箱本館に貼られていたポスターは家康の家臣として大阪の陣で活躍し、要職を歴任した松平忠明を展示していました。
私は全国各地の花街を観て来ました。花街と云っても様々です。福島の三春の花街は三春城の南側有名な滝桜に行く庚申坂の奥に在りました。三方が山の谷間に在ったのは遊女やお客が逃げない様な立地だからだったのでしょう。
同上、三春町の花街は馬方がお客さんでした。
此れは良寛さんの生誕地出雲埼です。北国街道沿いに花街の面影が残っています。
北回り廻船の寄港地青森県鰺ヶ沢の花街は北国街道沿いの新地に集中していました。船乗りがお客さんでした。海岸通りに観光地が集積していますが一本山側の生活通りには陰の文化財が残っています。
三春の東は「相馬」です。馬方は4・5頭の牛や馬を繋いで春に野馬を獲って、相馬を出て、「牛宿」とか「馬宿」を渡りながら「三春の馬市」を目指します。旅の途中は青々と茂った草を食べさせながら進みます。野宿をする場合は馬のお腹を布団代わりにすれば、暖も取れたのでした。三春に付いた頃には馬も一段と伊成長しています。馬市で無事に売れれば纏まったお金が入ります。そこで馬方は遊郭で息抜きしたのでしょう。2年前、三春の遊郭は5軒程残っていましたが、損傷も激しく室内は獣の棲家に化していました。三春の様な遊郭は北回り廻船の港町にも必ず在ったモノでしょう。出雲崎や鰺ヶ沢でも遊郭も探した事がありました。安い旅館は大抵遊郭の井造りをしているモノです。一方新潟や長岡の遊郭は馬市や港の遊郭とは違って政治都市の遊郭の表情をしています。福岡でも「新地」は昔は遊郭今はトルコの風俗街です。私は民間銀行の銀行員と云った仕事柄遊郭の成り立ちに付いては多少詳しくなりました。鉱山町や石炭町には遊郭が必要悪でした。命がけで働く男は野獣みたいなもの、町の子女の安全を保全するためにも遊郭を必要悪としたのでしょう。新地が一番賑わったのも戦争時と石炭が黒いダイヤ」と云われた時代でした。兵隊さんに炭坑賦夫に春を楽しませる遊郭は必要だったようです。
郡山の遊郭は城下町の南に集中していました。予め「遊女のお墓は何処に在るのか?」観光協会に訊いておきました。
「遊女の霊に付いては、市で慰霊碑は立てたモノの、お墓は不詳である、ただ洞泉寺の墓地に病死した遊女の墓があると聞いているが案内も無いので住職に訊く必要があるでしょう」・・・・そんな返事でした。
これは郡山の観光地図です。左上が郡山城で、手前近鉄線沿いに金魚の資料館が在って中央右側が洞泉寺で寺の一角が遊郭の集積してい洞泉寺町です。
其処で観光協会のある箱本館を出て洞泉寺に向かいます。
途中町内会館に隣接して「蛭子神社」が在りました。『元々は蛭子神社が在ったものの寂れてしまったので町内会館に母屋を譲って庇に神社が移動した』感じです。
此れが郡山旧市街地に在った蛭子神社です。新築の町内会館の端っこに在りました。
蛭子神社の社。歴史の感じられる祠でした。古事記では国産み神話で最初の子は蛭子で淡路島になった…。事になっています。
蛭子神社と云えば鎌倉大町にも在る、恵比寿様を祭神とする神社です。海に面した町には良く祀られているのですが、郡山に在るのは不思議です。私は古事記の蛭子の神話を想い出しました。蛭子とは蛭のように手足の無い子供の意味で、遊女が仕方なく堕胎した子を慰撫した事が関係しているのかも知れません。水子の江戸時代版が「蛭子」かも知れない、思ってアルミサッシの玄関を開ければ古色蒼然とした祠が祀られていました。
郡山の紺屋町から南に歩洞泉寺町への道の両脇は廓の建物が続きます。幟は歌舞伎で有名な源九郎稲荷神社の参道である事を示しています。
郡山は近鉄で何羽まで1時間、JRで天王寺まで1時間の通勤圏に在ります。マンションも目立ってきましたし、戸建て住宅も増えて来ました。遊郭は住宅開発のターゲットになっているようです。郡山も奈良もリニア新幹線の誘致に励んで居ます。私はJRは民間企業になってから収益重視に切り替わっていますので社有地の多い、宇治や伏見の辺りに新駅が出来ると思うのですが、何処に出来ても郡山は便利になります。本気で遊郭を保存しようと思うのなら今です。もう木造の遊郭を建築する資材も資金も職人も居ませんし、在りません。
廓建物の看板は「みせ」です。「みせ」とは商品を通行人に見せる為の設えです。奈良町の陶器屋さんや小間物屋さんなら、製品を棚や戸板の上に並べて見せる「店」だったのでしょうが、廓で売るモノは「遊女」ですから、通行人から遊女が見えるように格子戸になっています。ベルギーのショーウィンドウのコールガールみたいなモノです。
此れが「みせ」と呼ばれる格子が嵌った遊郭建物です。
「みせ」のある建物の2階は欄干があってベランダ状の出張りが在ります。あのベランダに腰掛けて遊女が「通行人に声掛けしたのかもしれません。『駒形茂兵衛とお蔦/一本刀土俵入り』の名場面を想い出しました。
この廓建物には3階も在ります。1階が遊女のタコ部屋なら二階は花魁の個室で、3階は最高級花魁の特別室だったのかもしれません。段々、妄想が広がります。
洞泉寺町のクラブでは「みせ」の格子戸を活かしてワインやスコッチを置いていました。これも見せる意匠です。
愈々今回の目標遊女の墓探しと『墓参り』です。と云っても観光協会でアドバイスを受けただけで適当にお寺に入り墓地をみて墓標の戒名や命日を確認する他術はありません。可能性も最も高いのは「洞泉寺」と廓の中に建っている「淨慶寺」の墓地です。
道の突き当り左奥が洞泉寺でありその隣が源九郎稲荷神社です。
先ず浄土宗洞泉寺を参詣しました。本堂向い(東側)にお堂が2棟並んでいます。左側のお堂は施薬院と記されていました。皮膚病を患った遊女がこのお堂の湯に浸かって皮膚のオデキや痘痕を治癒したのかも知れません。右側のお堂には石のお地蔵様が祀られていました。矢田寺様式の石仏では無くて長方形の生駒石に地蔵尊を浮き彫りした、新しい様式のお地蔵様でした。本堂の南側には夥しい数の無縁仏が並んでいます。私は必死に戒名を読みましたが、遊女と確信できる墓標仏は見つけられませんでした。こんな調子では観光案内所の職員がアドバイスした『病死した遊女』の墓は見つけられそうもありません。次回は「町の案内所」で確認する事にしましょう。そこで、洞泉寺は諦めて廓の背中合わせに建っている浄土宗「淨慶寺」を詣でました。四角い墓標塔の三面に墓誌が刻まれています。墓地が狭いので止むを得ず、先ず裏面続いて左右の側面に墓誌を刻んだのでしょう。お墓に必要以上のお金をかけない質実剛健な郡山のお墓です。
此れが浄土宗洞泉寺の門です。左側は源九郎稲荷神社です。向かいに大きなマンションが見えます。郡山は大阪の通勤圏なのです。
洞泉寺近くでは廓建物を壊して建売住宅が開発を開発中でした。
此方は洞泉寺本堂で本堂の裏側に墓地が在ります。
これは洞泉寺本堂の東側に建っているお堂で扁額には「光明皇后」の勅願で建った湯であると書かれていました。
光明皇后勅願の湯屋の隣は地蔵尊が祀られていました。鴨居に三つ葉葵が在るのは郡山松平藩が寄進した証でしょう。石仏は矢田寺様式ではなく山の辺長岳寺様式でした。
此方は廓の背に建っている淨慶寺の本堂です。
淨慶寺墓地の墓標仏、背は廓の外壁です。
淨慶寺墓地の墓標の角塔正面は家の名ですが残りの3面には墓誌が刻まれていました。私は俗名や戒名を参考に遊女のお墓を探したのです。藤沢には廓の主人と遊女が同じ墓地に眠っています。
私は郡山の廓のオーナーにもそんな「遊女を大切にした人が居たのではないか!」期待したのでした。