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脳梗塞闘病記(文化への憧憬)

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奈良で月ヶ瀬の朝市

今回の奈良旅行の最大の目標は三輪の大神神社の摂社である「卒川神社」の「百合祭り」を視る事でした。
勿論自分自身の健康招福祈願と、友人の病気回復の代参も目的です。病床の友人には「自分が代参りに来た事、その記として「絵馬」を送る事、そして絵馬には大和の野菜や漬物を添える事にしていました。何処で求めるか。JR奈良駅に在る「奈良美味いモノプラザには漬物も野菜も売られています。
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此れはJR奈良駅高架下にある「奈良美味いモノプラザ」です。右側に野菜の販売施設も在ります。朝食の「卵かけご飯」は既にアップしました。
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此れがJR奈良駅の旧駅舎現在は観光案内所と喫茶店に活用されています。
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奈良観光案内所の前庭で月ヶ瀬の朝どり野菜が販売されていました。
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奈良観光案内所の前庭では朝どり野菜の他に「梅干」や「お餅」や「ほうじ茶」等農家加工品も販売されていました。
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私が朝市で求めて宅急便で送った月ヶ瀬ふれあい市場の産品。刻み奈良漬は「奈良美味いモノプラザで買ったものです。右端の「ほうじ茶」は300gで500円の安さでした。レタスと白菜のあいの子のような野菜がサラダで美味しく戴きました。
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帰宅した翌朝からの朝食のサラダは月ヶ瀬産の菜レタスで、ドレッシングは我家の完熟梅です。
奈良駅前のコンビニから、絵馬と大和野菜と奈良漬を詰めて宅急便で送ります。宅急便を送って”さあ!何処に行こうか?”バス停の案内を視ていたら、観光案内所の玄関に人だかりがしています。「何か良い事がありそうだ!」人だかりに寄って行くと「月ヶ瀬農協の主催している「朝市」でした。この日は日曜日なので、朝市を此処奈良の玄関口で開催しているのでしょう。昨今の農業は『顔の見える農業』とか『6次産業化』が言われていますが、農家の女将さんが朝どり野菜と自分達で漬けた「梅干」や「ほうじ茶」を販売しています。「ラッキョウ漬け」も美味そうです。女将さんは私に試食を奨めます。私は既に矢田寺の参道で「マクワ瓜」を食べていますから、既に奈良の農産物の美味しさに満足しています。帰宅したら自分が食べたい青物野菜にほうじ茶を求めて、再度向かいのコンビニに戻って宅急便で自宅に送りました。一日熟睡した翌朝は月ヶ瀬産のオーガニックサラダで快適な一日が始まりました。
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「奈良町」は近世になると「伊勢旅行ブーム」で湧きました。日本民族固有の「代参詣」で、家族や村や部落を代表して一人が有名社寺を詣で、その神社の「加持」や御利益の全員分を授かって来ると云った考えです。旅行費用は代参依頼人のカンパで用意されます。江戸からの旅は「富士山」や「相模の大山」そして「伊勢神宮」京大阪からは「伊勢神宮」が一番人気でした。京都を旅立つと、伏見街道を南下して「奈良町」に入ります。興福寺の猿沢池の畔から「奈良町」は続きます。今も「左伊勢道」の道標が帯解から天理にかけて立っています。伊勢街道は石仏街道でもあります。何しろ旅人で賑わう町は新しい文化や信仰の起きる場所ですから、近世庶民信仰の代表である「庚申信仰」も奈良町で勃発しました。天理の南に在る長岳寺は長岳寺様式地蔵石仏が彫られました。長岳寺様式地蔵石仏はシンプルな地蔵菩薩で、先ず立方体の石を伐り出します。立方体の石仏を立てて、地蔵菩薩を浮き彫りするのです。自ずと弁当箱の様な石材は舟形向背になります。最も効率的に地蔵菩薩が彫りあがります。庶民が家族の墓標を必要にし始めた近世には木製の卒塔婆に代わって石の地蔵が墓標になったのでした。風化されない「地蔵石仏」は故人の守護仏としても、需要があったのでした。
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此れは長岳寺の南柳本の地蔵菩薩です。
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長岳寺門前の地蔵石仏群大きな楠の根元に集まっておいでです。長方形の石材を使って地蔵を浮き彫りします。地蔵の墓標が量産されたのでした。
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長岳寺門前の勧請縄、この注連縄は村に災厄が入らない様に結界としたもので楠の巨木の幹を繋ぐように懸けられています。その根元に夥しい数の長岳寺様式地蔵菩薩が祀られています。
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これは奈良町の庚申堂です。夥しい数の「猿ボぼ」と呼ばれる厄除け人形が吊るされています。
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これは奈良町の伊勢街道に面した徳融寺(一般には誕生寺と呼ばれる/中将姫の誕生地なので)門前に祀られた庚申塔。奈良町は石仏が辻辻に立っています。
奈良町の再開発が活発になったのは昭和61年頃でした。当時、奈良の賑いが期待され、JR奈良駅の再開発や近鉄奈良駅周辺の再開発が実施されました。路面を走っていた近鉄電車は線路も駅も地価に移転しました。油坂や奈良町の町屋が再開発の美名によって取り壊され始めた時でした。
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此れは近代化資産に認定されているJR奈良駅です。JRが高架化され、駅舎も高架橋の上に移されたので現在は観光案内所となっています。
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これは油坂の町屋です。昭和60年代初めまでは近鉄電車はこの辺り路面上を走っていましたし駅舎も地上に在りました。

「奈良町再開発」は歴史的な町屋の織り成す景観を守りながら賑わいを取り戻そうとするプランでした。私達はこの頃社会人になったのでした。昨日書いた「日吉館もこの頃に廃業になってしまい現在の土産物店に変ってしまいました。志が高く奈良を愛した人達が奈良町の歴史的景観を守りながら、事業を起こしたのでした。成功の最たる人は「馬酔木の郷」という名の飲食店だったと確信します。

古代元興寺の境内地であった奈良町の起点は猿沢池でしたから、観光客は猿沢池から南の「新薬師寺」や「百毫寺」に向かいます。観光客の喫茶に昼食に町屋を改築して「漬物+ご飯」で1500円程度のランチを提供してくれたのでした。
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「馬酔木の郷」の「奈良漬ランチ」40年前も1500円で漬物食べ放題で主菜は西京漬けのお魚でした。勿論白米は奈良産の「ひのひかり」これに月ヶ瀬産の「ほうじ茶」。美味しくも嬉しい茶屋でした。今も1500円で値段も素材も変わらないようです。
食事喫茶の店の他にも民芸品屋や土産物店が出店しました。それでいて昔ながらの町屋の美観を大事にしました。「近代的な清潔感+快適な空間+リーズナブルな価格設定+日本の故郷奈良愛」を共通コンセプトにした街造りだったと思います。町屋の企画は奈良町の町屋も京都の町屋も同じです。古代に始まり中世も近世も町民い対する課税は道路に面した間口の幅が基準でしたから、町屋は間口が狭く奥行きが長い長方形になりました。結果的に切妻が正面になります。町屋再開発に際しては間口が広い事が有利です。同じ広さなら間口が広い方が自由に設計できます。でも間口が狭く奥行きが長いとなると「鰻の寝床のような設計にならざるを得ません。私は「そんな逆境をプランナーがどうやって克服するのか」私は興味を持って観察します。合理的なプランナーなら鰻の寝床の町屋を何軒も併せて間口を広くして再開発プランを設計するでしょうが、それでは歴史的な景観は壊されてしまいます。「歴史的景観」を尊重しながら、再開発をプランすることが肝要です。
私は「花園湯」という名の銭湯を出て伊勢道を北に向けて歩きました。三日月が追いかけてくれます。期待していた「馬酔木の郷」は午後6時閉店でした。昔ながらの店内を覘いて相変わらず繁盛していることを確認しました。
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此れが奈良町の伊勢街道の家並です。真っ直ぐ北上するともち井戸の商店街を経て猿沢池に突き当たります。新しい格子戸も天然木で出来ていました。

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伊勢道を北上猿沢の池に向かって歩く。三日月と宵の明星が追いかけてくれました。
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奈良漬定食を出していた「馬酔木の郷」は美術館も併営していました。
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奈良漬定食店だった「馬酔木の郷の店内」
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現在も馬酔木の郷では、『奈良漬(食べ放題)+野菜+西京漬け』で1500円で案内していました。
「馬酔木の郷」は既に閉店していたので真っ直ぐ猿沢池に向かいました。新しい店が目立ちます。伊勢道に面したお店だけでは無くて路地の奥に良いお店が在るモノです。狭い路地の奥に「宝船」の電飾板を見つけました。伊勢道に面して「ジャズ」の看板も立っています。
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路地の奥に在った「宝島」という名のジャズ喫茶店
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宝島の電飾看板看板は「レイチャールズ」のようです。
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宝島の食事は一律820円です。「どれでも美味しそうだから残り物でも良いよ!」店主に云うとオムライス+唐揚」が出て来ました。
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店主は50歳代ピアノもあるので生演奏も楽しめるようです。写真には映って居ませんが小学校の椅子が置かれていました。
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此れは宝島のトイレです。トイレに入ってもジャズを聴きたいそんな人向きのお店のようです。


誰にでも「拘りは或るものです」美味しいモノを食べるのが私の拘りです。
私の職場の関係で「大阪三田会」では、ジャズを聴きながら美味いモノを食べました。万年幹事は「メルボ紳士服」の清水 貞行氏で中之島のサントリービヤガーデンでジャズの生演奏を聴きながら食事を楽しみました。問題が在るとすれば「メルボ紳士服を新調しないと参加できない程度でした。三田会は梅田でも博多でも熊本でも活発でした。美味いモノを食べたい私と、上質な時間を過ごしたい三田会の友人たちと中々意見の合うお店は見つけられませんでした。
美味しいモノは「地産地消」が原則です。美味しいモノを探すにはその土地の産品を探して、その土地の人の好みで料理して貰う事です。「地産地消」とは「農」の基本理念です。農の基本は「土」です。微生物が生きている土は美味しい農作物を生み出します。奈良の野菜が美味しいのは昔も今も”奈良の土が良い”からです。奈良漬が美味しいのも奈良の農業が土を大事にしているからです。奈良を旅したら農作物をたらふく食べる事が楽しみです。
処でジャズが好きでレイチャールズお宅の親爺の手作りのオムライスは美味しかったです。第一卵の味が濃かったし、野菜も香りが強かったです。トイレに流れるソウルを聴きながら、様々な人が奈良町に拘りを持って流入していることを知りました。


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昨日は「ゲストハウス奈良町」に宿泊した事をアップしました。昔の「ユースホステル」のような施設でしたから、何時もの様に銭湯に入って汗を流す事にしました。私には一度は行ってみたい銭湯が三条通リに在るのですが。
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此れは当初行く積りでいた奈良町三条通りの銭湯の「敷島湯」です。
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何しろ「敷島湯」は高い煙突が在るのですぐに判ります。向いの山は春日大社の森です。

宿のオーナーが「花園湯」を推薦しました。「良い湯」です熱心に奨めた事に加えて花園の謂れが「元興寺」の花園の在った場所だというので、何かご利益がありそうな気がして云われた儘に花園湯に向かいました。
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花園湯は伊勢街道の奈良漬け茶屋「馬酔木の郷」の近くに在ります。
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花園温泉はビルの1階でした。
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番台の女将さんに鵬程代金20円を払うと黙って20円を返却してくれました。相当私は疲れて見えたようです。タイル張りの湯船は綺麗に掃除が行き届いていました。他のお客さんと世間話に興じて風呂から出ると貰った20円に百円を足して冷たい牛乳を飲み生き返った気持ちになれまあした。
お風呂から出ると後は夕飯です。「馬酔木の郷で」で奈良漬けと鱸の西京漬けで夕飯なんて最高です。私は伊勢街道を「真っ直ぐ北「もち井戸商店街」に向かいました。

旅行の楽しみの一つに旅館が在ります。貧乏老人の私ですから、リッチな旅館やホテルに泊まる訳には行きません。必然的にコスパが重視されます最近は民宿から「町屋」を選択する事が増えました。町屋の良い所は沢山ありますが、重要な順に列挙すると以下の通りです。
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此れは矢田寺参道に在る大和棟の民家です。こんな美しい町屋を観ると泊まってみたくなります。
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此方は奈良駅に近い三条通りに面した町屋です。近世までは商家であったと思います。切妻(側面)が一番美しいのですが正面は平妻側(手前)です。
1、町屋の建物自体に美的価値がある。
2、地域の文化を知る機会が在る。文化とは食文化を始め祭祀文化や説話等多岐に渡ります。
3、町屋のオーナーはじめ同じ旅行者同士の情報交換が出来る。
こんな意味で最近は京都でも町屋にステイしました。昨年春の奈良旅行では笠置の町屋に泊まり、茶畑作りの苦労話を聞きました。昨秋は塩の道を旅して糸魚川の町屋に泊まりました。
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今回宿泊した「ゲストハウス奈良町」奈良町は古代元興寺の境内地で近世は「初瀬から伊勢に続く街道に面していました。「油屋」や「漢方薬屋」や「蚊帳屋」等が軒を連ねています。宿のオーナーの話では油屋を改築して宿泊施設にしたそうです。
今回の旅行に際して何処に泊まろうか?考えた挙句に奈良町に在る「ゲストハウス奈良町http://nara-naramachi.com/」に泊まる事にしました。ワイフは心配して奈良駅前のシティーホテルにするよう言います。ゲストハウス奈良町がドミトリー形式である事が心配なようです。ドミトリー形式は昔のユースホステルの様なモノで、大部屋に見ず知らずの人と一緒に泊まる方式です。一部屋にベットつも在って、「二段ベッドの上になったら大丈夫?」「落っこちたらお陀仏よ!」云わんばかりで、「何ならビジネスホテルに泊まって・・・!」云います。
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此れは奈良博の向かいに在った日吉館です。惜しまれて1999年廃業してしまいました。会津八一が愛し「奈良学」と呼ばれる学者の定宿でした。写真出典は「日吉館/https://search.yahoo.co.jp/image/search?rkf=2&ei=UTF-8&gdr=1&p=%E6%97%A5%E5%90%89%E9%A4%A8+%E5%A5%88%E8%89%AF
私は「学生時代世話になった日吉館の匂いが期待できそうだし、地理的にもゲストハウス奈良町に泊まりたい!」云えばワイフは不承不承認めてくれました。と云うのは日吉館は奈良市登大路町に存在した元祖町屋旅館でした。大正時代の1914年に「田村キヨノ」さんが創業。休業期間をはさんで1995年まで約80年間営業し、その間奈良を訪れる学者や学生、文化人らに愛用されました。また、奈良が好きな人なんて元来貧乏学者や学生が多いモノ、向かいの奈良ホテルに泊まりたくても泊まれるわけありません。日吉館では女将のキヨノさんの命じるままに布団の上げ下ろしや食事の手伝いをしなければなりません。夜は大広間に布団を敷いて雑魚寝です。お客同士は「同好の士」ばかりですから、話は弾みます。「今日は何処に詣でたか?」「明日は何処に行く積りか?」話せば道を教えてくれるばかりか仏像や建築など見所や茶屋も教えてくれました。第一日吉館の看板は会津八一氏の筆でした。看板を潜って泊まる事は「自分の好奇心が正道であり激励されているような気になれました。名物女将のキヨノさんは屹度昔は美人だったのでしょう。若しかして会津八一氏の「好き人」であったりして?妄想したりしたものでした。
郡山から「石切り」更に卒川神社(奈良駅前三条通り、を経てゲストハウス奈良町に向かいました。居所は『奈良市北京終町30』でHPで確認すれば桜井線の京終駅から高円山に向けて歩いて4分で着く事になっています。私はJR奈良駅から歩く事にしました。心配になったので通り過ぎの高校生に訊きました。『京終』と書いて「きょうばて」と読むのは初めて知りました。そう言われてみると1週間前『平城京にも10条通りが在った』と云ったニュースが流れました。従来平城京は南北9街区で最南端が9条通りと思われてきたのです。「平城京の果て」の意味で「京果て」なのか思いました。
実は『京終』の地名の謂れをゲストハウス奈良町のオーナーに訊いたと処、次の様に訂正されました。「平城京の果ての意味ではあるが『京終』は平城京の中で一番南の外れの意味で、平城京の外の意味ではありません!」
ゲストハウス奈良町に到着するのにに1時間近く歩いてしまいました。でも好きな奈良町ですから幾ら歩いても苦痛になりません。「今晩は何処で何を食べようか?」「どの銭湯に行こうか?」キョロキョロ街を見回しながら歩きました。何のことは無い奈良町通りに面して、高円山や奈良教育大学に向かう大通りの交差点の先にゲストハウス奈良町が在りました。市内循環バスのバス停近くで便利な場所です。日吉館に劣らない交通至便な場所です。
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早朝の「ゲストハウス奈良町」自転車は宿の施設です。玄関先の「猿ボボ」は奈良町庚申堂のシンボルです。右側の細道は近世の「伊勢道」で桜井迄続き桜井で北上して長谷から室生を経て伊勢に続きます。)この細道の東に古代の街道『山の辺の道」が在って、西側に国道が平行に走っています。
民泊法が施行されて、元祖民泊は日吉館です。日吉館の面影を残している民泊施設を探すには・・・。ネットで調べた挙句に、辿り着いたのが奈良町にある「ゲストハウス奈良町」でした。
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ゲストハウス奈良町のある交差点は南北の通りが「伊勢道」で東西の通りは「奈良駅から高円山に向か産み地です。山側の交差点に奈良教育大が在ります。
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ゲストハウス奈良町の居間は奈良の観光ガイドの他に沢山のキャラクターの絵が貼られています。これは外国人旅行家に好評のようです。
オーナーは60代の夫婦でした。愛想よく迎えてくれた夫婦に
「日吉館の香りを懐かしんで来ました」
挨拶すると感動した風に答えてくれました。
『私達がこの町屋で民泊を始めた目標は”今日吉館」”す。』
私は大凡ホームページで理解してきましたので、わかっている積りでしたが念の為「2段ベッドの下に」して貰いました。
「シャワーはあり枡がこの辺りは銭湯がお奨めです。一番近いのは『花園湯』です。元興寺の花畑の場所に出来た銭湯なので「花園湯:です。食事はその辻に在る「お好み焼き」がお勧めです。向かいがコンビニですからコンビニで買って居間で食べられても結構です。
向いには学生風の米国人がトースターで(マフィン)を焼いてレタスとチーズとソーセージを挟んで牛乳で夕食しています。
居間のテーブルの上には学生ノートが置かれています「自由に書いて良いようです。棚には既に書き終えたノートが6冊あります。現在のノートが7冊目で最初のノートは2010年でした。読ませて貰うと外国人の書き込みが多いようです。全部英語で書かれているのかと思うとローマ字で日本語で綴られているものもありました。外国人旅行家は日本語にも関心が高いものの仮名や漢字が書けないのでローマ字を駆使しているのでしょう。
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此れが「ゲストノート」と書かれた自由書きノートです。
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自由書きノートは2010年に始まったようです。
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中国人旅行家は奈良に来て、自国の文化に確信を持つのでしょうか?
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居間は2部屋在って、手前は観光雑誌やパンフが閲覧できます。奥の部屋は食事や喫茶が出来ます。
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朝シャン化粧台が2基奥にシャワールームが在ります。
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トイレは2か所ありますが此方は清潔な洋風トイレです。
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最大の問題点は二段ベッドです。寝台車風のベッドが6畳間に2基在って4人が泊まれる仕組みです。和室もあるので、和室に布団を敷けばユッタリ出来そうです。
「ゲストハウス奈良町」は私にとっては嬉しい施設でした。奈良の町屋が朽ちてしまうのは悲しい事です。宿泊施設として改装して活かすことは住民にとっても伝統民家にとっても歓迎すべき事です。宿にリュックを置いて、銭湯を使いに、夕飯を食べに伊勢道を北上しました。三日月が町屋の甍の上に上って私を追いかけてくれました。小さなお寺の庭は駐車場になっています。門前には「中将姫誕生地」の碑が立っています。奈良町は石ころ一つにも歴史と謂れがが在りそうな街です。




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郡山に行くと必ず行くのが「洞泉町」の廓街です。郡山を最初に開発したのは筒井順慶でした。順慶は織田信長を後ろ盾として天正四年(一五七六)に大和支配を成し遂げ、天正八年(一五八〇)に郡山城に入城しました。順慶入城の直前から、郡山一体には市場が形成されて賑わいを見せていたのでしょう。河と街道がクロスした処に郡山が在ります。戦国時代末期には秀吉の実弟実弟「羽柴秀永」の居城になりその領国は大和の他に紀州和泉100万石に及んだ江戸時代には松平英明が藩主になり更なる繁栄を実現します。
松平忠明は大阪の陣で功績のあった家康の家臣でしたから、郡山藩藩主に就任したばかりか、、秀永、家光の治世下幕府の要職に在りました。江戸や京都の治世を郡山でも実施したのでしょう。。花街を郡山の一角に限定しました。小さな郡山なのに大きな花街が出来たのは、大和や紀州や和泉一帯のお客を集めた遊郭だったのです。京都の遊郭に較べて保存状態が良いのも郡山花街の魅力です。京都の花街は風俗産業に蚕食されて観るも無残ですが、郡山花街は訪れる人もいない寂れた街なので、適当に残って来ているのです。

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箱本館に貼られていたポスターは家康の家臣として大阪の陣で活躍し、要職を歴任した松平忠明を展示していました。
私は全国各地の花街を観て来ました。花街と云っても様々です。福島の三春の花街は三春城の南側有名な滝桜に行く庚申坂の奥に在りました。三方が山の谷間に在ったのは遊女やお客が逃げない様な立地だからだったのでしょう。
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此れは福島県三春町の廓街です。以前次にアップしました。https://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/MYBLOG/yblog.html?m=lc&sv=%BB%B0%BD%D5&sk=0
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同上、三春町の花街は馬方がお客さんでした。
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此れは良寛さんの生誕地出雲埼です。北国街道沿いに花街の面影が残っています。
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北回り廻船の寄港地青森県鰺ヶ沢の花街は北国街道沿いの新地に集中していました。船乗りがお客さんでした。海岸通りに観光地が集積していますが一本山側の生活通りには陰の文化財が残っています。
三春の東は「相馬」です。馬方は4・5頭の牛や馬を繋いで春に野馬を獲って、相馬を出て、「牛宿」とか「馬宿」を渡りながら「三春の馬市」を目指します。旅の途中は青々と茂った草を食べさせながら進みます。野宿をする場合は馬のお腹を布団代わりにすれば、暖も取れたのでした。三春に付いた頃には馬も一段と伊成長しています。馬市で無事に売れれば纏まったお金が入ります。そこで馬方は遊郭で息抜きしたのでしょう。2年前、三春の遊郭は5軒程残っていましたが、損傷も激しく室内は獣の棲家に化していました。三春の様な遊郭は北回り廻船の港町にも必ず在ったモノでしょう。出雲崎や鰺ヶ沢でも遊郭も探した事がありました。安い旅館は大抵遊郭の井造りをしているモノです。一方新潟や長岡の遊郭は馬市や港の遊郭とは違って政治都市の遊郭の表情をしています。福岡でも「新地」は昔は遊郭今はトルコの風俗街です。私は民間銀行の銀行員と云った仕事柄遊郭の成り立ちに付いては多少詳しくなりました。鉱山町や石炭町には遊郭が必要悪でした。命がけで働く男は野獣みたいなもの、町の子女の安全を保全するためにも遊郭を必要悪としたのでしょう。新地が一番賑わったのも戦争時と石炭が黒いダイヤ」と云われた時代でした。兵隊さんに炭坑賦夫に春を楽しませる遊郭は必要だったようです。
郡山の遊郭は城下町の南に集中していました。予め「遊女のお墓は何処に在るのか?」観光協会に訊いておきました。
「遊女の霊に付いては、市で慰霊碑は立てたモノの、お墓は不詳である、ただ洞泉寺の墓地に病死した遊女の墓があると聞いているが案内も無いので住職に訊く必要があるでしょう」・・・・そんな返事でした。
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これは郡山の観光地図です。左上が郡山城で、手前近鉄線沿いに金魚の資料館が在って中央右側が洞泉寺で寺の一角が遊郭の集積してい洞泉寺町です。
其処で観光協会のある箱本館を出て洞泉寺に向かいます。
途中町内会館に隣接して「蛭子神社」が在りました。『元々は蛭子神社が在ったものの寂れてしまったので町内会館に母屋を譲って庇に神社が移動した』感じです。
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此れが郡山旧市街地に在った蛭子神社です。新築の町内会館の端っこに在りました。
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蛭子神社の社。歴史の感じられる祠でした。古事記では国産み神話で最初の子は蛭子で淡路島になった…。事になっています。
蛭子神社と云えば鎌倉大町にも在る、恵比寿様を祭神とする神社です。海に面した町には良く祀られているのですが、郡山に在るのは不思議です。私は古事記の蛭子の神話を想い出しました。蛭子とは蛭のように手足の無い子供の意味で、遊女が仕方なく堕胎した子を慰撫した事が関係しているのかも知れません。水子の江戸時代版が「蛭子」かも知れない、思ってアルミサッシの玄関を開ければ古色蒼然とした祠が祀られていました。
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郡山の紺屋町から南に歩洞泉寺町への道の両脇は廓の建物が続きます。幟は歌舞伎で有名な源九郎稲荷神社の参道である事を示しています。
郡山は近鉄で何羽まで1時間、JRで天王寺まで1時間の通勤圏に在ります。マンションも目立ってきましたし、戸建て住宅も増えて来ました。遊郭は住宅開発のターゲットになっているようです。郡山も奈良もリニア新幹線の誘致に励んで居ます。私はJRは民間企業になってから収益重視に切り替わっていますので社有地の多い、宇治や伏見の辺りに新駅が出来ると思うのですが、何処に出来ても郡山は便利になります。本気で遊郭を保存しようと思うのなら今です。もう木造の遊郭を建築する資材も資金も職人も居ませんし、在りません。
廓建物の看板は「みせ」です。「みせ」とは商品を通行人に見せる為の設えです。奈良町の陶器屋さんや小間物屋さんなら、製品を棚や戸板の上に並べて見せる「店」だったのでしょうが、廓で売るモノは「遊女」ですから、通行人から遊女が見えるように格子戸になっています。ベルギーのショーウィンドウのコールガールみたいなモノです。
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此れが「みせ」と呼ばれる格子が嵌った遊郭建物です。
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「みせ」のある建物の2階は欄干があってベランダ状の出張りが在ります。あのベランダに腰掛けて遊女が「通行人に声掛けしたのかもしれません。『駒形茂兵衛とお蔦/一本刀土俵入り』の名場面を想い出しました。
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この廓建物には3階も在ります。1階が遊女のタコ部屋なら二階は花魁の個室で、3階は最高級花魁の特別室だったのかもしれません。段々、妄想が広がります。
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洞泉寺町のクラブでは「みせ」の格子戸を活かしてワインやスコッチを置いていました。これも見せる意匠です。
愈々今回の目標遊女の墓探しと『墓参り』です。と云っても観光協会でアドバイスを受けただけで適当にお寺に入り墓地をみて墓標の戒名や命日を確認する他術はありません。可能性も最も高いのは「洞泉寺」と廓の中に建っている「淨慶寺」の墓地です。

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道の突き当り左奥が洞泉寺でありその隣が源九郎稲荷神社です。
先ず浄土宗洞泉寺を参詣しました。本堂向い(東側)にお堂が2棟並んでいます。左側のお堂は施薬院と記されていました。皮膚病を患った遊女がこのお堂の湯に浸かって皮膚のオデキや痘痕を治癒したのかも知れません。右側のお堂には石のお地蔵様が祀られていました。矢田寺様式の石仏では無くて長方形の生駒石に地蔵尊を浮き彫りした、新しい様式のお地蔵様でした。本堂の南側には夥しい数の無縁仏が並んでいます。私は必死に戒名を読みましたが、遊女と確信できる墓標仏は見つけられませんでした。こんな調子では観光案内所の職員がアドバイスした『病死した遊女』の墓は見つけられそうもありません。次回は「町の案内所」で確認する事にしましょう。そこで、洞泉寺は諦めて廓の背中合わせに建っている浄土宗「淨慶寺」を詣でました。四角い墓標塔の三面に墓誌が刻まれています。墓地が狭いので止むを得ず、先ず裏面続いて左右の側面に墓誌を刻んだのでしょう。お墓に必要以上のお金をかけない質実剛健な郡山のお墓です。
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此れが浄土宗洞泉寺の門です。左側は源九郎稲荷神社です。向かいに大きなマンションが見えます。郡山は大阪の通勤圏なのです。
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洞泉寺近くでは廓建物を壊して建売住宅が開発を開発中でした。
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此方は洞泉寺本堂で本堂の裏側に墓地が在ります。
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これは洞泉寺本堂の東側に建っているお堂で扁額には「光明皇后」の勅願で建った湯であると書かれていました。
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光明皇后勅願の湯屋の隣は地蔵尊が祀られていました。鴨居に三つ葉葵が在るのは郡山松平藩が寄進した証でしょう。石仏は矢田寺様式ではなく山の辺長岳寺様式でした。
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此方は廓の背に建っている淨慶寺の本堂です。
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淨慶寺墓地の墓標仏、背は廓の外壁です。
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淨慶寺墓地の墓標の角塔正面は家の名ですが残りの3面には墓誌が刻まれていました。私は俗名や戒名を参考に遊女のお墓を探したのです。藤沢には廓の主人と遊女が同じ墓地に眠っています。
私は郡山の廓のオーナーにもそんな「遊女を大切にした人が居たのではないか!」期待したのでした。



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