も「お札播き」も紹介されていませんでした。その位置で紹介されていたのが「多摩川大師の渡し」で組織された『農兵』でした。展示は『横浜民は総じてシタタカで、勤王軍が軍用金や兵糧米や宿泊の便宜供出要請に対し、基本的に無視したばかりか自衛団を組織し、勤王の兵士の略奪等を自衛した、とされていました。ポスターの勤王軍に襲いかかっている錦絵は如何も白金に在った薩摩の上屋敷を襲った武士の図のようですが、展示では「大師の渡し」や「丸子の渡し」で勤王軍の江戸入りを阻止しようとしたようです。自衛団とは「農兵」の別名で、明治新政府が出来るまでは「自衛団」で維新政府が力を持つと「農兵」と自称したようです。「農兵」と云えば箱根の西島田宿の花街で歌われた「農兵節」を想い出します。
富士の白雪ゃノーエ 富士の白雪ゃノーエ
富士のサイサイ 白雪ゃ朝日で溶ける  (そりゃ)
とけて流れてノーエ とけて流れてノーエ
とけてサイサイ 流れて三島にそそぐ 
三島女郎衆はノーエ  三島女郎衆はノーエ
三島サイサイ 女郎衆はお化粧が長い (そりゃ)
お化粧長けりゃノーエ  お化粧長けりゃノーエ
お化粧サイサイ 長けりゃお客がこまる  
お客こまればノーエ  お客こまればノーエ
お客サイサイ こまれば石の地蔵さん   (そりゃ)
石の地蔵さんはノーエ  石の地蔵さんはノーエ
石のサイサイ 地蔵さんは頭が丸い
農兵節の最後は”島田の女郎衆は情けに弱いので冨士の白雪も溶かす”で終わりますから農兵が歌うバンカラ歌では無くてお座敷歌のようです。
野毛は幕末最大の遊郭(岩亀楼)の在った処ですから、「野毛節」が「農兵節のルーツで在ったと主張する事も出来ます。先に紹介したように農兵が歌う様なバンカラ節では無くて色町で女郎さんを待つ歌ですから、野毛節がルーツと考える方が自然です。




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野毛に在った幕末最大の遊郭「磐亀楼の錦絵/歌川川芳作」手前大広間で踊っているのが野毛節でしょう。
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此れは大井川の東島田宿で行われる島田髷祭りです。今年は9月16日(日)の予定だそうです。
島田では毎年9月に「島田髷祭り」が開催されます。お米の刈り入れを前にして島田の女性が髷を結い涼しげな浴衣で大井川の皮岸を練り踊る姿には農兵節が響いている事でしょう。一般にノーエ節は農兵節が訛ったモノと云われていますが、横浜市民は「野毛節」が訛ったモノと確信しています。
テレビに後藤久美子さんとお嬢さんが映っていました。美女の誉れ高かった久美子さんは昔日の面影を残しながらもフランスセレブとして逞しく生きているようでした。
両親とお嬢さんを観ながら想いました人類にも「雑種強勢」があるんだ!」生物学用語で雑種強勢とは雑種第1代がその生産性,耐性等の生活力で、両親のいずれの系統よりも優れる現象で,逆の場合の純粋劣勢に対する用語です。トウモロコシや稲や、鶏や蚕,鶏は著名で、実際に利用されてきましたた。一般に遺伝子的に同列の親を交配を続けたのち子(F1)は純系で劣勢が目立つものの、遺伝子的に距離のある親同士を交雑すると、雑種第二代(F2)を交配すると。両親になかった様な優秀な子供が出来ます。この場合純系の原種同士を交配する必要があります。
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美しい後藤久美子親子は雑種強勢の一現象?写真出典(モデルプレス誌/https://mdpr.jp/news/detail/1715951
最近の話題では中国のハイブリッド米が美味しい上に多収穫である事。中国のハイブリッド米を輸入して種籾として栽培したラオスのハイブリッド米が期待に反して。不味い上に収穫量が少なかった事実等は雑種強勢で出来た優秀な米であっても、その優秀な稲を自家受粉させて栽培すると劣性が現われてしまうという事です。
タキイ種苗やサントリーが開発した野菜や花を購入してもその種は取れず、毎年高い種を購入しなくてはなりません。
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中国で活発なハイブリッド米の解説図。従来の多収穫でも不味いと云った評価の中国米を雄株を雌株の間に混植(4対1)することに依って出来た籾(F1世代)は美味しくて多収穫でした。これが近時中国のお米の生産量が急拡大した秘訣でした。処がこのF1世代を輸入して種籾にしたラオス米(F2世代)は不味くて少収穫でした。
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今ではカナダ産米国産の豚は三元豚ばかりです。雑種強勢された発育の早い肉質の良い豚です。
私は昨年栽培した「栗南瓜」の種を播いたのですが今年は収穫出来そうもないのは、種を買わなかった為でした。朝顔も夕顔もそうです。種を買って播くと素晴らしい花が咲くのですが、その花を翌年も観たいと思って種を取ってもF2世代は純粋劣性が現われてしまうのでF1の様な雑種強性」は見られないのです。植物に現われる現象ですが人類に於いても現われるのでしょう。
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朝顔の種を買って育てても1年目は大きな花が沢山咲いて嬉しかったのですが、その種を採取して翌年育てても昨年のようには咲いてくれません。1年目は「F1」という雑種強勢された遺伝子ゲノムなのですがF2になると劣性が表面に出てしまうのです。
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これは我家の庭に植えた南瓜です。昨年のF1世代は沢山実って盆の頃は食べきれなかったのでしたが今年は無駄花ばかり咲いて、空しい事です。F2世代は全く期待外れです。
日本人の原種美人の後藤久美子さんとフランス人レーサージャン・アレジ氏との間に出来た子がモデルのエレンさんですから、美しいのは生物学の理に適っています。何故雑種強勢現象が起きるのか解明はできていませんが。雑種第1代における対立遺伝子の相互作用説、環境説などが考えられます。
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此れは中国の揚子江河口部洞庭湖に近い河姆渡遺跡此処から出土した土器に籾が確認され栽培種のジャポニカ米(餅米)である事が確認されました。此処20年の中国考古学の業績によって日本のお米のルーツが洞庭湖一帯であり、野生種では無く栽培種で在った事が証明されました。今はその洞庭湖の栽培種ジャポニカが海上の道を経て日本に入ったか?朝鮮半島経由で在ったか?が論点です。
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中国の環濠集落が日本にも伝播している事から日本大和朝廷のルーツが揚子江中流域だと推論する
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一方此方は揚子江河口部の水田遺跡で発見された種籾から日本の米のルーツが揚子江河口部であると推論する図。著者の佐藤洋一郎氏は考古学者では無く農学者です。「稲と米の民族誌/NHK出版は私の眼の鱗を剥がしてくれた名著です。
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此れは今日のブログの知的根拠になった農学者佐藤洋一郎氏の著書のグラビア、私の学生時代は照葉文化論が盛んで『日本人も日本語も稲作も華南からラオスの山岳地帯である』とされていましたが、最近は揚子江河口部がそれになって来ました。右上がベトナム山岳地帯の水田で私の学生時代はこんな田園風景が日本の水稲耕作の原型だとされてきました。それが右下の漓江から、洞庭湖周辺に水田耕作が伝播して、野生種のジャポニカ米が出来更に栽培種のジャポニカ米に発展し。耕作方法も直播きから田植えになりました。

私が学生時代であった60年代は、照葉文化論が盛んで、『日本人も日本語も米も華南やその先の雲南からラオスへの山岳地帯とされていました。そうした学者は誰もが柳田国男の「海上の道」の信奉者でした。処が科学的な根拠が不足していて科学というより浪漫でした。それが、遺伝子ゲノム解析や放射性同位炭素の解析や中国での水田遺跡の発掘実績から、日本人論も日本語論も稲作の解析も大幅に進化しました。
最近の考古学界では懸案の課題であった「栽培稲が何時何処で出来たか?それはインディカ米であったかそれともジャポニカ米であったかか?」そんな疑問も『揚子江河口部の湿地で偶然に交雑された』と考えるのが主流になって来ました。考古学の分野にも最近の遺伝子のゲノム解析のスキルが生きてきたようで。これからの考古学は一層面白くなりそうです。


 
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「蟹鍬用」の縄文土鍋

私は長銀の銀行員時代の専門分野は不動産ゼネコンでした。本店の融資営業部は業種別になっていました、不動産ゼネコンは営業第五部で、同部の次長(課長」として働いていました。偶々長銀直系の不動産会社もありましたので、直系不動産会社の仕入れから販売まで監理する事が命じられていました。70年代は多摩田園都市開発が盛んな時期でしたので、多摩丘陵の宅地用地の仕入れ案件が多数寄せられ、その都度実査に赴きました。実査に際しての常套文句が「此処の遺跡調査は如何なっているの?」でした。何しろ多摩丘陵は遺跡が多いのでした。当時の宅地用地の仕入れに際しては「市街化調整区域なら遺跡」「工場跡地なら、地中に有害重金属等が埋もれていないか地質調査」「郊外地なら活断層の有無の調査」が必須でした。
近時私は寝ても覚めても縄文土器ですので、銀行員時代を想い出して町田市博物館と隣接する遺跡公園に出かけました。前々から一度ゆっくり見学したいと思っていたのでしたが博物館の工事や展示の入れ替えで、ようやく8月3日(土)に行けました。当日は多摩川花火大会が催されていたようで、小田急線は浴衣姿のお嬢さんが目立ちました。小田急沿線は「江の島花火大会8/21日」や「相模川花火大会8/25日」等多いのですが、人気は多摩川のようです。。屹度お嬢さんたちは花火を観て下北沢や登戸のこ洒落たレストイランで遊びたいのでしょう。私はお嬢さんの襟首に眼を遣りながら「火遊びは気を付けなさいよ」呟いてしまいます。爺さんの心配性です。
町田駅西口から鶴川行のバスに乗って10分ほどで「町田市博物館前」に着きました。バス停から博物館までは400m弥生町団地の坂道を登り切った丘陵の頂点に遺跡公園と博物館が在りました。遺跡公園から西を観れば藤の台団地東を観れば玉川学園の森です。あの森についても大林組経由で宅地開発計画が持ち込まれた事がありました。藤の台団地の北には鶴川団地でその北には百合ヶ丘、百合丘でも丘陵一つ開発する計画が持ち込まれました。
何れもキナ臭い案件でしたが用地の取得を見送った公式理由は「遺跡」でした。誰が観ても多摩丘陵は縄文人の棲家の様に見えました。若しも開発途上で「遺跡跡」が発見されたら開発は塩漬けでしたから、「遺跡の懸念」は宅地用地購入停止の十分な理由でした。
午前10時強い日差しを浴びながら高砂百合の咲き出した弥生団地のメイン通りを登って遺跡公園に着きました。
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博物館前のバス停を降りて西側弥生団地の坂道を登り切った丘の上に「遺跡公園」と町田市博物館が在ります。手前の白いユリは「高砂百合」でこの花が咲けば旧盆です。
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これが遺跡公園内の復元竪穴住居です。
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竪穴住居のの内部。
遺跡公園には2棟の竪穴住居が復元されていました。室内に入れば中央に囲炉裏の跡が掘られています。。土と藁や萱の醗酵する匂いがします。意外に涼しいのに驚きました。解説には竪穴住居の復元には栗の樹の柱を4本用意した事、栗の樹は二股のモノを選んで二股に横木(梁)を挟んで構造材にした事等案内されていました。先日書いた空也上人の鹿杖です。(山の民をマタギと呼んだ根拠です)
天井からハンモック状に吊り下げられた簀子が在りました。この簀子は食物を乾燥させる場所なのか寝所なのか解りません。でも此処なら蚊に食われる事も少ないし、夏涼しいので眠るには最高だったでしょう。
町田市博物館に入るなり、最高の縄文土器に遇いました。先ずは写真を観て下さい。
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此れが町田市博物館の目玉蟹型鍋です。素材の粘土は関東ロームと呼ばれる火山灰土です。
屹度町田市博物館の自慢の一品なのでしょう。博物館に入って直ぐ、正面のショーケースに発掘時の写真と共に展示されていました。説明では縄文中期になっていますから昨日書いた火炎土器と同じ時期になります。関東ロームの赤い粘土を素材に薄手に造形されています。宮本常一氏の説明では薄手の土器は窯で焼いたのではなくて、日干ししたうえで藁や萱で包んだうえで蒸し焼きすると高熱で焼いたのと同じ効果が在るのだそうです。
近年考古学の進歩は著しくその原因の一つが稲のDNAに関するゲノム解析であったり、炭素やガラス質の解析による土器の作成時期の化学分析ですが、日中共同研究など国際協力体制も挙げられます。
特に日本の稲のルーツを研究における日中共同調査の成果は目覚ましく、今では日本の稲のルーツは長江下流域の野生種である事は自明の事になりました。
具体的には浙江省河姆渡遺跡 の日中共同調査がこれに当ります。どちらかと云えば日本の考古学者が中国の地道な遺跡調査の成果を戴いて、”我国稲のルーツも水田耕作の技術(具体的には直播きせずに田植えをする)も河姆渡遺跡等浙江省から伝わったモノだとしています。浙江省と云えば何といっても「上海蟹」です。こうして町田市の遺跡で発掘された「縄文土器」を観ていると『この器で上海蟹を茹でたら美味しかろう』と思ったりします。
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此れが浙江省の名産「上海蟹/藻屑蟹」です。
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此れが我国稲作のルーツと云われる揚子江河口部に在った「河姆渡/かぼと遺跡」から出土した7千年前の土器です。 右下の土器は糯米を蒸した「こしき」であったと思います。
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これがかぼと遺跡の発掘写真です。揚子江河口部から吉野ヶ里遺跡までは700Kの距離です。
祖先は屹度この蟹の格好をした鍋もそんな技術を駆使して焼き上げたモノでしょう。正面から見ると蟹の日二つの眼と口が可愛いです。爪や足は邪魔ですから在りません。唯取っ手は左右についています。我家の土鍋と機能的には同じですが、圧倒的なのはデザインの妙です。この蟹は屹度「渡り蟹」か「藻屑蟹でしょう。渡り蟹なら縄文海進によって多摩丘陵でも食べられたでしょうし。藻屑蟹なら今も境川やっ鶴見川で採取出来るでしょう。
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多摩丘陵の遺跡地図。左下(緑)が町田の「本町田遺跡」です。住宅公団がb昭和42年(1967年)藤の台団地開発に際して発見されました。赤いのは都築のセンター北で発見された大塚歳勝土遺跡です。本町田遺跡は恩田川(境川支流)と鶴見川の分水嶺の丘陵に在ります。
縄文家族が「今日は蟹が獲れたぞ!」言いながら、この土鍋で縄文蟹鍬をしている光景が目に浮かびます。態々蟹を意匠したのは今後とも蟹が収穫できるように祈ったのでしょう。国立博物館の縄文展でも縄文後期には猪の土偶が目立ちました。どれも収穫呪術です。私達が山芋を掘った後、その蔓を挿し木して帰るのに似ています。次回も収穫の幸運に巡り合えるよう願う呪術です。
町田博物館の資料を閲覧していると町田では「ストンサークル(環状列石)も発掘されたそうです。秋になったらストンサークルを観に出かける事にしましょう。博物館では土器の破片や石器を手にする事も出来ました。
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町田市博物館では土器の破片などを触る事が出来るのでその材質や土器の厚さを実感する事が出来ます。
先日国立博物館の縄文展では我国でこうした蟹の土鍋を作っていた頃エジプトやペルシャで作られていた土器が展示されていました。日本の土器は赤土(鉄分の多い火山灰)の土壌(泥)が素材でした。他方エジプトやペルシャの土器は砂漠の砂を大河が運んできて置いていった沖積地の粘土でしたからガラス質(石英)が多いのでした。そんな風土の違いは米と麦の違いと同じく土器の違いにも現われています。
勿論私はワインを醸造した甕よりも蟹鍬の土鍋の方が美しいと確信しています。
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此れは国立博物館の縄文展でのメソポタミア文明の土器です。薄手高燃焼の土器と云うより陶器ですが、粘土が砂漠の石英質粘土だからです。


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旅行ブログ

空也上人の鹿の杖

愈々今週末から高校野球の甲子園全国大会が始まります。去年はこの時期奈良に行って蓮や布袋葵や百日紅の花を愛でて歩いていました。その前2年に渡っては京都で地蔵盆や大文字の送り火を観ました。今年はどうしようか?思案中です。「虫送りを観たい」思って福島の双葉郡富岡町に行く案もあれば、「(虫送り送り」なら奈良の宇陀でも観られそうです。福島に行けば桃が食べられると思えば奈良も桃は名産です。一昨年京都の六波羅密事では空也上人像を拝観しました。その翌日は大文字焼きで、明神ヶ岳は六波羅密寺の比叡山寄りでした。六波羅蜜寺のあった賀茂川の東岸は行き倒れ人や疾病で亡くなった人の遺体の捨て場だったようです。空也上人がそうした不運な人の遺骸を懇ろに弔って、土饅頭に埋めて「南無阿弥陀仏」の名号を唱えると名号が阿弥陀仏に変じたという説話を仏像に刻んだのが空也像だというのです。
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此れが六波羅密寺の空也上人像です。空也上人が左手に握っていられる杖が「鹿杖」と呼ばれます。
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此れは高岡市にある鋳物博物館の庭に祀られた弘法大師像です。弘法大師は右手に錫杖をお持ちです。
空也上人は左手に鹿杖をお持ちです。
一方。弘法大師の杖は錫杖で。右手にお持ちです。錫杖はお地蔵様の法具でもあります。僧が山野遊行の際、 禽獣や毒蛇の害から身を守る道具でもあったのでしょう。托鉢の際に門前で来訪を知らせる意味も在ったのでしょう。杖の頭部は塔婆の様な刻みが在って、更に数個の金環が付いていますので、歩けば金環がジャラ・ジャラなりますので、熊除けの鈴と同じ効果が在ります。全国各地に伝えられる「弘法大師逆さ杖」や「温泉」や「橋杭岩」の伝説は何れも弘法大師が錫杖を大地に突き刺して起した奇跡でした。錫杖は常に浄手(右手)に持ち不浄手(左手)に持つ事はありません。
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此れは京都の貴船神社の千本桂です。全国各地の霊木には「弘法大師逆さ杖」の伝説が在ります。近場では福沢先生のお墓のある麻布善福寺の大銀杏も「弘法大師逆さ杖」です。
【マタギ】
現代「マタギ」と云えば、、甲信越地方から北関東や東北地方の山岳地帯で、「狩猟を専業とするモノ」の事です。「マタギ郷」として有名な秋田の由利郡阿仁(鳥海山の山中)や山形県飯豊村(朝日連峰の山中)にはマタギの子孫が「熊狩り」や「熊祭り」の習俗を残しているので出かけて民宿に泊めてもらいました。、民俗学の用語辞典では「マタギ」とは「マタハギ」の意味で「樹皮を剥いで着ている人」の意味だと説明しています。処が空也上人像や一遍上人絵伝を観ると先端が鹿の角の様に分岐した杖を突いた人が描かれています。マタギとは「又木」の杖を持っている超人的な「山の民」のようにおもえます。役行者(役小角)は大和朝廷創立時期に金剛葛城山に棲み朝廷に従わなかった山岳住まいの超人で、修験道の創始者として崇められていますが。右手に「錫杖」とも「鹿角」ともいえる角を持っています。役行者像の姿が定まったのは修験者が全国を回った江戸時代でしょうから、空也上人の鹿角と弘法大師の錫杖と、双方の呪術価値を併せ持った造形になったのでしょう。
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此れが役行者(役小角」像です。熱海神社(葛城山で産まれて熱海で没した事になっています。の持っている杖は錫杖であり「鹿角」でもあります。
山の民の狩猟方法
古墳時代には神武天皇を中世には一遍上人を熊野の山中に導いたのは「山の民」で近世には「山窩/さんか」と呼ばれた少数被差別民だったと思われます。私が学生時代に読んだ白土三平氏の力作「カムイ伝」は山窩集落のヒーロー「カムイ」が時代に抗して戦う漫画でした。稲作に依らず狩猟によって生活する人たちには差別も階級も無く、山で採れた獣等の収穫物は均等に分けて食べる原始共産制社会でした。階級社会で在った江戸時代に縄文時代の様な社会が許容される訳は無く、厳しい差別と収奪に遇います。
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1960年代月刊誌「ガロ」に連載された白木三平氏の「カムイ外伝」は山窩と呼ばれた被差別民が自由と共産自治体を守る為近世封建体制に挑んだ大作でした。舞台は甲賀に近い東近江の山中の潜伏部落です。
平野で水田耕作する里人にとっては山中で狩猟したり焼畑したり木地師をしたりする人は畏怖の念を以って観ていたモノと思います。山の民は鉞(マサカリ)一本を腰に吊るして鹿杖を持っていました。鹿杖は熊や狼と戦う時の武器でもありました。又小屋掛けと呼ばれる簡易住居を建てる道具でもありました。小屋掛けとは何かというと。狩猟民が1週間程度住む「簡易住居」です。先ず又のある樹の枝を伐採してそれを地面に刺します。次ぎに又の上に横木を渡して棟木にします。更に萱や杉の樹皮を剥いで屋根を葺きます。そして萱を束ねて壁を作ります。河川敷に作られたブルーシート小屋のような住居です。その小屋掛け住居の中央に囲炉裏を掘って。夜なべで椀や杓文字を作ります。そして日中は狩猟に出かけます。壬申の乱で大海皇子は吉野から天川に逃げます。天川は山の民が集住していました。弓や矢の素材は充分に在り、山の民はカムイの様に逞しく戦い上手でした。天川で戦力を整えた大海人皇子一行は伊勢を経て近江に居た大友皇子を討ちます。
山の民の力や神秘を象徴する道具が「鹿杖」でした。だから、空也上人が鹿杖を持ち遺骸を弔って下さるのを観た京都の平民は死んだら魂は山に登るモノと確信したのでしょう。鹿の角に神秘性や聖性を感じた武士は自分の刀を鹿の角の刀掛けに預けました。
8月16日は京都は大文字焼きで賑わう事でしょう。空也上人像のある六波羅密寺から見れば東側に明神ヶ岳が在って。大文字の送り火が焚かれます。空也上人の眼は一見虚空を観ているようですが、実は明神ヶ岳を観ていられるような気がしてきます。



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