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鎌倉ウォーキング

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鎌倉の史跡や山を歩きながら、地誌を紐解き、自然と人為のマッチングをスケッチいたします。なお、筆者は小学校から高校まで鎌倉でお世話になりました。
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光明寺観蓮会への想い

大本山光明寺は鎌倉の材木座にある古刹です。浄土宗の総本山は京都の知恩院さんで芝大門の増上寺(大本山)に並ぶ格式の高いお寺です。奈良京都に較べればこれと云った国宝に欠ける鎌倉ですが、光明寺には当麻曼荼羅2巻があって国宝に指定されています。私は未だ実物を拝観した事が無く。本堂の懸けられた絵に同図をイメージしています。当麻曼荼羅は中将姫の説話を伝える日本の絵画史上も文学史上も重要な蓮糸で織られた絨毯です。
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観蓮会の始まる時刻の光明寺本堂です。材木座海岸の喧騒が噓のように静寂が古刹を夢に誘います。
何度も当麻寺まで出かけて拝観しているのに近くの鎌倉のそれを拝観した事が無いのは残念至極です。
仕方が無いのでネットで調べれば親切な事にウィキペディアに載っています。
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これが鎌倉光明寺の当麻曼荼羅図絵巻上巻の長さが774m下巻の全長が687mに及ぶ大作です。私が拝観できていないの致し方ないのですが・・・・。天平時代の当麻曼荼羅と室町時代の御伽草子の中将姫物語を繋ぐ鎌倉時代の絵解き絵巻物です。これは上巻の第一段の絵で主人公の姫が深窓で育ち写経をしていました。姫は隣室に入り黒髪を僧に切って貰います、その上で墨染の衣に着替えて西向きの部屋に入り蔀戸を開きます。すると。天からは阿弥陀如来が聖衆を従えて姫の屋敷に降りようとしています。絵は住吉絵所住吉法眼慶恩の作で後京極良経の書です。鎌倉時代を代表する絵巻物が鎌倉に残っているのは老中松平定信の功績でした。
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これが修復を終えた光明寺の記主池本堂と庫裏の間に在る庭園には蓮の花が咲きます。手前が本堂に渡る廻廊です。
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廻廊から蓮池越に阿弥陀堂を眺めると観蓮会の日には扉が開かれて阿弥陀如来立像を拝む事が出来ます。この日は阿弥陀様の足元まで登って御抹茶も戴けるようです(ポスターに依れば千円です。)
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光明寺記主庭園の蓮の花中国風の八重の蓮の花です。

当麻曼荼羅絵巻では姫は生き身の阿弥陀如来観たいと誓願を立てて浄土教の書写に励みます。
一人の尼(実は観音菩薩)が姫の誓いを嬉しいとして現われ”阿弥陀仏に遭いたいならその様子を表しましょう”と誘い、蓮の糸を百駄集めるように言います。姫は近江より取り寄せた蓮茎から蓮糸を紡ぎ出し、糸を5色に染めます。部屋の北西の隅に機織り機を据えて戌の刻(午後8時)から寅の刻(午前4時)まで曼荼羅を織りました。すると尼は五色の雲に乗って稲妻と共に消え去ったのでした。尼姫は涙が乾くまで別れを悲しみました。
宝亀6年(775)尼姫は往生します。その晩は青天高く晴れて紫雲が差し来たりました。迦陵頻伽の美しい音楽が西の空から響いて聖衆が尼姫の館に下りて来ました。阿弥陀如来が「摂取不捨」の誓願通りに尼姫を迎えに来たのでした。
【女人成仏】
日本では古代から女性は不浄であるから成仏出来ないと考えられて来ました。この不条理は仏教が儒教と同時に伝わった為男尊女卑の思想が当初から日本仏教に混じってしまっていたのでしょう。
この不条理を正す為には長い歳月を要しました。その最初が中将姫の当麻曼荼羅のお話です。古代の女性が女人成仏に悩み苦しみ中世になって漸く女人成仏が普遍化しました。
当麻曼荼羅の物語も平家納経の物語も「本来成仏できない筈の姫が阿弥陀如来に迎えられた」その不思議を説いています。ですから中世に描かれた当麻曼荼羅絵巻には大きな意味が在るのです。松平定信の女性成仏を説くこの絵巻物の意義が良く解っていたので光明寺に納めたのでしょう。
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これは平家納経の扉絵に描かれた龍女が成仏する絵法華経提婆達多 品で、8歳の竜女が成仏する場面を由来とする。出典は日本の古典平家物語(集英社)のグラビア
中将姫の物語でも蓮は重要な素材になっています。当麻寺も光明寺も蓮の名所になっています。光明寺の観蓮会は今月末の30日31日です。先年光明寺では記主庭園を整備され楼閣の阿弥陀堂を新築されました南側の廻廊から池越しに阿弥陀堂を仰ぎ見ると手前に蓮池があってその先の中空に金色に輝く阿弥陀如来を拝めますまるで上の平家納経を現実に観るようなモノです。
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此方は今年の光明寺観蓮会のポスター(光明寺さんのホームページを借用)
今年は暦の悪戯で遊行寺の盆踊りと光明寺観蓮会がダブってしまいました。どちらにも行きたいものですが。身は一つです。
数年前光明寺の観蓮会を終えてそのまま材木座海岸に出ました。
材木座海水浴場は日中の日照りが落ちて夕涼みを兼ねた観光客が群れて居ました。そんな中で人だかりが出来ていました。立教女学院のお嬢さんたちがフラダンスを踊るというのです。お嬢さんのボーイフレンドが応援しようと云うのでした。
私は未だ火照りしている砂浜に腰掛けてフラの踊りを眺めていました。
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これは材木座海水浴場でフラダンスを被露する女子大生向こうの岬は稲村ケ崎になります。これを観ながらビールを飲むのもオジサンの夏の楽しみでした。
鎌倉市は昨年から海水浴場の音曲禁止を条例化したのでもうフラダンスを観る楽しみも無くなりました。
日本文化はケ(褻/日常)晴れ(祭り)が混じっています。所謂聖俗二元論です。『ケ(褻)の日に仕事を休んだり晴れの日に働く』と神は怒ります。海水浴場は晴れの場所ですから若い女性がフラを踊る事を神は喜ぶはずです。鎌倉市はケ(褻)と晴れと使い分けも出来なくなってしまいました。残念です。祇園祭でお囃子を禁止するような馬鹿げた条例です。若い人が海辺で歌も踊りも出来ないなんて女人成仏以上に不条理です。

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鯉之助で祝い膳

娘の安産祈願でオンメ目様に上りました思いの外早く終えてしまったので新しくなった段葛を見て小町通りを散策しました。この日は土曜日大変な混雑です。足元の弱い私はぶつかって転倒したら大変です。すれ違う人の動作を見極めて右に左に身を避けます。”若しかしたら居合道の筋が在るのかも知れない”思いました。
何時もの様に豆屋でつまみ食いしました。後で思うと消化にわるい豆を摘んだのが悪かったのかもしれません、祝い膳で失態をしでかしてしまい娘夫婦に悪い事をしてしまったのでした。
小町通りを出て鎌倉駅前に今日の祝膳の会場「鯉之助」があります。
お祝は別の機会にするとして今日のお食事は娘夫婦にご馳走になる事にしました。
「お父さん何でも遠慮されずに注文して下さい」、娘に言われても、私の胃は胃癌の術後充分に時間が過ぎていません。未だ胃袋は小さいのです。そこでメニューの最初に書いてあった『静御膳』を注文しました「静御膳」が昼のお膳の梅に相当するようです2100円ですから、大変にお安いというかリーズナブルな価格設定なのです。ワイフは瓢箪御膳にしました。こっちの方がお祝いに相応しいようです。
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祝膳に選んだ鯉之助の開店直後の様子。
此処このビルは昔何だったのかな?訊けばワイフは
『此処は第一勧銀が在ったのよ。みずほ銀行は今では駅の西口よ』
と小学校中学高校と鎌倉の学校で過した私を差し置いて解説します。加えて
「私達は何時も向こうの個室を遣わせて戴くのよ其処は金庫も在るのよ」
私を遥かに凌ぐ詳しさです。
昭和50年代後半私は長銀の福岡支店で支点経営に携わっていました。
お店は天神大通りに面して向かいは地域一番のデパート岩田屋がありましたし、筋向いは西鉄天神駅で背中は親不孝通りでした。商店街の協議会では常々不満を聞かされていました。
「銀行は夜になると真っ暗で街の賑いの上でマイナスだ、もう少し協力してほしい」何時も苦言を浴びせられました。そこで、博多山笠では若い行員に法被を着させて山笠巡行に参加させました。天神から櫛田神社まではたいした距離では無いのですが、山笠を街の倉に納めると行員は銀行に戻って応接室を占領して休んでいました。
観光都市鎌倉でも目抜きの広場に第一勧銀が居て迷惑だったことでしょう。其処に鎌倉の日本料理屋さんの御代川が「鯉之助」と云う若いブランドで出店したのでした。
でも第一勧銀の前は西武百貨店だったのでしたから。銀行が出店した時だけが間違い(場違いだったのです。銀行は元々が経済の黒子です。黒子が表通りに顔を出すことが間違いだったのでしょう。
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お店に貼られた鯉之助の以前の姿昭和40年代までは西武百貨店でしたが50年代になると第一勧銀が出店I平成20年代になると現在の御代川が鯉之助ブランドで日本料理と寿司店を出店しているのです。
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これは鯉之助の個室で、静かに歓談するには恰好なお部屋です、この時はお弁当が用意されていました、お客様のお土産か、はたまた行楽用に使われるのでしょう。
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棟方志功さんの太った鯉が嬉しい食事を盛り上げてくれます。
私は懐かしいと思いながら銀行ロビーを見渡します。ドンドンお客さんが来店して満席になってしまいました。ワイフの云う様に予約を取っておかなくてはならない繁盛店です。
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鎌倉御代川の新ブランド「鯉之助」の壁に懸った金工細工
私の座った席の後ろの甕には鯉の金細工が懸っています。掛け軸は棟方志功さんの鯉の絵です。
でもよくよく見れば鯉では無くて鯛のように見えます。こんなに肥っていては滝登りは出来ません。
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此方は棟方志功さんの掛け軸御代川大主人に喫す」志功と書かれています。創業者御代川鯉之助氏の嬉しそうなお顔が思い浮かばれる大作だと思います。
棟方志功さんに”これは鯉じゃなくて鯛ですね”と言ったら禿げた頭を掻かれながら仰るでしょう
わだば惚けて鯉も鯛も分別できなくなってしまった”呵々大笑されることでしょう。
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お店を見下ろす位置に神棚が祀られていて恵比須大黒が見渡しておいでです。棟方志功さんはこの恵比寿さんがお好きで鯛と鯉を間違われたのかも知れません。
でもよくよく見れば御代川さんが鯉之助ブランドで出店するお祝いに描かれたのですから鯉よりも恵比寿さんの抱えた鯛の方がピッタリだったようです。
お店の調度を楽しんでいるうちにお料理が用意されました。
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これが私の注文した静御膳(2100円)です。今年初めての鰹のお刺身で縮緬雑魚の乗ったご飯を美味しく一膳戴いてしまいました。そうしたらもう満腹状態で天麩羅も大好物の煮物も食べられなくなってしまいました。若い人に食べて戴きました。折角のお祝いの御馳走を)残念でしたし娘夫婦に”ごめんなさい”言うだけでした
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お隣はワイフの注文した瓢箪御膳です。瓢箪が4段の重箱になっていて一段毎開ける度に声を出す美しさでした。眼にも舌にも感動させ遊び心ある瓢箪御膳だったようです。
実は私はご飯がおいしくてお刺身だけで一膳のご飯を食べてしまいました。マダマダ天麩羅もあれば煮物もあって食べたいのですが既に胃袋さんが”もう充分これ以上は入りません”と悲鳴をあげ始めたのです。屹度小町通りで摘み喰いしたお豆が胃袋で膨らんでいたのでしょう。意地汚く喰意地を張ったのが災いしていざご馳走になったら胃袋に余裕が無くなっていたのでした。娘夫婦に謝りながら箸をつけずに戴いて貰いました。
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これはデザートの南瓜プリン。プリンさえ食べられなくて婿殿に助けて貰いました。

御代川鯉之助氏は築地の新喜楽で評判をとった料理長で政財界人や文化人に知己を得て鎌倉に進出し由比ヶ浜の一の鳥居店を皮切りに湘南で第一の日本料理店になった人物です。鯉之助は御代川の味や日本料理の文化を大切にしながら利用しやすさを追求したブランドのようです。
鎌倉でイタリアンが流行りのようですがヤッパリ日本料理を楽しみたい、そんな人には恰好なお店ですし、ロケーションも良いようです。
私のように鎌倉で育った者には日本料理と云えば山椒亭でしたが御代川さんの活躍で同店は
これから何度も言われることでしょう
”お父さんは安産祈願のお祝の膳の前にお豆を食べ過ぎて、肝心の御膳を食べきれなかった・・・・。”

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オンメ様の格天井

私の長女夫妻に待望のベビーを授かりました。其処で安産祈願を水天宮にするか巧寺にすかるか考えましたが若夫婦の希望で二人の育った湘南で・・・・”と云う事で二人が夫婦がオンメ様に決めました。
大功寺は元々十二所の梶原景時の屋敷内に在ったものだそうですが、頼朝が出向いて軍議を催していたところ、大勝利を収めた事から大きな手柄のあった寺「大功寺」となったそうです。
でも湘南の人は一般にオンメ様と愛称しています。オンメが『御目』なら眼の仏様ですが『御女』と書く産霊信仰のお寺さんです。(おうめさま)だったものがご当地ではが訛った結果”おんめ様”になったのでしょう。
妙本寺や本覚寺と云った日蓮宗の聖跡寺院を詣でるにはおんめ様の境内を通ると近道になりますから何時でも沢山の人がおんめ様の境内を通って鎌倉駅に向かいます。
お庭のお花に季節を感じ安らいで境内を通っています。おんめ様のお婆ちゃんは素敵な方で植物の名や育て方をやさしく教えてくださいます。昔はお檀家の無い祈願寺院でしたから見た目も気の毒なほど貧乏なお寺さんでした。でも最近は境内も整備されだいぶ見栄えも良くなってきましたお隣の鎌倉婦人会館とのフェンスにはムべの蔦が絡んで今丁度花を咲かせています。
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これはおんめ様のけいだいで隣の鎌倉婦人会館とのフェンスに咲いたムべの花です。人々は境内を通って鎌倉駅に近道します。今時八幡宮の壇葛に東西通路を認めなかった姿勢とは大違いです。
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整備された段葛の二の鳥居鳥居の中に見えるビルが鎌倉彫快感です会館です。おんめ様とは同じ大町にあります。私の推測ではおんめ様の格天井の鎌倉彫は町内の鎌倉彫会館の協力で完成したモノなのです。
ところでこの長い段葛を横切る通路を八幡宮が極端に減らした事から批難が八幡宮に集中したのでした。
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これはおんめ様の本堂前に咲いた利休梅です。おんめ様は屋根の工事をしていました。雨漏りでもしたのでしょうか?それなら一大事です。


私は聴かれもしないのにムべの花を指さして香りを確認させました娘の名前はこの花の様に薫り高いモノになって欲しいと願って郁の字をとったのだよ馥郁と云うのはコノ字を使うんだよ・・・・”話しました。
この日は大安の日曜日戌の日の前日でしたが夫婦二組と婿さんのお母様と5人でおんめ様に安産祈願に詣でました。庫裏で御祈祷のお願いをします”奥様お名前は生年月日は住所は色々聞かれますご出産予定日は”色々聞かれますそれを記帳するのです。勿論”郁子の字はムべです・・・”と答えました。
ご本尊は”産女霊神”(うぶすな神)で水晶の五輪塔です。してこれから毎朝版の御祈祷に際して読み上げて戴けるのです婿さんは袋に収まった御祈願セットお札、腹帯守、麻紐)を大事にして”七五三の千歳飴みたいだ”いって嬉しそうです。勿論5人全員が嬉しいに決まっています。明日から御祈祷して戴けるもののご本尊様にご挨拶したいものですし、実は本堂内陣の格天井を見せたくて本堂に上がらせていただきました。
未だ午前中ですから本堂の奥まで陽の光が差し込んで格天井が良く見えます。此処の格天井は実に見事なのです。格天井の一コマ一コマに花鳥画が収まっています。天井板に絵が描かれているモノは良く見かけますが此処は鎌倉彫でその上塗装の状態が良いのです。
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此方がおんめ様本堂の格天井天上のマス目に一枚ずつ鎌倉彫の花鳥風月が飾られています。鳥が多いのは天井だからでしょうが。若しかしたら鎌倉彫会館の教師が鳥好きだったのかもしれません。良く見ると札が貼られていまっす。作者の名か寄進者の名でしょう。
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私の生家の天井は良くある棹天上で棹の上に天井板が乗っているだけのモノでした。子供心に天井板の杉板の節目が幽霊の様に見えて天上の上から幽霊に覗き見されているようで寝られませんでした。
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これは北斎の百物語「こはだ小平次」です。北斎さんも天井の節穴を見上げて幽霊を推測したのかも知れません。棹天上は天井の重みでたわんでしまいますが、格天井は歪みの生じない高級な天井で仏殿の天井や玄関の天井など格式を重んじる場所に使用されます以前次に書きました浅草寺の格天井も書きましたhttp://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/48803873.html
脳梗塞で入院した若草病院の天井板は良くある石膏ボードで虫の這ったような跡が無数に在りました。私は天井板を見上げながら想いました。
「古事記ではイザナミの体は腐敗してウジ虫がたかっていた園様を見たイザナギは黄泉の国から逃げ帰ろうとします。あの石膏ボードの黒い押跡は蛆虫みたいだな・・・・”石膏ボードの天井は止めて北極星を一つ貼っておくだけで闘病の勇気が湧くのに・・・・・何故なら北極星は「妙見菩薩」であって本地仏は薬師如来とも千手観音とも云われるのですから・・・・勿論、イスラム教徒もキリスト教徒も北極星は歓迎です・・・・。
天井の素晴らしさと云ったら何といっても大原三千院の舟底天井でしょう。天井全体が船の底のような形になっていますその天井板に絵が描かれています。暗いので解りませんが若しかしたら竜宮城かも知れないと想像するのも楽しいモノでした。
若しも格天井に将棋の駒を取り付けたら、眠れない人も増える事でしょう。
天童の旅館で探せば将棋盤格天井が在るかも知れません。
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此方はどちらかのお寺の本堂の格天井本来天蓋を吊るすべき位置にシャンデリアが在って”それも良し”と思って映しておいたものです。
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 此方は大原三千院の往生極楽院におわす阿弥陀三尊像天井が有名な舟底になっています。
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琵琶湖の竹生島の舟底天井です。琵琶湖の舟大工が建てたので舟底になったのかも知れないし。補陀落浄土に往生するイメージから天井を舟底にしたのか解りません。

おんめ様の本堂天井は屹度鎌倉に住んで鎌倉彫をたしなむ人たちの「鎌倉を愛する気持ち」が実現させた天井なのでしょう鎌倉の日蓮宗寺院には鎌倉彫の格天井が幾つもあります。長谷の光則寺さんの本堂天井も腰越の満福寺本堂も鎌倉彫を嵌めこんだ格天井です。住人の地域文化財を大切にする思いを味方にした文化事業は大切だと思います。今年の秋にも友人は鎌倉彫の発表を予定しているでしょうか?エールを送りたいです
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これは腰越万福寺の格天井を飾る鎌倉彫今般刀華会の作品です。此方は花が目立ちますそして彩色は色漆ですから落ち着いて見えます。先のおんめ様は岩絵の具で彩色されていると思います。


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段葛の大改修工事を確認して、私は小町通りに入りました。
何故この通りを『小町通り』と呼ぶのか不思議に思って居ます。
此処の住居表示は『鎌倉市雪ノ下』ですから、町の名を採るとすれば『雪の下通り』が正解です。
小町通』は中世には「小町大路」と呼ばれ、若宮大路の東側に南北に走っていた筋なのでした。若宮大路と小町大路の間は有力御家人が軒を連ねていました。若宮大路の西側の筋は「今大路」と呼ばれ、現在の『御成り通』になります。小町大路に沿って、夷堂橋以北を小町(金沢街道の「筋替橋」までの間)とし、以南を大町と呼称していました。ですからこの筋が中世の小町大路ですから小町通りと云えばこの小町大路を想うのが普通です。小町大路の本覚寺の南三浦街道(名越道)との辻に市場が出来て何時も賑わっていました。現在の辻薬師の辺りです。此処には日蓮上人の辻説法跡がありますので鎌倉市民は「辻説法通り」と呼んでいます。
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中世の鎌倉の条里(蘇る中世/平凡社)の図録に筆者が書き加えました。小町の名は現在の宝戒寺から辻説法辺りまでの名でした。

小町市場のある賑やかな通り可愛い娘が買い物に来る通りと云った意味で小町通りの響きがあったので、何時の間にか鎌倉駅から真っ直ぐ八幡様に通じる賑やかな道が「小町通り」と呼び習われるようになったのでしょう。
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賑いの小町通り。横須賀線鎌倉駅が開いて人の流れが鎌倉駅八幡宮に集中するとこの若宮大路の西筋が人混みになりました。この細道に茶店が集中し、近在の娘さんが働きに来たことから小町通りと呼ばれるようになったのでしょう。私が学生だった60年代は晴れ着に白いショールを肩にしたお嬢さんで溢れていましたが、今はそんな時を懐かしむ人が集っています。
原宿駅から明治神宮の表参道に並行して青山通りまで続く通りが「竹下通り」です。原宿駅から竹下町に続く道の意味しょうがこの細い通りに若者が集まってサブカルチャー通りの表情を呈しました。
特に80年代は奇抜な格好を下若者が路上を占拠して踊り狂いました。彼等を「竹下通りの子供達の意味で「竹の子族」と呼びました若しも彼等が可愛ければ「原宿小町」と呼ばれ、通りも「小町通り」になったのでしょう。
鎌倉の小町通りに来ると何故かワクワクします。昭和の匂いが残っているからでしょうか縁のあるお店が軒を連ねているからでしょうか?
良く解りませんが浅草の仲見世や竹下通りの勝組が進出して地元の老舗が迎え討っている様が面白いのかも知れません。戸塚で云えば戸塚の旧家猪熊家が出したイタリアンレストランが善戦しているようですし、私の住む上倉田の酪農農家(小野ファーム)が始めた横浜アイス工房が小町通りで「鎌倉アイス工房」の名で進出なのです。此処はアイスクリームの激戦地です。大仏前でオバマ大統領も立ち寄った「いも吉館」を筆頭にベルギージェラートの「ジェラテリア イル・ブリガンテ」もあります。台湾スイーツの茶房雲母」もあります。
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戸塚倉田村の小野牧場さんは明治学院大学の近くに横浜アイス工房を開店して成功を収めると今年は小町通りに面した一角に「鎌倉アイス工房」をオープンしました。おらが村の小野さんの成功を期待します。

どのお店も中高生が歩きながら舐めています。此処で勝ち組に入れれば”小野ファームも一流”の栄誉をゲットできるでしょう。
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此処は「こもれび緑陰さんのお屋敷を開発して作られたモールの角にある豆屋さん豆好きが集まって何時も大賑わいです。向かいにあるレストランは流行りの猫カフェならぬ猫レスに改装して成功のようです。
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豆屋さんの角から小町通りの南を見ればお隣が聖ミカエル教会ですし裏には鏑木清方記念美術館があります。
人混みは人間の造るカオスで、流行も伝統もカオスの中から発行するモノと思います。作家もこの雑踏の中でアイディアを得る事でしょう。
もう一つの楽しみは駄菓子屋です。煎餅屋に豆屋さん昔懐かしいカルメ焼きも数多く進出していて何処のお店も遠慮なく試食できます。まるでデパ地下状態です。一寸お摘みして気に入ったら買えばよいのです。
お豆も昔はピーナッツや大豆を香ばしく焼いただけでしたが、昨今はピーナッツや大豆を核にして周囲に粉を巻いて揚げています。味付けがタコ焼き風であったり黍団子風であったり、タコスふうであったり、キムチ味であったりグローバルなのです。日本人おあくなき味への欲求がポテトチップス以上に発展しているのです。
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豆屋さんの店先。試食可能になっています。チョイチョイト試食して一番おいしいお豆を買います。このお豆のように気軽に試食してお嫁さんを選べれば・・・・思うのは男の身勝手なのでしょう。何時までも試食を繰り返しているとワイフの額から角が生えて来そうです。

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流行は豆を粉で包んで揚げた駄菓子ですが伝統的な御豆そのものを香ばしく焼いたモノも揃っています。
そしてお煎餅です。若い人も焼き立て煎餅の香ばしさが解るのでしょう。決して安くは無い煎餅を買ってバリバリ美味しそうに食べながら歩いています。私の様な年寄りはもっぱら遠慮気味に「濡れせんべい」を求めて食べ歩きします。
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アイスにお豆にもう一つのトレンドは煎餅です。此処は鎌倉壱番屋の店先です。このお店は私の好きな山形から出て頑張っているんです。煎餅と云えば新潟の印象があるんですが一枚一枚焼いて醤油の香りが活きているのは山形煎餅です。鶴岡や酒田に行かなくても小町通りで山形が味わえるのは嬉しい事です。勿論私は濡れせんべい(形の悪い煎餅は1袋150円のお安さです。
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お爺ちゃんもお孫さんも好きなのはお煎餅ですカルメ焼き(右端)の美味しさなら3代を魅了する事でしょう
そしてもう一つ激戦は漬物屋さんです。漬物と云えば京都で、錦市場通りで漬物が食べたくなります。小町通りでは京都の漬物は「味蔵」で味わえます。京漬物は「近為」もあります。糠漬けの「樽の味」もあります。
二の鳥居前まで足を延ばせば地元の「鎌倉あきもと」も賑わっています。どのお店も漬物を賽の目に切って楊枝で刺して味見できるようにしてくれています。
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お豆煎餅を試食して締めは漬物です「鎌倉味くら」は京漬物のお店です。京漬物は近為さんも出店しています。右側の小路を行くと若宮大路にぶつかります。その角に鎌倉漬物の秋本が出店しています。全国ブランドと地域ブランドが競っている処が良いんです。
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「味くら」では写真の様にししょくをさせてくれます。楊枝一本を持って次々に試食して一番の好みをチョイスし出来ます。この列は京漬物が店先で奥に行くと高山の赤蕪漬けが試食できました。
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この茄子の浅漬けは秋本の看板でもあります。京漬物の「味くですが、郷に入れば郷に従えの意味でしょうか、ほとんどの漬物が揃っています。
意地汚い私は楊枝一本を使いまわしてアレコレ味を確かめられます。
全国の勝組みがまるでデパ地下のように並んだモールですが勿論地元の名店が攻められるだけではありません。豊島屋さんを筆頭に日陰茶屋さんなどは勢いがあります。このモールで全国ブランドに勝てれば日本橋や銀座に出ても大丈夫なのでしょう。
私は日影茶屋さんにエールを送るつもりでその少し高い框を跨ぎました。吊るし雛に桜をテーマにしたバームクーヘンが並んでいてお菓子は文化産業だと痛感しました。眺めていると色留袖の鎌倉夫人が入って来られました。
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日影茶屋の桜ばうむ、和洋の良い所を折衷しようとする姿勢は西の種屋さんのような事業展開です。試食サービスが無いのが残念です。
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日影茶屋で吊るし鄙を見ていたら表通りをお嬢さんの生脚が闊歩してゆきました。お嬢さんのおみ足に春を痛感しました。
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流石に日影茶屋は地元の名店で鎌倉夫人も御贔屓のようです。
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小町通りのモールを楽しんだらこんなお店で休みたいものです。但し血糖値が十分下がったらの事ですが・・・・。

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京の都は奈良の平城京をコピーして作りました。中心は王城である内裏(御所)です。内裏を中核に南北に朱雀通りその東西都大路を通し東西には一条から9条までの大通りを作りました。一番小さい碁盤は縦横9本の線を引いた9路盤(きゅうろばん)ですから、碁は都の陣取り遊びだったのでしょう。9路盤では淡白なので19本の線を縦横に引いたのでしょう。現に碁盤の線の事を縦「南北)を筋(すじ」横(東西)道(通)と呼んでいます。
頼朝は鎌倉幕府を造営するに際して当然のように平安京を模しました。”此処は武士の造る都である”と天下に示し。全国に散っている武士の求心力を高めようとしたのでしょう。
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大改修工事着手前の壇葛にの鳥居小野田セメントの狛犬も傷んでいました
武士の精神的な支柱は八幡大菩薩でした。それは平城京の末期和気清麻呂が宇佐八幡宮に詣で神意を確かめた結果道鏡を排した事でも神意は天皇であり八幡大菩薩のそれであると思って居たのでした。
其処で平安京の八幡宮(石清水八幡宮)を鎌倉に勧請して。武士の都の中核に置きました。
頼朝の御所は八幡宮の裏に置いて武士の忠誠を確認したのでした。
そんな次第で鎌倉市民は鶴岡八幡宮を中心に据えています。
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京の条理制は内裏を中核に出来ています。鎌倉で内裏の位置にあるのは八幡大菩薩のお住い八幡宮でした。図の出典ウィキペディア

八幡宮の裏山の開発計画が持ち上がった時には市民こぞって反対しましたお蔭で八幡宮の朱色の本殿は緑に映えています。若し市民が猛反対しなければ今頃は八幡宮はマンションに見下ろされていることでしょう。
そんな鎌倉市民が誇りの八幡宮が少し変だぞ”思わせた事件が大銀杏の倒壊事件でした。

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これは大風と氷で倒れてしまった樹齢千年を超すと云われた大銀杏の無残な姿。御神木に注連縄を懸けても髄が腐っていることに気付きませんでした。この時の憤りは次に書きました。http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/43003015.html
2011年3月10日の夜した。南岸低気圧が通過して夜半から雨は霙に変わっていました。
大銀杏の枝は氷結して重くなっていました。大銀杏は重くなった枝を必死に支えていたのでしたが、ドンドン氷結が量って重量が増してきていました。裏山越しに吹きすさぶ北風もあって大銀杏は根元から折れてしまったのでした。翌朝八幡宮の前庭には無残に折れた、1000年の遺骸が転がっていました。
私達は遺骸を見詰めてこれは八幡様の啓示かも知れない直感したのでした。
次に八幡宮が市民の感覚とズレている想わせたのが県立近代美術館の撤去を決めた事でした。同美術館は坂倉準三氏が設計したアールデコの建築で当然のように保存運動が持ち上がりました。
八幡宮の境内には東に正倉院を模した国宝館があります。此方が伝統の文化を展示保存します。そして、西には近代美術館があります。此方は昭和モダニズムを代表する建物で市民の誇りです。八幡宮が近代美術館の土地の貸借を更新しないと発表すると、市民から存続の誓願が出されました。神奈川県も頭が痛い問題です。大船フラワーセンターの中にでも現建物を解体移転するのでしょうか?葉山の近代美術館は何時もガラガラのようですのに・・・・。これ以上お金を掛けられないでしょう。

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これが鎌倉市民自慢の県立近代美術館です平家池に面して池の面に出来る漣が建物に映えて綺麗です。この欄干蓮の花がもう眺められないと思うと残念至極です。

唯一つ感服したのは大銀杏は舞殿を避けて倒れた事実でした。舞殿の上に倒れたら被害は甚大だったことでしょう。
静御前の故事を伝える舞殿鶴岡八幡宮舞殿は2006年に竹中工務店によって再建されたばかりでした。
古い建物でしたから耐震建築に建て替える必要があったのでした。舞殿を竣工した結果八幡宮は結婚式等で賑わう様になりました。
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新築された舞殿で色々な祭事神事が催され結婚式を本殿で行い舞殿でご被露するようになりました。

そして八幡宮は若宮大路の専用歩道である段葛の全面改修を発表しました。八幡宮からすれば段葛は参道でありますが、鎌倉市民からすれば緑道のような生活道路です。若宮大路の東側の住民は段葛を横切って鎌倉駅に出かけ買い物にも出かけます。それなのに段葛を横断しにくくなるのは不便です。とりわけ若宮大路東側の商店はお客さんが激減してしまう事が眼に見えています。
そこで壇葛の改修工事計画に反対を表明しました。
八幡宮の言い分は次の通りでした。
1、若宮大路は県道であるものの壇葛は八幡宮の私道であるから参道として整備し直す権利は八幡宮にある。
2、勿論公益に資する道である事から国や自治体の補助は上限迄出して欲しい。
3、この機会に1918年(大正7年)に壇蔓の大改修工事植えた桜の傷みも激しいので伐採して若木に植え替える。
市民の抗議は主として次の二点でした。
1、段葛を横断できる箇所を増やして欲しい
2、老桜を危険だからと言って伐採するのは間違いである
八幡宮は市民の声に対して八幡宮は次のように応じました。
1、現在壇葛を横断出来る箇所は12あるが8か所は確保します。
2、1918年(大正7年)に植えた桜(当初300本残存248本)を個々に診断した結果248本のうち比較的状態が安定している20本は境内の源平池のほとりに移す他の230本再生不可能として伐採し植え替えることにする。
壇葛自体は桜の生育に良いように雨を吸い込むようにする。自動車道は依然としてアスファルトであります。
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壇葛の遮蔽版は半分ほど撤去されて新たに植え替えられた若木とピッカピッカの石灯篭が姿を見せました。撮影は雪の下教会の前「バス停若宮大路から北を見る。段葛をクロスする道が無いので北上しましたが。8か所もあるとは思えませんでした。でもバリアフリーになっていました。

現在の八幡宮は𠮷 田茂穗宮司が中核です同宮司の対応は次に詳しいです。http://blog.livedoor.jp/kikurotakagi/archives/4865206.html。市長は選挙で選ばれます。宮司はせめて鎌倉産まれ鎌倉育ちの人を選んでもらいたいものです。神社本庁に指名権があるのは明治憲法の遺風で、明らかに違憲状態だと確信します。

鎌倉市民は八幡宮や鎌倉市を信任して事態を見守る事にしました。
そんなことも在って私は段葛の工事の進捗状況を確認に出かけました。
工事は舞殿を全面新築した竹中工務店の子会社竹中土木が施工しました。
同社はバブル時代に東戸塚の山林を抱えて四苦八苦していたお荷物だったのが、今では噓のようで本来の仕事に励んでいました。
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作業中の壇葛。中央はアンツーカーのように歩き易いようです。昔は砂利と泥でしたから雨が降るとぬかるんでしまいました。事前の計画では地下は土で表面は吸水しようですので桜は根が張れる事になっている筈です。玉石で囲んだ土塁の上に桜の若木が植えられ。その根元は球龍(龍の髭)が整然と植えられています。事前の計画では昔は躑躅を植えられ在ったのでしたが、根元を塞ぐのは良くないとの事で何も植えられていませんでした。何れ菜の花や諸葛菜(青色大根)でも植えられるのでしょう。遠くに見えるのは二の鳥居です。
3年モノ長い遮蔽版で覆われて見えませんでしたがようやくその大半が撤去されて若木が並んでいます。
新品の石灯篭がまるでプラスチックかコンクリート型製かと思う程にチャチな出来栄えです。世界遺産を標榜するにしてはまるでテーマパークのような安易さです。
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壇葛の東側にある老舗蕎麦屋茶店の「こすず」。今回の壇葛の工事が大打撃になる事でしょう。
鎌倉も京都も伝統の中に進取(革新)の精神が横溢している処が共通しています。
壇葛は伝統の良さをアピールしてほしい舞台です。少なからず落胆して改修されつつある段葛を眺めて来ました。それでも。桜が咲いて石灯籠に苔でも生えれば落ち着いて眺められる事でしょう。
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ピッカピッカの石灯籠。白い御影石製でしょうか?それともホワイトセメントの型押しでしょうか?テーマパークの石灯籠のようで灯が入っても情緒薄そうです。


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