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脳梗塞闘病記(文化への憧憬)

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白妙菊を食べたい

去年の今頃は蓬の葉を摘んで天麩羅に揚げて食べました。今年も我が庭の端に蓬が生い茂っています。蓬(よもぎ)の天麩羅は良かったのですが、土筆は美味しくありませんでした。
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此れは筆者の生家近くの草原の蓬です。4月は若芽で「餅草」でしたが5月も末になると生育して蓬になります。
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此れは筆者の家の北側で野生化した「三つ葉」です。他の野草や笹にも負けずに生きているので固くて香りはあっても美味しくありません。
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これも自宅の北側に自生した茗荷です。花芽は美味しくても、葉っぱも茎も美味しくありません。。
今年は何を喰ってやろうか?庭を隅々まで観て廻ります。門の植え込みに自生している「白妙菊」が茂り過ぎて暑苦しいし、檜扇の花を圧倒する勢いです。ワイフに「白妙菊」を収穫して食べようよ!」提案すると怪訝な表情です私は
「見れば春菊と同じような表情だし、春菊の積りで調理して食べれば屹度いけるよ」
主張します。”序に「寒菊」も美味そうな葉を茂らせているから、寒菊と大葉と紫蘇も天麩羅にしようじゃないか!”提案しますが、良い顔をしてくれません。そこでネットで確認すると、私と同じような誘惑に駆られた人が多い様で、白妙菊を食べたレシピが幾つも出ていました。
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自宅の門の植え込みで昔は「檜扇」が自生していたのでしたが、今は「白妙菊」が占領しています。毎年今頃咲きます。霜が降りたような葉っぱが美しい。葉の形と花の色は春菊と似ています。春菊のように食べてみたいと思います。
南側の庭先には大葉も紫蘇も自生しています。大葉は冷奴の薬味に紫蘇は「梅干」に漬け込みます。どちらも天麩羅になりそうです。「食いたい」思って庭先を見渡せば「南瓜の葉っぱ」も「隼人瓜」の葉っぱも食べられそうです。でもどちらも「葛の葉っぱ」のようで堅そうです。
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夕飯の「精進揚げ」主役は白妙菊(左)でしたが・・・・・。
夕飯には「白妙菊」の天麩羅を注文しておきました。大凡の山野草は食べられるモノですし、特に天麩羅にすれば有毒の山野草も解毒されると聞きます。心配そうに見守るワイフに対し、私は少しの懸念もありません。屹度蓬や菊の葉っぱの天麩羅と同じで軽い苦味があって歯当たりが快いモノと期待していました。処が全く苦味が無くアッサリした味でした。最近の法蓮草が水っぽいのに似ています。苦味に欠けているのに対し、堅い繊維質が口に残りました。春菊の様に「おしたし」にすれば良けそうです。




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今時の運動会

5月26日(土)は全国の小学校で運動会が挙行されました。私が評議員を仰せつかっている地域の小学校も運動会で可愛い手作りの招待状を戴きました。私の孫(小学3年)も運動会だな!思いながら応援に出かけました。
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私宛届いた運動会の招待状です。
東戸塚小学校の自慢は校庭が広い事です。徒競走で100mの距離がとれます。
招待状を受け付けに提出すれば来賓席に案内してくれました。
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広い校庭の周囲は芝生が張られています。芝生は熱中症が社会問題になった頃父兄と地域が学校に協力して張ったモノです。シッカリ根付いていました。
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校庭の隅には花壇(畑)があって薩摩芋の苗が植えられていました。畑田圃の耕作指導も地域で実施しています。
目の前の徒競走を見詰めます。私は小学生の時に読んだ山本有三の「真実一路」の最後の場面を想い出しました。
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校庭は広いので徒競走用に100mの直線走路が用意されています。何しろ昔は競馬場だったのでしたから
終戦後日本の国には私生児が沢山いました。お父さんが戦地から戻らない子、その為に子供は親族に預けられる場合も多かったでしょう。主人公の「義夫少年」は姉と父とに育てられます。傷つきながらも人生を真摯に”真実一路”に生き抜こうとして行きます。姉と父は義夫少年が徒競走で一生懸命疾走する姿を見詰めます。亡き母の声援も確信します。
運動会の場面は感動を呼びます。島田洋七の「がばいばあちゃ」では主人公の少年は「背筋をピンと張って辛抱強く必死に生き抜く事の尊さ」を学びます。クライマックスは、駅伝大会での主人公の活躍場面でした。少年の生き様がマラソン場面に象徴的に現われていました。
私は知り合いの教師に話します。「必死に走る子供の背には熱い眼差しも注がれていることでしょうね!」
気付いた事がありました。男子と女子が一緒に走っているのです。
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暫く視ていて気付いたのは男女一緒に走っている事と、走力が均衡しているので一団となってゴールを駆け抜けている事でした。
私が小学生の頃(昭和20,30年代)は男女別々で背の順に走っていました。それが男女一緒で略同時にゴールに駆け込んでいるのです。
私は先生に尋ねましたそのお答えは
『男女一緒に走る様になったのは昭和50年代からです、走るグループ分けは略力の拮抗している生徒をグループに組むのです。力が拮抗しているほど全体の運動能力が向上するからです』
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私の子供が通学した頃は集団演技は「ソーラン節」でしたが、今では「沖縄のエイサー」でした。流行が在るようです。
私は納得しました。男女の体力は小学生の時代は大差なくて、運動能力の向上を目標にしている限り。こうした徒競走スタイルが合理的なのでしょう。
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午前中の人気種目は「騎馬戦」です。向こうのビル群は戸塚駅です。騎乗の生徒は女子が多いようでした。皆裸足なのは校庭の小石を父兄と生徒と地域で拾っているからです。
午前中のクライマックスは騎馬戦でした。3人で馬を組み一人が馬上に乗って敵の帽子を奪い合います。馬は確りしていないと馬上の戦士は落馬してしまいます。戦士は軽くて俊敏な子が適して居そうです。誰しも馬は敬遠して出来れば戦士になりたいと思う事でしょう。私が小学生の頃は餓鬼大将が戦士になる事が暗黙の了解でした。観察していると女子の戦士が目立ちます。屹度自他共に認められた運動神経の優れた女子が騎馬の乗っているのでしょう。女子の親は「女の子なのに・・・・お転婆で・・・。」思いながら見詰め、馬になっている男子の親はまた別の複雑な気持ちで視ていることでしょう。
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ランチタイムになると生徒は家族の待っているテントに行って食事を楽しみます。家族が来られない子はどうなるのか?少し気になります。


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胡瓜の民俗学

今春から畑を借りて野菜栽培を始めました。プランターに種を播いて育てた南瓜の苗は先ず、昨年同様に庭の端に移植して「土手南瓜」にしました。残った苗は捨てるに忍びず、畑に植える事にしました。苗を下げて畑に行くと驚いたことに4月初めに植えた胡瓜が稔って、ゴロゴロ転がっていました。
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今春4月の初めに畑を借りて、胡瓜と茄子を植えました。
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5月15日南瓜の苗を植えようと出かけると、胡瓜がゴロゴロ、ナスも花が付いていました。
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胡瓜の美味しい食べ方は第一に「糠漬け」次いで「酢のモノです。冷やし中華は胡瓜が無くては始まりません。
胡瓜の字は「胡」の瓜です。奈良時代に唐から伝わったペルシャの瓜の意味でしょう。「黄色」の瓜なら真桑瓜(マクワウリ)です。瓜の字が付く地名は数多くみます。円覚寺の南側の谷戸は「西瓜ヶ谷」と呼び、円覚寺の瓜畑で在ったと調べた事があります。谷戸は歴史的な「里山」で谷戸も向かい側は「梶ヶ谷」「葛原ヶ丘」を経て「日野 俊基(ひの としもと)の墓や銭新井弁天を経て鎌倉の中心市街に繋がります。
瓜は古代から中世に至るまで貴重な野菜であると共に薬膳だったのでしょう。谷戸の中には「地獄窟」と呼ばれる古い櫓が在ります。一般には地名をとって「西瓜ヶ谷櫓群」と呼んでいます。マムシが棲息して居そうな薄気味悪い遺跡です。以前このブログにもアップしました。
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此れは円覚寺の南の「瓜ヶ谷」にある「瓜ヶ谷櫓」です。
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此方は「瓜ヶ谷櫓」の内部です。鎌倉石の石壁に漆喰を塗って石仏や五輪塔が浮き彫りされていて中央に地蔵尊が祀られています。
今日の話題は胡瓜の民俗学でして、鎌倉の櫓では無いので、本題に戻して何故胡瓜が日本人に愛されてきたか考えを整理したいと思います。「胡瓜」というと「河童」を想い出します。寿司屋で「河童巻き」を注文するのは江戸っ子です。河童巻きは胡瓜を寿司飯で海苔に巻いた定番です。京都では河童巻きは流行りません。何故なら「河童巻き」を食べようとすると断面に胡瓜の輪切りが現われるからです。江戸っ子の我が祖母も断面の現われた胡瓜は敬遠していました。何故なら胡瓜の断面は天王様の神紋だからです。
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京都八坂神社の神紋は胡瓜の断面に似ています。
円覚寺の雲水は「瓜ヶ谷」で胡瓜も栽培した事でしょう。瓜ヶ谷から見れば真北に円覚寺の甍が見えてその上に北極星(天王)が仰ぎ見られます。京都人の感覚なら天王様の神紋は食べられません。でも円覚寺の雲水はセッセと胡瓜を栽培して糠漬けにして食べた事でしょう。
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此れは鎌倉秋本の胡瓜の糠漬けです。1キロ売りですが価格は不詳です。http://www.akimoto.co.jp/theme36.html
何しろ薬膳ですから・・・。私の住む上倉田町に工場が在りましたが先年撤収され、マンションになりそうです。漬物こそ「地産地消」なのでしょうが、薄利多売を強いられる事業なのでしょう。お豆腐に似ています。
ところで、河童は何なのでしょうか?柳田国男は「遠野物語で」5編もの河童を照会しています。第一は次の河童です。
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これは遠野の「河童淵」です。写真出典遠野観光HPhttp://www.tonokanko.com/
【水神様の没落した河童】
遠野物語第59話の話は最も多い「河童駒曳譚」です。ある時農夫が馬を洗う為に川淵に近づきました。突然に河童が現われて馬を水中に引きずり込もうとします。馬は尻尾にブラ下がった河童を引きずって馬屋に戻ります。農夫は水桶の陰に隠れていた河童を捉まえます。すると殊勝なことに河童は「もう決して悪戯はしません、許してください!」命乞いをしました。そこで河童を川に帰してあげました。河童駒曳譚に出てくる河童は水神様の変わり果てた姿です。古代中世と水神様は五穀豊穣をつかさどる神様でしたから、江戸時代初期は円空が水神を彫ったり、弁天様や宇賀神様に展開しました。しかし、近世半ばを過ぎると稲作技術の進歩等によって神に祈るより「牛馬を使ったり、農機具を工夫する事によって飛躍的に収穫量も増え、農民の考え方も神頼みから勤勉・工夫に変ったのでしょう。水神は流行らなくなりその宗教的残滓が「河童」になったと考えます。
【山の神が変じた河童】
遠野物語第55話には河童の子を妊娠した娘の話が出て来ます。お話の概略は或る女には婿が居たモノの。毎晩通ってくる青年が居ました。女の母親は娘に添い寝などして娘の操を守っていたのでしたが、到頭お腹が大きくなり村でも「父親は誰だろう?」話題になってしまいました。女のお腹は大きくなっても中々出産できません。そこで占ってもらうと「桶に水を張って水中で出産するのが良い。」云われました。その通りにすると無事に子供が産まれたのでしたが、手を視るとビックリ蛙の様な水掻きが付いていたのでした。
この娘の床に通って来た青年は山の神のナレの果だったのでしょう。上高地の「河童橋」が在る様に河童の生息地は大河の下流に限定されません。山から里に下りた出入り口にも河童の民話が数多く残されています。吉野川が紀の川に名を変える橋本に在る「刈萱堂」で河童のミイラを見せて貰いました。明らかに川ウソのミイラでした。吉野山の「山の神」が山麓の里に出てきて「河童」になったのでしょう。中世に山で暮らしていた民族が次第に里に下りてきて以前は「山の神」として怖れ敬っていた神がライフスタイルが農耕集住に変ると「山の神」は姿を変えて権威はなく、力も無く、愛嬌がある「妖怪」に変ったのでしょう。
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この3月江の島水族館では「カワウソ」の展示を始めました。既にシンガポールではカワウソが大繁殖して運河や下水道を占拠していると聞きます。日本カワウソならまだしも外来種で大食漢のカワウソの飼育をする事には疑問を持ちます歴史的河川(引地川や境川:)が外来種のカワウソに占拠されるのは見たくありません。写真出典江の島水族館
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カワウソはイタチの仲間です
この3月江の島水族館では「カワウソ」の展示を始めました。既にシンガポールではカワウソが大繁殖して運河や下水道を占拠していると聞きます。日本カワウソならまだしも外来種で大食漢のカワウソの飼育をする事には疑問を持ちます歴史的河川(引地川や境川:)が外来種のカワウソに占拠されるのは見たくありません。
処で胡瓜の話に戻しましょう。胡瓜は熱い夏に身体を冷やすから漢方の「理」に適った薬膳料理です。以前観た「チャングムの誓い/韓流宮廷ドラマ」にも再三出て来ました。胡瓜を冷やして千切りにして酢と醤油で食べるのは美味しいだけではなく体も欲しているのでしょう。
私は畑の他に庭でも菊鉢に胡瓜を植えて育てています。毎朝鶉に餌を与えて新聞を取る序に胡瓜の育ち加減を確認します。始めは黄色い花が咲いて花の根元の子宮部が胡瓜の格好をしていました。先っぽが少し曲がって引力に逆らっている様に見えました。親の云う事を素直に聞かない孫のオチンチンみたいだと思いました。その瞬間、胡瓜は男根だと気付きました。それは白根山に近い吾妻郡六合村で観た双胎道祖神の足許に沢山祀られていた「こけし」を思い出したからです。
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此れは群馬県吾妻郡六合村の総体道祖神男女神の基台にはコケシ状の捧げものが幾つも祀られています。これは男根(性神)で胡瓜も性神として尊ばれたのではないでしょうか?
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庭の菊鉢で育てている胡瓜孫のオチンチンが大分育ってきました。後2日で食べ頃でしょう。
民俗学は面白い学問だと思います。70年余りの見識を集合させ、自分なりに組み立てて行きます。
自己満足で終わるか他人をも含めて納得させれるかは重要で他人の代表として友人に自説を披露してみます。幸いなことに私には親友が沢山いて私の説明に耳を傾けてくれます。



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5月の中頃足利フラワーパークの大藤を観に出かけました。昨年は藤を観た後には足利の旧市街地や足利学校を見学し、足利絹織物伝承館も観ました。足利を観たら桐生が気になります。そこで、今回はフラワーパークの帰路に桐生に寄って高崎回りで帰る事にしました。両毛線の終点が高崎である事も、足利と高崎の中間に桐生が在る事も初めて知ったのでした。それに車窓に麦秋を視ていたら、饂飩を食べたくなったのでした。桐生の饂飩と云えば巨大な紐皮饂飩です。名古屋の「きしめん」の4倍も在りそうな幅広名饂飩です。一反木綿か「晒」のような饂飩です。あれを食べてみたい私の欲望です。
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此れが桐生名物の川幅饂飩です。一見すれば名古屋の「きしめん」風ですが遥かに横幅が大きくて、まるで京都の湯葉のようです。これを食べたくて桐生に寄りました。
そこで先ず桐生駅に向かいました。両毛線の電車運転室には女性運転手が座って隣の車掌室には男性が5人も入って女性運転手の一挙手一手動を見詰めています。私が現役銀行員時代に小田急の財務課長に質問した事がありました「貴方は電車を運転できるのですか?」訊くと次のような答えが返ってきました。「入社して半年は駅の切符切りをします。次に運転見習いです。」「電鉄会社の社員には駅員事務と電車運転は必須スキル」なのです。銀行員の必須スキルが「札勘定と算盤である」のと同じようなモノでしょう。と云っても私は二つのスキルに於いて落第生でした。でもパソコンは出来る方でした。
桐生駅の観光案内所に行って「桐生うどんの名店」を尋ねました。結論的には、先ず「桐生織物記念館」に行って其処で再度尋ねる事にしました。桐生駅前にはアーケードの通りがあって桐生の中心はそのアーケードに沿って東西に伸びているようです。西は高崎で東は伊勢崎を経て日光に向かうようです。「日光例幣使街道」と呼ばれる古い道で美食店も神社仏閣もこの道に沿って伸びています。例幣使街道を桐生の市民は「本町通り」と名付けていて主要機関と企業が軒を連ねていたようです。私達はこの本町通りを東に1時間ほど歩いて桐生八幡宮をお詣りし、八幡宮前のバス停から桐生駅に戻りました。
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JR両毛線の運転席は女性運転手が座ってその右の狭い空間に男性教師が4人も犇いていました。
桐生織物記念館
桐生の織物協同組合が昭和9年に竣工させた、組合の建物で、外観は「スクラッチタイル張り」で屋根は青緑色の日本瓦葺とした昭和モダニズムの香りを残す建物で桐生織物の先進性を伝える建物ですから「国登録有形文化財」に指定されています。http://www.city.kiryu.lg.jp/kankou/bunkazai/isan/1005809.html
桐生の旧市役所を始め、現在も、映画館や警察署もこの周辺に集積しています。、好景気に沸いた時代桐生の市民がこの織物記念館のモダンな建物を真似たからでしょう。洋風の応接室と和風院風の木造建物が多く見られます。市民が平屋和室に飽き足らず洋風応接室を増築させたブームが在ったのでしょう。
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此れは桐生の中心街「本町通り」です。右奥に桐生織物記念館が在ります。
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これが「桐生織物記念館」です。茶系の落ち着いた「スクラッチタイル張り」建物です。屋根は青い日本瓦です。桐生の織物が伝統を重んじながら先進的なデザインを主張したように、建物も昭和モダニズムの先端を行ったのでしょう。
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桐生織物記念館2階の展示室、奥の壁には歴代の組合理事長の写真が架っていました。
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木造の織り機も展示されていて「織物教室」も開催されているようです。
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ポスターは昔ながらの絹織物の美人画と目力のある女性は篠原涼子さんでした。篠原さんは桐生第一高校を卒業しています。
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展示されていた着物左下は映画「利休/勅使河原監督」で使われた着物は総て桐生の織物であった事を誇らし気に示したいました。
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桐生織物記念館前の旧家「総2階建ての木造家屋に大きな蔵が目立ちました。
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本町の旧家、土蔵建物が目立ちます。
桐生織物記念館の職員に訊きました「この近くの桐生饂飩の名店は何処ですか?」職員は親切に教えてくれました。
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此れが教えられたお店「利休」です。
教えられた通りに行って「利休」という古い佇まいのお店に入りました。
早速饂飩を注文した処、「冷たいのにしますか?暖かいのにしますか?」
訊かれます。歩き疲れていたので冷たい饂飩に、精進揚げを一つ注文しました。
その結果届いた饂飩は下の写真で、所謂「盛り饂飩」でした。私は女将さんに「桐生のソウルフードは饂飩でしたね?」確認すると「その通りです」答えられます。
色々質問した結果は次の通りでした。数年前まで、利休の名でお店を出していたのは蕎麦職人の御主人だったのでしたが、突然に亡くなられました。奥様はご主人の大切にされたお店を閉めるのも忍び難く、昔から慣れ親しんだ「桐生饂飩」の店にして、店舗も看板も御主人の想い出の儘、継続したのだそうです。言われてみれば店の奥の厨房の脇に「蕎麦打ち」の空間と道具が置かれています。
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饂飩の老舗の積りで入った「利休」で出された「盛り饂飩」腰のしっかりした辛い汁の饂飩でした。
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利休の店内正面の個室が蕎麦打ち室で壁には麺棒が架っていました。女将さんが厨房で饂飩を用意しておいでです。
「ご主人を愛されていられるのですね!」云えば素敵な笑みを返して下さいました。腹も心も一杯になって、愈々桐生の旧市街地を散策です。手には観光案内所で戴いた「観光案内図」を持って・・・。「有鱗館」「無鱗館」等と云った儒教の香りのする建物が眼に付きます。
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此れは桐生の八幡宮、八幡宮と云っても祭神は「菅原道真」で天神様なのでした。この東に群馬大学工学部が在ります。
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此れは群馬大学工学部の記念館です(有形文化財)写真出典https://blog.goo.ne.jp/colhanjp/e/c24f6c0f04634789cbc67f92ae67c2c2 因みにサンリオの創業者で社長の辻信太郎氏も卒業生です。
処で、私の母は「桐生高校」の家庭科の教師でした。世田谷の実相院の先々代住職が法脈を頼りに狛江の泉龍寺の娘を紹介して戴き、当時母は桐生高校で和裁を教えていた処、父母が結婚したのでした。
俳句が趣味であった母の作品です。
渋かろか 知らねど 柿の初契り(昭和11年1月24日)
私の命はこうした縁と母の決断力のお蔭で受けたモノでした。
「桐生織物記念館」や「町の交流館」の案内に従って古い工場を視て銭湯を覘いて
八幡宮前のバス停で待っていると沢山の高校生が自転車に乗って通り過ぎて行きます。目の前の道路標識には「群馬大学工学部」の案内が在ります。群馬大学工学部は織物では一流の教育機関だったようです。その建物も有形文化財に指定されています。「母もこの高校生を教えていたのか!」懐かしく思いました。
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右奥が八幡宮自転車の女子高生は桐生高校の生徒さん。
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本町の銭湯
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本町の織物工場、大谷石の石積に鋸屋根の工場は如何にも近代化資産です。
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バス停留所のベンチで食べた草餅団子も懐かしいお味でした。
兎に角絹織物は現在の我国の繁栄を築いた産業です。その絹織物のお蔭で私達は裕福な生活を営んで居られるのです。桐生の町に懐かしさを覚え母の匂いを感じるのは私の生立ちだけが原因では無くて、群馬県人の体質が在る様に思うのです。
今回は幅広饂飩は食べられませんでしたし、群馬大学工学部記念館を入れませんでした。”もう一度出直して来なさい”そんな命令でしょう。


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福島野菜を食べて

昭和60年代我国は首都東京の機能を分散して、政治機能を地方に分散しようと考えていました。候補は第一に阿武隈高原、次いで冨士高原でした。阿武隈高原に政治機能を移転させる、まことしやかに検討されました。阿武隈高原が検討された根拠は、一般には地質が堅固であるから・・・・。云われていました。東京から200K足らずの距離にある事、国有地が多いこと等が評価されたのでしょう。それが、原発事故のお蔭で、猪や鹿の都になろうとしています。
私は学生時代休みになると福島に遊びに来ました。叔父が信夫山の東に在る「古舘」に在る曹洞宗の寺院の住職をしていたので、その寺を根拠に自転車でアッチコッチ走り回りました。叔父に「何故福島なのですか?」尋ねた処次の様に答えられた記憶があります。
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南相馬では4/24日には田起していました、今頃は田植えが始まっていることでしょう。
昔この辺り信夫(しのぶ)郡は見渡す限りの湖で真ん中に信夫山があった。この山には吾妻(あづま)おろしが吹きつけていたため、吹島(ふくしま)と呼ばれるようになった。
その後、長い歳月を経て、湖が干上がり陸地ができ、次々と集落が生まれた。吹島は風が吹きつけることをきらって、吹を福とし、福島と呼ぶようになった。
私は福島とは「福に恵まれた島(集落)」と直観していました。夏暑く冬寒いのですが、お蔭で野菜もお米も果物が美味しく、豊富なのでした。野菜が美味しく果物が豊富である事は福に恵まれている事です。
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楢葉町の「天神の宿」にはお米の安全性をアピールしたポスターが貼られていました。
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「天神の宿」の朝食は和食バイキングでした。「生野菜」を美味しく戴きました。鮭も楢葉町に遡上してくるそうです。[美味し国」福島は名の通り山海の美味に恵まれているのです。
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ランチは「道の駅南相馬」で戴きました。
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私は道の駅でB級グルメで有名な「浪江焼そば」を戴きました。太い目もっちりした麺をモヤシと甘めのオカメ焼きそばソースで炒めたお子様用焼きそばでした。
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「道の駅南相馬」の店内ポスターは「野馬追一色でした。
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「そだねー」に笑ってしまう「道の駅南相馬」の日曜大工売場。

「道の駅南相馬」でランチして、お土産を買い込みました。私は野菜と果物を買い込んで宅急便で自宅に送りました。明日からは、福島旅行の思い出をご馳走にして食事を楽しむ作戦です。林檎に、アスパラに、椎茸に、棒玉葱に、レタスです。代金は900円余り、一方送料は1000円超です。昨秋弘前でも同じように野菜と果物を仕込んで自宅に送りました。
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ジャガイモにレタスにアスパラに棒玉葱どれも200円で大きな冨士も300円/2個です。
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福島ツアーも終えて新幹線福島駅から帰路に付きました。
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自宅に戻って翌日の夕飯は野菜尽くしです。「茄子」以外は全部南相馬産です。この野菜の中で一番放射能の高いのは椎茸でしょうが。セシウムであればもう、私には無縁です。危険なのはヨウ素放射能ですが、もう子を産ませる事もありません。福島を懐かしみながら蒸して、焼いて、生で戴きました。
こうして仲間と一緒に年1回日本各地を旅する事は私のリハビリの役に立ってきました。何時もながら温泉で背中を流して貰って、この世の極楽を味わいました。今回を以って福島旅行記はお終いです。観て戴いて有難うございます。明日からは又日常の生活を綴ります。
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これは安達太良山の山麓にある「岳温泉/天空の庭」の温泉です。硝子窓に縁に「むべ」が額縁の様に張っていました。



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