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脳梗塞闘病記(文化への憧憬)

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私の学生時代は、『稲作が始まったのは弥生時代の初め、年代でいうと紀元前4〜5世紀』と教えられました。 ところが平成15年の国立歴史民俗博物館の報告によると、弥生時代の土器に付着している「ふきこぼれ」の放射性炭素を加速器質量分析法(AMS法)によって測定したところ、考えられていたよりも500年も時代を遡るという結論が出ました。我国稲作は紀元前10世紀頃に始まったということになります。 この報告は考古学の世界を震撼させました。丁度その頃私は友人と3人で東近江の野洲市にある「銅鐸博物館(野洲市歴史民俗博物館)」を見学しました。関心は巨大な銅鐸に在ったのでしたが、博物館の庭は蓮が生育し。竪穴住居が復元されていました。そして田圃も復元されていました。野洲遺跡の田圃が縄文時代のモノか古墳時代のものか、説明はありませんでしたが、縄文時代の稲作に関心が寄せられました。
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此れは琵琶湖東岸に在る野洲市に在る銅鐸博物館の銅鐸展示室です。でも室外には竪穴住居や棚田が復元されています。私はこの丘陵に立って琵琶湖を臨むと最初に縄文人がこの丘陵に棲んで狩猟採取生活を営み、次いで弥生人が野洲川の沖積地に湿田を造成し、その後住人も増え力のあるリーダーが出現して古墳時代に突入リーダーの権威を示す、銅鐸が作られた、と思うのです。
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此れは野洲市に在る銅鐸博物館に復元された棚田です。案内板には「赤米田」とされていましたが。古墳時代には「赤米」を栽培した棚田でも最初は焼畑を常用した田圃であったのか?疑問に思うのです。
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野洲市の銅鐸博物館の丘陵地には竪穴住居が復元されその周囲の湿地は大賀蓮を栽培していました。銅鐸を作った古墳時代はこんな景色だったのでしょうが、私の興味は縄文時代にこの田は如何であったか?と云った事でした。
東近江はこの辺りから「永源寺町」にかけて今も棚田が多く残り地名に「畑」も多いのです。私は縄文時代は柘植にかけて焼畑が盛んに行われた先進地域で、他地域に先んじてく弥生時代や古墳時代に突入したと想像定しているのです。概して、畑の付く地名は焼畑が近世まで存続していた処と思います。縄文ビーナスが出土した「棚畑遺跡」は棚田と焼畑をイメージさせる地名です、木喰上人の生誕地山梨の丸畑も稗や蕎麦しか生育しない焼畑の地形です。
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此れは縄文文化で最初に国宝に指定された「土偶/愛称縄文ビーナス」です。私は尖り石縄文考古館で「仮面の土偶」と一緒に観たので、尖り石遺跡で発掘されたのかと思っていたのでしたが国立博物館での縄文展でビーナスは「棚畑遺跡」で仮面は「中ッ原遺跡」で発掘された事を知りました。どちらの発掘風景も縄文集落は狩猟と採取を生業としていたことを知りました。採取を安定的に行うのが「焼畑農業」で「焼畑で稲が栽培されていたのか?」が次の疑問でした。
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此れは現在展示されている国立博物館の縄文展のパンフレットです。左が「縄文の仮面の女神」右が縄文ビーナスです。八ヶ岳の山麓は幾つもの縄文集落が在って、黒曜石(和田峠)や翡翠(糸魚川)も出土しています

国立歴史民俗博物館の報告は「稲作の始まりは紀元前10世紀から5世紀(縄文晩期)まで遡るモノであり従来の定説(稲作の開始は弥生時代)を覆すモノでした。以来私は興味を持って次の仮設のどれが正しいか考えて来ました。
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これは「横浜歴史博物館の年表です。エジプト第三王朝時代に我国では縄文時代中期でした。横浜は石器時代丘陵で狩猟生活していた人々が所謂「縄文海進」(温暖化による海面の内陸進行)により海辺が内陸に進出したので貝の採取が出来るようになって芋やキビの栽培も始めるようになりました。
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横浜歴史博物館の石器時代前期縄文時代の展示マンモスの骨とマンモスを狩猟する縄文人の創造画が展示されています。
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横浜歴史博物館の前記縄文時代の展示様々な狩猟道具を展示すると同時にその使い方を説明していました。
仮説1/稲作は縄文人が始めたモノで、それは陸稲であった。縄文人は焼畑をして、「蕎麦」や「稗」や粟等雑穀に加えて陸稲も輪作していた。その後山から里に下りて湿地で本格的な水稲栽培を始めた、水稲栽培の技術は南方から島を伝ってやってきた弥生人であった。
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横浜での縄文海進を説明するジオラマ。横浜駅は海の中で鶴見川沿いも私の住む戸塚も海辺で在った事が解ります。縄文遺跡はそんな海を見下ろす丘陵に集中していました。
仮説2/本格的な水稲栽培は弥生人が始めたモノであった、弥生人と縄文人は同じ時代に棲み分けしていた(山には狩猟採取生活を営む縄文人、里には湿地で稲作栽培をする弥生人が垂直に棲み分けていた。その後集住生活を営む弥生人が優勢になり、山に登って水稲を畑で栽培する陸稲栽培を始めた。

従来定説では稲作の始まりは弥生時代であり、縄文時代晩期と重なっていました。処が科学の進歩『放射性炭素を加速器質量分析法』によって土器についた吹きこぼれを調べた結果、縄文時代晩期には稲作が行われていたことが確認されました。
考古学の世界で長い間の定説をもう一度検証する事を義務付けられました。今もこの問題を巡っては大論争の渦中にあるようです。各地の博物館もこの論争を意識して展示しています。私は昨秋友人と行った「亀岡古墳」でも「三内丸山古墳でも稲作を確認しながら見学しました。私の生活圏では縄文遺跡は「多摩川台遺跡」や「大熊中町古墳(センター北」があります。横浜歴史博物館の常設展示を確認すると。縄文前期には猪や鹿の狩猟を主としながらも畑作(芋?)の栽培や家畜(鶏)の飼育もおこなっていたと判断していました。
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横浜歴史博物館の縄文時代の展示室のパネル。上から「水田耕作」「畑作」「採取」「狩猟」「飼育」「貝の採集・漁労」と分類されています。私の関心は稲作で「稲」は水田と畑作双方に描かれていました。昨今の中国の遺跡発掘の成果で揚子江河口部の遺跡かジャポニカ米も「インディカ米」も発掘されています。という事は、南方人が日本に渡ってインディカ米もジャポニカ米も伝えたが日本の地にはジャポニカ米が適して居た事になります。
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上記のパネルの下には水田で使われた農器具が展示されていました。左が「鍬」で右は「鋤」です。
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此れは横浜歴史博物館の縄文時代の展示中の縄文人の生活想像図です。竪穴住居の奥に稲穂のたわわな田が見えます。家族は河原石を焼いてお米を蒸す準備でもしているのでしょう。
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下が縄文集落のジオラマで、上はその想像図です。想像図の手前の白い窪地は「貝塚/ごみ溜め」でしょう。私が注目したのは集落の外周に作られた「畑」でアリ。畑で栽培されていた作物です。多くは麻の様な背の高い植物でしたが、それが「稗」か「タロイモ」か若しかして「陸稲」かと思って観ました。
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右は湿地に置かれた丸太は木道です。都築の古梅谷遺跡の湿地の発掘写真で、左はその木道を歩く人の想像図です。注目したのはこの湿地に栽培されていた植物です。絵では「稗」か「麻」の様に見えますが背の高い稲(インディカ米)かも知れません。自分の疑問をボランタリーの説明員にぶつけると「此処には想像図が沢山展示してあるので、その作物等について皆で議論してみたい。との事でした。
最近は『日本人だけの長く幸せな人生を送る秘訣/茂木健一郎』が評判です。『”日本の国が駄目になったな訳は東大法学部卒の官僚が国を導いている為だ”等痛快な発言が人気の理由のようです。』同氏の専門の脳科学の分野について次の発言が在ります。
『人間は歳を重ねると大脳側頭葉に知識が溜めこまれます。一方大脳前頭葉は好奇心を刺激し、閃きや直観を司ります。だから、高齢者が好奇心こそ活発であれば新発見をするチャンスに恵まれています。』
その意味では高齢者にとって現代の歴史学はチャンスに恵まれているのです。その理由は歴史学と科学や民俗学や文化人類学の隙間が埋められて歴史学の不明な部分に他の学問で培った知識やスキルを活かすチャンスが在るのです。良い例が歴史学者の主張よりも小説家や漫画家の推察の方が面白い事が多いのにも現れています。
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北斎最晩年の傑作赤冨士は北斎の見識の積み重ねと衰えを知らなかった好奇心の成果でした。
葛飾北斎が代表作『富嶽百景』に着手したのは1834年84歳の時でした。93回も転居を繰り返した北斎です。側頭葉には様々な風景や他の人の作品を観た知識が溜まっていたことでしょう。その知識を駆使して前頭葉に宿した冨士を「富嶽三十六景」に描いたのでしょう。側頭葉しか使わなければ模法で終わってしまったものが前頭葉を駆使したので、名作を作成出来たのでしょう。
富嶽三十六景を描いた北斎に較べれば私は未だ未だ若い事になります。
これからもアッチコッチ出かけて自分の眼で観て、考えてみる事にしましょう。私に創造力(想像力)さえあれば”これからでも何か出来る”かもしれません。



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「虫送り」を観たい

「NHK」ラジオが「ラジオ宅急便」から「毎朝ラジオに代わると各地の「特派員」から地方情報が届けられます。
7月24日の朝は「福島県富岡町」の方が報告しました。内容は8月15日の夜に富岡八幡宮に向けて松明行事をするというのです。
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此れは福島県富岡町にある「富岡八幡宮」です此処で8月15日「虫送り」行事が開催されるのだそうです。写真出典「双葉町未来会議https://futabafuture.com/2018/04/02/jinja-2018-tomioka/
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此れが富岡町の虫送りに使われる「虫送り人形だそうです。富岡町に隣接する田村市の「田村様」に似た藁人形です。
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此れは富岡町に近い田村市船引町の人形道祖神の「田村様」です。虫送り人形に似ています。
八幡宮は麓山(はやま)という名のピラミッド型の山の麓に在って。氏子は八幡宮で聖火を預かって自作の松明に火をつけて1キロの山道を往復して八幡宮に戻るのだそうです。所謂「虫送り行事」で稲に花が咲く時期に花を虫が食わない様に聖火で虫を駆除する神事だというのです。稲の天敵と云えば「蝗」で蝗は突然の松明に驚いて逃げ出すでしょうが、何処まで効果が在るかは疑問で、呪術の一つでしょう。
と云っても私には虫送りの記憶が鮮やかに残っています。体験したのは栃木県真名子(現在地名/栃木県上都賀郡西方町)で伯父が同地の八龍山洞雲寺)の住職だったのでした。干瓢畑と煙草の葉栽培が盛んな村でしたが、夕方になると北(日光方角)から雷鳴が聞こえたかと思うと、直に真名子村は雷雲で真っ暗になり雷の閃光が光り、雷音が響きました。子供心にも恐ろしいと思いました。雷一過すると、煙草の葉っぱは傷んでしまいました。一家総出で、傷んだ煙草の葉を収穫して、本堂の廊下や板の間で干しました。傷んだ葉っぱでも自家処分すると罰せられるというのです。そして傷んだ葉っぱでも煙草公社が買い上げてくれるのでした。八龍山洞雲寺は谷戸の奥に在る山寺で、山門前に「龍神池」と呼ばれる池が在って、池には夥しい数の蛇が棲息しているので気味悪い寺でした。虫送りの夜に村人が龍神池の弁天様に集まって松明を翳して村の公民館までを往復しました。私は一人寺に残るわけも行かず。虫送りの行列に連なりました。勿論蛇を踏まない様にビクビクしながら・・・・。
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此れは横浜市の北山田で今も行われている虫送り行事です。(横浜市無形民俗文化財)写真出典/港北経済新聞https://kohoku.keizai.biz/headline/2546/6月に実施済みです。
6月になって田圃の苗も青々と育ってソロソロ花穂が出て来る頃、村民総出で「虫送り」をしました。案山子のようなお人形を先頭にして。松明を持って畦道を歩きました。
私は福島の虫送りは栃木より2か月も遅いのを不思議に居思いながら聞いていました。福島の虫送りは旧盆にも重なっているので「祖霊行事」が混ざっているのかもしれません。俄然行って自分の眼で確認したくなりました。私が再三出かける「横浜歴史博物館(都筑区)では杉山神社の藁大蛇の注連縄等新しい街横浜の興味深い民俗行事を紹介しています。
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此れは横浜歴史博物館に展示された杉山神社の大蛇注連縄蛇は稲作の天敵鼠を食べるので稲作の守護神のように扱われました。この記事は以前次に書きました。/https://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/50031487.html
稲作の豊作を祈って蛇の注連縄を張ったり道祖神を祀ったり、虫送りの神事をしたり、何れも科学の時代に育った現代人は呪術として軽視してしまいます。そして現代人は強い農薬を散布して害虫の駆除をしました。処が農薬は益虫も駆除してしまいました。同時に残留農薬は人間にも悪さをする事に漸く気付きました。今も農家は自分で食べるお米は無農薬天然肥料天日干しで作っています。漸くそんな事実に気付いた消費者が農家に直接注文して農家が食べるお米を「オーガニックライス」として購入するようになりました。
何のことは無い科学に頼った農業より呪術を重んじた農業の方が「循環型持続可能な農業」である事に気付き始めたのです。
去年は双葉町の隣の楢葉町で原発の遠隔操作研究施設などを見学しました。今夏は富岡町で懐かしい虫送りを観て富岡町のお米を食べてみたいと思うのです。




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佐原山車祭りの「のノ字回し」を観たくて八坂神社前の辻に設営された「お祭り広場」で待ちました。お祭り広場のステージには太鼓が置かれ、此処で3回/1日佐原囃子が演奏されます。私達3人はステージ前の椅子席に陣取って,生ビールに焼き鳥、私は「御手洗団子にラムネ」で佐原囃子を聴く事にしました。佐原駅前通りは閑散としていたのに、お祭り広場の熱狂は驚くばかりです。佐原のお嬢さんは浴衣姿で下駄を履いて大股で闊歩しています。晶子は「今宵遇う 人皆美し」と歌いましたが「佐原では「今宵遇う子は 皆溌剌」です。200年も前「祭りの夜」は男女が密会出来る「胸弾む夜」だったのでしたが、その記憶が今も残っているようです。目の前をオカメさんの山車が通って行きます。良く見ればお面だけで人形ではありません。オカメ面は「佐原張子」ように見えます。でも小野川沿いで観たオカメさんは面では無くてお人形も出ていました。地元で産まれたI君は誇らしげに説明してくれました。”「飛騨高山の山車はか「らくり人形」で有名だが佐原の山車にも「カラクリ」が在ってある時はお顔だけある時は全身を見せてくれる。”
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これは「お祭り広場」に向けて巡幸してくる「本河岸町の山車天の鈿女の巫女」です。此処(昼は)スッピンで夜は全身を見せてくれるのでした。
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此方は帰路小野川運河沿いで観た天の鈿女の巫女です。此処では(夜」は全身を見せるようです。
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山車の上の段にはお人形を据え付け囃子は下の段で演奏します。写真は松戸町の山車「神武天皇」です。囃子は各町内に組織が出来ていてお祭り広場の舞台では「佐原囃子保存会」が演奏しました。
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此れは友人I君が生まれ育った寺町の山車です、テーマは「山姥と金太郎」でした。リアルなので驚きましたが自宅に戻って写真で確認すると熊は実物の剥製のようです。

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此れは佐原の八坂神社前の広小路に面した駐車場に設営された「お祭り広場のステージです。近隣に屋台が集まっていてこの広場の椅子に腰かけ夕涼みしながら哀調のある佐原囃子を聴きながら、眼では佐原のお嬢さんの浴衣姿を追いました。
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お祭り広場に山車を引き回して来た氏子連は広場の前で手踊りして町に戻ります。各町には夫々立派な「山車の格納庫」が在るので、秋祭り迄仕舞って置くのでしょう。友人T君は氏子連のお嬢さんにお祭り広場の舞台に上がって、踊ってくれるくれる様依頼しました。お嬢さんは”おひねり次第よ”答えてくれました。

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友人二人は生ビールを飲みながら佐原囃子に聞き入り私は虎屋の御手洗団子にラムネで小江戸の夏祭りをエンジョイしました。舞台では「佐原囃子保存会」の演奏、背後の広小路では粋なお姐さんの手踊りを観て興趣は尽きませんでした。
佐原囃子は「佐原の山車行事」として2004年2月16日に重要無形民俗文化財に指定され2017年にはUNESCOより『世界無形文化遺産』に登録されました。屹度佐原の町衆が江戸の祭り囃子を聴いて元々あった佐原の田楽囃子等をベースにして神楽囃子としてつくりかえたのでしょう。司会者が的確に説明してから演奏が始まりました。最初は役物(やくもの)と呼ばれる山車の出発に際して演奏される儀式曲です。さんぎり(砂切)、花三番叟等を演奏して最後は誰もが知っていて調子の良い端物(はもの)が演奏されました。八木節ノーエ節、「ラバウル小唄」が演奏されました。ラバウル小唄を聴くと友人は私に言いました。佐原は海軍飛行予科練習生(予科練)の在った土浦に近いのです。友人戸は「何時か知覧に行こう」云いました。目出度い祭りで戦争を想い起させる軍歌はシックリしません。でも「小唄」であって「同期の桜」や「若鷲の歌」ではありません。
友人は「佐原囃子」と云うと三波春夫さんの浪曲歌謡「大利根無常」を思いだす様で、鼻歌で名調子を唸っています。大利根無常は佐原を舞台に繰り広げられた「飯岡助五郎」と「笹川繁蔵」の私闘に際し、義を理由に笹川繁蔵の助っ人になって討ち死にした「平手造酒(ミキ)」を題材にした楽曲でした。
三波春夫さんの台詞が入ります。
『聞こえてくりゃ佐原囃子が・・・・・。想い出すなあ、お玉が池のちぃば道場が、今じゃ平手造酒もやくざの用心棒・・・・・。』Uチューブhttps://search.yahoo.co.jp/video/search?rkf=2&ei=UTF-8&dd=1&p=%E5%A4%A7%E5%88%A9%E6%A0%B9%E7%84%A1%E6%83%85
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私が大学を卒業するころ流行っ他大利根無常でした写真出典https://search.yahoo.co.jp/video/search?rkf=2&ei=UTF-8&dd=1&p=%E5%A4%A7%E5%88%A9%E6%A0%B9%E7%84%A1%E6%83%85
本家本元の京都祇園の八坂神社のお囃子と佐原囃子との違いは良く解りません。八坂神社の祭神は「素戔男尊」であるのに対して佐原八坂神社の祭神は香取神社や鹿島神社の祭神の「武甕雷男神」や「豊布都神」です。祭神マデモ変るのですから、お囃子も違って当然です。問題は氏子も神も喜んで乗れる調子(リズム)です。八木節も「ラバウル小唄」も調子が良いモノです。それでいて何処か哀調が在ります。
私は昨年友達と行った「八尾の風の盆」で求めたTシャツを着ていました。『日本の祭りの哀調は何処に根源があるのか?』考えなら帰路に着きました。
三波春夫さんの「大利根無常」も哀調があるし、「同期の桜」を歌った予科練の青年兵も南十字星も涙を流して見上げた事でしょう。

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7月15日は日本中の八坂神社で「厄除けの夏祭り」が実施されました。私は祇園にも行けないし、友人I君にお願いして仲間6人と一緒に小江戸佐原に「佐原山車祭り」に出かけました。早朝9時に八重洲口バスセンターに集合しての出発でした。祇園社の主祭神は軍神の素戔嗚尊(すさのうのみこと)です。でも佐原は鹿島神宮に近い土地ですから祭神は武甕槌です。因みに佐原の香取神宮は武甕槌と併せて「経津主神」(ふつぬしの神)が主祭神です。地震だ火山の爆発だと云った災厄が起きるとこうした祭神が脚光を浴びます。神を呼び寄せて災厄除けを祈願するのが[夏祭り]です。一方「秋祭り」はこの一年の豊作を感謝し、翌年の豊穣を予祝する行事です。佐原の山車祭りは「夏祭り」と「秋祭り」の二部構成です。夏祭りは八坂神社で秋祭りは諏訪神社で営まれます。
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此れが佐原の山車祭りに駆り出される山車です。小野川を挟んで東西の街が山車を作ります。東が10基西が14基。博多山笠は毎年山車を新作しますが、佐原では使い回しします。それでも藁で作る山車は呪力の強い事を期待して数年おきに作り替えます。平成30年は山車がユネスコの指定を受けた初年でしたので、新作山車が目立ちました。
此れは佐原の運河「小野川沿いを八坂神社に向かう「浜宿町」の「武甕槌神/たけづちのみこと」この神は高天原から蘆舟に乗って地上に降りた武神と謂れ、鹿島神宮や諏訪大社の祭神になっています。小野川にかかっている木造の橋は通称「ジャージャー橋と謂れ橋の中央に水が流れていて30分間隔で瀧の様に水が運河に堕ちてゆきます。
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山車の上に乗っているのは浜宿の氏子が総出で右藁を編んだ鯉で、明治26年にこの意匠になったモノだそうです。以来5年毎に作り替えられ、現在の鯉は平成26年作だそうです、という事は来年作り替える事になりますので、今年収穫した麦藁を大事に保管して来年は早々に鯉の新作に励む事になるのでしょう。
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此方は仁井宿(にいしゅく)町の山車の鷹です。此方の素材は米藁です。
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此れは秋田県湯沢町の道祖神で秋田では「鹿島様」と呼ばれています。鹿島様とは鹿島神宮の祭神で「武甕槌神/たけづちのみこと」の事だと思います。何れも素材は神の依り代である米藁です。でも流石に佐原は麦(醤油の素材)を使って山車にしていました。
7月15日(日」友人6人で朝9時八重洲南口に集合「佐原山車祭り」に出かけました、3連休の中日でも在ったので、「道路渋滞状況では佐原到着は遅れる」とアナウンスされて出発進行しました。案の定東関東周環道と京葉道の分岐がネックになって佐原駅到着は1時間も遅れた12時でした。早速に小野川沿いの街並みを観て歩きました。大凡の状況を把握して、伊能忠敬博物館を見学してから午後1時昼食に鰻の長谷川に入りました。午後は友人I君の生家に寄り、私達がお世話になったI君の御両親が眠っておいでの墓参りを終え、I君の義弟の彫刻の作業場を見学しI君の再従兄/(はとこ)の蒲田氏の佐原張子の工房を訪問しました。どちらも祭り仕様でギンギンに冷えたビールと重箱に詰めた野菜の煮しめに赤飯を用意してお待ちいただいていました。
「こんなにお気遣い戴くのなら、ランチは名物の鰻は止めて赤飯に煮しめに・・・・・」を戴けば良かったのでした・・・・・・・・。
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此れは「仁井宿町」の鷹です。此方は稲藁を使って町内全員で編んで作るそうです。今年は初披露したもので昨年製作したのだそうです。此方は稲藁ですので丸い柔らかい感触です。
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鷹を見送ってその尾羽を観ると畳表のような模様飾りが施されていて「鷹」というより「山鳥」か「キジ」を観るようでした。
祭りの写真展示を観ると佐原山車祭りのハイライトは「のノ字回し」という山車を佐原の町の中央「八坂神社前の」広小路で回転させる場面で、予定では午後6時半とされていました。そこで私とT君とI君の3人は「のノ字回し」まで観て帰路は電車で帰る事にしました。祇園祭のハイライトは山鉾巡幸でそれも「辻回し」と呼ばれる10トンもある山鉾を山鉾が竹の上を滑らせて辻を回転して八坂神社に向かいます。四条川原街の交差点に観衆が集まります。四条河原町交差点に当る佐原の町の辻が「山村会館」前の広小路です。「お祭り広場」としてステージも設えて在りました。そこで「有名な佐原囃し」を聴いて、「のノ字回し」を待ちました。広小路の中心には山車が回転して出来た轍の擦った跡が残っていました。山車のブレーキは前輪に付いています。前輪ブレーキを効かせて、同時に山車を回すのでしょう。私の興味は「山車は右回りなのか?」それとも「山車は左回りなのか?」に在ります。佐原祭りの神紋は「左三つ巴紋」です。ならば山車も左回り(時計回り」するように推測されます。でも自分の眼で確認したいのです。「のノ字回し」という程ですから左(時計回し)なのでしょう
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此れが佐原祭り「お祭り広場」のある山村会館前の辻で行われる「山車の「野ノ字回しです。
車軸は山車の下、前後二本が進行方向に直角に固定されており、両端が丸く成形されています。。
ここに木製の車輪がはめ込まれ、くさびにより固定されています。この構造から4つの車輪はそれぞれ独立して回転しますので丸太をブレーキにして固定して、山車を回転させます。写真はガイドのチラシを複写。これを観たくて遅くまで佐原に居ました。興味は山車の回転方向「(時計回り?反時計回り?」でした。10両トン7mもある山車上の人形をまるで能のようにゆっくり回すのが「見せ場」だそうです。
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山村会館に吊るされた提灯の神紋は「左三つ巴紋」ですから時計回りです。予測は山車の回転も時計回りですが、若しかしたら反時計回りかも知れません。確認する事が大事です。




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私の住んでいる横浜市戸塚の「地名」の謂れは「冨塚八幡宮」と云われています、一方戸塚町の鎮守は「冨塚八幡宮」ではなく「八坂神社」です。その八坂神社の夏の例大祭は7月14日(土)に行われます。京都祇園祭と同じですから覚え易いのです。でも「祇園祭り」とは呼ばずに「天王祭」と呼んでいます。子供心に「天皇祭」と思っていましたが、正しくは牛頭天王のお祭りですから「天王祭」です。横浜市の無形民俗文化財に指定されている「お札播き」は幕末の民衆騒動「良いじゃないか運動」を現在に伝える東海道の宿場町で唯一残っているそうです。
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此れは戸塚八坂神社の「お札播き」の光景です。次にブログアップしました。https://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/folder/893297.html?m=lc&sv=%C5%B7%B2%A6%BA%D7&sk=0
ところで八坂神社の神紋です。町内では一般的な「左巴紋」が描かれた祭り提灯を使っていますが、正しくは祇園の八坂神社と同じ「五瓜に唐花」です。イチイチ「五瓜に唐花」紋を用意したのでは大変なので巴紋で濁しているのでしょう。鎌倉の八幡宮でさえ神紋は「丸い鶴」なのに提灯は右巴紋です。左巴紋が神田明神の神紋なので奇妙な気になります。せめて源氏に因んで「笹竜胆」か「三つ鱗紋」にすれば良いのに思うのですが。
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此れが八坂神社の神紋の「五瓜に唐花」の意匠です。唐花とは中国の意匠で五弁の花です最初に確認できるのは正倉院御物の琵琶の模様です。(例えば桔梗)瓜とは胡瓜が代表です、京都では祇園祭中は胡瓜は食べないそうです。
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此れは八坂神社の舞殿に吊るされた提灯です。「五瓜に唐花」の神紋では無くて「右巴紋」が大半です左巴紋は朝廷に弓した平将門の神田明神の神紋ですので複雑な気になってしまいます。
家紋と云うと想い出すのが「三省堂」のブックカバーです。大学の校章が印刷されていました。態々三省堂に行ってブックカバーをして貰うと読書する意欲が高まったような気がしたものです。もう一つ「ルイビトン」のマークも明らかに家紋のコピーの様に思われます。試みにウィキペディアで確認するとパリ万博に際してルイビトン社が当時盛んであった「ジャポニズム人気」にあやかってデザインしたのが始まりだそうです。国際司法裁判所に「登録商標権侵害訴訟」でも提訴したらどうなるのでしょうか?
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巴は勾玉です。右三つ巴紋は八幡宮初め各地の祭りで使用されますが左三つ巴紋は神田明神だけです。
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此れは私が学生時代に神保町の三省堂書店が使用していたブックカバーです。学校の校章が使われていました。
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此方はルイ・ビトン社のデザインです。屹度登録商標していないでしょうから、元祖家紋の日本デザイナーが十字花紋等を登録したらどうなるのでしょうか?少なくとも中国企業が商標登録して国際問題になっている「讃岐うどん」よりも面白い法廷論争になるでしょう。
処で私の生活圏で一番の信仰を集めているのは鎌倉の鶴岡八幡宮です。鶴岡八幡宮は京都の石清水八幡宮を鎌倉幕府を海府するに際し頼朝が勧請したモノです。その石清水八幡宮も平安京遷都に際し、桓武天皇が宇佐八幡宮を勧請したモノですから、鶴岡八幡宮は宇佐八幡の孫の位置に在ります。当然八幡宮の神紋は3社とも宇佐八幡のそれを使っているモノと思って昔写した写真を見比べると3社とも一致しません。朝廷好み武士好みに神紋は変わったようです。
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石清水八幡宮の神紋は右三つ巴と橘です。
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宇佐八幡は右三つ巴天皇家と同じ菊と「五.・七の桐」ですが、石清水八幡宮は右三つ巴と橘紋です。鶴岡八幡宮は鶴丸紋です。
家紋も神紋も時代と共に変遷します。役割は式服や車(牛車)に着けて往来の紛争を避けた知恵でした。でも、平和な時代には「他と区別する標識としての役割以上に美しさが必要とされ、デザインが洗練されました。八坂神社の神紋が「瓜+唐花」である事は近世の町衆の誇りだったでしょう。ありきたりの巴紋は止しにして光琳や宗達が活躍した時代の神紋に戻しましょう。日本航空もJALから鶴丸紋『鶴岡八幡宮の神紋』に戻しました。伝統家紋の美しさに気付き始めているのですから・・・・。

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