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既に鎌倉の鶴岡八幡宮の雪洞祭りは藤沢周氏の作品をアップしましたが。今日はその他の有名人の雪洞を紹介させて戴きます。
毎年雛祭りが近づくとその時の世相を象徴するような創作雛人形が作られて、話題になる様に、雪洞も作者があ”受け”を狙って雪洞つくりに励んでいるようです。鎌倉では8月16日の送り火に「首塚祭り」を実施し、柏尾川の堰堤に雪洞が並びますし、最近は長谷寺や江の島神社の参道や御成り通り商店街でも雪洞祭りが実施されました。地域住人参加型で総費用も懸らない手作りの祭りとして人気があるのでしょう。私にもチャンスさえあれば参加したいものです。和紙に一枚絵を描けば地域の経師屋さんが雪洞に仕立てて飾ってくれるのでしょう。残念ながら私の住む戸塚ではそんな企画は無さそうです。
此方は「ワールドカップで流行した「半端無い」を描いた雪洞。正一氏が何者かが知りません。
此方は山本和子さんの雪洞「青い山脈」に出演された美女女優でしたが今は如何しておいでか、これは源氏物語「東屋」の場面で、寂しくしておいでの浮船を尋ねた場面、姫君を慰める為に物語を読み聞かせしています。山本さんはそんな心境なのかもしれません。
此方は女優の星野知子さんの雪洞、前段山本さんとは心境も違うのでしょう。
此方は竹中直人氏の作品
此方石原 伸晃(いしはら のぶてる氏(自民党)の作品
此方は日本画家の田渕俊夫氏の作品、今年は子の絵が団扇になっていました。流鏑馬の矢が的中した場面で吉を呼ぶ絵柄でしょう。
此方は中島千波氏の作品、田渕氏の作品の隣でした。
此方は鹿の子百合で作者の恒之氏は存じません。
此方はユネスコの文化遺産に指定される事が決まった大浦天主堂作者の、Мキョウコは存じません。
有名人無名な人雪洞の作者は様々ですが。雪洞は元々茶室に客人を招く時に使った常設行灯の様なモノです。先行きが見通し難い時代だから良く照らして誤らない事です。終戦記念日(8月12日)の報道では我国の経済学者は戦争を「敗戦確実」として反対したそうですが、一部軍部と世論が「米国との経済格差を一気に埋める好機」として開戦に走ったのだそうです。人間として在るべき「平和主義」や「平等主義」や「正義」を重んじてどんな時代も針路を誤らない国であって欲しいモノです。
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鎌倉ウォーキング
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鎌倉の史跡や山を歩きながら、地誌を紐解き、自然と人為のマッチングをスケッチいたします。なお、筆者は小学校から高校まで鎌倉でお世話になりました。
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7月26日(金)に鎌倉の鶴岡八幡宮に出かけました。新調なった段蔓は石敷きにしたので砂利敷きに較べてズット歩き易いのですが、照り返しがきついので汗を拭き拭き八幡宮に辿り着きました。境内に入って早速休憩所で水分の補給です。
境内では高齢の作業員が8月6日に始まる雪洞祭りの雪洞を建てる支柱を建てる作業中です。
此れが八幡宮の雪洞祭りです。このお祭りが終われば立秋ですから暑さも峠を越します。
八幡宮の境内では雪洞の支柱を建てる作業中でした。
御神籤には2種類あります。筮竹を曳いて巫女さんに御神籤を手渡して貰うスタイルと、籤引き箱の中に手を入れて自分で引くスタイルです。鶴岡八幡宮では前者が100円で後者が200円です。
処で先日終わった日文研セミナーで私は「厄除けの民俗学」と題してプレゼンしました。その折「御神籤を引いたら「凶の御籤を引いてしまった、その実籤を如何しますか?」質問した処多くの人が改めて良い御神籤が出る迄引き続ける」答えられました。私は「鶴岡八幡宮にはそんな時の作法を案内している」説明した事を想い出して改めて確認しに本殿東側の御神籤売場に向かいました。
鶴岡八幡宮の「凶運御籤の納め箱)赤い箱の上に「掴み矢」が置かれているのでこれを手に一回転させます。そして凶運を示した御神籤を神様にお返しします。
御神籤売場の東側には前記「鳩御籤」の箱が設えて在り本殿の並びに「赤い箱があって、凶の御神籤を返却できるように案内してあります。黙って凶の御籤を赤い箱に返すのではなく。鏑矢を回して。「私の運勢を代えて下さい」念じるのです。神様は庶民の想いを理解されてもう一度神意を示されるのです。学校の先生や親のアドバイスを伺ってから「気に食わないので無視するより」は「もう一度お伺いする方が礼に適った正しい姿勢でしょう。
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京都で言えば「洛中」と「洛外」とは大違いです。「城下」と「城外」の違いが在るでしょう。鎌倉とて同じです。鎌倉の城壁が背後の山脈だとすれば、山脈の内側が「府内」で山脈の外側は「府外」です。「府内」には景観条例等で古都の景色が守られています。鶴岡八幡宮が背後の山を墓地開発しようとしたところ大仏次郎や小林秀雄が”府内の景観を守れ”と言って反対運動をしました。その結果鎌倉の風景が守られて来ています。今年3月鎌倉市景観条例が改正されました。快晴の要点は①早期に開発計画を提出させ、行政が充分に市民の意見を吸収出来るようにすることでした。既に長い歳月が経っていますから、鎌倉府内背後の山を切り崩して開発する行為は出来ないでしょうが、新築建物の高さや外観に係る制限は別問題です。現実的に新しい建築が出来るとなると「どうなるのか?」気懸りの工事が2件進行中です。一つが若宮大路に面した旧鎌倉警察署の跡地(500坪)です。杭打ちクレーンの高さを観ると。相当に高いビルになりそうな気配です。お知らせ看板を観ると工事主体はJR東日本でホテル計画ですが、高さは不明です。
JR東日本系列のホテルなら鎌倉にとって好ましいモノでしょう。日本を代表する観光地に相応しいホテルがオリンピック前に竣工する事でしょう。
7月24日(火)鎌倉花火大会の日南向きのバスは元警察署前の臨時停車場から発着しました。矢板に囲まれた工事現場です。
此れが鎌倉の元警察署跡地に計画されているホテルでツインルーム138室延床8800平米の鎌倉最大のホテルになって2020年春オープンの計画です。写真はJRの発表を鎌倉経済新聞が報じたモノ。https://kamakura.keizai.biz/headline/254/
もう一つが鶴岡八幡宮の「旧神奈川県立近代美術館」の跡地利用です。同建物はゴルビジェに師事した板倉準三氏の作品で我国を代表する昭和モダニズム建築でしたが、竣工60年を経て耐震診断やエレベータの必要性が指摘された新館棟と学芸員棟は県が取り壊す事になっていました。処がこの機会に、鶴岡八幡宮は県に土地の返還を要求し、市民の関心を呼びました。「鎌倉市民は総じて保守に親しみ、同時に革新好み」なのです。近代美術館の取り壊しを問題にしました。八幡宮は禰宜の交代直後でもあり既に「段蔓の古い桜並木の植え替え計画も実施していました。鎌倉市民は総じて古い桜並木の伐採を疑問視していました。近代美術館の本館棟と関連棟を取り壊して、八幡宮はどうしようとしているのか?文化財に指定されている近代美術館の建物はどうなるのか?問題にしてきました。同博物館の池を鋏んだ向かいに「喫茶室/豊嶋屋運営」がありますが、近代美術館を取り壊してレストランを経営しようとでも咬み付きそうな気配でした。
此れが八幡宮の平家池です。奥に在る白い壁が神奈川県立近代美術館で、板倉準三氏によって竣工した時には大谷石を積み上げた上野の近代美術館に似た昭和モダニズム建築でした。白い部分は増築したもので、如何にも付け足した外観でした。https://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/MYBLOG/yblog.html?m=lc&sv=%B8%BB%CA%BF&sk=0にあっぷしました。
此れは現在工事中の近代美術館。白い部分は旧本館の建物では無く取り壊し中の覆い(足場)です。
私は近代美術館の修復工事の現場を確認しました。工事のお知らせ看板も出ていません。工事中、遮蔽壁になっている矢板にも施工業者の名は出ていません。唯覗いてみると、当初の板倉準三氏による建物はそのまま残っています。、という事は重要文化財に指定された昭和モダニズムのデザインやインテリアはそのまま残して、新築部分を加えるのでしょう。鎌倉市民も県民も「自慢の近代美術館の建物」が残された事で、一安心でしょう。
増改築後の利用計画を確認しました。新しい施設の名は「鎌倉文華館/鶴岡ミュージアム」だそうです。開館予定は昭和31年春だそうです。目的は次の諸点を上げています。
1、新たな交流と文化を育む。
2、鶴岡八幡宮と鎌倉に付いての理解を深める活動を行う。
3、参拝を深める空間とする。
という事は8/6日に始まる雪洞祭りの雪洞の展示等もするのでしょう。流鏑馬や例大祭、節分行事等も展示して理解を深めてくれるのでしょう。。
此れは八幡宮の発行する機関誌「鶴岡」における「鎌倉文華館」の記事です。
これは雪洞祭りに寄せられた後藤純夫氏の法起寺三重塔を使った団扇です。故平山郁夫氏の絵を始め当代一流の鎌倉に縁の深い画家や有名人の作品が寄せられます。今までこの展示は八幡宮裏の社務所で行われていましたが、今後は鎌倉文華館で展示されるのかもしれません。奈良には「大和文華館」が在って「奈良学」の求心力になっていますが、同じような役割を「鎌倉文華館」も期待されているのかも知れません。
鎌倉の良さは「武士のメンタルであった、質素剛健、礼等の文化伝える文化と歴史、そんな文化を育んできた豊かな自然と自然を神と敬愛する信仰です。」ですから日本のインテリは鎌倉を愛し、生活し、死んでも鎌倉に埋まりたいとしてきました。”鎌倉の景観を守れ”先導した小林秀雄は東慶寺に大仏次郎は寿福寺で眠っておいでです。こうした先達も納得されるような開発が為されれば良いのですが・・・。
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昨日は24日の「鎌倉花火大会」をブログにアップしました。私は花火会場に近い「光明寺」さんに登りました。光明寺には「記主庭園」があって、池を埋めつくす古代ハスの花を愛でる会が毎年7月21日22日に開かれます。今年は観蓮会には参加できませんでしたがせめて蓮は観ておきたい思って24日の夜7時に境内に入りました。
鎌倉花火大会(7/24)の夜の光明寺境内、まだ二日前実施した「観蓮会」の提灯が灯されていました。
光明寺の記主庭園は夜目にも妖艶な蓮が咲いていました。正面の建物は阿弥陀堂です。この建物を観る度に義経の慰霊に建立した永福寺を髣髴します。
【 蓮台】の訳
蓮の花は「蓮台」として仏様が座られる「仏坐」を象徴します。位牌は必ず蓮台の上に板碑を置き戒名が記されます。日本でもインドでも中国でも仏像は蓮の台(うてな)の上に座しています。蓮の花にかけた想いは東洋人に共通しているのでしょう。人間は誰しも仏になる素質(仏性)が在るのであるから、死んで戒名を貰えば蓮の上に坐るモノと考えたのでしょう。蓮の花は泥の中から出てきて、しかも泥に染まらず清浄無垢の美しい大きな花をつけます。泥水を煩悩、苦しみの世界を表し花を悟りの世界を象徴しています。また、一つの茎に一つの花、煩悩の世界と悟りの世界は直通していて煩悩即菩提を表します。
灌仏会(花祭り)のお釈迦様は蓮の桶で蓮台の上に立っておいでです。上野十輪院
我国では中世になって、阿弥陀思想が盛んになります。一遍上人は全国を遊行します。時宗の僧は寺院の住職(一般に清僧と云います)と違って路傍や河原辺に転がっていた行き倒れ者の遺体を弔って旅をします。遺体を弔う行為は死穢を被るので嫌われてきました。時宗の僧が弔いの旅をする一方、高野聖は死者の骨を高野櫃に入れて高野山に埋めました。こうした穢れを厭わない僧(俗僧とでも呼びましょうか)の営みによって葬式仏教が一般化しました。結果祖先の霊を供養する盆に、蓮の花も台も葉っぱも欠かせない仏具になったのでしょう。生き抜く現実世界は「苦界」であるものの「浄土」は必ずあって来世は浄土に生まれ代わると確信する事で、救済されたのでしょう。
板位牌は蓮台の上に戒名を書くように出来ています。故人が成仏していることを表現しています。写真出典長谷川http://www.hasegawa.jp/products/goods/search/02/
蓮の殆どの花は、花が咲き終わってから実をつけますが、蓮はつぼみの時から、すでにその花弁の下の台に実をついています。これは、皆が生まれながらにして、仏に成る性分を具えていることを象徴していて、華果同時(けかどうじ)として仏教では尊ばれます。蓮台は丁度人間の子供の足が収まるほどの大きさです。 そのような意味付けから仏さまの立ったり坐ったり台を蓮の台にしているわけです。 そんなわけで施餓鬼会や盆行事に蓮の花は欠かせません。鎌倉の寺院では池が在れば必ず蓮を自生させていますし、池が無ければ蓮鉢を置いて花を咲かせます。
材木座のの光明寺の記主庭園の蓮の花は暗闇の中で紅色の花が浮かんでいました。
此方は昨年の夏唐招提寺の蓮を観に出かけた折に近くの喜光寺の蓮です。この時は藤原宮跡の蓮も見事でした。
一方大町の「本覚寺/日蓮宗」には大きな池が無いので境内に鉢を置いて蓮を咲かせます。小さな蓮鉢でも蛙が卵を産むし、蜻蛉も卵を産みオタマジャクシやヤゴが生きる小宇宙です。昔この鉢に地もぐり(蛇)が居るのを見つけて肝を冷やした記憶があります。毎年施餓鬼会には蓮と百日紅が花を競って咲かせます。
鎌倉本覚寺の境内で咲く蓮の花向いは「恵比須堂」
本覚寺の境内を横切ると駅に行く近道です。日傘をさしたご婦人が通って行きました。
「鎌倉の蓮」と云えばどこを置いても鶴岡八幡宮の源平池です。私は先日書いた付属小学校の校庭に龍舌蘭の花を観た序に源平池に寄りました。「吾妻鏡」には源頼朝の命により1182年(寿永元年)、弦巻田と呼ばれていた水田を池にしたのだと伝えられています。 太鼓橋(赤橋)もこのとき架けられました。 太鼓橋の右側が「源氏池」、左側が「平家池」。 ですから右側(東)に白い蓮が左側(西)には赤い蓮が活けられたと推測します。処が総じて白が優勢で、赤を圧倒しています。現在も平家池側も白い源氏が占有してしまっています。数年おきに池を浚っていますので、紅白の峻別を測っているようですが自然界も(白/源氏)が(赤/平家)を押しているようです。
鶴岡八幡宮の源平池では紅白の蓮が咲きます。
本格的な蓮を観たくて去年は埼玉県の「風土記の丘」に行きましたが今年は不忍池に行きました。不忍池も数年間隔で池の曝し工事をします。生物(外来生物対策)の調査と蓮の手入れが目的なのです、従って数年おきに蓮の体力が充実するので、蓮の花の見事な年が巡って来ます。今年はその充実した年に当るようで、花も大きいし数も見事でした。
不忍池の蓮。今年は「当たり年」のようです。奥が上野動物園。弁天島と動物園の岸辺への橋が見えます。
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7月24日(火)は鎌倉由比ヶ浜の花火大会でした。私の友人は多くが湘南、横浜に住んでいます、友人が顔を揃えると「何処がいちばん住み良いか?話題になります」「横浜は住民サービスは良いモノの地方税が高い」「鎌倉は地方税も高いし住民サービスは悪い」一方「藤沢は文教都市である事に加えて地方税も易いし住民サービスは行き届いている魚も野菜も水も美味しい」良いことづくめで棲むなら藤沢が最高!」という事になります。もう5年も前でした。藤沢に武田薬品が研究施設を藤沢に建設しました。藤沢市に払われる固定資産税は10億円/年と噂されました。その頃鎌倉市に在った資生堂(岩瀬工場)は撤退しました。鎌倉市の公債費率(借金の比率は25%/平成28年)に及びます。横浜市の公債費率は16%前後です。一方藤沢市はズット無借金です。
これは鎌倉由比ヶ浜で実施される花火大会のパンフレットの裏表紙の豊嶋屋の広告。由比ヶ浜の名はこの老舗菓子店の地域愛によって存続出来ました。「ハトサブレー」の花火が上がるのでしょうか?
鎌倉花火大会のパンフレット左が(表表紙)右が裏表紙です。
苦境に在った鎌倉市は何でも金に換えようとして由比ヶ浜のネーミングライツを売り出しました。由比ヶ浜は八幡宮を詣でる際に身を浄める浜辺であり、漁民の結束を示す言葉(結)が語源です。その名を捨てて金に換えようと計らいました。「DNA浜」になるリスクが在ったのでしたが流石に地元の「豊島屋」さんが買いとって「由比ヶ浜の名は変えない」鮮明にしました。辛うじて名前を守った由比ヶ浜でしたが、名物の花火大会も存続の危機に見舞われました。寄付金が集まらなくなったし観光協会も力が無い事が明らかになったのでした。今年(昭和30年)は早々と「鎌倉花火大会」の開催を決定しパンフレットを作成しました。昨年度の実績では収入(寄付金)が支出に500万円も不足していました。鎌倉市は財源不足対策に血眼で警察署跡地もホテルに売却し、御成町に在る市役所も深沢のJR操車場跡地に移転することを決めました。そんな次第でしたから、伝統の花火大会を存続させることは難しいと諦めていたのでしたが平成30年は無事実施できたのでした。私達は先ず光明寺を詣で、更に稲村ケ崎海岸に向かいました海岸通りのフェンスの傍に陣取って海面を見下ろすのが最高なのです。というのは鎌倉花火の最高の呼び物は「水中花火」なのです。水中花火は偶然が重なって鎌倉で始まった花火だそうです。花火師が誤って点火後花火を海中に落してしまった処。海中で花火が爆発して、水面上に花を咲かせ、海面にも映ったので、「打ち上げ花火」以上に美しかったので、今ではモーターボートが沖合を走った数秒後に水中花火が咲くのです。
鎌倉花火大会の様子、材木座から稲村ケ崎を臨む。花火は真正面に上がって煙が長谷の方に流されます。長谷海岸からでは煙の陰で花火が看難い事に加えて煙に咽てしまいます。
此れが鎌倉花火の代表「水中花火」です。水中で爆発した花火は海面で半円の花を咲かせます。半円の花が海面に映るのが又見事なのです。
此れも「水中花火」です。
24日は雲が低く垂れこんだので打ち上げ花火は花の部分が雲に隠れて見えませんでした。その為水中花火がより一層目立ちました。
花火見物は順調でした。処が帰路が大変でした。例年は15万人程度の見物客なのですがこの日は更に増加したのでしょう。一斉にJR鎌倉駅に向かいました。鎌倉駅は入場制限で幾ら待っても乗れそうもありません。仕方なく江の島回りで帰宅する事にしました。江ノ電は由比ヶ浜駅でも長谷駅でも乗れないお客を残して出発、満員の車内は子供は泣くし、ベビーカーは潰れそうになるは、大変な思いをしました。綺麗な花火を楽しんだのですから苦痛も致し方ありません。
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